黒子さなえ

NYにて、マーサ・グラハムを経て、ドンリン・フォアマン、ジャクリーヌ・パグリッシュの作品「カルミナ・ブラーナ」に参加。1992年、アイリーン・ハルトマン、ビッキー・シック等からリリース・テクニックを学ぶ。帰国後、解剖学的な解釈に基づき独自のダンスを展開している。1998年、東京にて山崎広太rosy,co.の企画にジョイント。2001年、舞踏家・由良部正美とジョイント。2000年から、「京都の暑い夏」ワークショップ講師、2001年から京都芸術センター・コーチングプロジェクト講師。20009月にはリヨン・ビエンナーレに招待公演。20029月、「ダンスの時間1」に出演。20033月、アジア・ダンス会議 in Kyotoに出演。繊細で緻密な身体の構造とムーブメントへの観察に基づく動きは、抽象性だけでなく驚きとウィットに富んでいて、時に愛嬌さえ感じられる。


populus poplars populorumInternational Contemporary Dance Session "Edge 2" 200158Art Complex 1928

東山青年の家で初演された作品の、ソロ・バージョン。初演ではによるグリム童話の朗読によって、いい意味で拡散されて多元的なものになっていたのに対し、今回は黒子一人。一見すると初演から朗読部分をマイナスしただけであるようにも思えたが、実はそれを包含して変奏したものだったと解釈したい。ただその表現が、著しく抽象化されていたことだけは確かだ。

気になったのは、外へ出ようとする動きが意外に小さく思えたことで、一例を言えば(逆のことを言っているように思われるかもしれないが)懐中電灯を使った光の航跡を描く作業は、もっと中心に収斂しているほうがよかったのではないか。そのほうが、周囲の空間の大きさを出せ、物語の空恐ろしさのようなものを出せたのではないか。

いずれにせよ、一個の身体でありながら、これだけギリギリと歯噛みするようなスリルを持続させえたことについて、まったく素晴らしかったという他はない。


東山ダンスミニシアター 2001325日(日) 京都市東山青少年活動センター 黒子さなえ「populus(語り=下園麻水)

そうして黒子の作品を見るために会場に入る。下園が、ピクニックに出かけた少女みたいな格好で現れ、「グリム童話です」と前置きし、朗読を始める。近所の幼稚園の先生みたいな素朴な感じの読み方だ。後ろで黒子が背を向けてうずくまり、ふくらんでいる。下園は「一番ものぐさな者を国王にしよう」とかなんとか、少し不条理で尻切れトンボな「童話」を読み始める。黒子が手に隠し持っていた懐中電灯で目や口の中や顔、からだの各所を照らし、ぐねぐねと激しく動く。身体の動きと光の動きが相乗して、驚異的なスピードを帯びているのと同時に、とても陰惨な感じがしてくる。その間も下園は何も起きていないかのように淡々と朗読を続ける。

下園がナイーブな感じで、しばしば残酷と呼ばれるグリム童話を読み、黒子がそれとほとんど無関係に、懐中電灯の明かりを使って自暴自棄とも見えるような動きをエスカレートさせる。この作品の構成は、ほとんどこれだけのシンプルなものだ。しかし、いったい下園は誰に向けて読んでいるのか。ただこの舞台の空気を作る(違和感を作るということも含めて)ためにか。言葉で図式的に説明すれば、グリムに底流する残酷さと、巷間流布する童話としての無邪気さを併せて提示することによって火花を散らせるという効果がある。舞台の上の二人の間には、溝が深いとか広いとかいうより、世界が別であるようにさえ思えてしまう。別の世界を同時に提示されている惑乱。右目と左目に別の世界を見せられているような強迫があった。

暗転があって、黒子が上衣を脱いでシャツの中に入れ、ズルズルと引き出し、また着る。後ろで行ったり来たりしていた下園もセーターを脱ぎ、靴下を脱ぎ、履く。下園が今度は流麗に暗誦で、まっすぐ歩けば天国に行けるといわれてまっすぐ歩いて教会にたどり着き、そこで奇跡を起こした少年の話を語る。黒子はまた苦しんでいるようにもがき乱れる。ひじょうに陰惨な空気に包まれる。

暗転をはさんで前半と後半は、ヴァリエーションをとりながらも同じ陰惨さ(後半のほうが完璧なものだったが)にたどり着く。とすると、黒子が提出しようとしたものは、この陰惨さだったのだろうか。

黒子がこれまでの作品で見せてきたのは、おそらくそれをリリース・テクニックというのだろう、身体、特に腕や上体が骨や筋肉による制約から解き放たれた、または放擲された後に外部から力を与えられて機械的に動いてしまうような仕掛けられた身体とでも言うべきようなもので、そこからはある種の不思議さ、奇妙さとでも呼ばざるを得ないような感覚が呼び起こされた。しかしこの日の作品では、そのような動きそのものが印象づける感覚より、もっと強く明確な意志のようなものを受け取ることが出来た。

黒子は身体をリリースすることによって、世界が自らの手から離れていくのを耐えねばならなくなったように見える。個人の世界にとっては、世界が身体を模倣する。身体のありようが世界に照射され、また身体に逆照射されて身体を形づくる。ダンサーであるということは、そのように世界を作り、身体が規定されるということだ。

この世界の陰惨さは、黒子の身体に加えて、下園の語るグリムがあったために増幅されたといえよう。最後に壊れたように激しく踊る黒子を目の当たりにし、黒子の身体が下園が語る言葉を飲み込み、食べ尽くして、それを糧として動いているようにも思えた。この作品は、今後いくつかのプロセスで発展されるという。それがひじょうに楽しみだ。


Kyoto Scene〜リヨンビエンナーレ招待作品/公開リハーサル 200093日 京都芸術センター

 続く「天−空」は、坂本公成の演出で、振付・ダンスが黒子さなえ1998年に京都で初演されたもの。初演時の印象に比べると、ずっとずっとエキサイティングな作品だった。黒子を特徴づけている表情豊かなリリース・テクニックは、前屈みになって足で腕を蹴ってブラーンと放り投げたりするものだが、ピアノの単音とのマッチングが実にシンプルで印象に残る。彼女のリリースからは、脱力、バネ、はずみ車、反発する力、といった様々な言葉が浮かぶが、何よりも爽快感が後に残るのがいい。身体自体がシンプルな仕掛けでできた玩具のようでありながらも、機械的身体というのではなく空間を突き抜けるようなさわやかさがある。

 やがてピアノが単音から断片的なメロディを奏でるようになると、急速に黒子の身体から豊かな生命感が立ち昇ってきたと思ったら、屈んで左足一本で身体を支える変形アラベスクから腕と右足をリリースさせるのに驚く。すぐにバイオリンが入り、強烈で速い回転が始まる。そのパートが終わると、倒れ込んだり暗転で処理したりせずに、すっと元の素の表情に戻るのが、身体の強靭さを表わしていると同時に、クールでかっこいい。あんなに熱かった空気が、いとも簡単に鮮やかにクールダウンしている。一方で高まるノイズ系の音によって、耳はどんどん興奮していく。その落差もすごかった。

 とにかく、前回見た時に比べると、はるかに作品としての緊密度が高くなっているように思った。おそらくは黒子の中で熟成されたものがあったのだろう。それはきっと、(ぼく自身はうまく言い当てることができないが)黒子にとってリリースとは何かということと深い関係があるに違いない。また、見たい。