ダンスで笑う〜関西のダンサーを中心に

悲しみは劇の生成と到達に欠くことのできない必要条件であるとして、いったいダンスには何が必要なのだろう。……ただそこに身体さえあればいい。それ以外のものは本質的には用いようがない。そう言った後から、それでも時折身体から受け渡される感情について、その来歴を思わざるをえない。

ことに、ダンスで笑うという時に問題なのは、大げさな言挙げだが、それがダンスであることによって笑われているものであるのかどうか、峻別せねばならないものであるように思われるからだ。ここは一般論や本質論を展開する場ではないから、余計に少し注意深く考えてみたいのだが、笑いというのはあくまで一つの反応の形態であって、観る者が実際に反応することで初めて生成する。しかも、人が誰かの何かを観て笑うというのは、対象が異形か阿呆か優越か親近か満足か快感か……であると判定した上でのことであって、自らの立地が安泰であることが前提となっているはずだ。だから「笑っていられる」間はましなほうで、対象のありようがあまりに極端になると、笑いが凍りついてしまうということになる。

神戸に住んでいるぼくにとって、ここで例に引くのはどうしても関西のダンサーが中心となる。しかし、何もこの小文によって関西のダンスの特異性(そのようなものがあるとして)を浮かび上がらせようとか、関西のダンスに特に笑いの要素が強いと主張しようとしているわけではない。ただ、笑いという一つの補助線を引くことによって、ぼくがここ数年の関西のダンスをどのように観てきたかが整理できれば面白いと思って書き始めている。もちろん、ここでふれることができない優れたダンサーは、たくさんいる。舞踏における笑いにふれるスペースがなさそうなのも、残念だ。

笑いを重要な要素として取り込んだダンスの公演として真っ先に思い浮かぶのは、冬樹、上海太郎、ハイディ・S.ダーニングが中心となって、関西で活躍するダンサーをオールスター的に揃えて企画された「路地裏の三輪車」というものだ(199510月、大阪・一心寺シアター)。これによって、少なくとも関西のコンテンポラリー・ダンスがエンターテインメント性ももっているということが明らかになり、のちにDANCE BOX(トリイホール)の始まりを促す力となった公演だったと聞いている。上海の「路地裏のストリッパー」や浮浪者のマイムダンスが爆笑を誘い、室町瞳や進千穂が豊かな表情と鋭い動きでステージを駆け回るのは、観ているだけで気持ちよかった。サイトウマコトヤザキタケシのデュオの部分は、二人のシャープなテクニックに基づいて、身体を投げ出し、ゆるめる連続がスピード感にあふれており、息つく暇もないほどスリリングだった。

ヤザキタケシは、ふだんから笑いの要素を積極的に作品の中に取り入れている。彼の作品を貫いているのは、人格の一貫性の不安であるといえよう。疑心暗鬼で居心地悪げに、背を曲げて周囲をびくびくと盗み見るように警戒していた男が、何かのきっかけでいきなりピンクのウィグ(かつら)をかぶって満面の笑みをたたえてリズムをカウントし始める……そんな唐突で爆発的な転換が哄笑を誘う。主体の不安が表現の結果として笑いを誘発しているという意味で、笑いの企てが主題の強調に成功している好例である。ダンスが基本的には一人称の表現形態であることの切実さを、実にうまく使うことができている。

さて、ダンスを観て笑う、とはどのような場面で成立するのか。最もわかりやすいのが、滑稽な身ぶりや表情で笑わせるもの。パントマイムのように身ぶりによる模倣または演技でストーリーを展開させ、その面白さによって笑わせるもの。そして、ダンスに限りはしないが、何が面白いわけでもなく、ただそこで展開されている世界の素晴らしさによって自然と笑みがこぼれ出てくるようなもの。

この三点の中には、笑いの由来を言葉で説明できるものと、そうでないものとがあるが、たいていそれらは混在している。ただ、ダンスは最終的には言語化できない部分に大きく依存する表現だ。それがダンスを観ることの醍醐味であるが、ダンスが必ずしも多くのファンを獲得できない大きな障害であるともいえよう。

滑稽さ、あるいはそれを通り越して異形性で度肝を抜いた作品として記憶に残るのが、サイトウマコトとデカルコ・マリー(ちなみに、男性)による「外連の族」であろう。冒頭でもふれたように、サイトウは優れたテクニックをもったダンサーだが、彼がまず一人で至極よくできた「ふつうの」作品を、やや意地悪くいえばナルシスティックに踊っていると、背後から化け物のようなマリーが現れる。マリーは、しゃがみ込んだまま頭から全身を布で包むようにして顔だけ出して、白塗りを基調としたグロテスクな化粧をしている。彼の動きの一つ一つで観客は爆笑する。彼の出現にあわて、うろたえて観客の目から隠そうとするサイトウの動きもまた笑いを誘発する。

あえて解釈する必要もないだろうが、ここで現れた異形のマリーは、サイトウが自己の中で隠そうとする一つのペルソナであると考えてよいだろう。隠しておきたいもの、隠しておかなければならないものの出現が笑いを結果するというのは、ひじょうに古典的な笑いへの仕掛けであろうが、ここでは二人の対照の際立ちによって、ほとんど収拾不可能なほどの笑いの渦となる。

ダンスを観るということを一つのコミュニケーション成立の場と見る時、そこで自然に観る者の笑いが誘発されている時には、その場に既にある種の開放感がもたらされていると考えてよい。笑いというのは、笑ったという事実が次の笑いを誘発するような伝播力のある一つの循環であるから、開放感をもたらすために一つの笑いの核を、それが言葉で代替できるものであろうが、滑稽な身ぶりであろうが、ポンと提出しておく、という手法は、当然のように頻用される。

その手法のうち、言葉を使う方法をごく自然な形で取り入れて、最後には自然に観る者の笑みがこぼれてしまうようにうまく展開させるユニットとして、小夜里を中心に若い女性ダンサーだけで構成されたBISCOというグループを見てみよう。彼女たちの特徴は、その公演のシリーズ・タイトルが「読」と名付けられていることからもわかるように、一人または複数の読み手を置いて、設定やストーリーのはじまりをまず言葉によって提示するところにある。その時ダンサーは、手話のようにその言葉を忠実になぞる。もちろんこの肘から指先を中心とした動きも滑らかで美しく、じゅうぶん魅力的なのだが、BISCOの真骨頂は、朗読を離れた後にある。

「読6−恋する惑星」と題された公演(200111月、大阪・トリイホール)では、手話のような小さな動きと、改行マークのように時折挟み込まれる大きなストロークが朗読に合わせて美しく流れた後、ユニゾンで身体を一斉に弛緩させてバサッと音を立てんばかりに上体が翻るような動きによって、空間の空気を一転させるような力を持って動いたことがあった。彼女たちはジャズダンスを基調としているというが、顔の表情による表現力の強さと共に、このような一瞬にして空気を変えるような強い動きを見せられると、つい頬もゆるもうというものだ。

ここでぼくたちの笑みがこぼれるのは、言葉によって提出された恋の始まりというこの作品の出発から、恋が育まれて実る喜びがダンサーたちの動きによって開放的に再現され、まるで自分も同じく恋の喜びを味わっているような感情をもつからだ。これはほとんど生理的な快感、よろこびに近い。この時ステージと客席は、現在形か過去形か可能形かの恋を、同時かつ個別に体験するという、ひじょうに幸福な時空の共有を実現していた。

実はBISCOには、「小ネタ集」といって(この命名自体、はなはだ「関西」的なのだが)、「ドリフのズンドコ節」に合わせてコミカルに踊って爆笑を誘う、宴会芸のような作品もあるのだが、その先輩格に当たるのが、濱谷由美子・椙山雅子を中心メンバーとするCRUSTACEA。もちろん彼女たちも、BISCO同様にシリアスな作品を展開しているのだが、どこから探してきたのかと思うようなディープなB級歌謡曲をバックに、浴衣やスチュワーデスの制服、セクシーなランジェリーに身を包んでコケティッシュな動きで観客を幻惑・悩殺する。

CRUSTACEAを観る者が笑わせられるのは、彼女たちの意識的なコケットリィの強調と、一転してマッチョな振りという振幅の大きさで、いわばジェンダーの両極を強く攻撃的に押し出しているところに、爽快感をもつことができる。つまりこれは、何か一つの特徴を抽出し強調することによって現れるおかしさであって、これも笑いの一つの形態であるが、この場合の笑いは対象について深く考察させるための入り口となりうるところが興味深い。笑い終わった後で、澱のように胸の底に溜まっている感情が、しばらく残っている。

冒頭にも述べたように、笑いは一つの情緒的な反応であるから、その生成においては思考は伴っていないといえよう。しかし、笑うという反応を行為したという事実は、消えることがない。笑ったという事実を刻印するところから、思考が始まる、ことがある。

忘れていたわけではないのだが、笑いのありようとして重要なものに、規定の枠組みを外したりずらしたりすることで生じるものもある。ここで「規定の」というのは、何もダンスの常識ということだけではなく、世間の常識とか社会通念とかなんでもいいのだが、それが風刺や攻撃にならず、笑いであるためには、枠組みよりも下位にずらしたり外したりすることが重要で、その意味では優越の笑いにも一脈通じるところがあるとも言える。

北村成美の近年の作品、「i.d.(写真左) や「rep」(当初は「ダンス天国)から受けるおかしさは、彼女がまるで自分を放り投げてしまったかのように、めちゃくちゃをやっているようだというところから来る。「i.d.」では身体各部分を照明と衣裳でクローズアップする、「お尻のダンス」と呼ばれる冒頭の一種のハレンチさがまず印象に残るし、「rep」ではホワイトボードに魚の絵を描き、自分の唇に濃くリップを塗って、魚の口の部分に接吻してリップマークをつけるという、きわどいお下品なケレン味を出している。だんだん自暴自棄的な激しさが伝わってきて、観始めた時には気楽に笑っていたのが、徐々に笑いが凍りつく。

このような姿勢の打ち出し方は、ややもするとやり過ぎのように見えるのだが、そこからうまい具合に一つの世界観が見えてくることがある。北村のダンスが面白く、恐ろしいのは、踊っているうちにどんどんそうなってしまった、というような操縦不可能な自己というものが出現しているように思われるところだ。ちょうどサイトウの澄ましたダンスがマリーという異物を産んだと思われたように、ダンサーが踊り続けることによって育んでしまう闇のようなものが見えてくると言えばよいか。その初期形に対してぼくたちは笑うことができるが、最後には、悲しんだりおびえたりすることになる。

ダンスは、まず鍛えられた身体による速い回転、揃ったユニゾン、高いジャンプ……といった、よく動くことで完璧でカッコイイ作品を作ろうとする。しかしそのカッコよさが与える一種の窮屈さを回避するために、あえてカッコ悪い表現をしようとしているダンサーたちもいる。技術の錬磨だけをダンスという表現の高みであるとして追究することを止め、そこから外れることで初めて見える溝や、さらにその溝からの眺望を見せるという可能性も広がる。

たとえば山下残は、日記のような身辺雑記的な言葉を叫び、何だかアンバランスな身体をもてあますように踊りながらマラカスを振ったり、決して上手ではない歌を歌ったりして、笑われる。そこには鍛えられた美しい身体、身体表現としての禁欲性、誰にもできそうにない超人的な動きは、ない。今すぐにでも観客の「私」が舞台の人になれそうな気がする。

山下が重視するのは、作品が他者からの介入が不可能であるような硬質な表面をもつことではなく、作品がこの形となったまでのプロセスや時間を含めた質感、肌ざわりのようなものであるようだ。そのために彼は肉声を使い、ピアニカやトイピアノなどのおもちゃによる音楽を使って、舞台と客席を一つの場として親近感を作ろうとする。もちろん完成度は求めているようだが、作品が完成するまでの過程を客席と共有することで、情緒レベルでの一体感を求めている。

このように、観る者と観られる者が情緒を共有して対等であろうとする動きは、Monochrome Circusという不定型なユニットにおいても顕著に見られる。彼らも山下と同じく京都を拠点としているが(というより、山下も一時彼らと行動を共にしていたらしいが)、ダンスの手法としてはコンタクト・インプロヴィゼーションを基調としてレベルの高い作品を提出する一方、美術館の前庭や幼稚園、路上、一般家庭の一室でも公演を行うことからわかるように、とても小さな場や、普段ダンスを観ない人たちと一つの場を形成することを大切にしている。そこで彼らは、ピアニカやリコーダー、ギターを使って歌ったり、その場の雰囲気を読んでゲームを始めたりして、いつの間にか楽しい場を作っている。代表の坂本公成や森裕子の、ちょっと抜けたところのあるおしゃべりも親近感を作るために有効な素材の一つだ。

彼らの作る作品と場について改めて考えてみると、ちょっと幸福すぎる解釈かもしれないが、一人と一人がふれあいぶつかりあってダンスを作っていくことが、ひじょうに大切なことであるように思えてならない。彼らのコンタクト(接触、ふれあうこと)には、人と人とがふれあうことの喜びが満ちており、微笑みによるアイ・コンタクトからスピードのあるボディ・コンタクトへと、いともスムーズに移行していくのが、見ていて心地よい。人と人とがコンタクトすることへの祈りのような切実な思いがわき上がってくる。それは結果としてゆるやかな笑いという情緒的反応として現れる。ダンスがいまぼくに必要なのは、このようにゆるやかに笑いをもたらしてくれるからであって、その笑いを結果する祈りのような思いを、いつも抱いていたいと思うのだが。


Copyright:Shozo Jonen 2002, 上念省三:jonen-shozo@nifty.com


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