AOEインタビュー

1997年7月、AOE(本当はEにアクサンがついています)のエメスズキ、久保亜紀子のお二人にお話を伺いました。


J まず、すごい平凡な質問で恐縮ですが、お二人のユニットの「AOE」という名前の意味から。

エメ、久保 (爆笑)

久保 でも、最初の頃はよく聞かれました。

エメ 意味のないことから始めるというつもりで。……普通、ものに対して名前が付くじゃないですか。もののないところに名前を付けて、あとから意味付けしていこうという、結構単純な発想で。音だけで選んだんです。それだけなんですけど。

J 私自身は再三、AOEのステージは意味に満ちている、観念的だというふうな書き方をしてきたんですが、特にそれは久保さんのステージについて強く思うんですね。ステージの構成を考えるとき、何か観念的なテーマをあらかじめ設けられるんですか。

久保 自分なりには一応設定はしますけれども、必ずしもそれが作品の中核にあるものではないんですね。だから、見る方はどう捉えられても構わないと思ってやってますんで。

J それがそのまま受け取られる必要はない、ということですか。

久保 そうですね。特にそういうつもりでは……動き自体ということに関しては、あまりそういう意識は持ってないですね。また作品は作品として、AOEの場合でしたらスズキとかなり話し合って構成を考えますんで。こういうことに関しては、かなりお互いの意見は違うと思うんです。

J でもそれが伝わらないかもしれない、伝わらなくてもいい、ということに関しては、エメさんも同じなんでしょうか。

エメ そうですねぇ……、観念的というのが、どういうふうに捉えられてるのかがちょっとわからないんですけど。

J はい。その……たとえば世界の終わりとか、それから時間が止まっていることとか流れることとか、そういうことについて、いつも何かすごく考えさせられるんですよ。そういうこと。つまり、他のダンスのステージだと、からだの動きの美しさとか、そういうことが中心で、いや、お二人もすごく美しいんだけど、そのことよりもむしろそういう、哲学のテーマ集に出てくるようなものをすごく感じさせられるんですよ。

エメ そういうことを、今観念的ということで言われてるんですね。

J ええ。

エメ はい。それはもうそのまま、そういうことをベースに二人で考えて、そういうところから始めてます。そういうふうにとっていただけるということは、一つ本望と言うか。もっと捉えどころのないものと感じてらっしゃるのかなと思ったんですけど、よかった(笑)。

J ぼくが初めて拝見したのは島之内教会ですが、AOEの活動はいつごろからですか。

久保 ライブハウスのファンダンゴでやったのが最初です。

エメ 島之内は4回目です。'95年からですね。

久保 最初のころはライブハウスが多かったですね。ミノヤホールとか、そういうところでやらせていただきました。

J 島之内教会で初めて拝見したときに、これは「世界の終わり」だと強く思ったんです。

久保 うーん、世界の終わり、というのはちょっと違うかもしれない。ふだんの日常生活の中から、ちょっとずつはぎ取っていったようなことから始まって、もしかしたらそれが世界の終わりみたいな感じに見えるのかも知れないんだけれども、すごく些細なことをちょっとはぎ取ってみたような作品が多いですね。

J ふだんの生活の要素を少しずつ持ってくるという意味ですか。

久保 形はいろいろできると思うんです。たとえば反復ですとか、拡大するとか縮小するとか、ひっくり返してみるとか、いろいろできると思うんですけど。

J でもそれは一つ一つの動きのモチーフの問題ですよね。

久保 そうですね。基本的にはそうですね。一応ダンスですからそこから始まりますよね。

J でも全体として、それが一連なりになったときには、あまり日常の接点があるようには見えない。

久保 ええ、そういうふうには見えないと思いますね。

J で、私の中に残るのは、ああ世界は終わってしまったけれども、その中で二つの生命が生きているとしたら、とかですよ、なんかそういうような。それからいつもちょっとペシミスティックな感じがしてね。

一同 (笑い)

J そうして帰ってくるんですよ。

エメ 楽しい感じでは終わってないですもんね(笑)。

久保 ハッピーエンドとか、そういう感じじゃないですよね。

エメ でも、否定的とか、ペシミスティックっていうわけじゃないと思うんですよ。

J うん、根底的に美しさというものがあるからじゃないかと思うんですよね。美しいものを見ると、とてもペシミスティックになる、という感じ。

久保 ああ。

J お二人ともバレエはずいぶんやってらしたんですか。

久保 私はクラシックバレエはかじったぐらいです。基本的にパントマイムからです。

エメ 私はモダンバレエやってました。

J 先日、白桃房の方とされましたよね。ああいう舞踏は、だいぶ違いましたでしょ。

久保 そうですね。

エメ 違います、確かに。

J 先日、袋坂さんとエメさんがされたのでも、最後のほうで特に、舞踏でよくやる最後の挨拶のようなシーンがありましたよね。

エメ はい。

J 舞踏のようなものと、これまでやってこられたこととの接点については、何かお感じになることありますか。

エメ 今までの舞踏の様々な概念とか、イメージとか、いろいろあると思うんですけど、すごく私が考えてるのは、日本人のからだの特徴です。たとえば足が短いとか、まあ皆さん足長くなってきてますけど、すごく単純なことから、舞踏っていう今まであるそういうものに対してアクセスしたいなって、すごく単純なところからベクトルが向いてます。

J それはご自分でモダンバレエをされた経験から来ますか。

エメ それも、すべてではないですけれども、あります。

J 実際に白桃房の人とやってみたことで、その違い、たとえば重心の位置とか、からだの伸ばし方とか、これはもう決定的に違うなと思われたことって、ありました?

久保 やっぱり腰の位置が全然違います。やっぱりすごく低いことが多いんじゃないですか。

J 腰が低いことでどう見えるか、ということについては?

久保 それはさっきエメさんがおっしゃったような、日本人の身体の表現のあり方の一つとして、腰を落としているっていうのは、やっぱり日本人の体形とダンスというものを繋ぐのに、ちょうどいい高さに持ってきて踊ってるという感じがしますね。

J 一方でバレエとかは、そうじゃなくするほうでしょ? 腰を伸ばしたりとか。

エメ はい。

J それは別にどっちがいいとか悪いとかいうんじゃなくて。

エメ はい、ええ。

J 他の舞踏の公演はご覧になったりされるんですか。

久保 あまり見てないです。

エメ ええ、そんなには。舞踏を模倣しようとか、そういうことは一切考えてないんですよね。

J 日本人としての私の身体について、つきあっていかなきゃいけないし、そういうことですか。

エメ 過程の中でそういうのが見え隠れしてくるという意味での接点かな、というところです。

J お二人とも銀幕遊学◎レプリカントでわりと長くされてましたね。佐藤剛さんのステージングって、音楽を中心として照明とか美術とか、動きとかという形で、総合的なものですよね。

久保 総合芸術。

J お二人も、AOEでもソロでも、美術とか音楽とか工夫しておられますけれども、こういうふうに作っていきたいというような方向性はありますか。

久保 AOEに関して言いますと、基本的にはいろんなジャンルの方をお招きして、一緒に物作りをしていくということを一つのテーマに挙げてやってますんで、結構そういうところがあると、総合的なことを考えざるを得ないですね。

J たとえば、この人よかったから、ずーっと、というようにはならないわけですか。

久保 もしかしたら今後あるかも知れないですけど(笑)。

エメ でも、どっちかっていうと、毎回違うっていうか、その時でベストっていうか、それが基本です。

J そうですか。拝見するほうにとっては楽しいんですけど。そういうのって、その人の音とか、特に音ですよね、いつごろ初めて聞くんですか。もちろん、最初から知ってるっていうのもあるでしょうけど。

久保 いろいろです、ほんとに。音なしで作品を作ってしまってて、あとでのっけてもらうってこともありますし、先にこういう感じの音楽がいいんで、と言うとそういう曲を作ってきてくださって、また話し合いが始まって、ということもありますし。いろいろですね。

J 「えー?」ってこととか、ないんですか。

久保 それは、まあ(笑)。

J それがあるから面白いんでしょうね。話は変わりますが、お二人はレプリカントの頃から親しかったんですか。

一同 (笑)

久保 親しかったですよね(笑)。別に仲良しこよしというわけではないですけど。

J お二人でやろうというきっかけは何だったんですか。

エメ なんでしょう。

久保 タイミングもあったと思いますけれども、なんていうか、劇団というスタイルですと、どうしても演出家とかがいまして、コマ的な感じで動く場合が多いんですよね。ユニゾンとか大人数でやりますから、それはもう致し方のないことなのかも知れないんですけれども、一度そういうところから抜け出してみて、自分で考えながら作ってみるのもいいじゃないかと、そういう時期がちょうど重なったんだと思います。

J いざ出てみようというときは、大変じゃなかったですか。

エメ 辞めるというときですか。そうですね、でもそういう流れがずっと自分の中にあったんですね。ずっとやってて、じゃあ次はこういう形で、っていうことだったから。大変っていうのとはちょっと違うかもしれない。AOE始めてから、私しばらくまだレプリカントでやってたんで、また久保さんとそのへんも違うと思うんですけども。

J 離れて、レプリカントの舞台を見ると、どういう感じですか。去年も、KAVCでありましたよね。

エメ ええ、面白かったです、って言ったらあれですけど、やっぱり総合、総合芸術ですから、そういう意味ではやっぱり、変な感じですけど、面白かったですね、そういう部分で。だから、あそこはダンスっていうのとはまた違う感じもあるので。

J 佐藤さん自身は、ダンスという言われ方は好まないんでしょう?

久保 演劇ですっていってますね、いつも。

J 少し話は戻りますが、普通のダンスは、からだが動くことを正面に見せると思うんですけれども、お二人のステージからはわりとそういうふうには見えない。

久保 あまり動いてないですからね(笑)。

J なるほど。っていうか、動きが目に見えることよりも、動きが脳髄に来るほうが重いように思うんです。からだの動きを見せるということについては、どう思われますか。

久保 私がいつもステージに立って思っていることは、からだの先に何があるのか、っていうこと。からだを通してそこから何が見えるのか、というのを、自分のダンスのテーマとしてやってますから、それを考えてる分、お客さんにもそういうのが伝わるんではないかと思うんですけど。どうなんでしょう。

J なにがあるんでしょうね。

久保 なにがあるんでしょうねぇ(笑)。

J それっていうのは、それを探しているという姿なんですか。それとも、それを予感させようとすることなんですか。

久保 うーん、どう思われますか。

J うーん、たとえば見えないものは見えるものにいつも隣接しているというような言葉がありますよね。そういうことから言えば、いつもぼくらはからだを見ながらそのからだの外の、あるいはそばの、からだじゃないものを見ているということになるとは思うんですよ。で、普通、多くのダンサーは、からだを見せることでその空間の広がりとかを見せていると思いますね。ところが、お二人の、と一緒にしていいのかどうかわからないけど、特に久保さんのステージでは、むしろからだが引いてる。そのそばにある何か空間とかのほうが見えている、という感じがします。ということでいいんでしょうか。

久保 はい(笑)。

J 今思うんですけど、それってすごく日本的なのかもしれない。よく日本美術とかでは、描かれたものよりも描かれてない余白の方が、っていいますよね。

 エメさんのステージについては、久保さんとも少し違って、エメさん自身がニュートラルであることっていうか、無っていうか、壺とか箱とか、入れ物としてそこにポンといらっしゃってね、それにいろんなものが詰まっていくっていうような。だから、お二人がいると、わりとそういう感じで、久保さんからエメさんのほうへ流れていく動きが多いような感じがしてて、面白いなと思ってるんですけど。

エメ 私自身はよくわからないんですけど。

J お互いに、相手に対して、これは私にはできないな、っていうようなことってありませんか。

久保 できないとか、そういうふうにはあまり考えたことないんですけど、彼女は全体的にコーディネイトする力があるなあと、常々思ってますんで、そういうところ。

エメ 自然と役割分担ができてるのね。AOEをやるに当たっては。舞台上の今おっしゃったようなことも含めて。

J コーディネイト的なことっていうのは?

久保 作品の空間作りにおいてですよね。

J お二人、表現のスタイルがだいぶ違うな、と、最近わかってきました。久保さんからエメさんに流れが、と言いましたけど、比喩的に言っても、エメさんが壺や箱みたいにニュートラルに微笑んでいて、それで場を作っているという感じがして。

久保 初めてそういうこと考えましたね(笑)。

J 最近特に「Route」で一人ずつでされて、それでまた二人で、というふうにして、また一人ずつが他の人と、というのを拝見してて、こんなに違うんだな、面白いな、と思いました。

久保 「Route」の時もそうだったんですけど、AOEってまず座標軸としてダンスっていうものがありますよね。私たちがしていることは、もしかして3回、4回やってて、皆さんに見ていただいてますけど、よくわからないんじゃないか、何をしているのかわかってもらえないんじゃないかということで、分割して流れを見ていただこうかということがありました。

J 伝わらないということについてですけど、ぼく自身、拝見してて、あっ、これはわからないだろうな、私にはわからないなと思いながら見ています。で、じゃあ、そのわからないことについて、それはお二人はわかってる、ということではないのではないかというふうに、そう思いたいというのもありますし。もし、お二人がちゃんとわかっていて、こういうふうなステージになるんだとしたら、それはちょっとどうなんだろうかと、かえって思うぐらいのこともあります。先ほどおっしゃった「身体の向こう側」というようなことについてであれば、それはやっぱりわからないだろうと。で、わからないことをぼくは自分でよしとしようと思いますし、ぼくはそのわからないことを、修辞的に、レトリカルに何とか書いていきたいな、というふうに思うんですけどね。

久保 なんだか、わかります。

エメ わからないことって、じゃあ、何が「わかる」なんでしょうかね、逆に、ダンスにとって。身体表現ってことを考えるときに、上念さんはそれがお仕事っていうか、言葉にしなければいけない作業がどうしてもあるでしょうけど。

J 他のダンスのステージだと、結局それはわからないんで、ただそこに身体があって、パーッと激しく動いて汗が散ったり、みたいなことで、なんとなく満足するっていう部分があります。すごく動いてたね、とか、すごいムーヴメントだよ、とか、ダンス教室の生徒が参考になるとかいう意味でもわかりやすいという一面もありますよね。ぼくは自分では踊らないけど、そういうことが言えるというレベルで、よし、わかったぞ、ということもありますよね。一つの謎が解けたっていうか、その動きを見せたかったんだなというような意味で、一つ満足して帰ることができる。そのところが、AOEのステージングでは非常に難しいんじゃないかと思います。そういう満足感を与えるという意味では。

エメ それは、ないですね。正直言って、ないんです、私たちには。AOEは特にそういうのをメインに持ってきてないですし、他のジャンルの方といかにからだが関わっていけるかという部分で始まったAOEですから、たぶんAOEで見ていただくと、スパークする身体、というようなものは、まず、ないというところから始めてます。

J それがわからない間は、お二人のステージはあまり楽しめないですよね。なんか、あんまり動かへんなぁ、って。

エメ (笑)。今の流れでいくと、そうだと思います。

J レプリカントのユニゾンとかですごくきれいに動いてた、その動きをリードしてらした二人のユニットだ、ということで見に来ると、びっくりしちゃうかもしれない、と思います。

エメ そういう期待をもってAOEを見にいらっしゃると、そういうことになってしまうと思いますね。「Route」で1、2、3と分けて、それぞれのあり方を見ていただいて、ダンスエクスペリエンスでは二人分けてやりますが、そのへんで出てくるものというのは、AOEとはまた違う、もっと身体寄りのことをお見せできるんじゃないかとは思いますが。

J 今度もあえてお二人じゃなくて、別々におやりになるということは、どうしてですか。

エメ 深い意味はないんですけど。ずっとAOEでやってきてるんで、じゃあダンスエクスペリエンスは別でやりましょうか、っていう程度のことなんですけど。あくまでAOEは場としてやっていきたいんですね。いろんなミュージシャンとか美術作家とかと交わる身体、その場としてのAOEというのは、長い形で提出していきたいという中で、やはりわれわれの身体というのも考えていきたいっていう部分ももちろんありますから、そのへんはやっぱり個人で、二人の身体のあり方も全然違うタイプというか、まあ一緒だったらどうっていうわけでもないんですが、考え方ももちろん違いますし、そういう個人個人でのワークもやっていこうというのが、次の動きなんですけど。

J 「Route」だと、AOEの1、2、3ということで、久保さんがいないこと、エメさんがいないこと、っていうのを強烈に意識させられたんです、1、2でね。今回のはそういうことはないんでしょうか。

エメ 全然違うでしょうね。AOEを見てくださってる方にどのように見えるかはわかりませんけど、二人の中ではそういうのはないです。ないところから始まってます。「Route」の場合は、やっぱりAOEという中で出てきたものだったんですが。

J AOEとして作るためのプロセスだったわけですね。

 今回のダンスエクスペリエンスでは、こういうラインアップで、こてこての舞踏の人たちと一緒のチラシになってるわけですが、これについて何か思ってらっしゃること、ありますか。

久保 チラシについてですか(笑)。大野さんが上から見下ろしてらっしゃるので、私たちもあんまり、お怒りにふれないように(笑)。

J まあ、別に、大野さんが見に来るわけでもないでしょうから。

 身体の向こう側という話をもう少し伺いたいんですが、先ほどは久保さんから出てきたんですが、それについてエメさんは何か触発されるものがありますか。

エメ それに続けるとすれば、空間ということ、空間にある身体ということで、そこに立ってる身体というのは、そこにある空気とかそこに流れる音楽とか、そこにいるお客さんの息とか、そういういろんなまわりの状況によってその身体は変容していく、みたいな感覚、それが私の場合は非常に強いんですね。踊るというか、立つというか、動くという中で。身体だけがあるんじゃなくて、まわりのそういういろんな状況によって変わっていく身体、というところのほうが意識としては強いんです、非常に。ですから、いろんなジャンルと交わる、というところも、たぶんそういうところからつながってきたことだと思います。

J その中で、即興性ということは、どの程度あるんですか。ステージの中で、即興の部分とか。

久保 即興は、ステージワークでは、かなり難しいものなんではないかと思ってるんです。即興に逃げてしまうダンスって、けっこう多いんじゃないかと、いろいろ見てて思うんですね。やはり作品として作り上げていく分、即興というのはあくまで予期されぬものとしてあってほしいというのがあるので、あえて即興やります、というので作るのは、違うんじゃないかなと思います。

エメ さっき私が言ったのは、お客さんの息とか熱気で身体が変わるというのではないんですよね。そうだと今の即興になってくるんですけど、そういうことじゃなくて、できあがった空間作りっていうと変かな。

J でも、その空間とか、お客さんの息とかおっしゃった、そういうものを、ステージの上で受けることで、何かが変わるわけですか。

エメ 自分自身の中で、とか?

J つまり、動き自体はそれによって即興的に反応するものじゃないとすれば、その時には何がどうなるんでしょうか。あるいはならないんでしょうか。

エメ いや、変わりますよ、何かがきっと。きっと変わると思うけれども、それはどうやって言葉にすればいいんでしょうか、ちょっと、わかりやすく…。

久保 やっぱりダンスって生ものですから。

エメ 生ものですね。

久保 何が起こるかわからないわけですよね、リアルタイムで動いてると。そこで突然入ってきた、考えてなかったことっていうのが、こっちに向かってやってくるわけですね。そしたらそこで自分がどうするか、そこから即興っていうのは生まれるんじゃないですか。それはいい意味でお客さんを裏切る、ということなんじゃないかと思うんですけど。予測、予測、で、こうなるんだなと思われないように、心地好い裏切りみたいなものは持ってダンサーは動いてるんじゃないですか。

J それは見てる方としては最高の快感でしょうね、裏切られる快感っていうのは。ましてや美しい人に裏切られるっていうのは、ほんとに気持ちいい。

一同 爆笑。

J でもそこで、にもかかわらず、動きが変わること、反応することとしては出していかないわけですよね、ほとんど。

久保 いろいろありますよね。

エメ でも、たぶん、そういうふうにとられるんだろうと思う。われわれの身体のキャラクターって、たぶんそうだと思いますね。

J そこでお二人の中に何か醸し出された思いとかは、どこへ行くんでしょうか。エメ あるんですよ。確実に、そういう思いっていうのは。でもそれは、たぶん私と久保で場所は違うと思いますが、私の場合はやはり外に出ていってると思いますね。でもそれが今おっしゃったように、伝わってないんでしょうね。でも私は確実に内から外へ出てると、それは思ってますね、自分の中では。意識の問題だと思うんですけど。ですから、目に見えない何かでしょうね。

J お話を伺っていて、おそらくぼくはある意味では意識的に不用意に、伝わる/伝わらないという言葉をずっと使ってますけど、そこのところの微妙な深さの違いっていうか、それが面白いですね。そういう意味でも、AOEのステージ、お二人のステージから、そういう深さの度合いというもの、これも最初に申し上げた観念性、つまり伝わらないことの快感ですね、そのようなものが感じられて、それもまた一種の陶酔である、というふうに思うんです。それをお二人は、あえて意識的におやりになるわけですね。

エメ 意識的であるのと並行して、それはさっきの、身体のキャラクターもあるかもしれないですね。なんていうか、意識してそういうものを作っていくのもあるでしょうけど、もう身についてしまったものというか、それがどこでどう身についたものかは知りませんけど、何かそういうものはあるんじゃないかと思います。たぶんそれが一番伝わらないものだと思う。じゃないかしら。いま「身体のキャラクター」という言葉を作ってしまいましたが、その読み取ろう、読み取ろうとしてすり抜けていくような何かっていうもの、それがたぶん、なんて言ったらいいんでしょう、あえて意識的に作ってるというよりも、そういう状況が作ってるみたいな感じかな。まわりが、今が作ってる。

久保 作ってないと思って見たほうが、面白いですよ。

エメ そうね、そうだね(笑)。

J うーん、そういうものなんだ、こういう人なんだ、って?

久保 というか、意識がどこに行ってるかとか、そういうことを。伝わるとか、そういうことが計算されてステージワークができてるかっていうことですよね。そういうことは、計算されてないと思ってみたほうが、楽しいはずです。

J いつも初めてのものとして現れてくるんだし。

久保 ダンスエクスペリエンスで今度するのは、もう、エメスズキ、久保亜紀子、で、AOEはあくまで制作面の協力をしているだけですから、また違うステージワークを見ていただけると思います。新しいかどうかは、知りませんけど。

J はい、こっちの目を新しくしておきましょう。


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