AOE

 エメスズキ(左写真) 74年〜、故法喜聖二の流れを汲む治田栄子にモダンバレエを師事。9096年、演劇的コラボレーション集団「銀幕遊学◎レプリカント」に参加。主格パフォーマーとして期間中の全作品に出演。95年、ダンスパフォーマンスユニットAOEを久保亜紀子と設立。異なるジャンルを組み合わせることで、よりダイナミックな空間を作り出すプロデュース作業に重きを置いた活動を行う。様々なジャンルのアーティストと交わることで得た「空間」に存在する「身体」の雑駁な深さを問い直すという意向のもと、「DANCEPACE」なる緩やかな空間表現集合体を設定。(ソロワーク)

 久保亜紀子 クラシックバレエ、ピアノに携わった後、音楽活動などの経歴を経て、'88年からパントマイムをヨネヤマママコ門下のフジイオサムに師事。その後、よりダンスに傾倒したパフォーマンスに興味を持ち、'9195年パフォーミングアーツ集団「銀幕遊学◎レプリカント」に所属。俳優・ダンサーとして活躍。'93年〜写真によるクリエイト・パフォーマンス・ユニットLepic Garlandsにモデルとして参加。'95年、ダンスパフォーマンスユニットAOEをエメスズキと設立。並行してソロ活動が始まる。96年「浄夜」、97年三部作「Route」等これまでに6作品が上演された。97年イシダトウショウと巽知史によって結成されたダンスユニットZLVZXに加入。'9798年、岩下徹の年間ワークショップ&パフォーマンスに参加。'987月、天河村、天河弁財天神社能舞台にて奉納の儀に招待参加。客演多数。


 19991011日にAI HALLで行われた久保亜紀子のソロ「LOID-IST」は、ダンスが「歩く」という揺れからの変成であるという地点から始まり、硬質な身体の痛々しさを烈しく見せて、強く迫った。一方で、久保の愛らしさのようなものが仄見えていたのもよかった。うねるような生命の力、事物のはじまり、といった様々なテーマが挿入句のように置かれていて、ゴツゴツした感じがしたのも新鮮だった。ラストの執拗なまでに延々と続いた<縄登り>について、何かしら彼女にとって激しい緊急性があるのだろうと想像することはできる。そんなにまで繰り返さなければ、人は鳥になることができないという、諦念と希望の入り混じった思いにとらわれた。(PAN PRESS


エメスズキにいざなわれた甘い酩酊

 19981114日、應典院へエメスズキらの「WATER vol.2 絲遊花(かげろう)」を見に行く。実はこの日は、11:00から宝塚バウホールで花組の「Endless Love」(H.アール・カオスの大島早記子の振付で話題になった)、続いてAI HALLで劇団26組山田学級等による北村想「私の青空」を見ての3連チャンで、脳みそも心もヘロヘロだったが、ホールに入ると、なんだかいい香りがして、少し頭と心がクリアになっていくような気がした。

 そしてまたぼくは酩酊の旅に誘われることになる。公江ナオコが左腕以外の全身を収縮する白布にくるみ、秒を刻むかのように動く。方向性が外部から定められたような、他律的な動きだが、腕が振られることによって身体の重心が移動するのを、身体の他の部分がどのように受けていくかということも、精緻なバランスの上に危うく成立していた。

 舞台には白い紗幕が何重にも降りている。照明の効果とも相まった、空間の輻輳が美しい。その向こうでやはり紗をまとったエメがゆっくりゆっくりと動いている。人が、歩くという動きをとることでどのように揺れるのかを揺れているようなエメの姿を凝視していると、いつか甘い酩酊に誘われ、ここに構築されている一つの世界に呼び込まれている。

 呼び込まれる/または侵入するぼくは舞台の上では袋坂安雄の形をとって、様子を窺い、入り込み、いつしか共に世界を創っている。しかしそれは世界のための部分的な道具でしかなく、エメの動きが自律的で滑らかであるのに対し、何者かに動かされているようなぎこちない印象が残る。

 一つの王国と時の刻み、侵入者、などと図式的に解読可能であるように見えながら、最後にぼくの中に残るのは、悪あがきのように昂揚した焦燥だけだ。彼女たちの世界が去っていくこと、彼女たちの動きが目の前で過ぎ去っていくのを追いかけて、異界へ身を投げたくなるような、悲しみと言ってもいい。(PAN PRESS


TORII HALLDANCE BOXAOEプロデュース公演「Route3122333(本当は122333の部分は鏡文字)を見る。

 彼女たちについては、以前、抽象的な身体というようなことを書いたが、その印象は変わらない。しかし、以前に比べると、少しずつ何かが抜け出てきているような、立ち上がってきているようだ。観念的というか、言語が先に出てくるような印象よりも、彼女たちの美意識の強さが前面に現れた。美意識というものが何億年かを経て、鉱物に結晶してしまったような印象が残っている。

 Route3というタイトルからもわかるように、シリーズの3本目の作品。前2回が久保とエメの個別(エメはイシダトウショウと)の作品だったが、今回は2人。これまで何となく漠然と2人を同質性の中で見ていたが、このような形で見ると、2人の差異が際立ったことも面白かった。久保が硬質で意志的であるのに対し、エメが柔らかで無邪気だというような感じだ。そのような性質が、一人の時よりもずっとのびやかで自由に押し出されているようだった。

 彼女たちは、動きの優雅さや華麗さをあえて捨てようとしているように見える。さらに言えば、身体の身体性を捨てようとしているように。身体が動くことで観客に与える感情、空間に及ぼす空気の動き、あるいは自分たちの汗までも捨て去って、身体の生々しさ、現前性や流動性を極力排し、作品をある時点で完成したものとして定立させようと試みているのではないだろうか。

 このような方向性をとろうとしているのだとしたら、あらゆる面で、さらなる錬磨、練達が求められ、コンマ以下の到達度を身を絞るように求めていかざるを得まい。ひじょうに厳しい道を選んでしまったものだと思う。(1997512)


DANCE BOXAOE(本当はEにアクサンが付いています)プロデュースRoute2capriccio quartetteを見に行く。構成・演出・振り付け・ダンスパフォーマンス=エメスズキ、ピアノ=新谷聖、バイオリン=勝井祐二、ベース=船戸博史、サウンドディレクション=マツシタカズオ。

以前島之内教会で見たときにも強く感じたのだが、なぜだかうまく説明できないのだが、終末を感じてしまう。辻仁成の「カイのおもちゃ箱」だったかの都会を疾走する姿、あるいは大友克洋「アキラ」のとまで言うと大げさかも知れないが。エメスズキの無感情な美しさがアンドロイドのような印象を与えるせいかもしれない。私たちはもう過去やら時間やらとは断たれていて、ただ現在にだけ存在しているという思いを受け取ってしまう。

 最初のピースは、構造的にはわかりやすい。動きを反復させるのだが、反復の度に新たな要素が追加されていく。これによって、エメは反復、蓄積、積み上げといった言葉を全く思わせない。戻ってしまうこと、御破算になってしまうこと、ゼロクリア、そんなことばかりが浮かんでくる。積み上げられない時間というものがあって、それがシーシュポスのような絶望なのかどうかは知らない。もう終わってしまった方がいいような世界だってあるはずだ。

これはたいへん珍しい経験だ。「なんでも繰り返せばダンスになる」というような名言があって、確かにそういうことはある。しかし、エメは繰り返しによって無化してしまう。エメの先は茫漠だ。そのような気分にさせる無機としての身体にも、転倒的な意味で、圧倒されてしまう。

それは、AOEのもう一人のメンバーである久保亜紀子の姿からも立ち昇ってくる気配である。強い感動や興奮を与えることなく、メトロノームのような機械的な時間を見る者に残す。身体の動きは、大抵汗や体温やといった熱さを見る者に与えるのに、彼女たちはあくまで冷たい凝縮を与えようとしているようだ。しばしばこれはやり場なく、不完全燃焼のような思いを残すが、さらにさらに完成度を高めて、ドライアイスで火傷をしてしまうようなステージへと高めていってほしい。 (1997324)


AOEの久保亜紀子とZLVZXのイシダトウショウ(遊気舎)AOEのエメスズキが相次いで「Route」と題した作品を提出した/一言で約めると、抽象的な身体、形而上的な身体というものが存在するのだなという感動だ/久保もエメも美しい表層と美しい動きを持っていて、それが動くことによって多くのものを産んでいく/しかし、それ以上に多くの思弁や言葉を残していく/それらのほとばしりの中に身を委ねるという、ダンスを見る喜びとしてはかなり異質な経験だったこと、少々戸惑っている/殊にエメの、少しずつ動きの要素を増やしながら反復していくシーンには、それが物事の繰り返しという、蓄積としてではなく、無に帰される印象しか持てなかったこと、おそらくその場からそのような方向性への引力が強く働いていたらしいことに、いささか畏れを抱いている(23日 AOERoute1−砂の上の文字」、324日 AOERoute2capriccio_quartette−狂想曲四重奏」。「JAMCi19976月号掲載)

エメ スズキ

エメスズキはこの「aquqnoise」連作の例によって息の音から始まった。身体が作る幾何的な線と、それによる影がとても美しい。くねりうねる身体の大きさがよく出ていたし、それを強調する照明、音楽(sol)もひじょうによかった。大きくて深くて何があるのかわからないようなこの空間というものの中で、身体が息を出したり声を出したりして現在位置を確認しているような、頼るもののない切なさがあった。(ダンス・ショーケース(パフォーマンス・アート・メッセin大阪2001731日 グランキューブ大阪)


four seasons 2/4 aquanoise #2613TORII HALL

@ fragment for children 「未知」―時に恐怖。時に希望。」

闇の中に息の音、擦る音だけが聞こえている。ほとんど闇にまぎれて見えないエメは、黒猫みたいなたたずまいでうずくまっている。空間を支配しているのはスー、ハー、という音だけ。そのようにして始められた。やがて光が加わり、与えられた動きは、深く的確であるが、トーンを定めにくい。何かが欠如していることは確かだが、何がかは定め難い。美しい無意味、美しい断片、瑠璃の破片……そのような言葉が頭をよぎる。

それは、世界が彼女(って誰?)にとって唐突なものだったからかもしれない。突然ある世界に突き出されてしまった女として、彼女はぼくたちの目の前に現れている。アリスみたいといってもいいし、羽衣の天女といっても、何でもいい。とにかく、舞台という空間で初めての存在として、彼女もぼくたちも出会うことになった。

この前にいた世界というのが彼女にはあって、その記憶が断片となってしまっている。彼女はそれを辿ろうとしてるのだが、彼女の内部にはまだ何も蓄積されていない。それが実は無垢そのものということではないのか? それが聖ということではないのか? そんなことを思わせられた作品であった。

A television―・・ずっと砂嵐・・誰が来ようと、何が起ころうと・・楽しくて・・でも寂しくて・・・・・・」

裏方さんがテレビを運んできたのかと思ったら、ダンサーの清水啓司だった。客電もついたまま、清水は舞台中央で横になってテレビを見る。ようやく客電が消え、囲碁の番組の音声とテレビのノイズ、バイオリン(久保ふみ)とチェロ(高田愛)が重なり、ひじょうに奇妙な感じだ。出てきたエメが、おしゃまなお嬢様のように動く。二人はまったく別々の関係ない二人のようでいながら、そのためにいっそう夫婦みたいにも見える。なんだか意味深で濃密な二人だが、清水は機関車のような強い身体を持っているのに対し、エメは前の作品の続きのように無機的に動いているのが面白い。

離れて動いていた二人だが、清水が初めてエメの頭を持ちグイッと歪めると、エメは壊れて死体のようになってしまう。清水は壁を押している。かなりスクランブルで混乱した状態が提示されている。このように辿ってきてしまうと、何だか家庭内のいさかいの話しのようにわい小化されてしまうおそれがあるが、男女二人が目の前にいるのに、その関係を定め難く、しかもかなりバラバラな動きをとっているということで、ひじょうに混沌とした錯綜そのものといった情景である。ここでは、音も4つの方向から発せられて、この錯綜を助長しているように思われた。

大量の断片がお互いを相殺しあって、結果的に静寂が生まれている。その無とか空とか虚を出すために、これだけの断片が必要だったのか、そうだろうな、と思わせられた。最後は冒頭と同じく清水がまた横になってテレビを見る。単純なソナタ形式かと見せて、清水が最後に「あっ?」と言って立ち去るのが思わせぶりで、心憎い。その向こう側には何があるのだろうかとはるか遠望させるのは、単純な手法だとはいえ、この時間の連なりのあとでは、それが螺旋を描くのではなく、また新しい地平が広がっていることを確信させる。

B super buy prologue− 途方に暮れ、疲れ果てても、永遠に踊り続けるゾンビのように今日もワタシは「おかいもの」」

公江ナオコがショッピングカートにテレビを入れて引っ込んだかと思うと、今度はエメをカートに入れて登場。そして暗転。

エメとyumが妊婦のように腹を膨らませて現われ、天井からおびただしい紙片が舞って、老婆のような公江が何かクシャクシャ言いながらカートを押していると、2人の腹は平らになっていた。こんなおとぎ話のようでちょっとユーモラスな構成は、これまでエメの作品には見られなかったのではないか。

この後、ジンタにのった盆踊りを思わせるような激しいユニゾンから、人形振りになったりするが、何といっても圧巻はカートをトスしあう激しいスピードに包まれた螺旋状の混沌だ。時々音が止むとエメとyumは止まるのだが、公江だけは動き続ける。公江は一人笑ったり叫ぶ顔になったりする。最後は公江がカートに頭を突っ込む格好で足をVの字にして二人に押されて引っ込むというのだが、この時間のすさまじいまでの緊迫感と、一種土俗にもつながるかと思われるような捨て鉢なユーモアは、この作品のおそらくは意外で予想外な層の厚さやしたたかさをそのままあらわしたものだったと思う。

 

見てきたように、そして公演案内に書かれているように、この公演はソロ、デュオ、トリオという3つの形で構成されていた。そして、みごとにそれぞれ求心力や関係性の異なりを見せてくれた。ここにあらわれた豊かな多様性は、個人は世界と対峙せざるをえないこと、男と女という関係性、3人というのは多様であるように思えて12にしかならないこと、しかし時には無限の大きさでもありうることなどを的確に見せてくれた。

これまでエメの作品は、ややもすると内部でこそ堅固に成立している世界を、覗き穴から部分的に見せられているようで苛立ちを覚えることもあったのだが、今回はそうあからさまではないにせよ、けっこう太い骨格が与えられ、見る者にはかなり入り込みやすく共有しやすい世界が用意されていた。小品ということで構成がシンプルに収められたためかもしれないが、エメスズキという魅力的な表現者を遺漏なく見るためには、いい契機だったと思う。