安川晶子

10歳で西野バレエ学校入学。15歳からジャズ、モダンのトレーニングを開始。学業終了後渡米を繰り返し、リモン系リリーステクニックをメインにジャズ、バレエのトレーニングを積む。91年より、自作によるプロジェクトakick pop danceを開始。重力が導く動きと心が動かす動きをまじえながら、ユニークな空間づくりを目指す。

安川晶子の「Daily Life」は指の運動や小さいジャンプからダンサーとしての彼女の日常を多少だかかなりだか誇張したもののようで、やや古めかしい音楽も含めてユーモラスでテンポも動きもスピーディだった。この作品の発想は、6月にプラネットホールで行われた「akick pop dance 10−解放と快楽その3」の「Daily Life」にも見られたものだったが、ソロになった分だけ、一人称であることが見やすく整理されているように思えた。ただ両者に共通して思うのだが、コミカルに作っているのになぜか乗れない、妙な間の悪さのようなものがあるようでしかたがない。いったん解釈というフィルターを漉されてしまっているせいか、相対化された一人称ということでの居心地の悪さなのか。

(ダンス・ショーケース(パフォーマンス・アート・メッセin大阪2001731日 グランキューブ大阪)


「蒸発願望〜akick pop dance 7

 1998617日、於・難波TORII HALL。今回はソロ。コンピュータ=赤松正行+IAMAS/S5、映像:南方祐紀・石原次郎、センサリング:マトロオ・もな、音響:村田千佐子・上山朋子。

安川の動きを近くで見ると、関節からしっかりと形を作っていくような、新鮮な喜びを感じる。からだの関節が広がる(開く)ことが、即ち世界の広がり(開き)であるような、ダイナミックな驚きである。それは決して滑らかな動きではなく、むしろ硬質でいわゆるドイツ的な種類の魅力を湛えている。たとえばある一定のリズムに乗っていくことより、リズムをきちんとした手順を踏みながら崩していくことで、自らの呼吸を整え秩序を作っていくような風情である。

映像がたいへん効果的だった。「映像」というよりは、視覚的効果と呼ぶべきか。まずは緑の細い水平線が安川の足にまとわりつくような位置で、柵のような拘束的な効果をもたらした。この躍動する足に小さく照射された一本の線は、見えるか見えないかというぐらいに目立たないようであったにもかかわらず、徐々にまるで安川の拘束具であるかのような大きな存在になっていった。安川の動きの質がそのような気分を増幅させたということも否めないが、ぼくがこれまで見た舞台の中で、最も面積が小さく効果の大きな仕掛けだったといえるだろう。そして安川は、両手にライトの付いたリストバンドをして動き、手錠をはめられたかのように両手を合わせる。両手の動きを強調するような効果と、動きが止められ制限された状態とを見せることで、捕虜−虜囚−囚人、といったイメージにどうしても襲われる。

 対照的といえるかどうか、激しくスピーディな動きも提示される。コマ付のアールデコっぽいシンプルな椅子に坐って、袖から強く押されて登場する。意識的に硬く動き、身体の剛さを強調しているように見える。動きの硬さ・剛さと、コマによって滑るように移動するのが、とても面白い。ダンサーの足によってではなく空間を移動し、同時に身体は別の系統で動いているというのが、ポーカーフェイスでとんでもない面白いことをやってるみたいで、ユーモラスだ。椅子のせいで、雲に乗って動いているようにも見える。そのため、観ているぼくたちは、ややアンバランスな速度感に戸惑い、打たれることになる。

 やがて男が出てきて椅子を倒し、安川をはじき出す。椅子を失った彼女は、椅子のコマによるスピードは失ったが、すぐに天井からぶら下がった吊り革を利用して再びスピードを得る。片手で、また両手で吊り革にぶら下がって足を浮かせることで、やや中途半端に宙ぶらりんになったり止まったりする。ぶら下がっているのか、吊り下げられているのか。どちらかというと吊り下げられている、つかまえられているように見えるのは、ここまでに感じてきた拘束感とさらにそれを作っている彼女の身体の硬質さによるものだと思う。これらの速度感や吊り革による、一瞬であるとはいえ飛翔の感覚は、たとえばH.アール・カオスの白河直子の身体と比べてみることができるのだが、白河よりも厳しく観念的で、量感があるように思えた。白河が飛ぶ時は、飛翔そのものとしての圧倒感に包まれるが、安川の飛翔はそれが喩として持っている意味性が飛翔し、航跡に重く豊かに引きずられているものがあるように思う。結果として白河が自由を感じさせるのに対し、拘束を感じさせる。

 続いて映像は水滴を映し出す。水の中から見たようなきらめく光、記憶のような映像。そして水の滴りの音と映像がずれていく。そして安川の身体に影絵のように映像が重なる。

 次のパートは、NHK「きょうの料理」のテーマソングをバックにした軽妙な動き。客席は大いに笑い沸いたが、なんだかとても自暴自棄的な感じがして、ちょっとつらかった。ここでぼくはこれがエンディングだと思ってしまい、ちょっとリラックスしかけてしまう。

 この後は安川の身体と映像とがいっそう緊密なダブリを見せ、身体が二重、三重であるかのように思わせる。それはつまり「不在の身体」を思わせることでもある。スクリーン上の身体と生身の身体とがパラレルに動いているように見える。おそらくはカメラでステージ上の身体を取り込み、ディレイやハレーションなどの変換を施して再び映しているのだろう。目の前の動きがこだまのように遅れて提示されるというのは面白い。音ではよくディレイドマシンなどを使ってそのようなことがあったが、視覚的に提示されると、時間や空間に思わぬ溝ができてしまってスポッとそれにはまり込んでしまうような感覚になる。目の前で動いているものを認識するという行為自体、本当はコンマ何秒かの単位で遅延が生じているのだろうが、普段ぼくたちはそれをそうは意識していない。

 さて、つい映像という仕掛けに目がいってしまっているようだが(実際、舞台の上手にはマックが数台、4人がオペレーションにかかっているというものものしさで、かなり気を取られはしたのだが)、最終的に印象に残るのは、映像の身体が消えたときに残った安川の身体の大きさであった。これは当然のことと受け取られるかも知れないが、映像の面白さが、テクノロジーの面でも美しさにおいても相当なものだっただけに、それが消えて生身の身体だけになったときに場が持たず、寒々しくなったとしても不思議ではなかったと思う。

 最後の映像は、星空のようで、満天の星が空から垂直に落ちてくる。そして緑の水平の線。地上に屹立した一個の身体を、水平と垂直の二つのベクトルによって思い返され、美しかった。


akick pop dance 6foolish acts改訂版 speed up,thrill up

312日 於尼崎ピッコロシアター大ホール。振付・構成=安川晶子。休憩なしで1時間半の公演と聞いて、短編集かと思ったら、中編連作といった趣だった。ダンサーは他に森美香代、尾沢奈津子、杏奈、上杉博美、木村良子、酒井田美織、福原美保子、計8人。

 '95年に上演したものを手直ししたものだそうだ。「foolish acts」と題されていることから、人間の動きの滑稽さ、おかしさを求めるようだ。以前、「GUYS」娘版を観た時に、女性の身体というのは笑いや滑稽さからは遠いのではないかと思った。それが先日の「7 color」で、7人の女性ダンサーたちの覚悟を決めた笑劇のようなダンスに半ば呆れたこともあり、どのように展開していくのか楽しみに思った。

 綱渡りのように両手でバランスをとりながら爪先で歩き、倒れる。果ては安川がステージの縁から落ちる。7人が同じ動きをしているのに、一人が遅れる。そのようなパターンが最後まで90分を支配した。倒れること、落ちることには、これまでも様々なダンサーが固執してきている。それらは、重力に対する考察であったり、人間が直立歩行をしていることについての再考であったりするものだと理解していた。しかしここで安川が倒れることによって提示したのは、もう少し「言葉になる」種類のイメージだったように思う。倒れることそのものではなく、何かの状態から倒れることで生じる意味を提示していたように思えた。

 たとえば前半の森美香代を中心とした大きなピースを見てみよう。舞台上に一人残された森は、大きなモーションでゆるやかに動いている。森の肩が動くと、それに隣り合った空間が反発したりうねったりして伸縮しているのがわかる。あぁ、本来空間というのはそのようなものなのだったのだな、と認識することができる。うっかりすると、この時間は作品として独立した森のソロになってしまっていて、安川の90分の中でどう脈絡がつけられているのか、わかる必要がないもののように思えている。森の手首の曲げ方のすごさ、抱える空間、すべては身体そのものの形容詞的なあり方を排して、動詞として次々に生んでいくものだ。これは決してfoolishにはつながらないもののように思う。そのような思いに捉えられていると、いきなり森が綱渡りから転倒していた。ダンスというものが、転倒をこらえるところからスタートするのではないかと思えたシーンだ。

 そこへ杏奈ら4人が加わる。4人が所作事のようなパターン化された動きを繰り返しているところを、森は躓くこと、倒れることをひじょうに美しく繰り返している。4人の動きの方にむしろ滑稽さやユーモアがたたえられているような気がする。森は躓き、爪先立ち、後転を反復しながら、上手奥から舞台中央を往復する、何度も、何度も。徐々に森の息の音が大きく、何もそんなにまで、と思ってしまう。森の動きは徐々に乱れてはいるが、それが「演技」なのかどうかはわからない。本当は乱れてはいけなかったのかどうか、むしろ、もっと乱れてもいいのではないかと苛立つほどの動きであり、森のあるレベルのキープのしかたは壮絶と言っても大げさではない。

 激しい動きを反復することで身体が徐々に乱れていくということは、人間を非常に疲労の早い機械だと認識すれば、当然のことであるが、それをあえて見せようとする場合、乱れること、乱れを耐えることを、観る者にどう受け止められようとしているのか。森の乱れは、悲愴な美しさを湛えて、存在の極限を示すものであるとは言えても、少なくともfoolishなものではない。あるいは、foolishという言葉に対するイメージが、ぼくと彼女では異なっているのかも知れない。そんなにまで繰り返すことの愚かさを思うことはできるが、それは愚かさにとどまらない。人間の行為のすべては愚かしいものではあるが、その愚かしさの中にこそ……というような聖性に向かう。

 しかし、ぼくは思うのだ。そのような聖性への志向は、もういいじゃないか、と。ぼくはむしろ、森美香代がfoolishstupidになってしまうぐらいの破格なダンスを見たいのだ。森は今回のユニットの中で、一種別格扱いされていたように思うが、容姿も含めた美しさで群を抜くダンサーであるだけに、奉ってしまうのではなく、破っていってほしいと、切に願っている。それはもちろん、森自身の身体や意識の問題もあるだろう。身体に対する彼女自身の信仰のような愛が、ぼくの望むような破格を許さないのだろうとも思う。

 そして、安川が森を破り切れなかった分、この90分のステージにはほんの微妙な歯切れの悪さが惜しかった。馬鹿馬鹿しさに常に聖性がついて回るような、意味の重さが気になった。

 安川と森を除いた6人で、3人ずつが縦に2列になって、後ろの2人が前をのぞき込むところからスタートするシーンがあり、遊戯っぽいのだが上滑りしない面白さが印象に残っている。後ろ向きに綱渡りのように歩き、さっと上手へ身を振るユニゾンでは、舞台に風が起きたような力を感じた。直線に集まり、また展開し、ジャンプするなど、ユニゾンの力を遺憾なく発揮したと言えよう。

 最後には、安川と森が息遣いをマイクで拾いながら踊るという、ちょっとキワモノっぽい面白い趣向があった。動きと息がシンクロしていたのが、徐々に他のダンサーの袖での息の音か録音かがかぶさり、動きと息が無関係になっていく、とても奇妙な空間が生まれた。それはけっこう耳障りで、決して心地好いものではなかったのだが、いよいよ安川の美しい動きのソロに至っても消されることなく、これは一つの覚悟なのだな、と感じ入った。人の生理を強く感じさせる息の音を増幅することで、身体が帯びる聖性を引き剥がそうとする試みのようで興味深く思いはした。

他には、舞台を長方形に切っていく照明が効果的で、面白かった。