呆然リセット
人を「そんな気分」にさせるために〜呆然リセット
呆然リセットの「ブルースウィルス」という作品は、垣尾優の「始めます」という言葉でスタートしたり、藤村司朗がポケットからくしゃくしゃとメモを取り出して、そこに書かれた二人の出会いのいきさつを訥々と読んだりと、言葉による導入が観客の笑いを誘い、またそれによって観客をすばやく自分たちの世界に引き込むことに成功したものだった。
動きを言葉で解説する(ように見える)というダンス作品は、近いところでは既に山下残という前例がある。山下は2002年に「そこに書いてある」という作品を発表した。観客には分厚い本が配られ、ナレーターの朗読に合わせてダンサーが動く。「トンネル」と言えば股のぞきみたいな格好をするというふうに。また、2003年には「ダンスを語るダンス」と銘打って「透明人間」を発表(共にアイホール)。これらの作品を観てぼくが感じたのは、まず動きが言葉をなぞるのを観ることの不思議さであったが、それは言葉によって示されるものと動きによって示されるものとの質感の違いと、その違いを味わうことで「ゆらぎ」のように体感されるいくつかの感覚の間の時差のような差異そのものの面白さ、そしてその差異を感じている自分に対する興味、といったように、どんどん感覚がメタに流れて(本当は「深まって」と言うべきなのかもしれないが、深刻さとはちょっと味わいが違う)いくことの面白さだったと思う。「そこに書いてある」「透明人間」の二作によって、山下が作品の中で言葉を扱う手つきが、確かなものとなっている。
それに対して呆然リセットは、言葉を使うことにあまり自信がなさそうに見える。一見すると、作品にとって言葉はとりあえずの補完的メディアであって「本当は使わずに済むならと思ってるんですよね」と言い訳しながら、おずおずと言葉を発しているような印象さえ受ける。それは垣尾と藤村の訥々とした味わいのある語り口からもたらされると同時に、そこで語られる事柄が、男友だち二人の出会い……寒い下宿のこたつで雑魚寝をして風邪をひいたというエピソードであったりするように、半ばノスタルジックで半ば冴えない個的で「小さな物語」であることによる。ここで彼らは、世界がどうこうとか芸術表現としていかがかとか、そういうことは問わずに、ただ自分たちの独り言のような私的で小さな世界にとどまっているように見えるから、ぼくたちはのんびりと、笑いながら観ていられるように思ってしまう。
呆然リセットが面白いのは、そのようなフラットで日常的な感性を保ちながら、それらを突き抜ける時空を創り出すことができるところだ。身体芸術やら実験性などというような七面倒くさいことを考えさせる前に、観客を「楽しい」状態に引き込み、そしていつの間にか「すばらしい」と思えるような状態に誘い込んでいる。
さて、ではその呆然リセットのすばらしさとは何か。それは、ぎりぎりのカッコ悪さと懐しさだ。「ぎりぎり」というのには二つの意味がある。「ブルースウィルス」で言えば、さえない下宿で風邪を引いてしまったという話など、実にカッコ悪いのだが、そこからホールの壁にブルースの写真を何枚もペタペタと貼り、二人が「ブルーースッ!」「ウィルスーッ!」と声を限りに叫ぶのは、ぎりぎりのところで何かを通り越したような凄まじさがあって、背筋にかなり強い感動が走ったものだった。
そして彼らのダンスの動き自体にも、かなり微妙なぎりぎりのラインがある。シャープとか滑らかとかすごく速いとか、そういうエクセレントな形容には遠く、むしろ不器用でゴツゴツしたとかザラザラしたといった感触のある動きなのだが、そんな引っ掛かりが彼らのダンスの動きを深い魅力のあるものにしている。二人のコンタクトがいつもぼくに思い出させるのは、高校生だった頃、昼休みに教室の後ろや廊下で、プロレスの技をかけあったり、相撲をとったりしていた光景だ。ぼくたちのそんな不器用なぶつかり合いの中には、今ではもう再び得ることのできない掛け値なしの無垢なつきあいというものがあって、呆然リセットを観ることでそれを痛いように思い出す自分を発見する。それは彼らが言葉やしぐさを使って仕掛けた罠のような設定による部分もあるのだが、この痛さの大半は、彼らの動きの不器用なざらつきから来るものだ。もし彼らが同じ設定でエクセレントな動きを連発したら、その時そのエクセレントさによって、彼らとぼくの回路は絶たれ、彼らは舞台の上で奥のほうにどんどん遠ざかる存在となっていくだろう。垣尾によると、彼らは計算ずくでその不器用な状態を選び取っているそうだが、フフッ、それはどうでもかまわない。彼らが人をある状態にさせるためのぎりぎりで絶妙な間(ま)をもっていることを、同じ時代に存在する者として喜んでいるのだ。
(2004年7月3・4日、於・ロクソドンタ・ブラック)(「ACT」2号掲載)
「とめないで、さわやか」(垣尾 優)
垣尾も共演の藤村司郎も、ポーカーフェイスなのがとてもカッコよかった。いきなり垣尾が藤村に飛び蹴りを食らわして始まったのに、続くシーンでは垣尾が大きな硬さをうまく出す癒し系の動きをして、ややヒロイックなムードさえ出した。
それがあれあれと思う内にユーモラスな展開になる。垣尾が(なぜか)目に腕を当てて男泣きに泣いてると藤村が蹴りを入れたり、それにまた無表情に応戦したり。走り回ったり、ちょっとコケティッシュにユニゾンしたり。この素敵な男たちのコミュニケーションは、なんだかとても乱暴だったりがさつに見えたりするが、スタイリッシュな動きにユーモアが加わった段階で、いい高揚感が出てきたように思う。
この作品が面白かったのは、男の友情というような雰囲気を感じられたからだ。いちいち言葉で説明してしまうと、大変ダサくなってしまいそうなので極力避けるが、垣尾がソロのような形で動いている間の藤村の無表情な反復での控え方などには、とてもセンスのいい気の配り方が見えているようで、感心させられた。ラストの、上手奥から下手手前へ行ったり来たりする激しいランニングには、とても強い力が感じられた。2人の着ていたTシャツもひじょうにおしゃれなものだったのだが、人を食ったようなタイトルと合わせて、全体にちょっと気取ったようなおしゃれな空気が流れていながら、鼻に突くようなことなく、微笑ましく見ていられたのがいい。若い男の子たちに見せたら、ちょっと憧れてしまうんじゃないかなとも思った。(DANCE CIRCUS 2001年7月2,3日 トリイホール)