冬樹ダンスヴィジョン
'56、大阪生まれ。'75年、神沢和夫に師事、ヨーロッパモダンダンスを始める。'83年、ダンスカンパニー「RISE」設立。'92年、冬樹ダンスビジョン、スタート。'93年、スーザン・バージ・プロジェクト「MATOMA」でフランス各地のダンスフェスティバルに出品。'94年東京公演。'96年、バニョレ国際振付賞出品。'99から京都成安造形短期大学非常勤講師。
冬樹ダンスヴィジョン「ディラックの海」
4月19日 於千里A&Hホール。冬樹、中川薫、斉藤誠、ヤザキタケシ、杏奈、川西宏子、藤條虫丸、竹の内淳、デカルコ・マリィなど、関西のダンスシーンを代表するようなメンバーが一堂に会した特別公演。TORII HALLのDANCE BOXの特別企画として催されたもの。
プロローグに続き、「時空のあわ」「宇宙のたね」「四方の旋風」「青い惑星」「パンドラ」「阿吽」「アンバランス」「群生」「ディラックの海」「変転から覚醒め」と象徴的なタイトルを持った連作。「ワタシハイキテイルカ?」というようなスライドによる文字の映写や語りによるナビゲーションを織り混ぜながら、あるテーマを軸に作品は構成され、提示されているのだろうが、それを確かな形で受け止め、理解することは難しい。そもそもディラックというのが何なのか、ぼくの知る範囲でその解説は、「JAMCi」の最終号となった4月号で柳井愛一氏が紹介していただけだったと思う。果たしてディラックが何なのか、見る者には知る必要がなかったのだろうか。
「ディラックの海」と題されたピースは、冬樹のソロ作品だった。黒いロングコートに身を包んだ彼は後ろ姿で、小さく左右に揺れていた。後ろ向きのまま回るときの後ろ足の出の美しさとスピードに、まず目を見張る。何かをほうり投げるようなしぐさから、それをたくし戻す動きを交え、静かに線の上を歩くように動く。そのような一連の動きは、何か一人の−たとえば宮沢賢治のような−感情を表しているようでいて、一人に帰結しない普遍性を帯びているように見える。それは感情が疎外されているというよりも、感情が深く普遍的であることを表わすように思え、大げさにいえば人類が普遍的に持つさびしさのようだった。原則として、ダンスは最も一人称の表現であると思う。それがここでは、冬樹が一人の人物を装うことで、かえって人称を逸れていく。個人が個人であることから離れていくような奇妙な感覚。それがどうもさびしさのような気配を漂わせるようだ。
その奇妙さは、たとえば川西宏子のありようと比較すると説明しやすいかもしれない。冒頭の群舞からゆっくりと自分の時間の流れを帯びて現れた彼女は、薄物をまとい身をこごめて横になり、繭のような形から、ゆるやかに手足を伸ばし、起き上がる。彼女の身体は、彼女自身であることから溶け出し、すべての誰かの自分自身でありえ、彼女以外の誰かも思いをそこに添わせることができる。彼女は、他者を肯定し受け入れる身体として、舞台をやわらげる。川西の身体の独自性と魅力は、彼女自身の固有性が世界の全体性の中に溶解しながら、そのような憑り代(よりしろ)となることで彼女自身の存在の大きさを強くアピールすることができていることだ。
それに比べると、今回の冬樹の身体は、そのような全体性を排除し、孤独の殻に自己を硬く閉じ込めているわけだが、ではそれによって身体が一人称としての存在感を強めることになるかというと、今回はそのようにしなかったのではないか。そしておそらくそれは、ディラックとは何かという問いに答えることで解かれるような仕掛けになっているのだ
柳井の一文を引こう……タイトルDIRACというのは、イギリスの理論物理学者ディラックのことで、マイナスのエネルギーの存在を予想したことでノーベル賞をもらった人のことである。マイナス存在の海へと向かうというのはなかなか覚悟がいるのではないかと思わせるタイトルである。……なるほど、マイナスを軸にしているという意味で、このような身体のありようが可能だったのかと思わせられるわけである。
他には斉藤、中川を中心としたコンビネーション、若本、田村、北村のスピード、群舞の構成の面白さなど印象に残っていることは多いが、やはり全体を通した一つの印象は弱かったような気がする。(1998年)
'94年9月30日の冬樹ダンスビジョン「JAPAN」(伊丹・AIホール)は、走ることや跳ぶことの美しさ、スピード、モナドとして動きの要素を反復させる効果、どれをとっても第一級だったと思う。しかし、冬樹の「砂にねむる」と題されたパートでは、そのJAPANがステレオタイプに陥り、空手のような手の型、音楽(琴や尺八)、妙に表現的な眼の表情など、過剰さが目についた。冬樹自身が自分を見るときに外国人の眼でエキゾチック・ジャパンを見出し、それにそった形でいわゆる「日本らしさ」を表現しようとしてしまったのではないか。
冬樹へのインタビュー
■演劇はよく見る人でも、ダンスというとちょっと敷居が高い、どこを見てたらいいのかわからない、ということはあると思います。演劇もダンスも、視覚的な印象であるのは同じですが、言葉があるかないかというのがまず大きな違いですよね。
■ダンスに言葉はないと思われるかも知れませんが、必ずしもそうではないでしょう。ぼく自身、言葉が好きです。ただぼくが興味のある言葉というのは、小さい頃から教えられて今ふつうに使っているこの言葉ではなくて、あるものにその名前が与えられる前のもの/状態……そういうものなんです。言葉とはいわないのかも知れませんけどね。
■ダンスをどういうふうに見たらいいのかわからないという人は、ダンサーの動きを通して、作者(振付・構成)の空間のつくり方に注意すればいいと思います。特に群舞では、複数のダンサーの間の関係性、つまり距離や方向、アイコンタクト、ステージの空間の濃淡、などの変化に注意してほしい。そうすると、ダンスというのは、人間の身体を通した空間と時間の総合的な表現だということが、よくわかってもらえると思うんです。
■絵でも、まず最初に全体を見て好きとか性に合うとかいうんであって、いきなり細部のタッチがどうとか、人物の鏡への写り方がおかしいとかへは行かないでしょ? ダンスも、まず全体を見て、初めてダンサーの踊り方を楽しむことができるはずです。
■このダンスボックスでは、新人からベテランまで、本当に何が出てくるかわかりません。同じスペースを使って、さまざまなチャレンジが出てくるはずですから、それを目一杯楽しんでほしいですね。ぼくたちにとってはけっこうリスキーな冒険ですけど。 (Dance
Box チラシに掲載)