砂連尾理+寺田みさこ
砂連尾理(じゃれお・おさむ) 同志社大学入学と同時にダンスを始める。'88年に友人らと劇団ONE-PROJECTを設立。役者として出演する傍ら、振付を手がける。'90〜91年、渡米。
寺田みさこ 4歳よりクラシック・バレエを始める。法村・友井バレエ学校を経て、'83年フィンランド国際バレエコンクールに出場、'87年より石井アカデミー・ド・バレエに所属。石井潤振付の主要レパートリーに多数主演している。
'91年より共同で活動を開始する。すべての作品において振付・構成・演出・出演を共同で行う。'93〜94年、ニューヨークへ渡り、リモン・テクニックをアラン・ダニエルソンに師事。'95年よりアレクサンダー・テクニックを芳野香に学ぶ。デュエットを踊ることにより、日本人の持つ繊細な身体性にこだわりを持ちながら、それぞれの個性が共鳴するダンスを創り出したい。自己と他者という人間関係の最小単位である『デュオ』という形態の中で、人間の新たな関係性を模索している。ワークショップ活動も旺盛。横浜ダンスコレクション2001ソロ&デュオCompetitionでは「ザ・ラスト・サパー」で好評を博す。2001年第1回トリイ・アワードで大賞、2002年第1回トヨタ・コレオグラフィー・アワード出品作「明日はきっと晴れるでしょ」で「次代を担う振付家賞」(グランプリ)とオーディエンス賞を受賞。 http://www4.airnet.ne.jp/jaremisa/
「I was born」
どんな作品にも「緊張感」というものはある。出演者同士、客席と舞台など、いろいろな関係の中で成立する。ダンス、特にコンテンポラリーダンスでは作者(振付家)=ダンサーであることが多い。京都を中心に活動し、2002年にトヨタ・コレオグラフィー・アウォードを受けた砂連尾理+寺田みさこというユニットも、これまでは砂連尾が作・演出を担当してきたが、「I was born」では、松田正隆の戯曲を元にして作品を創るという新しい試みを行った(7月15〜17日。アトリエ劇研)。
松田の既発表の三つの作品をベースにしたとされていて、なるほど、たとえば「Jericho」で印象的だった繃帯が大きく印象的に使われていた。この繃帯が印象的だったのは、松田の劇を思い出させるにとどまらず、終始それが持っている張力というものが、作品の重要なテーマとして一貫していたというところにある。寺田が顔に繃帯を巻いて、その上から化粧をする。その繃帯の端を自分で引っ張って、身体がひきつれたようになる。寺田が両手に巻き付けた繃帯の端を砂連尾が持って操り人形のように動かす……そのような動きの一つ一つのパターンが、演劇とダンスの特質を侵犯しあうような形で双方の魅力を表現しえていると見えたことが、この企画が成功したといえるポイントとなったといえよう。
この企画は、今回の上演を経て、松田が二人のために戯曲を書き下ろし、そのリーディング上演の後にダンス公演が行われる、という三重の長期にわたるものとなっている。戯曲の言葉がどのように身体化されてダンス作品となるか。その時間をかけた深まりが楽しみだ。
(京都新聞2005年)
この世界でダンスするということ
多くのダンサーがニューヨークには特別の思い入れがあるようで、「9.11」について、前回ふれた山下残に続き、砂連尾理+寺田みさ子、ヤザキタケシが取り上げていたのが印象に残っている。
砂連尾+寺田は、「初夏一番」(5月19日、アトリエ劇研)で、砂連尾の長身でタワーを、手に持ったバナナで激突する飛行機をあらわすという直接的な表現で、冒頭にこの作品が踏まえているものを提示した。この作品で改めて気づいたのは、2人の動きがとても幾何的なことに加え、寺田のダイナミズム……どんどん壊れていく流れの激しさだ。何から壊れているのか、なぜ壊れなければならないのか、それは明示されていないが、壊れているという動きの流れははっきりと知られるし、壊れることから与えられる感情のようなものは否応なく生起する。特に寺田で、リリースするということが、把持していたものを解き放つという以上に、壊れそのものであり、強く場の空気を作っていくのがすごい。それが「9.11」とシンクロする。「9.11」が直接2人やぼくの身体に影響を与え、拍車をかけたのかもしれないし、あるいは2人やぼくの壊れが「9.11」を現出させたのかもしれない。そういう妄念にはなぜかムソルグスキーの「展覧会の絵」がぴったりと合っていて、最後の「キエフの大門」で飛び込むように、自分の身体をキックボードにして自分の中から自分が飛び出るようなジャンプが、強く印象に残ったのだ。(PAN Press、2002.7から)
トリイ・アウォードの選考を終えて
結果的に四者に賞が贈られたことについて、それは無意味ではないかとか、該当者なしとした方がよかったのではないかという批判がありうることは承知している。実は審査の席で、ぼくは「じゃあ、該当なしでいきますか」と言ったのだ。しかし、大方はそれに肯かなかった。「いや、賞は贈りたいんだ」と。
日頃から現在のダンスを見まくっている、十人にも満たない審査員が、オーディエンス賞/フランス賞の受賞者も含めると四つのユニット/作品を推して譲らなかったのは、それだけ現在のダンスの評価軸が多様であることと、それとほとんど同義だがダンスの批評言語が他を圧するような決定的な措辞を持っていないことと、審査員の意固地でありながら他者を否定しようとはしない性格のよさのあらわれだったと思っている。
じっさい、ぼくたちは自らの推すユニットの美点を強調することに精力を使ったが、他の作品のアラを探すことには消極的だったように思う。それは一つには、まだ現在のダンスはいい意味でも悪い意味でもフラジャイル(危なっかしい)で、美点と弱点をあわせ持っていて、それをみんな知った上で愛しているのだということ。そしてもう一つは、せっかく難産の末に生まれようとしているこの賞の始まりを祝したいという熱い思いもあったに違いない。つまりぼくたちは今回の選考を、減点法ではなく加点法で行なったということだ。これはこの賞にとっても、ダンスの明日にとっても、とても「いいこと」だと思えてならない。
ぼくは最終選考では砂連尾理+寺田みさこを推した。ぼくたちの直面する問題を最もはっきりと切りとってくれていて、同時代を生きるダンサーたちとして最も共感できると、改めて思えたからだ。
美術でも小説でも詩でも写真でも、今、この時、同じ時間を生きているとヴィヴィッドに実感できるアーチストがいる。ついでにせっかくだから思いつくままに挙げておくと、順不同に館勝生(美術)、村上春樹(小説)、季村敏夫(詩)、杉本博司(写真)、といったところか。そう思えるだけのアーチストがいるということは、本当に幸福なことだ。ふだんからぼくはひときわダンスに対してそのような幸福を感じているが、今回初めてはっきりと「選考」ということを意識してダンスを見るに当たって、同時代感=コン・テンポラリーということを一番の重点に置こうとした。
砂連尾と寺田のずれやアンバランスも日々ぼくたちが直面しているものだと思えたし、シリアスだかユーモラスだかわからないような動きも、断片の反復のような構成も、ぼくの課題だと思えた。だからぼくとしては、砂連尾+寺田が賞からもれるという事態に立ち至ったなら、これはぼく自体が問われてしまうのだというふうに思ってしまったし、きっと他の委員の皆さんも、そんな風な思いがあったのだろうと思っている。
胃が痛くなるような選考であったとはいえ、これからぼくが何に拠ってダンスを見ていこうかという、一番肝心な根幹となる部分について、短い時間で真剣に考えさせてくれる、貴重な体験だった。感謝している。そして、おめでとう。これからも。
砂連尾理+寺田みさこの「あしたはきっと晴れるでしょ」のショートバージョン。何度も見ているので改めて全体にふれることはしないが、崩れ方に関するこだわりというか、崩れていても成り立っている日常、というものを強く感じる。踊るということそのものについて、それは歩行が壊れるところから始まっているのではないか、というような気さえする。砂連尾のリズミカルな動きから、なぜ崩壊感を抱いてしまうのか、それはひじょうに説明しにくいのだが、世の中に秩序というものが存在すること自体、どうしても無理矢理に支えざるをえないのだというふうに感じてしまう。そこに日常というものの本質があるような気がする。(ダンス・ショーケース(パフォーマンス・アート・メッセin大阪2001) 7月31日 グランキューブ大阪)
「あしたはきっと晴れるでしょ」(2001年7月22日 アトリエ劇研「下鴨気象」)
国際結婚をしたある若い夫婦の会話をバックに、二人の淡々とした、いささか人を食ったような動きが展開されるのだが、いつの頃からか、ぼくはこの二人の作品に関係性の闇が見えてくるように思えていた。それはおそらく、何年か彼らの作品を見続けてきた中で、ぼくがこの二人に愛着のようなものを感じていることから来る思い入れが随分入っているのかもしれないが、そんな思い入れを受け止めるにはじゅうぶんな器であることは確かだ。そしてそれは、彼らが何げない表情で何げない動きを、非情なまでに計算されたバラバラさで見せてくれたりするからだろうと思っている。
たとえば、下手手前で横向きに(上手を向いて)並んでいる二人。同じ方向を向いてはいるが、二人の状態はやや異なる。神経質な動きを繰り返す寺田と、ほとんど茫然としているような砂連尾。それぞれに長いスパンで動きのリフレインをとるが、徐々に最初とは異なる動きが、たとえそれが揺れや誤差から生じたものであったとしても、何かが明らかになってしまうというような現われ方で生じてくるように見える。そしておそらくこれは、日常みたいなものなのだ。
寺田が尻やわきを掻く。それだけのことなのだが、寺田のような美しくて端正で崩れを知らないような人がそういうことをすると、とても崩れたことのように見える。砂連尾も後ろ向きに手を広げてぴょんぴょんと跳んでいるのが、無性におかしい。当たり前のことのように、何のてらいもなくそうするから、いっそう崩れ・壊れが意識される。どちらかが壊れているように見えるということは、そこにいる二人の関係性そのものが壊れているということだろう。そしてさらに言えば、舞台というそこだけの世界においては、すべてが壊れているということなのだが。
続いて、すごくやる気なさそうに、ゲームか信号のような身ぶりを、二人が正面を向いてことさらに疲れたようにだるそうに繰り返す。表向きはすごくユーモラスなのだが、それがいっそうとても深刻のことのように見えてしまう。
おそらく、男女のパートナーシップということについての様々に複雑な問題や悲喜劇が含意されていると思って、差し支えないだろう。空虚な世間話になるのは避けたいが、バラバラであることとか、同じことをすることとか。無表情であること自体は、多くのダンス作品にとって特別なことではないが、この二人、特に砂連尾の無表情は、いかにも何かを覆っているようで、気にかかる。そのためか、このユニットとしては名前をもたない二人には、どこか、いい意味で地に足がついていないような、関係性の不安定さを醸し出すのには最適な浮遊感が漂っているような気がする。二人が、表現においてはというところが最も重要で強調しておきたいところなのだが、お互いにとって、また世界に対して、何ものかであることを規定されることを拒んでいるように見えるダンスだ。だからこそ、ここには関係性のすべてが示されているように思える。
何かを寓意しているように思うのは簡単であるような動きがある。結婚行進曲に乗って赤いスカーフを首に巻いた二人が現われ、ツイスターゲームみたいなことをしたり、とか。しかし、それは表面の意味性やユーモラスらしさとは裏腹に、どうしても陰惨なもの、とまで言っては強すぎるかもしれないが、少なくとも幸福なものではないようにに見えてしまう。
バックに流れる二人の会話や童謡のような歌と、目の前で踊っている二人の関係、または関係のなさがこの作品の世界の幅を自在に伸縮させる。寺田がケンケンをしていると、砂連尾が椅子に座っていて時々急に立ち上がる。決してパターン化されない動きの連なりの中で、日常というものとか生きる営みの滑稽さまたは悲惨さがその幅の中に際立っていく。二人の時折のコンタクトは、まるで事故のように交わされている、と思った。アクシデンタルな関係性。
冒頭に繰り返されていた動きが、また繰り返される。長い時間を経たあとのリフレインであるためか、一つ一つの動きが重みを得てしまったように思える。バックでは「もし○○が死んだら……」というような会話が交わされている。二人の男女の間にはよく交わされる他愛ない痴話のはずが、奇妙に深刻さを帯びてしまう。砂連尾が走り出し、寺田がメチャクチャな回転をするのだが、それがまた美しい。動きそのものの美しさももちろんあるが、何かのっぴきならないものを抱えていることによる危機的な美しさというものがある。祭りのような音楽をバックに、たった二人で、こんな狭い空間で展開されているとは思えないほどの深い混沌が示される。反復が予定調和に至らず、かえって混沌を深めるというのは、一体どのようなことなのか、わけがわからない。繰り返すうちにまとまっていくのではなく、どんどんバラバラになっていく……えっ? まるで日常みたいじゃないか!
東山ダンスミニシアター 2001年3月25日(日) 京都市東山青少年活動センター 「ザ・ラスト・サパー 東山バージョン」砂連尾理+寺田みさこ
タイトルに東山バージョンとあるように、トリイホールやダンス・クリニックで上演してきた作品の流れだが、今回はずいぶん日常の奥底に伏流するものを見せる作品となっていたのがよかった。
冒頭でカップヌードルを食べたり、「きょうの料理」の音楽を使ったりするので、台所や食事というような日常に立脚した小空間の作品かという表面をもっているが、それがなぜどのように日常以外のものを見せてしまうに至ったか、それがこの作品の眼目となる。
まず冒頭で、砂連尾がカップヌードルを、ちょっとシナを作って食べていて、寺田があぐらをかいて口を近づけ男みたいなすごい食べ方をしているのを見た時から、ちょっとここにはこれまでの流れとは違った違和があるなと感じてはいた。続く「きょうの料理」で仰向けに横たわった寺田の顔がティッシュで覆われ、それを寺田がプッと吐く息で飛ばしたのは、一瞬死者のポーズとそれを笑い飛ばすメタファに思えたが、それがきちんと受けられていたかどうかはわからない。しかし、サブリミナルのようにここで死を思わせられたことは、あまりに明らさまであったとはいえ、この作品にとって重要な瞬間であったと思われる。とても日常生活には不便そうな小さなテーブルの上に白菜、チキンラーメン、カップヌードルがあって(ぼくは白菜の入ったインスタントラーメンを食べたことがないが)、それを取り巻く二人の表情や姿勢が妙にすかしている。チキンラーメンの袋を開けてボリボリと食べ、肩を組んで砂連尾はゆで卵を、寺田はチキンラーメンを互いの口に入れようとするが、ゆで卵が寺田の口に収まっただけだった。これは偶然かもしれないし、大切な寓意だったかもしれない。この後寺田が口から卵を出して牛の置物の下に置くが、それと似たようなことを砂連尾がやっても、きっとよかったのだろう。
そしてFMから流れるクラシック音楽の解説番組の、メヌエット形式についてのだるい説明に続いて見せた二人のユニゾンあたりから、また少し目に見えるものと感じられるものとの間に小さな乘離が生まれてくる。ここではまだそれは、日常の中に流れている二人の感情のあらわれのような、ほのかなものであったのだが。
「トルコ行進曲」に乗って、二人はバラバラに動き始める。動きの合間にチキンラーメンを口に入れるのが、マラソンの「給水」ならぬ「給麺」といった格好で、おかしい。今度は未開封のカップヌードルをマラカスみたいにカシャカシャいわせるのが奇妙だ。ここでぼくは、日常が分節されていることを知る。日常をばらした上で、わざとメチャクチャにつないでパッチワークの織物を作り上げたものを見せられている感じ。このようにして一生懸命につないできたのに、いきなり寺田が倒れ、曲が終わってしまい、砂連尾は一人であわてることになる。
二人の身体は、あえてドライブ感を消したりタメやシナリを作らないことで無表情を装っているが、その「無表情を装っている」ということを強くアピールしている。寺田はおそらく強く意識してバレエ的身体であることを隠蔽しているようだし、砂連尾は巧妙に、ぶっきらぼうな身体であることで自らを一貫させている。それによって醸し出されている奇妙な無温度感が、この二人のダンスの雰囲気を決定づけている。あえて文学的な言い方をすれば、何かが終わった後のような空気である。
もちろん二人は、顔においてもあまり表情を出さない。細かく見ていると、とってつけような表情をすることはあるが、それはいわゆる感情表現とはまったく無縁の、漫画の吹き出しがついてくるような種類の、意識的な定型表現であるようだ。
踊り手の顔が意識的に表情をもつということは、表現の記号化という危険性をもっている。それは表面性の強調あるいは舞台芸術のコミュニケーション・フロントとしての顔の強調による内面の隠蔽ということであって、ほとんどの場合、決して踊り手の内面をよく表現すること(それが言葉の何らかの意味においてダンスにとってよいことかどうかは別として)と同義ではない。踊り手が顔に表情をもたせることで、踊り手は見る者に一つの見方を強いることになり、見方は局限される。その場面をそう見せることによって他の場面の広がりが増幅されるのであれば有効といえるが、そうでなければ、パントマイムと変わらないことになってしまう。
その後寺田が水の入ったペットボトルを高く掲げ、床に置いたコップに注ごうとする。横断歩道に流れる「とおりゃんせ」が終わると、プロジェクタに「NO SIGNAL」の文字が浮かび上がるのが、おそらく偶然ではないだろう、非常に印象的だった。唐突な終わりとか、中断とか切断とか、そのような言葉が思い出される。それに続く「からたちの花」の曲をバックに二人が水を飲むシーンが、濃密で充実していた。最後には寺田が再び水を床にこぼし、砂連尾はチキンラーメンをボリボリ食べるのだが、食べるということで終始一貫しながら、内実はおそろしく深化し変質していたことに、改めて気づかされたのだった。
「3−21/2のモジュールをほんの少しだけ」
面白く思ったのは、寺田がバレエの形をきっちりとふまえた上でそれを崩したりずらしたりすることと、そのまわりで砂連尾が寺田の振りまねをしながら追いかけることで、その両者があまりきっちりとはしていない微妙な照応関係にあるようなところだった。
2人の基本的な動きのよって立つところは、まったく異なっている。砂連尾は少なくともバレエの動きに関しては「お稽古中」といった感じだったが、それをそのまま提出する以上は、寺田の完成度の高い動きとの対照を見るべきだと思われたが、そう見るには砂連尾のずらし方がやや不徹底だったように見えたのが、惜しい。
舞台には洗濯物がぶら下がっていて、その洗濯物には写真が留められている。写真を干していたりもする。後半で、砂連尾が写真を床に並べたり、寺田が洗濯物を丸めて腹部に入れたり、寺田が洗濯挟みで髪を止め、靴下を脱いで手にはめてみたり、と意味ありげな動きが展開される。洗濯物という日常性、写真という記憶に関するもの、そこで繰り広げられる男女一対一の営み。こういう設定からは、わりと陳腐にその世界像を導き出せそうな気になるが、そう簡単には焦点を結んでくれない。
そのつかみどころのなさは、この20分余の作品の、あるいは構成の弱さであるかもしれないが、むしろぼくはこの構成は円環的に閉じるものではなく、直線的に増殖力豊かさに広がっていくものと見て、評価しておきたい。きっちりと作品が閉じてしまうことで完結するのではない方向を、動きの性格も含め、2人が目指しているのだとしたら、これからの作品に大きく期待できそうな気がして、楽しみに思うのだ。(1999年3月15日、TORII_HALL)