ダンスユニット・セレノグラフィカ

隅地茉歩(すみじ・まほ) 同志社大学・大学院を通じて文学研究を専門とし、事典編集や執筆活動を行った後、舞踊活動を開始。'91年ニューヨークにてダンス研修。クラシックバレエをジョン・ローレンス・ウィルソンに師事し、その後モダンダンスのダンサーとしてチェコのプラハでの舞台にも立つ。'97年からソロ活動を開始、同年阿比留とユニットを結成。

阿比留修一(あびる・しゅういち) 近畿大学在学中に舞踊と演劇を学ぶ。卒業後、舞踊グループ「じゃうかあず」を結成。以後本格的に舞踊活動を始める。'9496年に日韓舞踊フェスティバルに参加、'96年にはバニョレ国際振付賞ジャパンプラットフォームにダンサーとして出場。'96年、大阪府芸術劇場奨励新人。

セレノグラフィカ '97年結成、12月に第1回公演「無伴奏の月」。長い年月をかけて承認されてきたダンスの型やテクニックを否定することなく、かつ、それらに依存せずとも成立しうる新しい舞踊、をめざす。


どんな処方箋によって傷を癒そうとしているのか(ダンスユニット・セレノグラフィカ)

観客はよく笑っていた。たとえば阿比留修一が隅地茉歩のお尻を執拗に撫でようとしては、叩かれたりにらまれたりするところ。人が人にタッチすることのスリルが、よくダンスでいわれるコンタクトということとは別の、はなはだ日常的で卑小な次元で提示されているのが、興味深い。そうかと思うと、隅地が阿比留にセクシーなポーズでモーションをかけ、阿比留がドギマギするところでも。

ここで笑うということについて、ぼくは二通りの道筋が考えられるのだが、どちらによって笑うことができるのか、よくわからない。一つは、言うまでもなくそのままに、男が女に翻弄されていることをおかしく思って、阿比留の阿呆づらを楽しく笑い飛ばしていればよいわけだ。

もう一つは、かなり意地悪な見方かもしれないが、この二人の設定自体をズレとして笑うもので、隅地をも道化として見ることにし、「そんなに魅力的でもない女がシナを作って見せているのが滑稽。それにまた呆けている阿呆な男が滑稽」と思って笑うという構図となる。あえて「夏の夜の夢」を思い出してもいい。

どちらによって笑うほうが面白いかと、ぼくはけっこう真剣に考えてみているのだが、冷静になると、笑うための道筋を考えてみようということ自体、滑稽なことだ。なぜこのようなことになるのか。

おそらくそれは、この公演において、あるいはこれまでのセレノグラフィカの道のりに照らし合わせて、このように笑いの由来を言葉に翻訳してしまえることに対する違和感があるからではないか。これまでこのユニットのダンスが主眼としていると思われた、コンタクトの絶望感、傷つけ合うような痛いコンタクトと笑いを両立させることに、相当無理を感じさせるからではないか。ぼくには今回の公演で見せられた翻訳可能な笑いは、このユニットのダンスの本質につながっていくものとは思えないままに、公演は終わってしまった。いつかこれがコンタクトの痛さを癒す処方箋のように、一つの鮮やかな円環となって結ばれるのかどうか、ぼくはそれを期待しながらゆっくりと待つことにしたい。(dB)


ダンスユニット・セレノグラフィカの「砦」は、そのタイトルからも想像できたようにカフカのような厳しいドラマ性があり、スケールの大きな作品だと思われたが、隅地茉歩と阿比留修一の動きのトーンにややバラつきがあり、作品の求心性を減じたようなのが残念。(ダンス・ショーケース(パフォーマンス・アート・メッセin大阪2001731日 グランキューブ大阪)


「三つの遠近法」

トリイホールのDANCE BOXでいつもコマネズミのように働いている横堀ふみの制作で、二人の男女のユニットを2組配した公演。いいセレクションだった。宣伝美術(清水俊洋)も美しく、当日の折紙の中から宝物が出てくるようなプログラムも秀逸。

隅地茉歩と阿比留修一の二人から成るダンスユニット。以前KAVCで観た時にも思ったのだが、この二人のコンタクト(接触)は、痛い感じがする。お互いの隙間(?)にすっと入っていくような柔らかさが感じられず、ぶつかり合ってメリメリと音をたてて両者がきしんでいるように思う。男と女という二人のダンサーの関係性において、こういう痛さが出せるというのは、特異なことだ。

阿比留の動きは、回転が大きい上に速度のある方向性がしっかりとしている。ジャンプしかけて引き止められるような、阻まれるような、ブレーキの効いた動きがあったが、ザラリとした空気が生まれ、粟立つようなスリルを感じることができた。

隅地の動きは、身体の中から伸び出てくるような感じには乏しいが、エモーショナルな表現力においてひじょうに優れたところをもっている。その結果か、作品全体にモノクロームのフランス映画を観ているようなセンチメンタルな衝迫感が生まれている。初めに述べた、二人のコンタクトの痛さということが、このことに大いに関係していると言えるだろう。

タイトルからもわかるように、この作品は大まかには二人のソロ、デュオ、と三つの部分から成っている。それぞれのソロの間も他の一人が舞台の片隅で横たわっていたのが、確かに空間の中での身体を定位するためにうまく機能していたといえる。もちろん、動かない方の身体は、それほど存在感を強くアピールしているのではなく、むしろ見なくても差し支えないような転がり方ではあったのだが、それが存在していることによって、動く身体と動かない身体の間に見えない線が張られているようになって、いわば「不在の他者」を強く意識させることになったのが、これまた痛さを強める一因となっていた。

デュオで歩行が徐々にリズムを帯びてダンスになっていくような時間は面白いと思った。後転を連続していくうちに二人がどんどん離れていくというのも、象徴的でよかった。気になったのは、二人の、特に阿比留の視線で、ちょっと定まりのない揺れが見えたように思う。彼の動き自体の大きさは随所で印象的だっただけに、残念。下鴨氣象 2001722日 アトリエ劇研

アルティ・ブヨウ・フェスティバル2002 29,10

この日3つめの作品は、ダンスユニット・セレノグラフィカ(隅地茉歩、阿比留修一)。まずカミ手のみセリを高く上げた舞台で、阿比留が厳しい動きのソロを踊る。殴られ、昏倒し、舞い、また倒れる、というような激しい動きで、ほとんど見とれる。そこへ隅地が入ってくるが、動きのキレ、スピードが従来よりずっと上がっているように見え、照明のせいだろうか、どうしたのかと少々驚く。二人が距離を置いて別々に踊っているのが、その遠さ自体に意味があるようで、こういう緊張感の作り方もあるのだと思った。二人が動きを止めて客席をじーっと見つめるシーンの後、セリが変わり、隅地が三面の壁に囲まれるような格好になる。これは空間の作り方としてなかなか厳しく、セレノグラフィカの造型にはぴったり合っていると思った。

ここで爆撃音のような効果が入って、また驚く。あとで聞くと、花火の音だったらしいのだが、舞台の空気の厳しさからか、ぼくはほぼ疑いなく銃声とか爆破の音だと思ったのだ。ちょうどサラエボの盆地で、三方の山並みから街をめがけて狙撃する、その銃声、というように。そして隅地も、ちょうど狙撃されて倒れるようなタイミングで倒れているように、見えたのだった。このように政治的な設定であるように見えたことについて、ぼくは決して不快だとは思わなかった。もちろん、サラエボである必要はまったくなかったし、あとで彼女たちは「そのように政治的な意図だと見られてもかまわない」というような言い方はしていた。しかしその言い方は、積極的にそう見られることを受け入れるというよりは、どう見られようと作者あるいはパフォーマーは反論すべきではないという程度の控え目な考え方のようで、どのような見方でも受け入れましょう、という微笑みだったように思える。

じっさい、一つの効果音と一連の動きの意味的な関係について、過度に強い結びつきを与える必要はないだろう。しかし、ここでぼくがこのような見方をしたのは、三方が高く(おそらく2mぐらいに)そびえ立つように仕組まれたからだ。はたしてそこから阿比留がとても深い谷のような深さを飛び降り、二人の争いのようなコンタクトが展開され始めるのだった。

これは、互いに突き、転がし、足を取り、といった激しい動きが、ひじょうにリズミカルに展開されながら、もしかしたらどちらかがどちらかを、あるいは互いが互いを首を絞めてでも殺してしまうのではないだろうかというようなスリルを感じさせながら、しかしそれはそれとしてお互いにひじょうに強く幸福であるだろうなと思わせるような不思議な空気を帯びていた。

その後の展開について、おそらく彼女たちのまったく新しい動きの見せ方であると思ったのだが、二人が前後に重なり、ゆっくりとからだを前に倒したり、後ろに反ったり、上体を回して屈んだりする。そのような一連の動きが、癒しというと安易かもしれないが、ある種のこの世のものではないような安らぎを感じさせて、高い緊張感と密度を保持しながら、緩やかな時間であると思われた。

その後また速度のあるコンタクトに移っていくのだが、外面と内面の対比のようなメリハリのつけ方が新鮮で、このユニットにとって新しい企てであるようで、次の展開がひじょうに楽しみに思われたのがいい。