1997.6.1. 於・ハービス大阪

京都・永運院での公演「て・れりおあ」の翌日、ビールを飲みながら森さんと1時間ほどお話をした記録です。前日、公演を終えてから妙な盛り上がりのままレッスンへ行って、ほとんど寝ていないという森さんでしたが、その余韻もあってか、インタビューは順調に進んでいきました。

このインタビューの一部分を反映して、「JAMCi」1997年8月号のレビュー記事を作成しています。


J 今回、二つの公演を二ケ月弱の間にされましたね。最近のスケジュールを見てると、美香代さん、すごいペースでソロの公演やってるのね。

MM そうでしょうか…やる回数としたら同じぐらいかも知れないけど、自分の名前の公演という形をとりだしてからは、それまでの「何回やってる」という感覚がないから、自分で多い少ないがわからないけど。自分も思ったしまわりのスタッフも言ったことなんだけど、「今やらなきゃ」ってことなんですよ。「なんか、こんなんがしたいねん」っていうのが出るまで待つんじゃなくて、なんでも旬みたいなのがあるとしたら、いつが旬なのかはわからないけど、でももしかしたらここ何年かなのかも知れないね、って。もちろん、ずーっと踊り続けられるのかも知れないけど、それが肉体的にもできて…肉体っていうのは、進んでいくという言い方もあるし、衰えていくという言い方もある。もしかしたらある意味で一番いい時期、まだからだでどんと体当たりしても許してもらえるっていうか、自分でもね。あんなにしんどそうやのに、でもがんばってんねんな、ってなるとちょっと違うのかも知れないし、まだ私は立つだけで見せるっていうそんなレベルでもないし。

J だからとりあえず今は一生懸命動いて…。

MM 動くっていっても、五年前十年前の自分の動くっていう感覚とは全然変わってはきてるけれども。ある意味では、昔のほうが動いてたかなと思いつつ、でも、よく考えたら、芯から動いてなかったようにも思えて、やっと本当に動くっていうことを考えて、自分がどこまで動けるのかということを、やっぱり今挑戦していかなきゃいけないかなっていう、ちょっと追い詰めなきゃでもないけど。人によったらペースが速すぎるとかね、もっと熟せとか言う人もいるんだけど、でも私は作品を熟すと言うより、自分自身が作品じゃないかなと思うから、それはその時にやる作品の中で絞る部分が違うだけの話で、そんなに一番奥のテーマは変わってないような気がする。だから作品を熟すって言うよりは、その中である意味で日程があったりとか、公演があることで、見つかることがあるんですよ。それは踊りの即興っていう枠と一緒で、中でとりあえずやっていくうちに、自分で「あっ、これがしたかったのか」っていうのに当たるっていう、私の場合はわりと、最初から「今回の公演ではこういうことがやりたい」っていうのがあるわけじゃなくて、踊っていくうちに探していくっていうか、だんだん、からだで自然に動いてたことの意味が本番近くになってとか本番中にわかったりとかっていうのが多いから。

J 動くことで、自分が今直面してるものが見えるっていうか、そういう感じ? 最初に言葉なり課題なりがあって、それにからだを添わせていくわけじゃないんでしょ。

MM でも、ある言葉の課題みたいなのは出てくるんですよ。たとえばそれは自分だけの問題じゃなくて、演出家とか、そういう他人との関係とかね。

J ああ、そうか。

MM 空間も他人かも知れないけど、向き合うことで、間の問題が見えてくるんですよ。それが課題として、はじめは言葉で、どうやったらいいのよ、って、最近は動いて練習したら出てくるものじゃなくて、やっぱりどこかで、今までのことじゃないことをしないと、人から見たらそこが好きよって言われることでも、自分の中でそんなに、何かどこかでもうそれはええねん、そんなんちゃうねんっていう、でもそれはもしかしたら何年か前は目指してたことかも知れないんですよ。そう言われたいとか、どっかできっと思ってた自分があって、そこに来て、なんかそれだけじゃあ面白ないよなって自分の中で出てくる(笑)。だけどどこかで積み重ねてきた確かなものがありすぎて、逆に一人の公演しだしたときに、一番難しかったのは、それを壊していくこととか、頭では私はそこから脱皮したいというんだけど、人から言わせたら、ほんとの心底ではそんなに思ってないかも知れないとか、その硬さみたいなことがあるのを感じる。でもそれが少しずつ溶けていく、全部が溶けるわけじゃないけど、何度かリハとか公演をやることで、言い方はへんかも知れないけど、強くなれたりとか、ある意味でちょっといいかなって思えたり、人の前でこういう顔見せてもいいかなって。今までの美意識とちょっとずつずれが出てくるって言うか。だから途中でわからなくなるんですよ、何が今、私…。

J どこから始まったんやとか、何が目的やろうとか?

MM 何を見せたいんやろうとか。

J まあ、目的っていうのも変な話やけどね。去年の秋の「水のKimochi」の時に、変わろう、変わらなきゃとか言うてはったでしょ? 

MM あぁ、あぁ、そうですね。毎回思ってるんですけどね。

J あっそう、なるほど。最近の動きを見てると、ソロ始めて、去年のマイケル・シュマーカーさんとの公演がぼくはすごく面白かったわけ。

MM 私も面白かったです。

J その前って言ってもぼくはあんまり知らないんですけど、でもなんか、これはすごく変わったんじゃないかなって思ったんです。

MM ソロのときはね、空間とのデュエットであったり何かお客には見えないけど私には見えてるものと私は踊ってたりとか、たぶんしてるから、踊る相手によって自分がどんどん変えられるっていう楽しさは、ソロの中ではなかなか難しい。

J うん、なるほど。

MM 自分で壁を越えながら行く、ある意味でのしんどさがあるんだけど。でも、たとえばマイケルみたいな、マイケルと触るだけで、自分の中で思わぬことができてくるっていう、それはやっぱりあの人がいい人だから(笑)。

J どういうこと?

MM いい人っていうのは、からだが読める人だから。

J ふーん。

MM みんなそうじゃないですか。会話してても、どんどん自分の意見が沸いてくるとか。ソロで一番難しいのは、その気持ちを沸かして沸かして溢れさすっていうことね。

J 自分でね。

MM それがね、ああいう人とやるとね、勝手に溢れてくるの(笑)。だから、あの時は、安川晶子にしてもヤザキくんにしても、それぞれがそれぞれの空間を持ってる人やから、4人でシェアしてるとすごく安心して。というのは、私がやらなくても3人がやるわ、というんじゃなくて、自分がやっててそれを絶対受け止めてくれるっていう絶対的ななんかがこうあって。マイケルがすごくて、私らみんなで尊敬してますとか、そういうんでもなくて。なんか、すごく、ほんとにそうなんですよね、踊りって(笑)。

J そうそう。

MM 気の合う人とってゆうたらへんやけど、それが低いレベルの人もいると思いますよ、仲良くハイハイっていう。でも、そうじゃなくて、自分をすごい感じさせてくれたり、ポンと飛ばせてくれたりっていうのは、実際にじかに一緒に踊る相手の人によって、こんなに変わるかなって。

J なんか、三段ぐらい飛んだらおんなじ場所にいる、って、そんな感じがするね。

MM 一人で踊ってるより、そういう人たちが増えれば増えるほど、空間はいい意味でにぎやかになるし。しょうもない人が10人踊ってても、全然ね。

J うっとうしいとかね。

MM なんにも来ないとか、あるでしょ。あれは、もちろん苦労はしたけれども、それなりに、短い期間でとか、それから晶子とか私にしたらわりと即興みたいな部分をああいうところでやるっていう、マイケルと私もそうやし晶子ともそうだけども、即興、しかも自分の即興じゃなくて相手に触れる即興をしていったというのは、ちっちゃい冒険は冒険やったんですよね。だけどやってみようと、前向きに思えたからやれて、ヤザキくんはそんなに時間がなかったけど。うーん、あれは一番ね、マイケルと大阪で一緒にやれてうれしいなぁ、が発端やった、それだけだったんですよ。ものすごく深刻に、ええもんやらなとか思ったわけでもないし、楽しく私たちが空間をシェアしようねぇっていうそれだけだった。それでよかったんかな、と思ってる。

J 一つの場所を作る、空間を作るっていう意味で、よくできた、っていうのもおかしいけど。

MM でもあれもね、お庭と一緒で、現地に行って、どうする、ここでって。

J あっそう。

MM 場所は決めたものの、でもそこからマイケルもいろんなとこでやってる人やから、じゃあここを使おう、あそこを使おう、そしたら最終的にはあそこ全部をね。きっと初めてあそこをあんな隅まで使ったんやろうと思う。

J そうやろね。

MM それも別に、こんなんでええんちゃう?とかいうんじゃなくて、そこに案外こだわって、丁寧にやったんですよ。ただ、その個所個所それぞれに任せたよって、でもいい加減にじゃなくて、たとえば起きるしぐさ一つにしても、どうしてこっち側に入ってくるのかということを自分なりにはっきり把握しておかないと、自分の責任だから、その責任感をお互いいい緊張感として持ちながらっていうのが、あの4人だからできたかも知れないですね。ただ楽しくやっただけじゃなくて、すごい緊張感が私らの中でもあったし。でも、女性4人っていうんじゃなくて、異性が二人入ってっていうエネルギーがすごく楽しかった。

J 見てても、緊張感っていうか、男と女がいれば何か起きるんじゃないかっていうね。

MM そうなんですよ。起きなくても、もうそこで起きてるしね。そこからの想像がもっと豊かになるでしょ。一人でなんかやってても、ものすごい想像をめぐらせる人と、わからん人はどう見たらいいのって、わからないじゃないですか。だから、あるいみではわかりやすいのかも知れないし。

J そうそう、それはぶつかるとか、離れるとか、そういう緊張感もあるしね。

MM 向かい合うとかね。顔見合わせて笑ってたら、お客もやっぱり笑えるし。それはお客に向かって笑ってるわけじゃないけど。私思うんですよ、ダンサーがグーッてなってたら、お客もきっと、いいお客っていったらへんやけど、一緒に呼吸してくれるような。でも、一緒に呼吸してくれるような踊りっていうのがむずかしいって、最近思うんですよ。そんなふうに踊れるっていうのが、自分がほんとにそういう呼吸をするっていうのが。お客を信用して一緒に自分の呼吸と踊らせていけたらいいなあって思う瞬間があって。そういう瞬間を一緒に味わってもらえるっていうほうが、私も波に乗れるし、いいんやなあと思う。私がグーッて硬くなってたら、お客も硬くなって、間の空気がどうしていいのかわからないように。

J ぼくらが見てて一緒にウッとからだが動いたときに、実際に舞台の上の人のからだも動いてるっていう時があるわけですよ。それとか、息を呑んでて、フーッと一緒に吐くとかね。そういうときは面白いな。

MM そうなんですよね。でもそれは、ダンサーが本当に息を呑まなきゃいけない。

J 呑んでるんでしょう。

MM でもね、私、昔踊ってたとき思い出したら、そんなリアルに息を呑んだり、…さあここでは息を呑みましょうとか、そういう段取りはあったかも知れないけど、そんなものすごく息を吐いたり呑んだり、してなかったように思う。もっとさらっと。

J あっそう? 昨日なんか、息の吸い吐きね、すごく見ててスリリングでしたよ。

MM 昨日はね、もう、そうしないとあそこでは立てないんです。

J うん、そういう感じもあった。ああ、こんなにもスーハーしてる、って。

MM 息吸ってるフリだけしてもだめなんですよね。そんな、見せるために吸ってるんじゃないじゃない、みたいなね。自分が立つために。

J もう、パクパクしてるって感じ。

MM ほんとに、膨らみたいから、もうね、吸ってるのって、昨日はそうでした。

J それはもう、ほんとに物理的に地面が凸凹してるからっていうのが一番?

MM でもね、そんなん、吸ったからじゃあバランスいいかってゆったら、そんなことじゃなくて、地面の深さとか、空の遠さに対抗するためにはね、自分が今の身長とか今の手の長さ以上にならないと、やっぱり、勝つとかいうんじゃなくて、受け入れてもらえないっていうか、自分の中で、それが何か所かあって、そこまで届く時間ていうかね、ここだったらスッて届くんだけど、あっちまで、あっちの人に届かせたいとか、あっちのものをこっちにほしいとか思ったときに、時間的に。時間っていうのは結局、呼吸だけじゃないけど、呼吸の長さになったりとか、思ってるけど何回もこんなことやってても何かはずーっと来てないような、そのたぶん時間だけの話やったと思うんですよ。

J 天井がないとか、壁がないわけでしょ? そうしたら自分の周りに無限大に空間が広がってるわけじゃないですか。それに対して丸くとか空間をつくるってなると、吸うとかいうようなことをせないかんような感じがするんやろか。

MM 吸うっていうことを、私は口とか胸だけのことと考えてないから。皮膚でも吸うし。

J ああ、そうか。

MM 吐くっていっても、足の裏からも吐いてるから、もしかしたら音に出ないときもすっごい吐いて、下の下の下まで行って、だからこそもらって、それこそGive and Takeっていうのが実際外でやったらものすごいよくわかりました。与えないともらえない。で、もらったからこそ返せるんでね。それが最終的に、踊りは呼吸が一番キーポイントなんかなっていう気はします。

J 昨日ので、最初からすごく印象的だったのが、足の表情、踏み締めている足ね。足首から先。

MM (笑)もう、近いからよう見えたでしょ。

J そうそう、よう見えた。まあきれいやな、っていうか、ダイナミックっていうか、踏んでるって感じがよく見えてね、それがまずすごい新鮮やったね。普通の床では、そりゃ踏んでますよ、あたりまえやけど、でも、あんなにグーッていう感じがしないように、見えたんですよね。普通やったらちゃんと立ってられるのが、もっとグッと。それが見てて楽しいっていうか。

MM 自分でもね、足の表情がね、こうつかむみたいな感じだけでは立てないんですよ。つかむっていうのも、グッと開いてからつかむ。まず根を張ってからつかむ、みたいなね。奥へ差してから。逆に吐いたときは足が土をパーッとした感じとか。

J ペターって感じなんかな。

MM かかとから爪先のこの距離っていうのを、すごい感じました。丘? 土がこう盛り上がってるとしたら、足がこうなって、土とフィットするんだな、と。

J そうそう。さっきおっしゃったように、足の爪先までがぺたーっとなる世界ね。

MM 地面をふむっていうのは、ただ踏みつけるんじゃなくて、相手から、相手も押し返してる。その押し押されで一つ。土も生きてると思うから、ずーっとぺたーっとしてるわけじゃないですよ、きっと。私らがいじめてるわけじゃなくて、下からも押してきてるから、バランスが取れてるわけで、それを味わうみたいなこと。それを今回、時間かけてやってもいいんじゃないかって、やりながらね。もちろん速くでもできるんだろうけど、速いシーンもあったし、でもここだから見えることが、空間によって、それこそレンズがこう行かない分、自分たちの中ではフォーカスを絞ることが、別に足だけじゃなくて、顔の面にしても、足の裏と一緒で、あごと口と鼻と目とおでこがなんかふーっと行くまで、その表面じゃなくて中側がずーっと背骨に通じて頭までの時間がものすごくあったりとか、それからもっともっと向こうに行ってるから、ぐっと止まってるんじゃなくて、引っ張られて自分がとまってるのを、もし本当に味わえたら、お客も味わってくれるかもしれないなっていう、なんか半分自信がなかったけど、でもそれを今回はやってみましょう、と。

J 昨日のですごく印象的だったのは、ソロっていうか美香代さんが一人でやってるシーンで、すごくコラボレーションっていうか、対話っていうものが感じられたのがね、見てて面白かった、楽しかった。

MM 対話っていうのは? 私がいろんな空とか土とかとですか。

J うーん、言葉でいうとね。一人じゃない感じがすごくする。それはきっとそういう、土踏んでるなとか、梅の木とかつつじとかあったりとか、そういうのも楽しいですよね。普通のホールでやってるときには絶対見えてこないものだけど。相手はいないんだけれども、相手がいてやってるような感じ、で、その中にまた私たちもいるっていう感じを、お客さんとして見てたような気がして、一種の宴みたいな感じがしたし、そういう意味ですごく豊かな感じがした。

MM いやー、そんなん言うてもうたらうれしい(笑)。豊かになっていったらいいなぁって。豊かにっていうのは…。

J ある意味では、官能的っていうか、エロチックな感じもしたんですよ。土と触れている皮膚とかね。そういうものをすごくダイレクトに感じたの。そういうの、すごくエッチやなあとか思いながら。どうしょう、ドキドキするわぁって思てた。

MM うれしいわ(笑)。

J そういうのって、「水のKimochi」ではわりとそういう部分がなくて、スッと立ってたっていうか、もうちょっと上品な関係性とか。ここにいてもう一人そこにいるとか、そこにいて上のバルコニーにいて、そこになんか関係性が発生しますよっていう感じ、いわば幾何学的な関係性が強調されてたように思う。それが今回のはそういうのじゃなくて、もっと直接的な感じがしたのが面白かったし、これはまた新しいシーンを開いたんじゃないかなっていうふうに。昨日ちょっと舞台監督の難波麻春さんと喋ってて、昔はこんなんやってんけど、みたいなこと聞いて、へえそうなのって言ってたんやけど。

MM それが土臭い、泥臭い言われてね。だから、面白いもんやなと思うけど。昔は木とかを舞台に置いてね、松の木置いたこともあるし、柿をぶら下げたこともあるし、桐の木を逆さにしてもらって、股みたいにして、その間から出てきて踊ったりとか、そういうのをやってたんです。「木シリーズ」。

J いつごろ?

MM えーっとね、七、八年前から四、五年ぐらい前かな。アルティのブヨウ・フェスティバルでも踊ったんですけどね。たまたまそういう木を扱ってる、花師いうか、そういう人と一緒にお仕事やったきっかけもあるんやけど、ほんとにその頃は木が人間みたいに見えてて、どうしても自分がやってるダンスはすごいストーリーがあるわけでもないしね、よくわからなかったんですよ、自分で。ストーリーがあるわけでもないから、その頃スティーブ・ライヒの音楽とか、永遠に続くような音楽使ってたし、ムーヴメントもいつまででもできそう、どうやって終わろうじゃないけどね、すごい盛り上がりもない代わりに、なんかこうずーっと続いてるみたいな、そういう踊りやってたときがあって、なんか舞台にほしいと思って、たまたまそういうのに出会ったから使ってたんだけど。それは、ほんとにそうです、私、好きな人にたとえたりとかね、そういう作品が多かったんですよ。自分でも理由がわからなかったんだけど、ソロをやり始めてから、香奈芽ちゃん(振付の塙香奈芽)と作業しだして、けっきょくなんやかんや話し合いながら、こんなんやってみて、って言われる動きが、これ私やったことあるっていうのが出てきたんですよ。それが木と自分がやってたときの動きやって、でも同じ動きなんだけど、確かに自分の中では、あの時は何も考えずにやってた。フワーッ、みたいな。それが、あっこういうことやったんやっていうのが、少し見えてきたりとかね、感じたりして。えっ、何ですか?

J いやいや、それは何でしょうかって聞いても難しいやろな、思って。

MM でももしかしたら私は、からだのほうが踊りのこと知ってるような気がする。その頃私は、なんかピンとくる音楽があったらそれをかけてずーっとスタジオで踊って、ビデオに撮って自分でなんかこれよく出てくる動きやなと思って、そういうのをピックアップしながら自分でつなげていったんですよ。

J ああ、なるほど。

MM ということは、ムーヴメントに対してものすごい愛情あったんですよ。なんかわからないけど、自分が一生懸命からだが言おうとしているものをピックアップしてつなげると、なんか関連性があったんですよ、確かに。何を表わしてるのって言われたらわからないけど、でも今私のからだはこれを動きたかったわけ。そういう感じでやってたんで、それがもっと自分自身の性格とかを突っ込まれて動いたときに、少しわかってきたり。それはちょっと難しいかもしれないけど。

J 自分から何か出てくるものから出発するわけですよね。

MM 自分は何か人を抱擁するのが好きなのかもしれないとか。私の動きで相手をフォールドすること、囲むこととか、自分のからだを流れることとか、それが自然に好きだったんですよ。それで、私は人にこうやられるより、もしかしたら、私が受け止めてこうやるほうが好きなんだな、とかね(笑)。たとえばね。

J 男役みたいに。

MM だから、もっと甘えてって言われたときに、なんでそんな甘えられへんのって言われる(笑)。ああ、踊りって、生き方と一緒なのかもしれないなっていうか。だから、もう、受入態勢ばっちり。でも自分からよう行かない(笑)。そういうのがあるんですよ。だから最近、そこ責められて、ほんまは行きたいんちゃうの?みたいに。そうかもしれへん。行ったらええやん…そんな葛藤みたいなんがあるけど、でも両方持ってるんやと思うんですよ。自然に出るのが受容であったり、そのものと空気を敏感に感じ取って一緒になれることが私の中では性格的にすごくわかるんですよ。こういう空気やなと思ったらすっとなじめる。その空気に対して突っ込むという性格ではなかなかないんですよ。それがきっと、何年か前一人でやってたときのどうしても終われない、どうしたらいいのっていう動きだったんじゃないかと。

J 作ってしまってそこになじんでしまって、そこにいるということがいいのね。

MM そこで攻撃したいとか思わないから。その頃香奈芽ちゃんがずーっと見てて、なんで?って思ってたみたいなんです。そういういろんないきさつがあって、一回一緒にやってみないかっていう話になったんですけどね。きっと今まで生きてきて、一番占めてる性格としたら、そうなのかもしれない。でも、ちょっとは違うのあるでしょっていう部分を少し自分でも自覚しだしたっていうか。そういうのをもしかしたら踊りでやっちゃいけないと思ってたのかもしれないです。しょうもない自分の判断で、それはバレエ出身やからかもしれない、もしかしたら。

J 自分の中であえて捨ててきたものがあるんじゃないですか。

MM たぶんね。

J だからそこには戻っちゃいけない、そこに戻っちゃうと退くことになってしまうとかね、そんなんがあるのかしらん。

MM そこまで考えたことないけど、どっかであるのかもしれない。最近はあんまりそう思わなくなってきたんですよね。

J 七、八年前とかにやってたようなことと、今同じようなことやってるように思っても、それは全然違うもんでしょう。

MM うん。別に私は広く浅くしたいわけじゃなくて、やっぱり深くやりたい、深くやることが私の中では楽しいのかもしれないなって。最近は、新しい動きを見つけましょうではなくて、動きを、動きって言っても言葉じゃなくて、それを自分の中で味わって、それが言葉になれるような。言葉も、イメージの言葉はどんどん増えてくるけど、それと動きっていうものが一致するのは難しいと思うんですよ。いくらその言葉を唱えながら踊っても違うし。でもなんか一体になる方法はあるような気がして。それをやるにはやっぱり、たとえば一つの動きにしてももっともっと大事に見ていくことでわかってくるような気がする。それをやってることがほんまに自分で一番うれしいみたいな。ちっちゃな動き一つで自分が本当にあーって思えるようなことっていうのは、やっぱり楽しい。もっと小さな部分で楽しいと思えるようになってきたということ。

J 今回そういうものが戻ってきたり引き出せたりしたっていうのは、やっぱりあの一つの庭っていう場だったことが大きかったのかな。

MM …そうですね。

J その前の、豊崎東会館っていうのも、面白い場所じゃないですか。上下あるし、空間の雰囲気としてもずいぶん古いいい感じやなと思うんやけど。そういう空間の力っていうのは、使っていきたい?

MM そうみたいですね。それは別に、ああいうドアがあるとか花があるとかいうんじゃなくて、空間の持ってる威力とか力はものすごく感じるし、それこそ何もない空間でも高さとか壁の色とか、それによって自分自身、からだはすごく反応するから。私の場合、すごく反応するんですよ。たとえば無門館(現、劇研)みたいな小さいところでやったときなんか、すごく反応してしまって、すごく窮屈やったんですよそういう自分じゃなくて、からだの奥のほうから反応するみたいなね。だから大切なんですよ。どこでもいいわけじゃなくてね。そこでやるんだったらそこのダンスっていうのがきっとあるっていうかな。

J そういう意味では、いい意味で自分がないっていうかね。自分をまあ空っぽにしてまず受け入れてから作っていくっていうね、そんなような感じがあるんかな。その受け入れる装置として自分があって、そこが面白いんでしょう。

MM かもしれないですね。じゃあ自分って何?っていうところになっていって、そんなふうな違うところでやると違う動きになる自分が自分なのかもしれない。

J それが経験として一つ一つ蓄積されていくわけでしょう? いろんな人とやる、いろんな場所でやるっていうのが。

MM 何が起こっても続けられる人もおるかもしれへんけど、私は無理かもしれへん。やっぱり音が聞こえてきたら聞くかもしれへんし、その時に自分の考えが変わってもええやん、っていうタイプなんですよ。そうやっていろんな人の言葉であったり、いろんなことを聞いてきたから、今ずーっとやってるような気もするし。でもどっかできっと頑固なところあるんですよ。あるんだけど、踊りに関しては、案外、他のことにはないんやけど、貪欲なのかもしれない。そういうことやってみたら、もっと自分が、変な言い方やけど、いいダンサーになれるかもしれないとか。ちっちゃいときから、そう思いました。そうか、そういう経験がないからや、とかね。そういう経験したらもっといい踊りができるかもしれないっていうようなことはすごく考えてやってたような気がする。なんかとりあえずやってみたりとかね。

J まあ、下世話な言い方すると、それがないと何十年、でしょ、踊られへんよね。三十年ぐらい踊ってるわけ? そやね、すごいねぇ。

MM すごいでしょ(笑)。こわいでしょ。日舞入れたら三十年以上かもしれない。

J 芸能生活三十周年記念とか。

MM でしょー。そりゃちっちゃいときはね。でも、真剣に行ってましたよ。

J そういう日舞とかバレエとか、なんていうか、基礎っていうの、おかしな言い方やけど、そういうのって、どう、今。というのも、全然違う話やけど、こないだ「Guys娘版」っていうのがあって、隣で見ましたよね、最初ハイディ・ダーニングので日舞みたいなのあったやんか。すごくなんか差が出ちゃってかわいそうやなと思ったんやけど、まあそれはそれだけのことやけどね。別にだからどうってことはないし。

MM 変な感覚でしたよね。ハイディはそれできれい。でも、それはもうわかってるって。オハコや、みたいな。その横でレオタードで上に着物羽織ってる子はどうなんの、って。その子も友だちいうか、昔生徒やった子でやぱり自分で納得いかんとやってるんですよね。それはどれ見てもはまってる子と、どうも無理矢理やなあみたいなのとね、いっぱいあったから。

J 日舞とかやってたいうことで、引き出しが多くなってるっていう感じはするでしょ。

MM そうですね。ある意味では、器用貧乏かも(笑)。

J いやいや。特に女性ダンサーについては、こないだもヤザキさんと言ってたけど、美しさっていうのを求めると思うのよ。その美しさを見せるには、バレエとか日舞とかのベースっていうのがあったほうが絶対有利じゃないかと思う。

MM バレエっていうのにも、捉え方次第っていうか、私にもちょっとこだわりがあって、みんなのバレエは基礎っていう捉え方自体、嫌いなんですよ。そんなことないわ、って思って。もっと立つとか、呼吸とかが基礎やと、私は思ってるから、じゃあそれをちゃんと教えてるバレエの人がいるの?っていうことになると、バレエが基礎だって言われる言葉が、私もずっと思ってたんだけど、なんか違う、と思い出して。だって、バレエやってた頃、私、基礎なかったもん。私は、バレエやってたことを後悔してなくて、今やっとバレエを外側から見たときに、バレエってすごい、と思うんですよ。たとえばバー・レッスンではものすごくからだの構造をうまく利用して、ちゃんと重力から何から全部利用して組み立てられてる、ちゃんとパなんですよ。改めて違う方向からいろいろ勉強してから見たら、ああそうなんや、と。そうやって自分がもう一回反省して、今改めて1番で立つこととかしたときに、一緒なんだな、モダンもバレエも区別がなくなってきて、自分のからだを知ることであったりとか、重力をうまく使うことっていうのが、ただモダンでリリースをしてるだけじゃなくて、バレエでもちゃんとリリースがあって、時間はかかるけど、それぞれが自分のやってきたことをもう一回振り返って、何か研究していくことが、多分その人の基礎を作るような気がする。

J そうやね。

MM そしたら、何か与えられても、こうかなっていう、自分のからだの中の基礎っていうか組み立てが、ぱっと積み木を組み立て替えられると。私もモダンの先生に習ったのは、はじめはずーっとやってて、なんかこれが好きっていうだけでやってたのが、何年かかかって、もう一回、なんでこれが、どういうことやってんやろっていうのを、シンプルなやつにぶち当たって、たとえば教えていくとぶち当たってくるんですよ。

J 教えることでね。

MM 何が私わかってるんやろって。結局、私を教えてくれた人もわかってなかったっていうのを最近気づくんです。そんなこと、知らなかったんやわ、と。でも、それはそれぞれが、あ、なんや、この手を上げるというのは手を上げるという言葉じゃないんだってわかったときに、初めて自分の言葉になって、いのちが出るっていうか、そうなんじゃないかな。ちっちゃいときに、もっと爪先伸ばして、とか言われたけど、そんなんじゃなくて、考えたときに全然違って、言葉で言うと簡単なんやけど。

J 大野一雄さんがそこの桜の花がきれいだから視線がそこへ行く、手が伸びていくって言うけど、そんなような感じなのかな。

MM からだで見れるっていう、たぶんそういうことやと思うんですよ。

J ただ腕を伸ばすとかいうんじゃないんだぞ、と。

MM それがあればね、指先はきっとここより伸びてるんで。何か対象物があって、そこに行こうとしてる気持ちであったりとか。膝も伸ばすっていうのは、ただ膝を押してるだけなんですよ。そういう捉え方、これが私の言葉なだけであって、踊ってる人がそれぞれ自分の動きを自分の言葉で解釈できていくようになると、なんかポンと出たときに、翻訳する言葉が増えてくる、そういうことかなぁって思ったり。一個の動きでも、自分の中で多分翻訳する言葉がちょっとずつ増えてきたのかもしれないです。


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