DANCE BOX リーフレットから

身体を動かすことよりももっと

横浜のSTスポットで丹野賢一がセレクトし、クリニックした5つのユニットが登場するとあって、どんな新しいムーブメントを見せてもらえるのかと、楽しみだった。それにはもちろん、二通りの意味があった。東京を中心とした地域での身体運動の流れへの興味と、身体そのものの実際の動きにおける新しさを見たいという意味と。そして90分後にぼくたちは、後者の身体の動きという意味ではやや肩透かしをくらうことになる。これは主として丹野自身がダンサーよりは表現者と自己規定するように、実は身体運動そのものにはあまり興味がないということが明らかになったということなのだろう。

一般にダンスと呼ばれるものだけでなく、本当は目の前に現れる身体が、何らかの意志をもって動く/動かないのであれば、それはすべて「ダンス」と呼んでもいいのではないか、という(自明の)問いかけにつながるように思えた。これは身体表現の可能性をどこまでも水平に広げる一方、必ずしも垂直に屹立する身体の必要性を重視しない。観る側のチャネルを切り替えて臨む必要があったのかもしれない。前者についても、おそらく丹野自身の個人的な嗜好に重点を置いたセレクションであったのだろうと想像することになった。

さて、多くは自分自身を描き上げることについて、強迫的な焦燥をもっているように思われた。紙の箱をかぶった手塚夏子は、手探りでその箱に目鼻を描き、それを自分の顔としようとした。それでも終始居心地が悪そうで、いたたまれなさがつきまとっていた。自分のありよう自体をゼロから作るという行為そのものの痛々しさと、動きのつたなさが奇妙に符合していた。

天野由起子は全身に紫のペンシルか何かで一心に線を描いていった。プログラムによれば入れ墨を意識したものらしく、自分の中に懸命に何かを彫り込もうとする姿であるわけだ。そのドローイングの勢いのよさやら、胸元から赤い花をドロドロと落としていくオブセッショナルな感覚やらで、鋭角な危うさを出せていた。

小浜正寛(ボクデス)は、コミカルでマジカルな見かけのわりには、思弁的な能書きをたくさん与えることのできる作品だったといえよう。怪物くんみたいに自在に伸びる腕の処理も、カレーライスの一気食いも、理知的で自己言及的なアプローチのように思えた。

大橋めぐみも、身体を動かすということよりも、本当は自分自身であることに対して、切実で、精一杯であるように見えた。有田美香子は、動きの一瞬ごとに懸命に思いやら存在やらを篭めていき、ついに耐えきれなくなったようだった。このような傾向について年長者のいやらしい言い方をするが、誰もが一度は必ず通らなければならないプロセスであることは確かだ。それをこのように率直に提出することができ、それが評価されたということは、このセレクションもそれをめぐる環境も、ひじょうにナイーブで活力に満ちているのだな、と思った。(ダンスボックス通信)


初演のときめき、再演の驚き('00.Oct.)

 たまたまだろうが、2000年10月のDANCE BOXは女性ばかりの公演となった。エメスズキとRosaゆきは、構成として部分に分かれているとはいえ、一つの長編。北村成美は休憩を挟んで二つの、いわば中編。Rosaと北村はソロで、エメは4人。エメと北村は自作で、Rosaはフェレというイタリア人演出家を迎えての共同制作。エメとRosaの作品と、北村の「めくるめく組曲」は初演で、北村の「i.d.」は何と20回目の公演。

 ぼくたちはたいてい、世界初演にお目にかかる。トリイホールでも、扇町ミュージアムスクエアでも、宝塚大劇場だって。これはきっとすごいことだ。ぼくたちは世界初演に慣れっこになってしまっているが、考えてみればそれは、今ここに新しい作品という一つの未知の世界が誕生するということに他ならない。その緊張に満ちた瞬間は、作者と観客の素手の一本勝負だ。

 エメの作品では、エメ以外の3人が形づくる世界が長い間続き、少しエメの登場を待つ気分になってしまった。そして3人の場面と、ピアノを得たエメの場面とをどうつなげたらいいのかが、観客へのチャレンジとなった。そして実際にエメがあどけなさと無表情の両面をもって現れると、そのイノセンスな魔力に囚われてしまう。エメのいる時間といない時間の、天上と地上のような対照が、強く印象に残った。

 ダンスを観るということは、身体の刹那のきらめきと、連続した時間を通じて展開し構築される世界と、双方を見つめることだ。特に作品として公演しようという場合には、その世界を世に問うことになる。身体の錬磨については、既定かつ自明のこととして後景に退いていくはずだ。

 Rosaの作品では、ジョカスタというギリシャ神話の女の生を、身体の動きとしてどのように反映させるのかさせないのか、どうしても興味はそこを離れない。煎じ詰めれば女性の悲劇はすべて同じ形を取ってしまうのだ、という地点の一歩手前で、ジョカスタの特異性とRosaの個別性を交互に想起することになった。潤んだ目、足の指の開き、何かを象徴する紐を口に加えて笑う、片方を脱いだハイヒール、「グローリイ、ハレルヤ」などと歌いながら泣きそうになる……そんなRosaの姿、動きの断片が、それぞれに強い印象を残して連鎖する。ダンスが、一つの像を結ぶというのは、このようなありようでしかないだろうと認識させられた。また、小鼓の河村大との響き合いも、スリリングなものだった。

 北村の「めくるめく組曲」は、次の展開を予想するのが難しい、まさに眩暈のような作品だった。アンドロイドみたいにバストを強調した、サーモンピンクのカーリーヘアーで現れたかと思うと、壁に体当たりしたり、椅子を両足でズルズルと動かしたり……。喜劇のような現われから、徐々にシリアスな気分にさせられ、最後にたくさんのリンゴが転がるのを見た時には、悲しみの気分にさえなっていたのが不思議だ。

 このように、初演作品を見るという体験は、まことに緊張に満ち体力のいる作業だが、では再演作品は親しみをもって見ることはできるが、余裕をもって見ることができるかというと、そうではない。「i.d.」を見るのは4回目だったが、いつも新しい要素が加えられたり削られたりしている。ほんの数分のパートの加除だけで全体の色合いが一変するというのは、全体が隙間なく緊密に織り上げられているからだ。12月2日(土)の3時、5時、7時には「Dance at Home〜上念さんちでダンスを見よう」で間近にこの作品を見ることができる。東灘までお越しの向きはFaxで06-6934-2495まで。(DANCE BOX通信)


次々のスパーク――19990628ダンス・サーカス 於・TORII HALL

S 女の人が元気よく踊ってるのって、見てて気持ちいいねぇ。

J いきなりオジサン・モード全開やね。

S いやぁ、特に若い女性がニコニコして踊ってるのを見ると、こっちまでうれしくなってくる。

J 鼻の下が伸びてるだけでしょうが。たしかに、前田里奈+中間多美恵の「私の知らない彼女の事情 彼女の知らない私の事情」、大北桃子の「そらのみつ」には、そういう楽しさがあったね。でも、ちょっと意地悪な見方をすると、エアロビクスの大会じゃあるまいし、そんなニコニコしてるだけで世界と対峙できるんやろうか、と思ってしまう。

S 10分ちょっとの作品を一つ見ただけで、そんな言い方はないでしょう。前田+中間のフレームの作り方は面白かったし、中北の作品は、ソロではなく複数のダンサーで見てみたいと思った。それに、世界と対峙なんて、おおげさな言葉を使うけど、すべての作品が世界を意識する必要はないと思うけど。

J でも、何かしら、自分のからだでは表現しきれない、大きなものとか、永遠なものとか、そういうものへの予感を、もう少しあらわにみせてほしかったな。

S そういう意味では、飯田陽子の「a person」は、何かありそうだった。

J たしかに。本当にあるのかどうかは、わからないけど。ちょっとこの間「芸術祭典・京」で見たファトゥミの作品に似ている部分もあって、けっこう強いメッセージを持っていたような気がする。

S 前田美佳が樋口信子と踊った「キラキラヒカル」は、作品としてかなり「本格的」って感じがしたけど。

J うん、まず動きの質というか、レベルがかなり高かったよね。コンビネーションのバリエーションが豊かで、見ていてドキドキしたし。

S ぼくも見ていて圧倒されたけど、こういうダンスの作品って、何を表現しようとしてるんやろ。

J うーん、表現っていうか、まぁタイトルとか、プログラムの言葉からも何か読み取れるかもしれへんけど、まずは人間のからだってこんなふうに動くんか……っていう感動や驚きから、スパークするように見えてくる、感じられるものがあると思う。ぼく自身は、それ以外のことにはあまり興味ない。

S ふーん、ストイックやなぁ。そしたら、ENTENの竹ち代毬也と峠佑樹の『←→』は、あまり気に入らなかった?

J いや、2つのからだの掛け合い漫才みたいで可笑しかった。楽しかったよ。片思いみたいな切なさも感じられたし。

S あぁ、そういうのが説明的でなくて、テンポのいい動きの中で出てきたのが新鮮に思えた。

J うん。身体と笑いっていうのは難しいテーマやと思うけど、一つの好例やったね。

視線の下心――19990614ダンス・サーカス 於・TORII HALL

 異性が踊るのを見るということは、かなりスリリングだ。だいたいが普段着よりはかなり裸体に近い格好で踊っていることが多いし、そもそも他人の身体を10分とか見つめ続けるということなど、日常的にはありえない。

 6月14日のDance Circusで、身体を見ることのスリルを最も強く味合わせてくれたのは、花嵐というユニットの「耳殻」という作品だった。メンバーの内、今回はむしちゃんと伴戸千雅子だけの出演だったが、由良部正美のもとで舞踏を学んできた彼女たちの身体のありようがいつの間にこんなに定まり、形を得ていたのかと、不思議に、そして頼もしく思った。たとえば顔をクシャッと壊して見せることなども、かなり徹底的になされていて、そのことが空間全体に対して持つ意味の大きさを理解させてくれたように思う。

 身体が動くのを見るということは、皮相的にも究極的にもエロティックなことだ。動くことで歪んだり膨れたり露わになったりする筋肉、筋、骨、揺れる乳房、太腿。時間と共に徐々に光る汗、荒くなる息づかい。そのようににじみ出るエロス=生の本然的な力を自由に出させようとする作品として、堪能することができた。

 それに対して、藤堂悠貴子は詩のように作品として構築することによって、Kahm KA CaMuは壁という仕掛けを作ることによって、奥睦美(op.eklekt)は笑いを身にまとわせることで、身体を少し奥に押しやることに成功した。

 Kahm KA CaMuというのは、ニシノノリコと斉藤M子のユニットで、どうも音楽の佐藤純之介、舞台美術(「大具の源さん」とプログラムには記されていたが?)の表西基雄の共同作業かと思われるのだが、舞台の真ん中、正面客席に対して垂直に壁のようなものを置き、その両側でダンサーが離れて一人ずつ踊ったのだ。この日客席は三方に作られたから、座る位置によってはほとんど一人の動きしか見えないことになる。ぼくは正面やや上手に座っていたのだが、それでもやはりニシノの動きは半分も見えず、大いに苛立つことになった。

 壁には窓のように引き戸の「穴」が空けられている。この作品のタイトル「穴―知的興奇心は自らをおとしめるか?」のとおりだ。時々彼女たちが穴を開けて向こう側を覗き込む。その時ぼくたちも向こう側が見える。思わず身を乗り出して覗き込んでいたりする。彼女たちは時々穴から手を出して向こう側の空気を探り、時には向こう側から叩かれる。ぼくたちもお仕置きを受けたような気になる。

 ここでも一方では、トランクスから伸びる白い脚、揺れる乳房、大きく空いた背中といったダンサーの身体を、これまた窃視するように見ているぼく(たち?)がいて、視線は下心を付加して高速でホールを駆けめぐるのだ。

大いなる賭け

 8月半ばから9月初旬まで、3回にわたって展開されたDanceCircusが魅力的だったことの理由の一つは、1時間余りの中に6〜7のグループが次々と出てきたことにあって、そのたびにぼくたち見る者は、世界がひっくり返るとまではいかなくても、「丘のうなじがまるで光つたやう」(大岡信の詩「丘のうなじ」から)な新鮮な驚きと喜びを与えられた。じっさい、ある人は客席でニコニコ笑っているぼくに「とってもうれしそうでしたね」と声をかけてくれた。そう、本当にうれしかったのだ、ただ客席に座っていることが、そして目の前でダンサーが動いていることが。

 開演前、デカルコ・マリーらがチンドン屋のように難波の街を練り歩いた初回。大概のことでは驚かないミナミの人々も、彼の形相には度肝を抜かれたようで、見てはいけないものを見てしまったような凄まじい顔をしていた。今時そんなもの、滅多にないんじゃないか? ダンスにと広げて言うのはためらわれるが、彼には明らかに異物として存在し躍動することの心地よさがあって、それが客席にはもちろん、他のダンサーたちにも伝わっていくはずで、それがダンスのみならず表現が陥りがちな芸術の虚飾を剥ぎ取る契機となりそうで、これからが楽しみだったりする。ええい、やっちまえっていう気分になる。

 男女のダンサーによるグループ・ダンスでは、斉藤誠と萩尾しおり・木村陽子、ヤザキタケシと進千穂、冬樹と文など、多くのユニットが素晴らしいステージを見せた。男と女の身体の差異、二つの身体の間に否応なく生じてしまう緊張感、身体のもつれ合いのバリエーションなど、さまざまなスリルとエロスを味あわせてくれた。再び大岡信の同じ詩の一節を引けば、「こひびとよ ぼくらはつくつた 夜の地平で/うつことと なみうつことのたはむれを」……まさに身体が打ち合い波打つことの戯れの美しさを現前化し、「男は女をしばし掩ふ天体として塔となり/女は男をしばし掩ふ天体として塔となる」といった情景がいくたびも見られ、見ている「ぼくらは未来へころげた」のだった。

大岡が「丘のうなじがまるで光つたやうではないか」と歌ったのは、実は「灌木の葉がいつせいにひるがへつたにすぎない」ことだった。ダンサーたちの肩や腕が翻って異なる光を見せるとき、ぼくたちもこのような戦慄を味わうことができる。

さて、DanceBoxもvol.2以降、一つのステージを一つのユニット、ダンサーに委ねようとしている。DanceCircusの時のような5〜10分に魂魄を集中し尽くした時間が1時間も続くと思ってはいけない。上手く力を抜きもする時間的な構成力、空間全体を使い切る構成力、観客との間合いを計る冷静な眼、飽きさせないためのある程度のエンターテインメント性、音楽や言葉(ヤザキが中原中也らの詩を上手く取り入れていたように)とのコラボレーション……様々な意味で総合的な技量が必要になってくるだろう。同時に見る者にも、それらを総合的に見極める眼力、あえてやや否定的に言えば忍耐力が求められる。

 殊にインプロビゼーション(即興)を取り入れようとするユニットに対しては、見る側にも大きなリスクが求められる。歴史的な大ブレイクの数少ない生き証人になれる可能性と、着火に失敗しフラットで退屈な一時間が淡々と過ぎてしまう危険性。こんなとんでもない賭けは、映画はもちろん演劇でも味わえるものではない。ええい、やっちまえ、だ。賭けようじゃないか、目の前で歴史に残るインプロビゼーションが生まれる可能性に! 

大岡信「丘のうなじ」は、詩集『春 少女に』(1978、書肆山田)から。

一〇〇〇通りの愛

 数メートル先に動いているからだがあって、ここに見ているぼくがいる。さて、「ダンス」という表現は、そして感動は、どこで成立しているのでしょうか?

 すごい、きれい、面白い、かっこいい、素晴らしい……そのようにぼくたちが「!」と心ふるわせることを、仮に「美的体験」とでもまとめて呼んでおきましょう。隣りに座っている人とぼくと、同じ時間と空間を過ごしていても、きっとそれは全く異なる体験です。見終わって「面白かったねぇ」「最高!」なんて頬を輝かせていても、相手が自分と同じ部分で同じように感動しているとは限りません。これはもちろん、決して悲しむべき事柄ではなく、ここから趣味の形成、美的判断、批評等々が始まるのです。時々、他の人たちにはどんなふうに見えていたのだろう、と知りたくてしかたないことがあります。もしTORII HALLでぼくが誰かの頭蓋骨をかち割るような事件が起きたとしたら、動機はこれです。

 特にダンスのように、一回限りの出来事として生起するジャンルに対する場合、あとで反復して「ここで君がそう思ったのももっともだね」などと検証できないから、厄介です。どこにもReplayボタンはありません。このDance Circus、同じ日の同じユニットの公演でも、六時の回と八時の回では、全く別物だと思った方がいい、とも聞いています。五つのユニットが一日二回、百人ずつが見たとして、千通りの感動やら「?」やらがこの狭いホールに飛び交うわけです。

 竹内敏晴がコミュニケーションという言葉について<(1)相手と距離を保って、言語その他で少しずつ理解を深めてゆくこと>か<(2)相手とジカに触れ合いあるいは融けあうこと>のどちらだろうか、と考察しています。後者についてブーバーの言葉を借りて<真に他者との共同の生へ踏み出すことは自己を突破されることだ>と解説を加え、さらに<相手によって、私の「仮面」がはぎとられてゆくことであり、私の「人格」が分解するか、あるいは甦って成長するか、の賭となってゆく行為であり、その選択は即ち「愛」と呼ばれる行為として自覚されねばならぬのであろう>と推し進めていきます。

 舞台と観客の間に一種のコミュニケーションが成立することについては、改めて念を押すまでもないでしょう。ぼく自身はここでの美的体験を言葉にしていかなければならないという立場上、本来であれば(1)のようなコミュニケーションをとっていかなければいけないのでしょうが、ほとんどの場合、舞台と距離を保てずに、失敗に終わります。じゃあ(2)ができているのかというと、こんな究極的な没入行為が実現できているとは到底言い難い。しかし、このような「賭」を望んでいることは確かだし、言葉の表面だけでとらえているのかも知れませんが、ぼくのダンスへのかかわりを「愛」と呼びたいと思ってはいるのです。

 竹内は厳しいことを言っています。他の場所では<私は他者に働きかける瞬間のカラッポなおのれを「カラだ」即ち「からだ」と呼びたい>とも宣言します。舞台も観客もカラッポな状態になって、そこでふと振り下ろされる、しなう腕。それによってぼくの日常やら役割やらの仮面がはぎとられ、この存在がリストラクチュアされる……そのような真剣勝負のようなかかわりを。

 いや、楽しければいいじゃないか、という声も聞こえてきます。そうしたら竹内は、ルコックの言葉を借りて「一人の演技者が客を笑わせようと腐心して、……万策尽き果てて、それでもなにかせねばならぬ。なにもかも投げすてて一歩踏み出す時、クラウン(道化)は現れる」と、やはり絶望的な無手勝流を挙げます。

 この時、ダンスは、そして感動は、どこかに博物館の展示物のように鎮座しているわけではないということ、既にわかっておられると思います。刀こそ持ってはいませんが、舞台と観客の真剣勝負が、また今日も始まります。かなりハードですが、明日から甦った人格として、歩いていくことができますように。 

引用は竹内敏晴『ことばとからだの戦後史』(ちくま学芸文庫)から

生命の時間を体験する

 毎週のようにダンスを見る。そんな習慣ができて一年が経った。坐っているぼく(たち)の前で、何人かの男女が身体を動かす。それをぼくはある時は興奮し、またある時は苦虫を噛みつぶし、あるいは睡魔と闘いながら、懸命に見てきた。

 ある批評家が数年前に、半ばは景気づけだろうが、「いま、なぜダンスか」という……標語?、を打ち出して文章を書いていた(*)。「いまや舞踊こそが、舞台芸術すなわちパフォーミング・アーツの中心になりつつあるといって間違いではないだろう」と。「ダンスの時代」というようなことばも何度か聞いたような気がする。

 何かがその時代と呼ばれ、そこに一種の熱狂が生み出されるようになるためには、どのような現象が必要だろうか。まず、それを見に来る人々とそれを提供する者たちが、何の打合せもなくても、それぞれが求める世界を共有できていることが、最も基本的な前提となるだろう。それは説明されて理解するものではなく、本能的に察知されたとでも言うほかはない。一般市民、といっておくが、ぼくたちの、そのへんの嗅覚は、いつの時代でも説明不能に鋭敏だ。

 ある時代、様々なジャンルの表現が熱狂の中にあった。現代詩も現代美術も、演劇もフォークも、そこには多くの青年たちの求める興奮があり、みんなが手を携えて世界を作り上げることができていた、らしい。そしてある詩人が呟いたように、「世代の興奮は去った」(**)。そしてどのジャンルも、時代を先取りし、時代の感性を代弁する表現ではなくなってしまったように見える。

 ぼくたちは何を求めてこの小さなホールに足を運ぶのか。確かに、メカニカルによく動く身体を見ることは、一つの快楽だ。それはどのような快楽だろうか。三浦雅士は「舞踊はなぜ人を酔わせるか」(*)で演劇と舞踊を引き比べて「舞踊は人生を経験させるわけではない。しいていえば、生命を体験させるのだ。生命の時間というものを体験させるのである。それは宇宙的な体験だ。なぜなら人はそのとき、生命そのものとして、森羅万象を感じているからである」と解いている。

 「散文は歩行であり、詩は舞踏である」という有名な譬喩は、詩人ヴァレリーの「若きパルク」によるものだが、彼は別の場所で「……<舞踏>が、生命そのものから引き出された芸術だからです。実際、それは、人体の総体による活動以外のものではないのですから。ただしそれは、実際上の生活が営まれる世界とはもはや完全に同一ではない世界−一種の時=空間−に移し替えられた活動なのです」とも語っている(***)。

 ぼくたちは明確に意識しているかどうかは別にして、否応なくこのような体験をするためにこのホールに招き寄せられている。ぼくたちにとって今、生命そのもの、生命の根源を求めることは、苦しく、痛いことかも知れない。しかし、それにひとたび触れてしまったら、その興奮から逃れることはできない。今それは世代の興奮と呼べるほどの大きな磁場は持っていないかも知れないが、一人一人に強烈な磁力をもって、ある傷のようなものを刻み込む。時代の表現がなくなったことを不幸だとは思わない。かえって、個別性が屹立することができるようになったことをよろこぼう。今は、そのように個別性に依拠した孤独なよろこびをひっそりと味わう時なのだ。

 ダンスを見るチャンスは増えた。でもまだ多くの場合、自ら踊ることのよろこびを知っている人が客席のほとんどを埋めている。彼/彼女たちは、他のダンサーと「生命そのもの」に発する快楽を、自らの舞踊経験に基づく身体的記憶によって共有することができるだろう。三浦が語る「舞踊を見ることの陶酔」とは、ぼくのような<踊らない人>にこそふさわしい。それを味わい、共有するためのほんのちょっとした鍵の一つを提供できれば、というのが、ぼくがこの一年<書く人>として心を砕いてきたことだったのだが。

*文芸春秋「バレエの現代」(1995)所収

**荒川洋治「楽章」冒頭。詩集「水駅」(1975)所収

**松浦寿輝訳。渡辺守章編「舞踊評論」(1994、新書館)所収

「とにかく踊り続けるんだ」(1)

前回、舞踊は人生ではなく生命を表現する、というような引用をしながら、ダンスの魅力を語ってみたが、人生はダンスだというような考え方も、もちろんある。安寿ミラをはじめ、何人かのダンサーから、うれしいことも悲しいことも、いつもダンスと共にあったから……というような話を聞いたこともあるし、臨終の床に至るまでダンサーであり続けたアンナ・パブロワという「神話」もある。

村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』には、いつか触れなければならないと思っていた。この長い小説の中で、実は踊りについて語られている箇所は、思ったよりずっと少ない。まず札幌のドルフィン・ホテルの不思議な空間で再会なった「僕」と「羊男」の会話。ちょっと長いが、引用する。……「それで僕はいったいどうすればいいんだろう?」 「踊るんだよ」羊男は言った。「音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。おいらの言ってることはわかるかい? 踊るんだ。踊り続けるんだ。何故踊るかなんて考えちゃいけない。意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ。そんなこと考えだしたら足が停まる。一度足が停まったら、もうおいらには何ともしてあげられなくなってしまう。あんたの繋がりはもう何もなくなってしまう。永遠になくなってしまうんだよ。そうするとあんたはこっちの世界の中でしか生きていけなくなってしまう。どんどんこっちの世界に引き込まれてしまうんだ。だから足を停めちゃいけない。どれだけ馬鹿馬鹿しく思えても、そんなこと気にしちゃいけない。きちんとステップを踏んで踊り続けるんだよ。そして固まってしまったものを少しずつでもいいからほぐしていくんだよ。まだ手遅れになっていないものもあるはずだ。使えるものは全部使うんだよ。ベストを尽くすんだよ。怖がることは何もない。あんたはたしかに疲れている。疲れて、脅えている。誰にでもそういう時がある。何もかもが間違っているように感じられるんだ。だから足が停まってしまう」 僕は目を上げて、また壁の上の影をしばらく見つめた。「でも踊るしかないんだよ」と羊男は続けた。「それもとびっきり上手く踊るんだ。みんなが感心するくらいに。そうすればおいらもあんたのことを、手伝ってあげられるかもしれない。だから、踊るんだよ。音楽の続く限り」……

次に開高健を思わせる作家から「僕」が一種の忠告を受ける……「システムもいいが、突っ張ると怪我をすることが多い。もうそういう時代じゃあないんだよ」 「突っ張ってるわけでもないんです」と僕は言った。「ダンス・ステップみたいなもんです。習慣的なものです。体が覚えてるんです。音楽が聞こえると体が自然に動く。回りが変わっても関係ないんです。すごくややこしいステップなんで、回りのことを考えてられないんです。あまりいろんなことを考えると踏み違えちゃうから。ただ不器用なだけです。トレンディーじゃない」……

詳しくは、講談社文庫で上下700頁を超えるこの長編を読んでもらうしかないが、「僕」は、絶望的とも思えるような冒険を、このダンス・ステップを守りながら成し遂げていく。ここでダンスと呼ばれているのは、別の言葉で「僕のやり方」とでも言っておけばいいのだろうか。「僕」のステップは、だいたいこの世では(「僕」が本来的には属していないこの世界では)受け入れられない。かえって「きちんとステップは踏み外さなかった」ことによって、多くの人が死んだり、多くのものが失われたりしてしまったのかもしれない。

それはエゴイスティックに見えるかもしれないが、のっぴきならない限界状況で、一番大切なものを回復するために選択されたやり方だったのだ。ここではダンスは、いささか照れ臭いが生きる方法であるようだ。そして方法はたいていの場合、本質に繋がっている。DANCE BOXでぼくたちが見るのも、そのように本質に直結したダンスであるに違いない。そしてぼくは、それが多様であればあるほど、この世界の豊かさを表わしてくれているようで、うれしくなる。ある一つの方法が好きになったからといって、他の方法を排斥する必要はない。幸せなことだ。村上春樹の世界に比べれば。

「とにかく踊り続けるんだ」(2)

 さて、いつもダンスのことを語りながら、人生訓めいた説教を垂れているような居心地の悪さを少なからず感じているのだが、前回に続いて「続けること」を語り続けることになる。

 村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」の中で羊男が「だから、踊るんだよ。音楽の続く限り」と言ったのは、励ましの言葉のようでありながら、実は呪いにも似た厳命だった。昔々どこかの国のある暴君は、焼けた鉄板の上に囚人だか政敵だかを乗せて、熱さにピョンピョン跳ね回るのを見て最高のダンスだと喜んだというが、大げさに言えば、ぼくたちの日々もそれに似た自転車操業だ。踊り続けなければ、倒れてしまう。

 いつもダンサーは、作品の間、踊り続ける。途中でやめることは、許されない。残酷なものだ。いったい、作品とはどのような時間なのだろうか。10分の作品、20分の作品……。たとえば演劇なら、一時間半の間、ある役者は「男1」であったりジュリエットであったりして、その劇に流れる時間を生きる。では、ダンスは? たとえば、由良部正美(写真左)は「ピエタ」で、どれほどの間、瞬きもせず横になり、キリストの骸(むくろ)そのものになっていたか。それは短い時間ではなかった。しかし、実感として言うが、それは長短を超えた時間だった。ぼくたちは凍りついて、時間の感覚を失っていた。時間ではない何かに覆われていた。それをぼくは、由良部が時間を止めたと思っている。他ならず、由良部という固有の身体が場に屹立したことで、それを軸に、時間が止まったのだと思っている。

 しかし由良部は、逆の立場から、時間を止めるのは観る者だと言う。先日行なったインタビューで、由良部はこう言った……観るっていう行為は、ある意味で時間を止めるんです。常に今ここ、ということを際立たせるわけです。観ている、つまり私は目撃者だということで。誰もが今まさにいろんなことを目撃しているわけです。それは、ある意味で時間を止めている存在のような気がする。

「今、ここ」と。……彼は、観られる=観る者がそこにいることで、自分の営みが「今、ここ」に定着=停止させられると感じている。それは、ぼくが彼を観ることで受ける凍りつくような感覚とパラレルだ。つまり、彼とぼくは、止めあっている。その膠着した状態は、やや僭越だが、相撲のがっぷり四つ、剣道の睨み合いと同じ状態ではないか。

もちろん、誰かが冷たく言うだろう、でも時間は動いている、と。しかし、踊る者と観る者の間に生じたピンと張りつめた関係には、この世にある他のものは入り込むことはできないし、どうしたところで、関係ない。ぼくたちの現実だと思われている世界に流れていると思われている時間とは、便宜的に時計のばねがはじけようとする力を無理矢理に押さえ込んで小出しにして計っているだけで、あんなもの、ばねのたがを外してしまえば、時を刻むことなんてできない。

ぼくたちのたがは外れている。ぼくたちには、羊男の世界があると言ってもいい。羊男は言っている、「一度足が停まったら、もうおいらには何ともしてあげられなくなってしまう。あんたの繋がりはもう何もなくなってしまう。永遠になくなってしまうんだよ。そうするとあんたはこっちの世界でしか生きていけなくなってしまう」。

この小説の中で踊り続ける「僕」には、羊男という観る者がいる。その存在によって、彼のダンスは相互性を獲得し、現実の時間が停止し、その隙間をすり抜けるように、彼はいくつもの危機に見舞われては回避していく。実際、そこで彼が繰り広げるいくつもの冒険は、しばしば時間の感覚を失い、まるで浦島太郎のようだったりする。

ダンスを観るぼくに、時間はしばしば計測不能だ。とてつもなく速く流れていく時間もあるかも知れないが、多くの場合、それは止められているように感じられる。ダンサーにとってもそうだとしたら、その時まさにぼくたちは同じ時間を生きているということになる。思い出すのは、「時よ止まれ、汝は永遠に美しい!」という、ファウストの叫びだ。

たとえば、六〇分の一秒

ダンスを観るということは、自分の中に何を残そうとする行為なのだろうか。または、何が残ってしまうのだろうか。

ぼくはダンスを観てそれについて何か文章を書くということを何年か続けているが、本当のことを言うと、文章なんて信じちゃいない。ぼくの文章がダンスそのものを伝えることは、絶対にない。むしろ、伝わらないことを悔しがり、歯噛みすることで、ダンスの素晴らしさを逆に伝えようとする、そのような爪痕がぼくの文章だと思ってくれていい。読んでも何も伝わってこない悔しさによって、読者がホールに足を運んでくれればいいと、そう思っている。言葉は常に身体に隣接しているかもしれないが、そのものに重なることはない。

ぼくが嫉妬と羨望をもって凝視めているダンスの記録者がいる。写真家・神本昌幸が最も得意とするのは、ダンスの光と時間をとどめることだ。たとえば、昨年6月のDANCE BOXのリーフレット(vol.7)の表紙に掲げられた写真は、凄まじい。ダンサーの激しい動きに写真は輪郭を失い、ダンサーも写真も溶けてしまったように見える。光の軌跡で、どうやらダンサーは上半身を、とくに頭を大きく動かしたらしいことがわかるが、腕や脚がなぜこのようにたわんでしまっているのか、理屈ではよく追いかけられない。とにかく、すごかったんだろうな、観たかったなあと、思いを憧れとして舞台に向かわせる写真である。

円いスポットライトの中で激しく上下に動く人物。ここで光を浴びている身体は、そして光をはね返す鏡のような存在である。写真にとって身体は月のような光源であり、その光を得て像をなす。光が当たっている量にもよるが、静止している部分は明るく、移動している部分は暗く(しかし広く)、しかも面白いことに移動によって重なりが生じ、頭が胸に食い込んでいたりする。舞台の上で、写真にとっては<存在は光である>という、まるでキリスト教の図像学のようなテーゼが成立する。

写真は何分の一秒かの光を静止した画像に定着する。目瞬きするほどの時間の中で、世界がどのように動いたか。普通、何分の一秒かの間に世界がそう大きく動くわけはない。六〇分の一秒の間に山が動いて、風景写真がブレたなんてことは聞いたことがない。もしそんなこと言う奴がいたら、それは、手ブレの言い訳だ。

神本はどのぐらいのシャッタースピードで撮っているのだろうか。会場で時折ひそやかに耳にするところからは、極端に長い露光時間をとっているようには思えない。当たり前のことだが、概ね暗い照明の舞台上では、露光時間が長ければ激しい動きを追うことができないし、短ければ光量が少なく、細部を再現できず、写真としてのクォリティも低くなる。そのぎりぎりの接点を選んだ上での設定に基づき、彼のレンズは身体を追っている。彼の写真の中には、たとえば六〇分の一秒の身体の動きが記録されているが、それはあくまで微分された結果であって、つまりは動きのすべてが集約されている。

そう、すぐれた写真とは、微分なのだ。瞬間のような時間の中に定着された一つの像が、その作品の、ダンサーのすべてをあらわすことができるのは、そういうことだ。

身体は光を反射して、印画紙に火傷のように像を残す。そして身体は、ぼくの心にも火の傷を残す、というわけだ。その傷は再び生々しく痛みを感じてみたいと思う種類の傷で、そのために、神本の写真をまとめて見る機会はないだろうかと、実に心待ちにしているのだが。


『その先に、向こう側に、ね』〜8月のDance Boxを思い出すと〜

 8月、見た? そう。楽器がね、すごく印象的だったね。特にヨシ・ユングマンの音楽の、ボリスっていうおじさん。いろんな楽器が次から次へと繰り出されて、マジシャンっていうと大げさだけど、大道芸みたいな気さくな気分があったよ。「こんなのもあるんだぜ」「こんな音が出るとは思わなかっただろ」って、ちょっと悪戯っぽくウィンクしてるチャーミングなおじさん。それでヨシの動きの気分もずいぶん柔らかくなってたんじゃないかな。

 面白かったのは、ヨシもボリスと一緒に楽器を操るし、ボリスもヨシと一緒に踊るの。コラボレーションとか相互侵犯とか、そういう用語でじゃなくて、「一緒に出るんだから、一緒にやろうよ」っていうような気楽さがあって、楽しかった。ボリスおじさんの動きも、何ともいい味で、けっこう食ってたしね。

 クレア・パーソンズのステージでは、サラがバイオリンを弾いてたけど、クレアがサラの運弓に合わせて腕を大きく動かして、そこから動きが始まるところなんか、ちょっとゾクッとしたな。でも全体に音楽とダンスが密着してるって感じで、もう少し反発しあう力も見たかったとは思ったけど。

 音楽と動きの関係って、微妙だよね。ラジオ体操じゃないんだから、1,2,3…ってのは滅多にないし(狙ってそうなら面白いかも)、だいたい音楽の時間とダンスの時間は、不即不離、ついたり離れたりする。その間合いの裏切り方が予想を超えて心憎くて、見ていて背筋が打たれたようにガツンとしたり、ゾクッとしたりすることがある。

 ダンスを見てると、裏切られたい、ってすごく思う。次はこうかなと思って、そうなるとがっかりしたりする。もちろん時にはそれがあまりにうまくはまってうれしくなることもあるけど、予測を裏切って、つっかえを外された時の落差みたいな感覚のほうが衝撃としては大きいな。

 時々、次はこんなふうにはいかないでほしいなと思うこともある。喜多尾浩代のラスト近くで、スカートをすっと持ち上げ、頭に手をやり、ちょっとユーモラスなステップを交えて、いい感じに乾いた時間が作られた時に、この動きがドラマティックに抒情的にならなければいいなと思った。そしたら、徐々にステップにシナが入り、劇的な感じになって、平凡な動きに戻ってしまった。ちょっとがっかりしたけど、こんないいきっかけを持てる人なんだから、また次を見なきゃと思った。この人は、よく伸びる腕、美しい身体の線、気合のこもった動きをもっている。この日はソロだったからか、ちょっと自己哀傷的なところもあったけど、相手があると、ぐっと変わって見えるんじゃないか。

 楽器に戻ると、ヤザキタケシのユニットの最後の作品でMr.ヨギィっていう大きな人が太鼓は叩くわ吠える(歌う)わタップ踏むわ、全体に「大騒ぎ」って感じで、楽しかった。ヤザキも黒子で柝を入れたり掛け声入れたり、オモチャ箱ひっくり返したみたいで。

 でも、昔どこかに書いたけど、人間って勝手なもので、シリアス一辺倒だとシリアス過ぎるって不満に思うように、楽しければ楽しいで、楽しいだけでいいのかい?って不足に思ったりする。で、この作品にもそう思っちゃった。この楽しさの向こうには、何があるのだろう、とか。何もなくてもいいんだよね、それに耐えられるのなら。でも、その先にある「何もなさ」を知っててそれに耐えられるほどの楽しさなら、何か凄みみたいなものが見えてくると思うんだ。それが見たかった。個々のダンサーの動きは素晴らしいし、何より色気がある。まだ結成して日の浅いユニットだし、これから、これから。ヤザキさん、がんばってね!(Dance Box通信、2000年10月)


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