H.アール・カオス「春の祭典/グリザイユ」
1996年9月7日、キリンプラザ大阪で行われた公演の記録です。
ode to water
いけない、あふれてしまうのだ、私が。いや、豊穣というような暖性によってではなく、彼女(*1)が動くことで。この狭い空間(*2)を彼女が動くと空気は部分の密度を急に濃くし、私をめぐる空気はそこに向かって嫉妬し、私を包んだまま一気に彼女に雪崩れ込もうとするので私は慌てる。彼女の皮膚の歴史(*3)が抗えず身につけてしまっている表情を読み解こうとすることで私の水晶体と水平線の角度の安定比が失われることによってあふれてしまう私の眼球を満たしている水分がやがて凍りつき彼女の灼熱の髄液に反応する。溶ける、溶かされることの愉悦。共振とか共鳴という対等性によってでなく、彼女が私を略奪し、貪り、打ちのめす(*4)。私たちはただ彼女の飛沫を全身に浴び、ただその飛翔を見上げるだけだ(*5)。阿呆の顔で。目はとろん、口はぱかっ、伸びて空を向いた顎に彼女からのプネウマ。
elegy to gravity
まとわりつく重力を憎んでいるのだろうか。絡ませたり吊られたり、宙空のニンフまたは囚われ人となることで(*6)、二本の脚が交互に地面を蹴った幅しか進めないという歩行の制約から脱することのできた彼女たちだが、その代償として動きは自らの意思という制約からも逸脱してしまう。疾走する身体、雨を予測した燕のように低く低く滑空する女たち、そしてうなりをあげているだろうか椅子。空を飛ぶ椅子の間隙を堂々と縫う女たち。何かとても悪いことが起きそうな予感。戦い? 何か目の前で残酷なことが行われているが、不明だ。構成された時間であることを半ば認識しながら、とてもそれを追う気になれない。計算された動きであることを半ば自明に思っていながら、そこから外れた変事が起きることを、期待するのではなくて、はっきりと予測し、怯えて、寒くなる(*7)。[私は重力ゆえに○○な存在である]と言いたくなるときの○○について、一方で私は直面したくないのかも知れない。それなしに生きていけないことを知っていながら、いや、だからこそそれを憎むこと、が人間の常態ではないか。のちに彼女は飛ぶ。背中を吊られて飛ぶ。背中を吊っているのは空からの引力であるが、むしろニンフとして遣わした存在からの愛である。ならば、重力とは、何からの愛か? 空からの愛には、あのような恍惚で、あのような高速で易々と身を委ねて私たちを通過するのに、重力からはそんなにまで逃れようとする。私たちの地平から去っていく彼女であることは、この日初めて出会ったときから、半ば覚悟していたが。残されて、立つこともままならぬ私たちである。
lack of covers
衣を奪うことの酷さについて、これほどまでに直面したことがあっただろうか。数人の女が一人の女から衣を奪い、キャッチボールのように翻弄する(*8)。衣は翻り女は弄ばれる。のちに浴槽に体を浸し、飛ぶ身体となる彼女の、今は衣が舞い、のちに私たちに見上げられ、私たちを宙空から睥睨する彼女が、今は衣を見上げ、追って脚を縺れさせている。剥ぐこと、暴くことで、私は彼女らは本当にその裸体に逢着しているか? あるいは。裸体に逢着することで、その何を見ることが触れることができると期待しているのか? それでもこれらの詰問の数々の彼方に、奪われた彼女が酷く温度を喪くして、一つの感情の絶対として激しく佇立している。さっきより顔が鋭い(*9)。
9月7日16:00
*1=白河直子
*2=キリンプラザ大阪、6階
*3=昨年同所で「皮膚のイストワール」と題された公演が、岩崎永人の立体造形展「TORSO1-27」にコラボレートする形で行われた
*4=構成・演出・振付の大島早紀子も交えたカーテンコールのあとも、私たちはしばらく誰も立てなかった
*5=「春の祭典」で白河は舞台下手に置かれた浴槽に頭まで沈められたかと思うと、トビウオのような鋭さで現われ、背骨を鞭のようにしなわせて濡れた髪を激しく振り、その飛沫の多くは客席に降りかかった。また、最後に彼女は宙吊りになり、舞台中央から客席へ何度も助走をつけてダイブした
*6=「グリザイユ」ではX字形に張られたバンドに身体を絡ませることで、「春の祭典」では人や椅子を宙づりに(ただし低く、地面すれすれぐらいに)することで、無重力というのでもない、スピードを獲得し、随意な運動を喪失した
*7=実際、会場は空調のせいであろうが、寒かった
*8=余談だが、衣を奪えばすぐにからだを合わせようというのが多くの男の発想であろう
*9=やや余談だが、衛星放送等で見た印象と比べ、白河のアイラインがはっきりと強くなっていたように思ったのだが。中性または少年から女性にやや針が振れたと思う人もいたかもしれない。いわゆる、美しくなった、いっそう
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Shozo Jonen 1997, 上念省三:gaf05117@nifty.ne.jp