山下残インタビュー(2005)

 山下残から「前のインタビュー(上念のHPに掲載)から、だいぶ考え方とか変わったので、もう一度お願いできませんか」と声をかけられ、なるほどアーティストにはもちろんそういうことはよくあるだろうという思いと、最近の山下ならそうだろうなという思いで、喜んで引き受けた。

山下(以下、残) 前は、アマチュア志向っていうか、未完成なものに憧れているようなところがあったんですけど、今は完成させたいっていう思いがありますね。

上念(以下、念) すると、以後の作品は完成志向で来ているということですか。

残 そうとばかりは言えないかも知れません。アイホールで三年間、言葉を使って作品を創ってきたんですけど、そもそも言葉を使おうとしたのは、ダンスの表現とはこういうものだと決まっていることを、もっとわけがわからなくしてしまいたいという気持ちからだったと思います。

念 確かに、結果的に言って、見る方はわけがわからなくなったと思いますよ。

残 (笑)。

念 解釈が必要なものになっている。それがダンスであるかどうかは、表現にとってどうでもいいことかも知れませんが。

残 でもぼくの中で、ダンスにこだわりながら言葉を使うっていうのは、身体から発した言葉っていうものにこだわりたいからですよ。『そこに書いてある』では、まず全体のダンスの構成があって、それを言葉に起こしていって本にして配ったわけですよ。『透明人間』も垣尾優とかいろんな人が創った振付をぼくが言葉に起こして喋る、という作品です。次どうしようかなと思って、本、喋りと来たから次は映像だな、ということで、海外から演劇のカンパニーが来た時、字幕に訳が映るのってあるじゃないですか、あれを観た時に、もしも舞台で起きることを先に字幕で報せるっていうことをやったら、時間芸術としてはタブーだろうけど、もしかしたらダンス的快感につながるんじゃないかなと思ったんですよ。

念 次この人倒れる、って知ってて、倒れた、っていう。

残 そうですね。それがやりたかった。で、その次の展開を考えてる時に京都芸術センターの「演劇計画」っていう企画があったんですね。演出家のコンペだから台本が必要なわけで、シェイクスピアとかベケットとかいろいろ当たったんですけど、前の『透明人間』でも『そこに書いてある』でも、身体の状況を見てぱっと言葉に書き起こすという点で、ちょっと俳句的な部分があることに気づいたんですよ。もともと俳句は好きで、中でも尾崎放哉は自分の身体の中から言葉を出していく作家だと思ってて、彼をテキストにしてそれをダンスするんだったら、ギリギリぼくのやってきたことの範疇で大丈夫かなと思ったんですよね。それで、尾崎放哉の俳句をよみながら、部分部分で指を眺めたりとか細かいところを抜き出して、それを身体で再現しながらやってみた。俳句を並べて、その間に自分で「倒れる」とかダンス的な言葉を挟んで、全体が一つのダンスという形で作品にしていったんですね。自分の中では実験的な意識がありました。

 この実験作『』は、演劇計画の賞を取る。山下残の表現する世界が境界的であることをはっきりと示したといえるだろう。その方向は次作『せき』でさらに拡大され、山下自身「ちょっと欲張りすぎた」というようなことにもなったようだ。

念 ある時期以後の山下さんの作品は、いわゆるダンスの方法論だけにはこだわらないわけですが、なんでもありというふうに拡散するおそれがあって、そこでいつも戦ってると言うか、試行錯誤しているわけですね。

残 この前のインタビューで言ってた、プロセスを大事にするというのは今でも変わりがなくて、完成形はどうでもいいというようなところもどこかにはあるんですけど、『せき』に限っては、もっと世界を広げようという欲が出てきて、ちょっと大きくなってしまった。

念 動きと言葉を結びつけるというのは、コンセプチュアルなことで、方向としてはミニマルなものだと思うんですね。それをあえて広げようというのは、またすごく冒険的だと思うんです。

残 まずすごく勇気がいることですよね。

念 コンセプチュアルとかいうと、往々にしてストイックになるのに、山下さんの作品にはユーモアがあって、見た目にはわかりやすいし、観客の見方としても拡散的な空気が漂ってしまうかも知れない。そこがダブルバインドっていうか、非常に面白いところだと思います。

残 やっぱり大阪出身だから、お笑いの土壌があるんでしょうね。次は、「即興を創る」ことをテーマに、いろいろと仕掛けを考えているんですよ。あとは、年齢的に、ダンサーとしてもうちょっと頑張りたいなというところもあって。自分もダンサーとしてもっと作品の中で動きたい。

2005
年夏、京都造形芸術大学にて


山下残インタビュー(1999)

 今度、TORII HALLで、「空の音」を再演されます。

Y はい。

J すごいですね、再演って。

Y 再演をしようと思って作品を作ってたんで、ある意味では再演がテーマみたいなところがあって(笑)。

J そう言うと、初演時は未完成だったっていうか。

Y そういうわけではなくて、今までに比べれば、ぼくの中では完成してるほうですね。今までは、なんていうか、当日で完成するような、当日の本番が終わると砕けてなくなってしまうような作品が多かったんですよ。それはね、なんでかというと、今までぼくだけじゃなくて、いろんな出演者がいたんですけど、上念さんがぼくのダンスの批評で書いてくれたことにつながるんですけど、出演者がなるべく技術とかそういうのではなくて、自然で舞台に上がれるっていうことを計算しながら作ってきてたんですね。そうすると、当日で完成っていうか、その時点でいろんなことを仕掛けていきながら出演者は当日に初めて見せれるものになる、っていうのかな。そんな感じがあったんですね。

J リハーサルとか打ち合わせとかは、どんな感じでやってはるんですか。

Y えーっとね、いつも、なんかダラダラした感じで(笑い)。どうなんでしょうね、何かを作る場合に、リーダーとなる人がいて指示を出すわけですよね。ぼくはそういうのがいやで、なるだけみんなが好きなようにしていられる場が好きなんですよね。そんな場の中で、ぼくはじっと観察をしてるんですよね。それはまあ、表に出さずに。ぼくはどういうことをしようとか、どういうことをしたらいいんじゃないかとか、そういうことを言わずに、じっとこう黙って、眺めて、観察してるんですよ。

J それで? その上で何か指示を出すんですか。

Y それで、内容っていうのは、ほんとに直前に、ほとんど出演する人が疑問を感じる余地のない間合いに、ぼんぼんと出していって、出演者はそれに沿ってやるんですよね。たとえば、ストーリーボードっていうのがあるんですけど、そんなにそれを時間をかけて稽古とかはしないで、直前なんですよ。それはぼくの中で、本番の何日前っていうことを計算しといて、ある程度本番の日に内容を覚えてない程度でもなく、熟練する程度でもなく、ちょうどいい感じで本番を迎えれるようにしてたつもりなんですね。

J ふーん。なるほどねぇ。

Y それがぼくの今までなんですよ。

J たとえばこの間の「空の音」やったら、一部の方はソロで踊ってはって、音楽が3人。音楽の打ち合わせは普通に、たとえばチャイコフスキーしますとか、ってな形であるわけですよね。

Y 最初に作品としてあの3人でバンドを組もうというのがあって、いきなりぼくが「チャイコフスキー」ってことじゃなくて、4人でバンドの活動をしていく中で、ぱっとチャイコフスキーのあの曲が浮いて出てくるような、そういう瞬間があって、それじゃあこれをしましょう、っていう感じだったんですよ。その辺はある程度、これもまた再演につながってくるんですけど、再演をやるっていうことがあったから、チャイコフスキーをやるっていうことを本番ギリギリまで延ばさずに、半年ぐらい前に決めて、一応チャイコフスキーの第1楽章が全部できるような状態にしといて本番を迎える、ということは考えてましたけどね。

J 練習するわけでしょ?

Y ちょくちょくギャラリーのイベントとかで何かしてくれないかとかっていう話しがあるんですね。なるべくそういう話しって断わるんですけど。もっと気楽にやってるからって。

J なるほど。そうすると、このバンドっていうのは、目的は音楽じゃないのかもしれませんねぇ。

Y そう。鋭いですねぇ(笑)。

J 誰でもわかるって。何なんですかねぇ。バンドで3人とか4人、さっきぼくは音楽の人が3人いて、っていういい方をしちゃったけれども、もしかしたらそうじゃないわけですか。残さん含めて4人がバンドって考えた方がいい。

Y ぼくはもともとバンド少年やったんで、音楽を作るっていうのはすごい大きなテーマでしたね。もともとバンドをしたかったんですけど、曲が作れないとかいろいろあって、自分には舞台を作るというようなことがあって。でも演劇はちょっと、経験してないんですよ。わりと踊りやってる人で演劇やってた人が多いみたいですけど、ぼくは全然演劇の経験がなくて、中学・高校はバンド活動ばっかりしてたんで。

J バンドって、歌とかギターとかっていう普通のバンド?

Y そうです。ロックバンドです。バンドのような集合体、みたいなことに慣れてるっていうか、ぼくにとっては自然なことなんですね。

J それは演劇の劇団とかとは違うんでしょうか。

Y バンドっていうのは、とにかく練習っていうものがあるでしょ? 一応なんとなくリーダーみたいなものはいると思うんですけど、みんながバンと音を出すわけじゃないですか。それに誰かが即興で合わせていくとか、それで今のよかったねとか、テープに取っといてあの部分よかったねとか言いながら曲にしていく、みたいなところがありますね。たとえば今日はギターじゃなくてベースで行ってみようとか。なんかそういう感じが、ぼくはいいんですよ。ダンスのグループでも、常にティーチャーがいて、今日はこうしましょうとか、すべてその人の価値観でいってしまうというのは、ちょっとぼくにはつらい。

J そうじゃない、インプロヴィゼーションみたいなセッションの中から動きを引き出してくるっていう、そういうダンサーたちもいるみたいやから、割とそんな感じで音を出してくるっていうのがバンドで、そういう感じで作っていってるステージだ、ということでいいわけですね。

Y そうですね。

J そしたら、そういうものを再演するっていうのは、ここがよくわからないんですけど、その作品を再演するっていうことなのか、プロセスをもう一度やるっていうことなのか。どっちが主やととらえましょう?

Y やっぱり作品ですよね。ぼくはいつも形に残っているものは、作品自体って何もね、今まで本番を終えるとみんなでバラシをバーッとやって、ああ終わったなぁっていう感じで何も残らないんですけど、やっぱりプロセスっていうのはずーっと残るんですよね。ノートとか、記録は全部残ってますし、観客に見えないプロセスみたいな部分は、常に再現してるっていうか、継続してやってるつもりなんですよ。前回はこういうプロセスやったから、それを継いでこういう違う部分を入れて次はやるとか、常にプロセス自体は、作品を作り始めた時からずっと続いてるっていう意識があるんです。今度はそうじゃなくて、でき上がったものをもう一回やるっていうことはどういうことなのか、っていうことなんですね。

J ふつう再演っていうと、パフォーマンスとしての完成度を高めていくとかってなるんじゃないかと思いますけど、今度再演は、そういう意味で初演より完成度が高まるんでしょうか。

Y うーん。

J あるいは、残さんが作品を作るということの中で、完成度ということが一つの目標としてあるのかどうか、ということも含めて。

Y それはありますね。ただぼくの完成度というのと、観る人の思う完成度というのとが合ってるのかどうかっていうのは、ちょっとまだわからないですけど。でも確かに完成度っていう言葉だけをとれば、絶対前よりは高いものを目指してますね。

J それはたとえばからだがすごく動くようになってるとか、ターンが速くなってるとか、そういうものじゃないんでしょ?

Y それは違いますね。もっと動きに気持ちが入ってるとか、そのへんのことかなぁ。

J 気持ちねえ。

Y 前回は一部なんかは動きを一生懸命追うだけで、気持ちがついていってない部分があったんですよ。ぼくはあれ以上に動きを速めるとか動きの要素をもっと増やすというつもりはないんですけども、動き一つ一つに気持ちが込めれるように、と。

J 一部はソロで、動きの構成というか振付は、ご自分で。

Y はい、そうです。

J 音、音楽との合わせ方ですけどね、あれは音から来てるんですか、音に動きを合わせるんですか。

Y えーっとね、音に動きを合わせるんですね、やっぱり。ぼくは踊りっていうものは、音に合わすもんやと思ってるんですよ。音楽があってこそのものやと思うんです。無音ということも含めて、無音という音楽というか、それに合わせてからだを動かすとか、音楽があってそれにからだを乗せるというのかな、まぁその辺は人によって違うと思いますけど、音楽があって、それにからだがあるというのが、ぼくの踊りじゃないかなぁと思っていて。

J 音楽でいいますと、ピアニカとかトイピアノとか、太鼓……。

Y おもちゃですね。

J いろんなおもちゃを使われますね。おもちゃを、おもちゃらしさを選んでるんですか。

Y えーっと、そうですね、あのへんはなんでやったかなぁ……割とあの辺は自然に身近にあるっていうことで。まず楽器というよりもあの3人とやりたいっていうのがあったんですよ。あの3人がたまたまそういう楽器を持ってたというか、既にやってたので、おもちゃの楽器だけぼくが用意しましたけど、あとはピアニカとか太鼓とかは、あの人らが持ってたわけです。

J そこでね、よくポータサウンドとかあるでしょ最近、そういうのとかを使って、もうちょっとちゃんとした音が出るっていうか、そういうものを使おうという意識はなかったわけですか。

Y あー、ないですね。

J たとえばぼくがピアニカについてすごく思ったのは。、人の息がそのまま音になっていくわけでしょ、すごく危ういところもあるし、からだそのもので、からだの動きががそのまま音になる感じがするでしょ、だからそれを必然的に選びはったんかなと思ったんですよ。

Y どうなんかなぁ……その辺、なんかぼくの生活自身がそんな感じなんで。

J あぁ、むしろ意識せずそうやった言うほうが正しいんかな。

Y はい。だから、何かものを作る時に、何かよいもの、今回のようにより完成したものを作ろうということであったとしても、電気楽器を使うとか、

J グランドピアノ入れてこようとか?

Y そういうの、あまりないんですね。それはもう全体的なことで、すごい照明家を雇おうとか、そういうのもないんです。なるべく、照明を始めたての人とか、音響も、いわゆるプロと一緒にやりたくないとか、やっぱりぼくにとっては、でき上がったものというより、プロセスが大事っていうこともあるし、なんていうのかなぁ、そのへんは、うまく説明できる時もあるんですけど、なかなかねぇ。

J プロセスの、そういう雰囲気を大事にされてる部分が、1時間半なりなんなりの作品の舞台には、どういうふうに現われると、また現わしたいと思われますか。

Y それはもうね、舞台とかって、そういうものは視覚的な技術ではなくて、時間とかそういうものをじわっと感じるようなものやと思うんですよ。ぼくが舞台を好きな理由としてね。ここに立つまでにどういう時間が流れてたのかとか、その辺は目には見えないですけど、いい舞台ってそれが感じられるんですよね。そこに立った人の、歴史、とまでは言えないかもしれないけど、その生活とかかけてきた時間とか、一番感じられる芸術だと思うんです。そのでき上がったものがきれいでピカピカなもんやと、なんかぼくはその、なんていうか、その辺がちょっと失われるんやないかというような感じもあるし、逆にそこにコツコツっていうんかな、一つのものを作るためにすごく集中してじっくりやってれば、それがお客さんには伝わるんじゃないかなって、そういうプロセスが舞台の本番の気持ちになって出てくるんじゃないかなって思ってるんです。

J やろうと思えば、モダンダンスのテクニックみたいなものを身につけて出すことはできるでしょうけど、それをしないんでしょ?

Y ぼくね、けっこうしてるんですよ(笑)。ただ、やっぱりそれなりに自分のからだに合った、どう動いたら美しいかとか、日本人にとってのからだの動かし方の美しさとか、それはすごく考えますね。よく教室とかで教えてるテクニックというのは、あんまり日本人に合ってるような気がしないんですね。バレエとかモダンダンスとか、表面的な部分はちょっとレッスンを受けましたけど、これをやるというのは自分に合ってないし、なんかちょっと誠実な感じがしないなぁと思ったんですよ。

J 誠実って、何に対してですか。

Y たとえばバレエとか能とかでも、それを作った人っていうかなあ、じっくり受け継いできた正統の人たちに対してっていうか、やっぱり自分の踊りを作ろう、みたいな感じで、ありますよね。

J その自分の踊りっていうのは、どういう過程の中で見つけ、身につけられるものだと思われますか。

Y そうですねぇ、練習で、即興で動いてるのをビデオに撮るんですよ。11時間ぐらい、作品作ろうっていう時は。ビデオを見て、あっこの瞬間がいいとかノートに書いて、あとでそれのいいところをとってやるんです。


Copyright:Shozo Jonen 1999-2005, 上念省三


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