新田博衞の小宇宙

新田博衞(にった ひろえ)京都大学名誉教授、京大文博

1929年京都生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。同大学院文学研究科修了。美学・芸術学専攻。京都大学教授、大阪芸術大学教授を歴任。
 著書に『詩学序説』(勁草書房)、『気ままにエステチックス』(勁草書房)、編書に『西洋美術史への視座』(勁草書房)、編訳書に『藝術哲学の根本問題』(晃洋書房)。
 主な論文に「身体・運動・エフォート―舞踊美学の試み」(京都大学美学美術史学研究会編『芸術的世界の論理』所収、創文社)、「書評:M.シーツ『舞踊の現象学』」(「美学」74号)、「コンピューターに創作ができるか?」(大阪芸術大学「藝術論集」第1号)、「“藝術”は死に“美学”が残った…」(「世界思想」26号)、「なぜ人は踊るのか?−身体・テクノロジー・テロ」(大阪芸術大学大学院「藝術文化研究」第8号、20043月。近日アップ予定)

2000年の「アルティ・ブヨウ・フェスティバル」でお目にかかったのを機に、新田氏の著作の中から舞踊に関するものを当ホームページに転載させていただくことをご了承いただき、ここに掲載させていただくものです。


舞踊の復権 藝術だけがそうなのか 身体と舞踊作品 書評:M.シーツ『舞踊の現象学』 身体・運動・エフォート―舞踊美学の試み なぜ人は踊るのか?


舞踊の復権

(「理想」553号 19796月。『気ままにエステチックス』所収)

 

 何をどう踊るかは舞踊家に任せておけばよい。見るのが哲学者の務めである。中途半端になら誰でも見る。徹底して見る眼に踊りはどう映るか?

 舞台には無言で激しく動く人間がいる。とんだり跳ねたりしか能のない相手、問いをかけても言葉を返さない相手。哲学者にとってこれほど始末の悪い存在はない。ひたすら客席で息をこらし眼を光らせているほかはないように思われる。

 手掛かりめいたものはある。たとえば題名――『瀕死の白鳥』とか『道成寺』とか『ラメンテーション』とか「運動の合唱習作」とか。言葉の禁断症状に苦しむ哲学者には魅力的な餌だろうが、踊りは物真似ではないし物語や観念の図解でないし軽業でない。

 身ぶりがそのまま言葉の役をしているのでないか? インドの舞踊家は指の動きで蛇を這わせ蓮華を咲かせシヴァを怒らせる。美しく精緻な指信号の体系が曼陀羅的世界を描き出す。とはいえ、踊りをたとえば国際船舶信号のようなものの身体版と考えることはできない。それにはあまりに溢れる部分が多すぎる。げんに身ぶりの指示的意味に敏感な拒絶反応を示す現代舞踊も立派に一人前の踊りとして成立しているのである。

 さて、言葉の衣を剥ぎとったあと舞台には何が残るか? 運動する身体――それだけではないか。その身体は客席にいる者のそれと完全に同形である。観客の身体の動きは見るに値しないのに、踊りはなぜ人びとの眼を惹きつけてやまないのか?

 鍛えぬかれた筋肉のしなやかな強さ――それなら曲藝があり体操がある。ポーズの美しさ――それなら絵や彫刻で表わすほうが便利だし長持ちする。音楽の心を伝える――モーツァルトを身ぶりでなぞって何になるか。感情や思想の表現――思想には言葉が要るし感情を示すには声や表情のほうが雄弁である。

 舞踊における動きはどうやら“動くこと”そのことを目的とした特異なものらしい。身体は世界の中で動いている。いや、身体が動くにつれてその分だけ世界が現われ出る、と言うべきであろう。身体は世界構成の隠れたゼロ点である。見えないゼロ点を動く肉体によってなんとか可視化しようとする工夫――これが踊りではないであろうか。それが人目を引くのはこの想像力の冒険のせいではないのか。

 どんな踊りも過酷な肉体訓練を強いる。なんのために? 形像力のあらゆる要求に即座に応じるために――。成功した踊りはわれわれが世に在ることの根のようなものを、一瞬、垣間見させてくれる。呪術や宗教儀式から離れても、この「最古の藝術」には相変わらず魔力が具わっている。

 徹底して見るのが哲学者の務めなら、その眼はまず舞踊に向かうべきであろう。ここには世界の隠れた原点がいわば灸り出されている。しかも踊りは――ぜひ付け加えておかなければならないが――見て楽しいものなのである。

 


藝術だけがそうなのか

(「理想」529号 19776月、『気ままにエステチックス』所収)

 

 藝術が今どんなことになっているのかは誰でも知っている。いちいちの現象は――じつに気の利いた面白いものが多いけれども――ここに挙げない。数が多すぎてキリがないからというより、どの現象も陽の目を見るとすぐ古びて崩れかかるからである。

 どうしてそんなことになるのか? 答は簡単であって、次々すがたを現わす試みがすべて自分のすぐ前の藝術、もしくは藝術観念のたんなる否定に終わっているからである。反藝術の動きがすぐさま反・反藝術の動きを呼びおこし、反・反藝術のおかげで反藝術はめでたく藝術となって美術館へおさまる……。

 こうした鬼ごっこの古典はやはりデュシャンの『泉』であろう。展覧会場へ便器を持ち込む行為は、在来の美術品を激しく糾弾するとみせて、じつは展覧会場の聖域性をぬかりなく利用している。自分用にとっておくために藝術そのものの全面否定はおこなわないわけである。

 どんな作品にもノーという製作者の裏側で、現代の観賞者がどんな作品でもイエスとしているのは、そうするとむしろ当たり前だということになる。不徹底な非寛容は腰の定まらない寛容に通じる。ヘーゲル美学によって理論化された歴史主義が、双方に共通の支えである。バロック音楽もハイドンもバルトークも同じように達者に弾きまくる演奏家と、わけの判らぬ“騒音”を作り出す作曲家とは別の人種ではない。ピカソの目まぐるしい変貌は、エジプトの彫刻、ゴシックの伽藍、宋の山水画、桂離宮の庭園、等々のあいだでキョロキョロしているわれわれ自身の影である。

 ピカソもデュシャンも――今ではなんとなく落ち着いて古色蒼然としているけれども――かつては勇ましい“前衛”であり新しい“実験”であった。そして現代藝術は今なお“実験”ばかり繰り返し、いつまで経っても“前衛”の域を出ない。この永すぎる準備期間は、しかし、藝術だけのものであろうか?

 前衛は戦いという行為の場面でだけ意味を持つ。弾丸はおろかボールさえ飛んでこない前衛、危険性皆無の前衛などナンセンスである。実験という言葉は、クロード・ベルナールには使う資格があるけれども、ゾラが自分の小説に冠するのは僭越である。経験による真偽の検証のないところに実験は無い。藝術が科学を気取るこの習慣はダ・ヴィンチに遡るが、以来、藝術上のあらゆる試みは“真理”の探求を自称しはじめた……。

藝術が今どんなことになっているかは誰でも知っている。しかし、それはひとり藝術だけの事態であろうか? 科学主義と、それから歴史主義はわれわれの骨の髄まで滲み込んでいるのではないか。藝術はむしろわれわれの時代の病いの深さをあらわすひとつの症状にすぎないであろう。

 

 


身体と舞踊作品

(「体育科教育」19746月、『気ままにエステチックス』所収)

 

藝術作品はわれわれの身体に似ている

 どこが似ているか? われわれが身体の一部、例えば右手を怪我したとする。われわれの日常動作はかなり不自由になるであろう。字は書けないし、箸は持てないし、顔はうまく洗えない。ふだん右手に任されていた広大な行動領域がわれわれの生活からスッポリぬけ落ちてしまう。それだけでない。ふつう右手に関係がないと思われている身体動作、立つこと、座ること、横になること、歩くこと、跳ぶこと、等々までがふしぎに思い通りにならないことに気付くであろう。つまり、右手という四肢の一部の損傷によって、右手の機能に対応する行動領域を中心に、身体全般にわたっての機能低下が現われるわけである。

これは次の事を意味している。すなわち、右手は身体という機械の部品ではない、ということである。右手はあらかじめ自分に割り当てられた機能を身に帯びて身体の中へ入ってゆくのではない。逆である。在るのはまず身体の全体性である。身体は一箇の全体として機能している。この全体的機能からさまざまな部分機能が分岐し、そのうちの若干の機能が右手に割振られる。いや、むしろ、なにかの類縁関係によって集まった若干の機能の物質的基盤として、右手と呼ばれる器官が分岐してくるのである。右手が物質的基盤として役立たなくなると、それに支えられていた若干の機能は身体の全体性へいったん吸収され、そこからあらためて右手以外の各器官へ振分けられることになる。部分の損傷を全体がカヴァーする、という状態がここに現われる。

機械にはこんな現象は見られない。そこでは部分の死はただちに全体の死である。ネジ一本、歯車一箇の損傷によって、時計の全機能はすぐさま停止してしまう。機械の全体性は部分を次々に足し算していった結果、それらの合計として生じてきたものである。それは、われわれの身体の全体性のように部分に先立って在り、自分の内から部分を分岐させているのではない。ここではまず部分が在り、ついで全体が成立する。したがって、機械の全体は部分をカヴァーする力を持たないのである。

 さて、藝術作品はどちらに似ているであろうか? 時計のような機械にか、それとも、われわれの身体にか。答は明らかであろう。藝術作品において部分の死はすぐさま全体の死にはつながらない。手足の椀げた彫刻、絵画の剥落した絵画は、それにもかかわらず、やはり彫刻であり絵画である。サッポオの詩は断片しか残っていないけれども、われわれはそれを詩として読むことができる。幾つかのミスタッチがあっても、ベートーヴェンのソナタはやはりベートーヴェンのソナタである。そして、未熟な踊り手による上演にも、われわれは立派に舞踊作品を認めることができるのではないか。

 

有機体としての藝術作品

 藝術作品は、或る意味において機械よりも強靭である。壊れた自動車は屑鉄にすぎないが、廃墟には廃墟の美しさがある。藝術作品は、しかし、或る意味においては機械よりもはるかに脆弱である。機械の部品が不良であったり、消耗したりしても、われわれはその部品を新しい部品と交換することで機械の機能を簡単に取りもどすことが出来る。ひとつの部品の悪は機械全体へ広がらない。ところが、藝術作品においては、部品のわずかな傷、わずかな狂いがただちに全体に影響する。絵画の価値を低下させるのは易しい。カンヴァスの片隅に全体と異なった色調の絵具を塗りつければよいのである。交響曲の価値を、ドラマの価値を低下させるのは易しい。ヴァイオリンの音程を外し、台詞をどこかでトチればよいのである。アラベスクの最中にわずかでもよろめけば、バレエ作品の価値はいちじるしく損なわれるであろう。

 これは次の事を意味している。すなわち、機械の部品と部品とは外面的にしか関係しあっていないが、藝術作品の部分と部分とは内面的に関係しあっている、ということである。部分と部分とが内面的につながっているからこそ、後者における部分の悪はそのまま全体へと広がるのである。なぜ、部分同士が内面的につながってくるのか? 全体が部分に先立っているからである。部分が全体より先に在ったならば、全体は部分と部分とを寄せあつめたものに外側から加えられた形式にすぎなくなるであろう。全体が形式であるとすれば部分は素材である。藝術作品においては、素材がまず在って、そこへ形式が外側から加わってくるのであろうか?

 そうではない。個々の音という素材がメロディという形式に先立ってあるのではなく、メロディが逆に個々の音へ分節してくるのである。個々の音は当のメロディにおいて初めて現在の形に結び付けられたのであって、そのメロディを離れればそれぞれが無意味な孤立した音になってしまう。ひとつのメロディの中の個々の音は、そのメロディによって初めて今の姿で存在せしめられているのである。藝術作品においては形式がむしろ素材を産む。そこでは、素材はその特定の形式のみの素材であり、逆に、形式はその特定の素材にとってのみ形式として働く、と言うほかはない。同じひとつの全体によって産み出されているのであるから、藝術作品の諸々の部分はそれぞれが内に当の全体の姿を宿している。同じひとつの姿を宿すことによって、それら諸々の部分はたがいに内側からつながり合うことになる。藝術作品において部分が動けばただちに全体が動くのはこのためなのである。

 

なぜ、われわれは藝術作品を作るのか?

 われわれの身体と藝術作品とは、どちらも、全体が部分に先立つとしか考えようのないような構造を持っている。この点で両者は同類である。それでは、なぜわれわれは藝術作品を作るのか? 身体という最も近しい物が在るのに、なぜわざわざそれと似たような物をもうひとつ拵え上げるのか。

 おそらくは、身体の全体性が直接には認識できないからである。われわれには直接知りえない身体における全体と部分との関係、これを認識するために、われわれは身体と類似の構造を持つ物を自分の手で作り出し、われわれにとって最も関心の深い自分の身体の在り方をじかに眼で確かめようとする。藝術制作において、われわれは自分の身体を作ってくれた者、造物主を気取る。そして、その結果出来上がった者を同じ発想から創作などと呼ぶのである。

 部分に先立って存在する全体は、素材を生産する形式としての意味を持っていた。われわれの身体についていえば、この種の形式は、これを“生命”とでも呼んでおくより仕方がないであろう。それは、われわれの頭髪、骨、筋肉、皮膚、血液、等々を現在のような状態で存在せしめることになったそもそもの原因である。しかし、この原因としての“生命”をわれわれは直接に認識しうるであろうか? もとより不可能である。もし、その種の原因を認識することが可能であったならば、われわれは自分の身体の物質性を一挙に通り抜けてその根源に達し、そこからの演繹によって、頭髪の、皮膚の、骨の、血液の、筋肉の最終的な定義をすでに手に入れていたであろう。ところが、身体に関するわれわれの認識はいまなお完結していない。完結しないどころか、身体の謎はおそらくいよいよ深まるばかりである。ということは、つまり、“生命”の直接的認識はわれわれの能力を超えている、ということである。“生命”は存在しているかもしれない。すくなくとも、われわれの身体を考えるさいにはそうしたものを想定せざるをえないかもしれない。しかし、われわれはそこへ一挙に到達することは断念し、むしろ視野をそうした原因性から切り離された身体各部に限定して、その物質的な組成や機能を一歩一歩探ってゆこうとする。部分を原因としての全体性から切り離して個々別々に見ようとすることは、しかし、すでに述べたように、対象をひとつの機械として見る、ということにほかならない。機械においては、部分は全体から産み出されるのでなく、全体に先立ち、それと無関係に存在しているからである。われわれの身体を一箇の機械と見なし、“生命”それ自体は不可知なものとして括弧に入れたうえで、そうした機械の仕組みを精確に規定してゆこうとする立場がこうして現われる。この立場に対応しているのが、生理学や解剖学をはじめとする身体に関する諸々の科学なのである。

 さて、藝術は、科学が不可知として断念した、部分の原因としての全体性の認識をあえて行なおうとする。どうやって? 部分としての素材が形式としての全体によって初めて産み出されるような物を拵えることによって。その結果として出来上った詩や、音楽や、彫刻や、絵画や、舞踏やは、われわれの身体に類似の構造を示しつつ、しかも、全体と部分、形式と素材との関係をわれわれに直接に知覚させてくれる。これは、われわれがたんなる機械的存在にとどまらないことのひとつの証拠を提供しているのではないか。藝術とはわれわれ自身を自覚するために、われわれにとって必要欠くべからざるひとつの営みなのである。

 

藝術体系における「舞踊」の位置

 藝術を生命的身体の自覚の行為と考えるとき、舞踊は或る特別な意味を帯びてくる。それは身体を自覚するのに当の身体そのものを用いているからである。この点からすれば、舞踊はさまざまな藝術ジャンルの中でも原点ともいうべき場所に位置するジャンル、したがって根源的なジャンルだ、ということになるであろう。しかし、こうした位置が、とくに身体との関係において、舞踊にひとつの難題を強いることになる。

 

日常的身体の否定としての舞踊作品

 藝術作品は何らかの物質的材料がなければ成立しない。絵画におけるカンヴァスや絵具。彫刻における木や青銅や大理石。音楽における音響。建築における石やガラスやコンクリート。文学における音声や紙や印刷インキ。そして、舞踊におけるわれわれの身体。しかし、藝術作品における物質的材料はたんなる物質ではない。それは何か別のものに転化している。

 「モナ・リザ」においてわれわれに与えられているのは、さしあたりその物質的材料、すなわち、板の上に張られた赤の、褐色の、緑の油性皮膜にしかすぎない。しかし、そうした物質的材料は、微笑を浮かべたひとりの婦人の上半身とその背後に広がる空ならびに風景をわれわれの眼に現象させていて、それ自体としては知覚されない仕掛けになっている。ここでは、緑は平野の緑であり、赤は唇の赤であり、滑らかな筆触は肌の滑らかさである。絵具の色調、輝き、肌理が、画面ではそのまま水になり、木になり、大気になり、布地になり、人間の皮膚になっている。つまり、絵画における物質的材料はそうしたさまざまの事象的意味を自分の内部に棲みつかせており、それらによって滲透されているわけである。

 藝術作品以外の物における色と意味との関係を考えれば、上述の事がもっとはっきりするであろう。例えば、交通信号における色と意味との関係はどうか。そこでは、赤は「止れ」という意味を、緑は「進め」という意味を自分の内部に棲みつかせてはいない。物質的材料によって現象せしめられた色と意味とは、この場合は、たんに習慣的規約によって結び付けられているにすぎず、したがって、物質的材料はあくまで物質的材料にとどまっている。これに対して、『モナ・リザ』のような藝術作品においては、絵具は事象的意味を自分に内在させることによって、たんに板に張られた油性皮膜以上のものに転化しているのである。

 意味を内在させている限りにおける物質的なものをいま「マチエール」と呼ぶとすると、藝術作品における材料はつねにたんなる物質からマチエールへと変換されていなければならない。先に形式が素材を産むと述べておいた事柄の最初の段階がここに見られるわけであって、マチエールとは、また、藝術作品の形式によって産み出された限りにおける物質的材料である、と定義してもよいであろう。ひとつの建築物に用いられている石やガラスやコンクリートは、いわばその建築物において初めて存在せしめられるようになった石やガラスやコンクリートなのであり、それらと、当の建築物の外部に存在している石、ガラス、およびコンクリートとは厳密に区別されねばならない。

舞踊作品におけるわれわれの身体についても同じ事が言える。舞踊のマチエールとしての身体・舞踊的身体と、舞踊の外側に存在している身体・日常的身体とは、見掛けはまったく同じでも、本質は異っている。日常的身体をそのまま延長していっても舞踊的身体にはならない。前者はいったん否定されることによって初めて後者になりうるのである。したがって、日常的身体の具えている諸々の性質、生理学的な健康さとか、形態の美しさとか、道具としての機能の良さとかは、舞踊と何の関係もない。健康を増進することも、容姿の美しさを保つことも、腕や足腰の機能を陶冶育成することも、すくなくとも舞踊の目標からは締め出されるべきである。同様に、いわゆる舞踊テクニックの習得も、それ自体としては舞踊の目的にはなりえない。それは日常的身体を否定して、マチエールとしての舞踊的身体への飛躍を容易にするための手段にしかすぎない。舞踊という藝術ジャンルの目指すところは唯一つ、われわれの身体の生命性を当の身体を用いて自覚すること以外には有りえないからである。


 

<書評>シーツ『舞踊の現象学』

 Maxine Sheets : The Phenomenology of Dance.
 The University of Wisconsin Press, 1965.158p.

 この書物の意図は『展望』と題する第一章に要領よく述べられている。

 舞踊を鑑賞しているとき、われわれはいったい何を見ているのか。舞踊を踊りつつあるとき、われわれはいったい何を創っているのか。舞踊がそこに在るときわれわれは直覚的にそのことを知っている。なにか生きて振動するものが舞台のうえに在り、われわれが全面的にその出来事の中に巻きこまれるとき、われわれもまたいきいきと振動する。われわれは舞踊の生きた体験をもつわけである。この生きた体験を通じて、われわれは個々の舞踊の意義に、さらには舞踊そのものの本質に到達する。舞踊とは何か。それはいかにして現象するか。その現象の内的構造はどうか。これらの問いを解明するにあたって、われわれは何事もあらかじめ仮定しない。展望をつねに新鮮に開放的に保ちつつ、未知の発見路をたどって前へ進む。記述的分析がわれわれの方法である。生きた体験が教えてくれるように、舞踊は創られた現象である。何が創られるのか。或る一回的な力動形式が創られる。いかなる舞踊のなかにも、その一回的な創造に先立って存在するものはなにも無い。舞踊の本性がなんであろうと、その内的構造がどうであろうと、それらは各々の舞踊についてその都度、新らしく創造されるのであり、各々の舞踊はすべて一回的で完結した現象、首尾一貫して切れ目なく流れる形式である。舞踊の本質を見つけるためには、くりかえしこの完結した現象そのものへ、創造された形式の分割不能な全体性へと戻らねばならない。

 この意図は読者にとって魅力的である。舞踊を彫刻的な連結とみなしたり、黙劇になぞらえたり、音楽の視覚化と考えたりする不正確な知的構成は、舞踊を端的に「動きつつ、しかも一箇の全体性であり続けるようなキネーシス的現象」として捉える正確な視点によって、最初から遮断されている。

 第二章からはじまる舞踊の現象学分析は、運動現象の体験に付きものの時間−空間構造の記述を最初の手がかりとしておこなわれる。意識−身体の脱自性を説くこの章は、しかし、サルトルとメルロオ・ポンティの現象学の手ぎわのよい要約からなっており、著者独自の方法による記述がなされているわけではない。両哲学者の著作になじんでいる読者には、目新らしいものはなにも見あたらないであろう。のみならず、サルトルもメルロオ・ポンティも、意識−身体の一般的構造に記述の重点を置いているのであって、とくに舞踊に関心があったわけではないのであるから、ここから直接に舞踊そのものについての見解を聞くわけにはゆかない。むしろ、著者の意図としては、いったん身体の運動現象一般という枠を確保しておいて、そのうえで舞踊という特殊な身体運動の記述にむかいたかったのであろう。そのかぎりでは、著者の意図はりっぱに達成されているように思われる。ただし、舞踊を他の日常的な運動現象、たとえば道路を横断することやペンを握ることからどう区別するかということになると、たんに一般的な運動記述では間にあわなくなってくる。この点についてはサルトルやメルロオ・ポンティを超えた著者独自の見解が要求されるのであろう。しかも、舞踊は身体の運動現象としてたんに特殊であるというにとどまらず、日常生活の諸運動とはその深さを異にするとも考えられるのであるから、それ相応に射程の大きい現象学的記述の方法をはじめから用意してかからねばならない。言いかえれば、舞踊をあつかうことによって現象学そのものに新らしい局面がひらけるのでなければ、「舞踊の現象学」として意味がない。この本の独創性はここでかなり減点されるのであるが、厳密に考えれば、舞踊を日常の運動現象から原理的に区別することは、そもそも現象学にとって無理な作業なのかもしれない。いずれにせよ、著者は、舞踊の運動現象としての特殊性を浮き彫りするにあたって、S.ランガーの舞踊論を現象学的に吟味するというやり方をとっている。第三章『“力のイリュージョン”の現象学的意義』がそれである。

 「actual force virtual force との時空様相の違いは次のことに根ざしている。すなわち、virtual force においては、空間と時間とを個々の点や個々の瞬間に分割する可能性がない、ということである。点や瞬間というようなactualな次元の価値は、イリュージョンの世界の内部には現象しようがない。」(p.48)

 舞踊における時間−空間は内面的に完全に有機化され、一個の全体性として、日常運動の実用的ないし感情的コンテキストから区別された「美的コンテキスト」(p.41)のなかに位置している、というわけである。第二章と第三章の接合はかなり巧みにおこなわれていて、S.ランガーの美学を受け容れるかぎりにおいては記述の進め方に格段の異議はない。ただ、現象学的分析の進路をそれと異質の象徴論的美学によってあらかじめ定めておいた、という点の議論になれば、問題はおのずから別である。これが、先に言ったように、現象学そのものの限界から止むをえずおこなわれたことなのかどうか。たとえ止むをえない措置だったとしても、こんなやり方では、結局は他人の舞踊観の枠内に閉じこめられているだけで、その水準を抜くことはできないのではないか。S.ランガーの舞踊論にあきたらず、現象学によって新らしい視野がひらかれることを期待していた読者は、この点に不満を感じるかもしれない。

 著者の独自性はむしろ第四章以下に発揮されているように思われる。

 第四章では、舞踊というゲシュタルトを構成している諸性質が記述される。(1)tensional (2)linear (3)areal (4)projectionalという四つの術語がこのために案出されている。(1)緊張的性質とは、筋肉の収縮伸長を通じて発揮される身体の努力の質をさす術語である。日常の運動では、筋肉の緊張度は計量可能な量としてあらわれるが、舞踊においては、これが或る全体性のなかに現象する質に転化する。たとえば、垂直な姿勢から両膝を曲げて胴をうしろに反らせ、両肩を床につけるといった運動において、踊り手の使っている力の量は莫大なものであるが、眼に映る力の質はこれと違っていてよい。身体が背後へ“沈みこむ”ように見え、運動がほとんど努力を要せずにおこなわれているように見えてよい。つまり、舞踊においては、筋肉の現実的な収縮度が問題になるのではなく、力がどういう仕方で発射されているかというダイナミクスが問題となるのである。(2)線的性質は、身体そのものが示す線デザインと、運動しつつある身体が空間に描く線パターンとに分けて記述される。いわゆる“眼線”(めせん)がここでは重要な役目を果たしている。踊り手がまっすぐ前進しつつあるとき、眼を床に落としていれば、身体の垂直な線デザインと前進する線パターンとに加えて、下向きの方向線がつくりだされるわけであり、眼が正面を向いているとすれば、前進運動の線パターンが強調されるわけである。(3)広がりの性質も、線的性質と同じく、身体そのものの形態をしめすデザインと、運動しつつある身体のつくりだす舞踊空間の形態をしめすパターンとに分けて記述される。舞台の広がりがこのさい重要な意味をおびてくる。舞踊は自己自身の空間を、あるときは舞台の広がりの内部で、あるときはそこから外へ溢れ出て創りだす。舞台空間はかならずしも舞踊の創造的空間と一致しない。(4)発射的性質にも三つほどの質の違いを分けることが可能である。力が唐突に発射される場合。ゆっくり押えて発射される場合。および、物を抛るように発射される場合。力をどういう仕方で発射するかは、舞踊の時空構造と密接な連関をもってくる。頭を唐突に横に向けるのとゆっくり横に向けるのとでは、あきらかに違った空間性、違った時間性がつくりだされる。これは直接に舞踊の構成、リズム、創造空間の性質に影響をおよぼす。第七、第八、及び第九章において、これらの諸点があらためて詳しく記述されることになる。

 第五章『抽象作用』と第六章『表現作用』とは、舞踊の意味内容の問題を取りあつかっている。S.ランガーの舞踊論を多少でも知っている読者には、この両章はあまり興味がないかもしれない。「舞踊の純粋形式は、純粋表現として、それ自体において悲しく、また喜ばしい。ということは、舞踊を見ているわれわれは悲しみも喜びも感じない、ということである。われわれは舞台の上の踊りを、それがわれわれの内に惹き起す諸感情の言葉で解釈し、それをその舞踊の意味として押しつけたりはしない。舞踊の生きた体験は言語的等価物とか、言語による記述とかに還元さるべきものではない。個々の舞踊に意味を与えるのは、その形式のダイナミクスである。力の顕現としての運動が自己自身を空間化し、時間化するその仕方が、稀薄、拡散、潜勢、遅速、垂直、振幅、等々となってあらわれる。舞踊を見るとき、われわれが注目しているのは形式であり、形式はその力動的な流れによって、感情を象徴的に表現している。ひとつの舞踊の特殊な力動的な流れが、その舞踊をそれ自体として“悲しく”また“喜ばしく”するのである。」(pp.82,83

 第七章『ダイナミック・ライン』は舞踊構成の問題をとりあげている。力の絶えざる顕現としての運動は一本のダイナミック・ラインをつくりだす。これは現実的な線ではなく、力の前方発射という意味における“線”である。それぞれの舞踊はそれぞれ独自のダイナミック・ラインをもっている。それは出発点から終点にいたる或る独自の性質的組織体である。それぞれの力の顕現のなかには、特殊な緊張的性質が特殊な性状で発射されている。舞踊における力の流れの基盤、つまり舞踊のダイナミック・ラインは、緊張と発射の両性質そのものにほかならない。力の発射のされ方によってその時間性が決定される。肱を突然曲げたり、全身をはげしく振り動かしたり、脚を伸ばしてじっと立っていたりするときの力の時間化がこれに当る。また、力の発射はその空間性をも決定する。肱を曲げること、全身を振ること、脚を伸ばすことは、それぞれ独自の仕方による力の空間化であり、それらは線および広がりの術語を使って記述される。運動のつくりだすダイナミック・ラインは、それを声に出して唱えることによってより明確化される。有声化(vocalize)されたダイナミック・ラインは、身体運動の二つの性質、緊張と発射とを含んでいる。シラブルの発音の強さが前者を、空気が吸いこまれ吐きだされる仕方が後者を示すからである。舞踊の時間性を映しだす有声のダイナミック・ラインは、創作しつつある舞踊家にとっては、運動の流れをより明確にとらえるための道具である。ひとつのダイナミック・ラインは多くの諸運動を可能性として孕んでいるが、或る特殊な舞踊構成のコンテキストの内部では、唯一つの理論的な運動の流れが存在するだけである。ところが、踊り手が形式の理論的一貫性を認知するのは、現に創造しつつあるダイナミック・ラインの統一的連続性を認知している限りにおいてなのであって、有声化ラインはこのための附随的な道具として役立つのである。有声化ラインはまた道具の他の二性質、線と広がりをも反映する。運動の時間性はその空間性を支配し、逆に後者はまた前者を支配するからである。例えば、腕を強く唐突に外へ転回させるとき、その強さと速さとがこの運動によってつくられた線と広がりのデザインを決定するし、逆に、腕の前膊と、上膊とをV字形にしておいてそれを自由に回転させることは不可能である。緊張と発射の両性質は身体の解剖学的限界を超えることはできない。

 ダイナミック・ラインの考察は第八章においても続行される。

 個々の運動はそれぞれ独自の必然的な時間の張りを含んでいる。この時間の張りによって、運動は自己を完成するとともに、次の運動を準備する。ダイナミック・ラインを展開させる、とは、それに先立つあらゆる運動のコンテキストと、それによって蓄積された意味内容とにしたがって運動を展開させる、ということである。したがって、あらゆる運動の終りは、終りであると共に準備である。運動するとは、現象学的に言えば、性質上の諸関係を変える、ということである。新らしい運動は、先行する力の諸性質の一部、もしくは全部を変える。しかも、あらゆる運動は終りであると共に準備なのであるから、変化は内面的な楔であり、変化によって運動と運動とが結びつけられる。舞踊は先行する性質的諸規定を絶えず変更しつづけるさまざまな運動から成る。変化が流れを力動的にし、各々の変化はそれぞれ独自の衝撃をダイナミック・ラインに与える。これがラインの内部に一種のアクセントを刻み込む。あらゆる運動の最初は、それぞれ力の新らしい顕現を区切る。そこには、たんに新らしい時間流が存在するのみならず、新らしい性質をもった時間流が存在するのである。このような力の流れとしてのダイナミック・ラインを、反省的に客観的構造として認知したものがリズムである。舞踊におけるリズムは、直接体験の事実というよりは、反省によって得られた知識である。われわれにとって興味があるのは、或る運動が何秒続くかということではなく、その持続がいかに他の持続から流れ出て他の持続へ流れ入るかということであり、ひとつの持続に幾つアクセントがあるかということではなく、強さの変化によって流れがいかに溌溂としたかということである。リズムは運動の属性であって、舞踊の属性ではない。舞踊のアクチュアルな材料である運動のみがリズム構造をもっている。リズムはダイナミック・ラインと等置されえない。一つには、リズムが反省的に認知された量的構造だからであり、もう一つは、リズムがいかにしても舞踊の創造的空間を反映しえないからである。もちろん、舞踊について、その運動持続の長短、ストレスの大小を分割すること、つまり、そのリズム構造を確定することは重要である。過去の舞踊を再生し、他人に舞踊を教えるといった実用的な事柄がそれを要求する。しかし、それは、たんに運動を記譜することであって、舞踊を記譜することではない。舞踊から運動を切り離してそれを分析することは、ダイナミック・ラインの創造もしくは再創造への準備にすぎず、たんなる運動の連続体が一箇の力動的な流れにならなければ、舞踊は存在するにいたらないのである。

 第九章『舞踊のイメージ空間』では、いままで比較的触れられることの少なかった線と広がりの二性質が詳しく記述されている。まず、身体運動に関係せしめられた場合の「イメージ」という術語の意味が問われ、舞踊のイメージ空間はただ身体、ないし運動における身体の心像にのみかかわるのであって、身体図式、つまり、それを通じてわれわれが自分の身体の運動的空間存在を把握するための図式、にかかわるのではないことが明らかにされる。ただし、この点については、舞踊空間を心像空間として捉えること自体、すでに異論があるかもしれない。

 次に、舞踊における力の空間化がイメージ的視覚運動形式として現象する仕方が、四つの種類に分けてそれぞれ具体的に記述される。(1)線デザインとして。つまり、身体のイメージ的な輪郭線として。(2)線パターン、つまり、身体の運動が描くイメージ上の線として。(3)広がりのデザイン、つまり、統一的ではあるがつねに変化する三次元的な身体の運動範囲として。(4)広がりのパターン、つまり身体の運動によって創造される空間形態として。ここで注意すべきは、広がりの性質に関係する(3)(4)とにいたって、われわれの記述能力はその限界に達する、ということである。線的なデザインやパターンについては、対角線とか曲線とか垂直線とかの線形式の術語を用いて記述しうるが、絶えず変化しつづける力動的な三次元形態を伝達しうる語彙をわれわれはもっていない。この場合には、例えば、“膨張”とか“収縮”とか、“外延”とか“内包的”とかいうような、力の振幅をあらわす術語をもちいて記述しておくよりほか仕方がない。

 最後に、空間の「肌理」(きめ。texture)の問題が採りあげられる。舞踊空間は力の発散によって創造されるわけであるが、そのさい、力の発射される仕方と力そのものの性質とによって、それぞれ種類の異なった空間がつくられる。力が激しく唐突に発射されれば、その力は拮抗する空間を切り裂いて進むものとして捉えられるし、優しくゆっくりした仕方で発射されるとすれば、それは従順でしなやかな空間の中を滑ってゆくものとして捉えられる。要するに、力の発射の仕方によって、第二次元性としての空間の肌理が眼にみえるようになるわけである。この空間の肌理が線や広がりの諸性質にアクセントをつけ、かつ、それらの記述に豊富な術語を供給する。

 第七、第八、および第九章に展開された舞踊の性質的諸構造の記述が、この本の中心をなしている。採りあげられた現象の多様さが著者の舞踊知識の豊富さを窺わせると共に、記述の克明さが内容に高い学問的密度を与えている。この部分がおそらく著者の最も得意とするところなのであろう。労を惜しまない読者なら、ここから舞踊美学の重要な諸問題をいくらでも引き出すことができるように思われる。

 結びの二章は『教育的含意』と題して、第十章では舞踊教育の問題が、第十一章では教育舞踊の問題が、それぞれ扱われている。

 「もし舞踊が、それ自体がひとつの手段であるところの教育の、そのまた手段として教えられるとすれば、舞踊がもちうるであろういかなる価値も、それが当然受けとるべき注意の中心から二重に距たることになる。もし舞踊が、目的としての教育の手段として教えられるとすれば、舞踊教育とは、舞踊に関する熟練とか事実とかを教える以外の何物でもなくなることになる。」(p.143

 「芸術としての舞踊が教育の外在的諸目的と合致しないことは明らかである。なぜなら、舞踊というものは、それ自体としては、個性の伸長だとか、自己実現だとか、創造的生活だとかのための手段ではないからである。舞踊は美的活動である。舞踊はそれ自体において目的であり、また、そうでなければならない。」(p.145

 芸術の他の諸ジャンルにくらべて、舞踊論の書架は格段に貧弱である。そこに並んでいるのは、バレエの教則本か舞踊家の宣伝パンフレット、児童のための身体育成法、それに文士の舞台印象記の類にすぎなかった。この書架へ、最も基礎的な考察を盛った本書を加え得たことは、舞踊に関心をもつ者の大きな喜びでなければならない。今後、舞踊について書こうとする者は、多少ともこの書物を念題におかなければならないであろう。著者の現象学者ならびに芸術学者としての成熟が、この上、さらに包括的な独創的舞踊論を産みだしてくれることを祈りたい。


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