年間ベスト・ランキング

演劇情報誌「JAMCi」の求めに応じて、1994年からピックアップしているベストX。その年の編集方針によって取り上げた演目の数は異なりますが、強く印象に残った作品をランダムに。


1997年 1996年  1995年  1994年


1997ベスト3

観ることのいくつかの喜びと重み

1=由良部正美「小町/ピエタ」西陣北座

2=ヤザキタケシ「トリップ」アルティ、「セキバク」TORII HALL

3=桃園会の「トートの書」連作

身体そのものの持つ力と、作品構成の緊密さ、両面から身体表現でこの二人を挙げることにためらいはない。

観終わって自分が何をしていてどこを歩いているのか不安に思うほどの強い力を残したのが、一位に挙げた由良部正美の「小町/ピエタ」だ。両作品とも再演を重ねているが、「小町」がそれによって練られて熟したものになっているのに対し、「ピエタ」はますます鋭さを増し、透徹した世界を強固に完成させているのが面白い。殊に「ピエタ」は、由良部の身体そのものの鋭さや美しさはもちろん、聖母子という二者の関係性から、世にありうべきかなしみと栄光のすべてを提示しつくした作品で、舞踏というものが現在にあってこのような豊かな身体語彙を持ち、求心的な時間を構築できることを改めて思い知らされた。他のいわゆる舞踏と呼ばれるジャンルで、なかなか納得できる公演にめぐりあえなかったこともあるが、比較級の問題ではなく身体表現の高みを極めている。

ヤザキタケシ+彗星舞遊群は、アルティ・ブヨウ・フェスティバル出品作「トリップ」で、シャープな動きと豊かな表情に裏打たれたエンターテインメント・ダンスを提示して満場の度肝を抜き、笑いの渦に巻き込み、殺陣とのコラボレーションを目論んだTORII HALLでの「セキバク」で、人格崩壊を思わせるような惨劇を見せて観る者をを凍らせた。このような両つの面を持つことを彼自身が重んじ、観られることに対する真摯な姿勢を保っている限り、ただ「楽しい」「美しい」「すごい」といった観ることの初源から離れることはないだろう。これからダンスがジャンルとしての広がりを持つためにも、欠かせない存在だ。

緊密な時空間を作るという意味で、演劇からは桃園会(作・演出=深津篤史)を挙げておきたい。深津の特に「トートの書」連作について、それが明示されているわけではないが、阪神大震災後を思わせる人々を緊密に描いたということにおいて、やや妙な言い方になるが、長崎大水害を踏まえた松田正隆とこれからも何かと比較されることが多いだろう。しかし、現実というものの不完全さに対する諦念の深さが、深津を松田とは全く異なる地平へ連れて行くだろうことも確信している。それは舞台の上にはしばしば破綻のような形で現れるかも知れないが、それこそが演劇と詩という懸隔を一気に狭めるものではないか。

 またこの一年、厳しく豊かな数多くの舞台を観ることができた。そしてそれについて読み書き考える機会を与えてくれたJAMCiに深く感謝している。また、がんばろう。


1996ベスト3

月日は流れ、人は変貌する。それをただ私は…

@ 森美香代ら「chotto matte!」ほか

A 松田正隆作・演出、内田淳子、土田英生「蝶のやうな私の郷愁」

B 宝塚歌劇雪組・星組「エリザベート」

 この1年、それは震災から1年たったなという思いを挟む1年である。その思いを最も<劇的>に捉え返させてくれた舞台として、再演だが、「蝶のやうな私の郷愁」があった。そうか私たちもこのようにあの時を迎えたのであったかという静かな追想が、劇場を出て徐々に膨らみ、突如抑え難い激情となって全身を奔流する。劇で流れた時空をなぞる形で私の体験と思いが噴出したのだ。それが深い場所で私の癒しとなったことは間違いない。

 何かを見続けることで得られる大きな喜びの一つに、彼女または彼が信じられないほどの大きな変貌を遂げる舞台に立ち会うということがある。森美香代のフランクフルト・バレエ団のマイケル・シュメイカーらと行なったこのコラボレーションと、それを継承発展する形で行われたソロ公演は、まさにそのような喜びを与えてくれるものだった。シュメイカーと出会い、ワークショップを展開したことが、どれほど大きな刺激であったか、そしてその出会いを摂取し咀嚼しわがものとして開花させられるまでに、彼女が思想的にも熟していたことのタイミングの妙を祝わずにおれない。変貌といっても、彼女が旧来持っていた優美さや柔らかさを捨て去ることなく、新たにスピードやドラマやちょっとしたファルスや言葉を付け加えたのである。この貪欲さが混乱ではなく、洗練を結果したのは、希有な出来事だったと言っていい。それは彼女のダンスに自在な多様性を与え、平たく言えば楽しいステージを作り上げることに成功した。次回公演が楽しみだ。

 「エリザベート」は、一路真輝のサヨナラとなった雪組公演と、麻路さきらの星組公演が行われた。この1年、宝塚では「ハウ・トゥ・サクシード」「CAN-CAN」など海外ミュージカルの<輸入>が相次いだが、「エリザベート」は両組共に出色の出来を示し、小池修一郎の潤色を含め、宝塚歌劇のレベルの高さを再認識させた。中でも雪組でエリザベートを演じた花總まり、星組でトート(死)を演じた麻路、同じく皇帝フランツ・ヨーゼフの稔幸の、役への沈潜と表現の深化には、目を見張った。殊にこれまで歌が弱いとされてきた花總と麻路が、このようなミュージカルにおいて、しっかりと芝居の流れと役柄をふまえた<ドラマとしての歌>を披露しえたことは特筆に値する。

他にも、TORII_HALL等、ダンスを気軽に見られる場が増えたこと、遊気舎における劇のコンポーネント化=解体(?)がどう展開するか、「せりふの時代」の創刊、神戸・新開地のKAVCの充実、など印象に残った事柄は多い。


1995ベスト5

 とりわけ喜びを享受する者の少ない身体表現を、多少は人よりも数多く見てきた。本号で触れた加賀谷早苗らの公演など、あの小さなホールでたった2日間の公演だったのだから、200人足らずの人しか見ていないわけだ。喜びを共有する者が、この世にたった200人しかいない……舞う側にも論じる側にも、何だか淋しい作業だ。ぼくの仕事は、その淋しさを少しでも開いて、多くの人に人間の身体が表現しうる美しさや厳しさ……照れながら言えば、「感動」を分かち合える形で表現することにあると思っている。

 第1位に据えたのは銀幕遊学◎レプリカント「−LOGUE」。本号でも触れたが、演劇もダンスも全く見ていない人でも、その視覚的/聴覚的眩暈に圧倒されるはずだという意味で、今年見た身体表現をベースとした舞台の中で、最も普遍的な魅力を持つものだと思うから。目の前でスパークする身体というものに触れる機会というのは滅多にない。

 あえて2位に推すのが、宝塚歌劇星組名古屋公演のショー「ジャンプ・オリエント」(2月5日、中日劇場)。日付からもわかるように、震災後初めて見た舞台だった。見たことがない人には理解されにくいだろうが、歌、ダンス、芝居のいずれをとっても、彼女たちがプロフェッショナルであることは間違いない。そんな彼女たちが再び舞台に立ち、満員の観客とまみえることができた喜びを全身で表現した感動的なステージだった。ダンスやパフォーマンスに接するときに、一方に宝塚のようなハイレベルでしかも「大衆的」なステージを頭の片隅においておくことは、意味のあることだと思っている。

 3位には、岩名雅記放蕩ソロ「物質との密約」(10月30日、島之内教会)を、その凍結したような厳しい緊張感によって。4位には、稀に見る楽しいダンスということでCRUSTACEA「ISH vol.1−love」(9月28日、STスポット)を。

 5位には表現者の行為をはっきりと刻印した美術作品として、ジョルジュ・ルース「廃墟から光へ−阪神アートプロジェクト展」(9月、灘・夢創館)を。震災で解体することになった建物に色彩を与え、写真に撮るという作業から、震災の実相が垣間見えたような気がしている。感謝の念を込めて。

ちなみに、演劇についてはKOBE高校演劇合同公演「VOICE」(5月4日、シアターポシェット)。ストレートで圧倒的な名作、名演だった。青年団「南へ」(10月1日、AIホール)。大阪新撰組「砂の数だけ握りしめて」(10月15日、OMS)。                      (JAMCi 1996.2)


1994ベスト10

 この一年で接することのできたダンス&パフォーマンス、及びパフォーマンス性の高いアートや音楽から、記憶に強く残っているものを十点ピックアップしたのが、以下のリストである。あまり東京に行けなかったこともあり、すべて関西での公演になったのは、結果に過ぎない。1〜3については、ぼくの現在の興味の筋道の流れに従ってベスト3の形で挙げたが、その他のものについてはあえて順位を立てる必要もなかろう。あれとこれとを比べてどちらがよかったかと聞かれても、最終的には答えようなどない。

 結果的にアートを出自とするものが3、舞踏・舞踊が3、演劇(商業演劇を含む)が2、音楽が1、いわゆるパフォーマンスが1となった。ずいぶんバラバラな印象を与えるかも知れない。もちろん与えられたジャンルの多様性にもよるが、時代を支配するムーヴメントが存在していないことを表しているとも言えよう。アート系のものが多いのは、もちろんぼく自身の興味の所在に強く導かれたものではあるが、アートというものがいまだに強く制度や権威を保持しており、それに対して多くのアーティストが「ノン」を称えるために、それを逸脱する行為に向かい、結果的に強いインパクトを持ちえているということではないだろうか。大切なアイロニーなのだが、彼らにとって「行為」は、評価されるべき作品とはなりえないのだから。そういう意味で、まずは公立の美術館で行なわれた「できごと」から語っていこう。

  柳美和「エキスポ・バニーズ」(5〜6月、兵庫県立近代美術館「アート・ナウ1994−啓示と持続」から)

 ここで柳美和はエキスポ・バニーズと名づけられたコンパニオン嬢による会場案内・展示作品解説、彼女たちとの記念撮影、看板状の作品の展示という複合的なパフォーマンスによって、展覧会を支配し、出品作すべてを彼女の「作品」とすることに成功した。この圧倒的でチャーミングな支配力によって、これら一連の「作品」を今年最も印象に残った芸術的行為に挙げることに、ためらいはない。

 柳は前作でエレベーター・ガールを題材にしていただけに、コンパニオン嬢云々というだけなら、かわいいお嬢さんが来館者をお迎えするという、ジェンダー固定のステレオタイプの提示に終わったかもしれないが、会期中の毎日曜、エキスポ・バニーズによる会場案内、展示作品解説を演出することで作品を現実化/現実を作品化してしまった。エキスポ・バニーズの一人が、他の作家の作品の前で「……もう一つの世界を垣間見せてくれるような気に、なりはしないでしょうか。では、次の作品に参ります」などと流暢なガイド口調で案内するとき、その作品も柳の手にからめ取られ、美術館はふだんの静けさを失い、観光の場となったのだ。

 このような侵犯が、美術館という制度の転覆/破壊を行なっていたことに気づくのは容易だ。壁に作品がかけられている限り、作品は美術館という制度を脱することなく、一つの権威として立ち現われるのだが、柳は簡単な見えやすい仕掛けによって、展覧会自体を鮮やかに自身の作品に逆転してしまった。

  フルカワトシマサ「ウォーキング・ステップス」(六月、大阪市立中央公会堂)

 さて、そのような制度の破壊が最も尖鋭的な形で見えるのが、パフォーマンスといわれる行為でありうるのは、ゴールドバーグ『パフォーマンス』の記述が未来派やダダから始まっているのを持ち出すまでもない。

 一時間、フルカワが一人でただ歩き続けるだけの行為が、演劇的空間の成立と日常的空間を共に、単純に破壊したのは見事だった。ここで彼が壊したものの中で最も衝撃的であり、またパフォーマンスというものにとって重要であると思ったのは、ぼくたちの、与えられた物語によって感動することを求めるという馴れきった感受性だったのではないだろうか。ただ足踏みをしているだけのフルカワを取り囲んで、ぼくたちは自らの想像力によって空間や時間を膨らませることができた。中央公会堂という空間の重みもあって、世界の終わりを感じることもできたし、楽園から追放されたアダムの姿を見るようにも思えた。この一時間の中で、本当の意味での劇的空間は中央公会堂の中にではなく、見る者の中にこそ生起していたわけで、ぼくたちはここでぼくたち自身に出会っていたことになる。このように、空間を空間ではないところに出現させてしまう力を経験したことは、衝撃的なものだった。

  麻路さき「ステート・フェアー 」(九月、宝塚歌劇団星組公演、レビュー「ラ・カンタータ」から)

 それならいわゆる商業演劇において、舞台空間はどのように誕生しているのか? それをぼくは宝塚歌劇の一人のスターの生誕となったこのダンスに見よう。星組トップの紫苑ゆうの引退発表後のこの公演は、もちろん紫苑のサヨナラ公演であったが、一方では次期トップと目された麻路さきがどのような空気を帯びて出現するかが興味の対象となった。そして、オープニング直後、ストローハットをかぶった青年として麻路がカーテン前から銀橋(オーケストラ・ボックスと客席の間にある張出し舞台のような通路)を渡りながら「君、そう君だよ!」と客席を指差し歌い踊った時、麻路は強いアウラを帯びた新しいスターとして出現していたのだった。麻路がこのアウラを手に入れてしまっている以上、相手役も観客も、その視線一つでどのようにでもなってしまうのは間違いない。

 このように一人の役者に強烈なアウラを与えるのは、大衆芸能の特質だろう。役者の一挙手一投足、視線の動き、声音の響きにキャーキャー言うのは、女子供の芝居として蔑まれるのかもしれない。ややハイブラウな演劇においてスターとなるべきは、役者よりも作者であって、その演劇理論、思想性がまず問われてきた。しかし、あえて一つの対照として忘れないでおきたいのだが、舞台空間を最後に支えるのは演者の力であって、そのアウラを高めることに劇団のすべてが機能するこのような舞台を見る時、舞台芸術の原型を見るようで、実に楽しいのだ。

紙幅の関係から、以下は、寸評程度でご勘弁願いたい。

 ▼陸根丙「リカーレント・ワールド」のパフォーマンス&インスタレーション(六月、道頓堀・キリンプラザ大阪)

 韓国のアーティスト陸(ユック)の展覧会のオープニングに行なわれたもの。手に持った紙に火をつけるパフォーマンスに象徴されたように、彼は作品や行為によって空間に激しい緊張をつくりだす。目をモチーフにしたビデオを用いたインスタレーションも、死者の現前、世界史への意識といったテーマをシャープに打ち出し、刺激的だった。

 ▼アンサンブル・ゾネ舞踊公演(八月、京都・府民ホールALTI)

 岡登志子らによる「おちていく瞬」「緑の島」の2部構成のシンプルで美しい舞台。落ちる、崩れる、切るといった身体の単純な動きをもとに、一つの世界を完成させる構成力と動きの美しさに感服した。

 ▼岩名雅記「ジゼル傳」(九月、伊丹・AIホール)

 舞台での構成がどうあろうと、身体の動きそのものが語ってしまう。時には身体が舞い手の意思をも離れて自律的に語りかける。そういった、身体を手懐けることの難しさを見ることができた。そこにおいて岩名は抗い、その抗いが表現に加わることでこの舞台は成功したのだと思う。

 ▼風の楽団コンサート(八月、新在家・フィアットファクトリーほか)

 民族楽器を使った即興演奏。栗山葉子の染色によるパオのような舞台の中での、スリリングでありながら心を鎮める稀有な音楽。楽器を通しての演者どうしのコレスポンダンスがそのまま音に安らぎとなって現われる−−うらやましい限りである。

 ▼トモエ静嶺と白桃房舞踏公演「眠りへの風景−エイジアン・コラボレーション」(七月、道頓堀・キリンプラザ大阪)

 前述の陸のインスタレーションをバックに、見る者を強く巻き込んで、死者との交感、生と死の境界の消滅といった根源的なテーマを展開させた。土着性の強いテーマ、展開であったのが、韓国のアーティストとのコラボレーションによって普遍的なものに昇華できたことも特筆に値する。土着性と現在性の困難な狭間を、彼らは力強く歩いて行けるような気がする。

 ▼「具体1955/56」での嶋本昭三による投擲絵画のパフォーマンス(二月、道頓堀・キリンプラザ大阪)

 四〇年前に芦屋で結成され、世界の現代美術との共時性によってフランスの評論家タピエらを驚愕させた具体美術協会の初期作品を集めた展覧会のオープニングで、その中心メンバーの嶋本が当時の制作行為を再現した。時の流れを忘れさせ、持続することの重要性を感じさせてくれる数少ないアーティストである。絵具を詰めた瓶を立て掛けたキャンバスに向かって投げつける行為は、絵画における作者の独裁性を転覆し、美はどのような行為によっても生まれることができることを知らせてくれる。四〇年前も、今も。

 ▼劇団大阪新撰組のアトリエ公演(二〜六月、天王寺・スタジオガリバー)

 唐十郎「吸血姫」、矢代静一「宮城野」やオリジナルを毎月公演することによって、ぼくたちに役者というものがどのように力をつけ、変貌していくのかを見せてくれた。その持続力と情熱と、何よりも驚きをここにとどめておきたい。それは十月の「星空に月を重ねて」(扇町ミュージアムスクエア)に結実するのだが、ただ脚本はもう少し整理することができるように思う。

 さて、ぼくがこの一年注目させられてきたことを約めて言えば、表現者たちが空間をどのように異化することができるかということと、日本をいかに表現するかということだったように思う。結果的にこのベスト10の中に日本の表現によって選んだものがなかったように、ぼくたちはまだ世代や文化を超えて通用するほどには、自分たちの存在の根を掘り込んだものには出会っていない。あるいはかつて有効だったものが既に共通項を失い、その後を襲う者が現われていないということなのかも知れない。新たな地層を見せてくれるものに出会うために、また明日から劇場やギャラリーに通うのだが、できればもう日常に戻ることができないくらいに異化された空間にめぐりあうことを期待している。                     (JAMCi '95.2)


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©Shozo Jonen 1997, 上念省三:gaf05117@nifty.ne.jp