大野一雄インタビュー(一部を演劇情報誌「JAMCi」1996年6月号に掲載)


1997年3月1日、大野さんから、このインタビュー原稿に加筆訂正の作業中である旨、ご連絡を頂きました。

引用等は、しばらくお控え下さい。


≪photo by Takushi Inada 稲田卓史。もちろん左が大野さん。右が上念。

大野 今朝ね、話す内容をだいたい書いてきたんですけどね……。

−− わぁ、これはすごい……どうさせていただきましょうかねぇ、私の方でもいくつか伺いたいことを考えては来てるんですが……。

大野 これを取捨選択して下さい(笑い)。

−− ちょっと先にこれを拝見してよろしいですか?

大野 はい。読みにくいけど、いいですか。

−− いえいえ。

  ……

大野 わかんないとこがあったら聞いて下さい。

−− はい。

大野 これはこちらの方に昨日した分ですね。

大谷(TORII HALL) そうです。以前、よそさんから資料としていただいていた分です。

大野 ああ、そうですか。

−− 恐れ入ります、これはゴウシキ(業識)ですか。

大野 ええと、……「人間は業に動かされている。」

−− 人間は自分で動いているようでも、実は業によって動かされているということですね。

大野 ええ、そうですね。これはちょっと、自分で書いててもわかんない(笑い)。

−− その業、人間が動かされている業というものが、この三つであるということですね。

大野 そうですね。

  (ここでホールの女性がお茶を出す)

大野 あっ、どうも、すんません。

   ちょっと、わかんないとこがあるね……自分で書いててもね、わからないんです(笑い)。

−− これはその、思い浮かばれることをざーっとお書きになったという感じですか?

大野 いや、それはねえ、私の映画を三本作った友だちが、横須賀でねえ、うーんと、中国のね、老子の研究をずうっとやってて、それで私もそこへ行こうと思って、まだ一回も行ったことないんですけどね。その人と昔から私の、もっと土方さんとかいろんなところで舞踏の稽古をしましたときにね、この人も来て稽古して、それからパリに行って、帰ってきてから映画を三本、「O氏の肖像」ってやつと「O氏の曼陀羅」と「O氏の死者の書」と、三本撮ったんですよ。それで最近はね、ほとんどどこにも出歩かない。出歩くのは私の公演の時に表に出歩くのと、それからもう一つは、この七、八人の人ですけども、老子の研究をずうっとやってるわけ。そのために横須賀の街に出ることがある。その二カ所だけ出るだけで、他は全部うちの中に閉じこもって自分で勉強しとる。そういう人で、深く私の踊りとはつながってるんですけどね。私はそれをこう見ながらね、見ながら自分の踊りについての足りないところはいったいどういうことなのか、ということに思いが馳せてですね、そしていいとか悪いとか、巧いとか下手とか、そういうことじゃないんだと、もっと人間ていうのは、自分の頭で考えると、次々次々考えが浮かんで、欲望……地位だとかそんなのにこだわる頭がこう回転するわけですよね。そしてしまいにはどうにもならなくなってしまうと。そういうような中でね、踊りもいったい、何のために我々がやってるのか。ただ欲望が赴くままにこうやっていいものかどうか、もっと人間として生きる根源的な問題があるんじゃないかというようなときに、たとえば宇宙意識から分け与えられた霊ですよ、「分霊」、神から分け与えられた分霊。たとえば、エデンの園とか、いろいろなところで、神から与えられたものの中で穏やかに安らいで、そして生活しておった、かつては。それがリンゴの実とかいろんなことで欲望が起きてさ、欲望が起きるとね、自分の考えっていうよりも、こういうものがだんだんだんだん生み出すと、次にまたそれによって次が生み出されて、だんだんだんだん限りなく欲望を起こす。そういうようなことがね、人間の生活の中で、全部の人がそうであるならばね、これはどういうことになるのか。たとえば戦争なんかするときにはね、お互い自分が正しいっていうこと、両方とも「正しい」「正しい」でしょ。そして戦争をするわけでしょ。それが小規模の場合には、自分の欲望が欲望をはらんで、こうしてこうして納得できないと、自分自身で悩みながら、悩むんだけれどもね、悩みながら人にも悩みを与えられてこうしながら、やってくような生活が、今の我々の生活の主だった行き方ではないだろうか。もちろん、そうでなくね、穏やかにしたいというんだけど、その時にね、どういうふうにしたらいいのかってことについてはね、宇宙なんてことはあんまり考えられないわけですよ。大き過ぎちゃって。私は何かね、母親の胎内っていうのは、それは宇宙の反映としてある。

−− 反映ですか。

大野 宇宙の反映として母親の胎内はある。母親は命を削って、子どもに分け与えるわけでしょ。命を削って食べ与えれば、確実に死が待ちかまえておるわけですよ。それにもかかわらず母親は、その死さえもね、喜びに変えるような事柄が、悲しみも全部喜びに変えるような事柄が、やはり宇宙を原点としてある。そしてそういう中で人間が生きていく。宇宙から与えられた分霊と言いますか、分け与えられた霊(たましい)として。というようなことの中でね、その、母さんが死さえも恐れないで、子どものために命を捧げるような思いで子どもを育てるわけですよ。

−− つまり、そこには先ほどおっしゃった欲望というものは存在しない。

大野 そうです。

−− 自分の生命さえも削って生命を分け与える、ということですね。

大野 そうですね。生命を育てる。神から与えられた分霊をね、自分自身の欲望のために使うのでなくして、それは宇宙意識の分霊ですね。宇宙意識。宇宙っていうものをよく考えるでしょ、こうして。たとえば桜の花がきれいに咲いてるって時にね、踊りの中でこうやるのにするっとそこへ行って「あぁ、きれいだな」ってこういうふうにするのと、もう一つはね、まずは霊が引き寄せられるわけですよ、こうして。そしていつの間にか気持ちがこういって、その中にずーっといつの間にか引き込まれてしまうわけでしょ。そういうようなことはね、たとえば桜の花をこうーやって見るのとね、母さんの胎内、お母さんなるものは桜の花を自分の愛情でもってずーっと包み込んでしまう。そういうようなことは頭の中で考えて「こうしてやればいいだろう」「ああしてやればいいだろう」っていう考え方から出発したものではなくて、神から与えられた宇宙の分霊として一つの生き方として持っている。

−− すると、からだを動かすということは、自分で動かすというようなことであるよりは、むしろ与えられて動くということでしょうか。

大野 神から与えられた分霊としてね。こう、懸命に生きてきて、たとえば自然っていうものはね、人間も住んでるしあらゆる生き物、無生物さえも大地さえも、全部神から与えられた自然ですよ。そういう自然の中でね、人間がこれから感受して生きていく。ということになった場合に、われわれはひざまずいて泥にまみれてこうーしながらね、こういうふうにしてやるぐらいの思いで分霊、神から与えられたものを大切に育てていかなくちゃならない。欲望のおもむくままにこうしたいああしたいって、しまいには戦争やるわけでしょ。私はね、ハンガリーのブダペストに行ったことがある。そこでそういうことをふっと思い浮かべたっていうか、頭の中で考えてばっかりでヨーロッパでは戦争戦争ですよ。これでいいものかどうか。こういう考え方の中で踊りっていうものができるかどうかということについてね、大脳智っていいますか、そういうものから生まれる踊りよりむしろ、お腹の中でね、いろんな血管とかそういうものがあるでしょ、たくさんいろんな種類ありますね。ちょっとここにも書いたんだけどね……宇宙意識は万物を生み出し育成している広大な大元である。無限の存在である。そこには限定された時間も空間もなく、自由無碍、何事もなさざるなしの世界である。人が真に自由に生きるとは、自分自身で限定しているその時空の中で拡大していくということなのか、それともそれを超越して宇宙意識、道、それは道のことでもあるし愛でもある。一体化するところにある。それが時空を限定している大脳智の働き、物事を分別し、執着する、それらを滅却して、宇宙意識の分霊たる……「腹脳」っていう言葉を使ったんですけどね。お腹の中の脳は全部無差別で平等で、無執着ですよ。神が与えたそのものがここでこうしておる。

−− 頭の脳とは違ってね。

大野 違って。この頭の脳も神から与えられた分霊だから、それとのコンビネーションが上手くいくといいんだけれども、頭の中で考えてこっちの方が全然無視された場合には、人間として果たして生きられるかどうか、しまいには戦争になってしまう。

−− そもそも分け与えられて生きているにもかかわらず、それを忘れてというか、切ってしまって、自分だけで……。

大野 自分の欲望、そうそう。そして執着だとかそういうものが始まるとね、執着が執着を生んで、欲望が欲望を生んで、だんだんだんだんこう行っちまうわけですよ。しまいに収拾がつかなくなってしまう。そういうことがありえますからね。

−− ここでおっしゃっている大脳智が、分別していくということについて、世界を切り分けていくとか、いわゆる理性ということなんでしょうか。

大野 欲望が欲望を生んで、つまり大脳というのは考えて考えて、そして人間の生命そのものをいかに大事にしなくちゃならないかということを離れていく。欲望が欲望を生んで、結局それは欲望とか執着とか、知恵だとかお金だとか、いろんなものにつながっていくわけですよ。

−− 理性的なものみたいなものが生んでいく、何か悪いことがあって、それに対して腹脳を置くということですか。

大野 理性ではなく、ひたすら欲望ですよ。それがまた人間の業みたいなものにね、どうしても考えなくても考えざるを得ないようなのが人間の業なんだろうと。

−− すると、先生は踊りの構成というか、組み立てみたいなものを作られると思うんですが、そういうときに一番思われるのは、やはり腹脳を読むっていうか、そういうことなんでしょうか。

大野 そうですねぇ、あんまり欲望とかそういうものではない、宇宙の神から人間の心の中にみんなこう花が美しければすーっと気持ちがこう行くと。「あー、きれいだなぁ」と思うよりもいつの間にか引き寄せられることが心の中にあって、いつの間にかこの手がふっと来ているわけですよ。手のようなもの、心の魂の手のようなものがこうーして、触れたいとかこうなるでしょ、そういうものがね、踊りの原点だろうと思うんですよ。

−− 先生の踊りの中で、すごく印象的なのは、眼がすごく見つめていって輝いていって……

大野 あっ。

−− それできゅーっと、そしてその後からこう身体が動いていく。

大野 そうですねぇ。それはやっぱり、眼っていうのは見たからわかったのか。何を見たのかっていうことになるときにね、見方がね、宇宙から与えられた分霊として目をぐーっと開いてさ、分霊とのふれあいのようなことをする眼は必要だと思うけれども、これはどうなのかこうなのかと考える、欲望のために用いるような眼って奴はねえ、あんまり上等じゃないんだ。眼でしょ、それから耳ね。

−− 耳、耳に手を当ててされますね。

大野 そりゃね、全部聞こえて、触れて、こうだからということで非常に重要なのか、むしろ見ないけれどもちゃんと見ている。

−− 調べるための眼とか耳ではなくて、受け取る、感じるというそういうことなんですね。

大野 そうですね。宇宙の側から与えられた大切な分霊、分け与えられたものに触れる眼、耳ですよ。ところが見るときは、みんなこうして、「これなら大丈夫だ」とか確信を持つためにやるんだ。そういうことじゃなくて、むしろ宇宙の、本当に極度に広くてさ、その中で自分がこう自由に、自由に生きたいと。そして自由なんてのはね、ふつうに眼に見てこういう時にはね、はたして自由があるかどうか。欲望の自由はあるかも知れないけど(笑い)。人をはねのけて自分だけどうにかなろうっていうような欲望って奴は、これは本物でなくて、滅亡する。行為をしないけれども行為をちゃんとしてるようなそういうようなことなんだよ。

−− 以前座談会か何かの中で、永田耕衣さんとのおつきあいの中で、耕衣さんから「感動の全質量を受ける」ということを与えられたとおっしゃってましたが、そういうようなことにも通じるのでしょうか。

大野 そうですね。あの感動っていうのは、宇宙のこの感動ですよ。宇宙の分霊として人間に与えられた、そして宇宙がある神がある、そういう中でね、神から大事に与えられたその感動だから。ある時に感動するのでなくして、常にあらゆることが感動の原点なんだ。だから、永田先生の感動の動機なんて書いたのを贈っていただいて、いつの間にか神戸に会いに行ったわけですよ。無意識に近い。すーっと先生に「ありがとう」って言って、してたってわけですよ(笑い)。

−− 今回永田先生は、ずいぶん震災で大変だったっていうか、その後言葉が天変地異に対してどうかっていうことで、お考えになったということでしたけれども。

大野 先生はね、今度こういうことに遭われたことによってかどうかわかんないですけれど、筆が止まるところなくね、今までよりはるかに書けるようになったって(笑い)。

−− そうだそうですね。

大野 そういう証左、後押しがあるんだと思いますがね。

−− ずいぶんお感じになったんでしょうね。

大野 ええ。私も明日ね、永田先生のところへお寄りして、と思ってるんですよ。

−− ああ、そうですか。

大野 ぜひともね、金子晋さんからも言われて、明日寄って帰ろうと思ってます。今日電話かけてね、明日。それでもう一つ問題があるのはね、カステラをね、長崎カステラを作っておられるお店が一軒どっかにあるんですよ。

大谷 心斎橋に。

大野 心斎橋ですか。そこにオルゴールがあって、そこに金子さんが連れて行ってくれて、一曲かけたんですよ。あぁいいなぁと思って、何となくからだが動くんですよね。これを全部かけてね、その前で全曲私は踊ってみたいなと、思ってる。そういうところがある。

−− そこで、ですか。

大野 そう、そこで(笑い)。あれをこっちの方に運んでここでっていういろんな問題がごちゃごちゃありましたよ。だけどなかなか大変だからね。古いもんですからね。今度も金子さんがそこに連れて行って下さるんじゃないかと思いますが。それと永田先生とね。

−− ああ、そうですか。欲望というお話が先ほどありまして、底のところで、母の胎内ですね、今回の公演の中で狂うということ、狂女の生誕の場に立ち会いたいというふうに書いておられる、その狂うというのはどういう状態なんでしょう。

大野 たとえばね、永田先生の言った狂気の機というものが、「狂機」という字を使っている。きざはしとか、そういう。その、感動っていうやつはね、ある時にすっと感動するものなのか、あるいは常に感動の中に生きているんじゃないかという根源がね、あるわけですよ。いいことも悪いことも全部、感動そのものの原点としてこうしてある。というようなことについて永田先生の書いたきざはしっていいますか……。

−− 機会の機っていう字ですね。

大野 ですから、呼吸することだって何することだってね、炭酸ガスと酸素の交換って、それが呼吸なのかっていうときにね、そんなので人間が生きてるわけないって、もっと根源的な問題があるんじゃないか。たとえば今でいうと染色体がある。自分のような箸にも棒にもかかんないような者だけども、海にこうしていられる。隠すことなく、こうーいうところから、しまいには泡になってしゅーっとずーっと引いていくでしょう。ああいうことから言うとね、人間だってね、感動そのものはどういうふうにしていったら受けるのかっていうときにね、人間が生きてる中で事細かく水の泡のようにね、細胞が6兆とか7兆とかっていう、それで毎日一日何回か変わると、そういうことについてはあんまりわれわれは気にしないね(笑い)。むしろそういうことがね、知らない内に自分がぼろぼろになりながらこうーしていきながらね、隠さずに、そして海の中にすーっと立ったときにね、自分で思いが、そういう中にずーっとたとえば海の泡のような中に,人間の心の中にある海の中の泡のようなそういう中にちゃんと組み込まれているということは、間違いないことですよね。そういうような中でね、宇宙の分霊としてこうなってるというような中で、われわれは生きてるかどうかって言ったときにね、神から与えられたもので、いつ誰がお母さんが男と女と接触して子どもが産まれたんだということだけで済まされるのかどうか。もっと根源的な問題がそこにあるだろう。呼吸して、これは重要な、だけど最終的にはもっと底があるかも知れないから、そういうような中で人間が生きておるという、ただ欲望だけで生きているのが生き甲斐があったとかいうことなのか、違う生き甲斐があるんじゃないだろうか、というときに、神から与えられた分霊として、それは神という言葉としても表せるけど、花が美しいからすーっとこういうふうに立ったときにね、自分の心の中に自体密声というようなことがね、えーっと、どっかに書いてたんだけど。

−− パンフレットでは宇宙密声という言葉を使っておられますけれども。

大野 そう、その密声。自分の気がつかない内に魂がすーっと引き寄せられる感動体って言いますか、宇宙そのものがね、やっぱり感動体でなくちゃあならない。神から与えられた分霊っていう代物はいったい、神がどんなものかということ。もしも神が実際現実にわれわれのそばに追って、神がおることによって、楽園でしょ、エデンの園ですよ。

−− すると、狂うということは……。

大野 それは、私は自分の子どもが産まれるときにね、2回立ち会ってるんですよ。産婆さんが来ないもんだから。

−− それはすごい。

大野 息子の時もこう引っぱり出してガバーッて、出なくて、引っぱるときも立ち会ってるし。そういう……何の話でしたかね。

−− 女の人が狂う瞬間とか。

大野 ああ、そうだ。そういう中でね、オギャーーッて生まれるでしょ。そこでは永田さんがいう限界がない一つの宇宙の世界の中のこういうものがあるわけですよ。そこでオギャーーッていう声を聞いたときにね、生まれるのがいやだからオギャーーッて言ったのか、生まれたからうれしくてオギャーーッて言ったのか、両方私はあるんじゃないかと思ってる。喜びも悲しみも何もかもがみんな含まれてる中でオギャーーッて言うからね、何となくその声を2回聞いたときに生きる重さをぐっと、こりゃ大変だと,生きる重さを感じたということが私は狂気だと思うんですよ。

−− はぁーっ,なるほど。

大野 生きる喜び。喜びとは何なのかと言ったときにね、考えられないような一つの世界があってさ、われわれ人間が生きるのだって、宇宙の分霊としてなんてこう考えてる人は誰もおらないわけ。ただ宇宙は高くてこういうものだって、それから神が与えられた、創造主が、誰かが作ったわけですよ。そしてわれわれの自然だって生きることだって、全部自然と神との関係で、それは愛によって結ばれておる。ということを、永田先生の言葉の中から,また老子の言葉の中にもありますよ。

−− そうすると、狂うというのは別に正常とか異常とかそういうことではなくて、感動とか宇宙そのものとかそういうものなんですね。

大野 そうです。感動そのものです。狂うっていうことですよ、感動そのものがね。ここからこうしたから感動するのかと言ったときに、そういう感動でなくしてね、全部が感動そのものなんだということになると、狂うと同じことでしょ。

−− そうですね、そうですね。そういう、世界を,宇宙を全部受けてしまうようなふるえがからだの動きになってきてるということですね。

大野 そうですね。だから、こうしてこうして……っていうような、一応こういうことはやんなくちゃならないということはあるけども、特に息子なんかついてるとね、こう、こう、何となく決めてしまうところがあるんですよ。だからさ、決めてやるもんじゃないというのが私の気持ちなんですけど、向こうは必死ですからね。必死の思いでやるわけだから、考えて、この次はこうしてこうしてって、で、あんまり決めちゃだめだ,踊れなくなってしまう、踊りが死んでしまうって。こういうふうに意見がね、そういうところでちょっと違うけれども、彼は彼なりの意見があるし、私は私なりの意見があるし。全然違ってるわけじゃない。過程においてかなり違いがあるわけでね。

−− 確かに先生の舞台を拝見していると、何か構成があってというよりは、一つの状態を高いままずうっと維持しておられて、

大野 そうですねえ。

−− そして去っていかれるという感じがして、私たちは残されてああっていう感じ、たまらないんですけど。

    ★

大野 こういうことがあったんですよ。これは私がニューヨークへ行ったときに、ロシアのムラ・デーンっていう,もう歳をとって、死んでしまいましたよ、いくつで死んだかわからないけれども、アルヘンチーナ、アントニオ・メルスの舞踏に接し、直接指導を受けたことがあると、ロシアから亡命した、直接の原因ってやつは、イサドラ・ダンカン,靴を脱いで踊んなくちゃなんない,解放されてっていう人に引きずられてね、そしてロシアからアメリカに亡命してきた。その当時は、ロシアではロシア革命とか、いろいろあったんだろうと思いますがね。そして私たちが1980年ヨーロッパ公演の帰途、ニューヨークに立ち寄ったときに、私たちのささやかな舞踏の集まりに来て下さいました。小さなところですよ。そして客席の真ん中に真っ白なドレスを着てさ、そして真っ白く塗って、真っ白い帽子をかぶって、そして真っ白い靴をはいて、真っ白い花を持って、こーっして掛けてる女性がいたんですよ。私はその女性を見たときにね、あーっ,アルヘンチーナの亡霊だ、と思った。亡霊のような気持ちがしたわけですよ。アルヘンチーナそのものでなくても、アルヘンチーナの思いがね、じゅうぶんにこもってた。それで、誰だかもしれない、私はアルヘンチーナだと錯覚しそうになりました。感動と共に、終了後、ご一緒にお話がしたいと願っておったら、いつとはなしに姿が消えてなくなってしまった。お話ししようと思って客席へ行ったらね、いなくなっちまったんですよ。それからその翌年、ニューヨーク公演の時に、彼女から誘いを受けてお宅を訪ねました。舞踏に対する限りない愛情にもかかわらず、達し得なかったその思い、しかしその思いが、ジャズダンスの発生から現在に至るまでの経緯を余すところなくこーんなに大きなテープで背の高さより高く積んであるんですよ。それはアフリカからずーっと奴隷としてきて、いつの間にか奴隷から解放されてそこでミーチャンハーチャンみたいな隣近所の人が集まってね、何となく楽しみながら生活しておるっていう、そこが舞踏の始まりですよ。床屋さんが来たり、いろんな人が来たりして、こうして踊ったっていうその歴史をね、克明に、全部この人が撮ってたんですよ。この人は舞踏家として達し得なかったけれども、ジャズダンスの歴史を開花させたのでした。踊りをやろうと思ってきたんだろうと思うんですよ。イサドラ・ダンカンを見て、アルヘンチーナに習ったっていうんですからね。そして彼女に与えられた神の分霊,宇宙意識の天の「機」。

−− 「機会」の機ですね。

大野 これは本当は中国の辞典にある「キ」ですよ。このキは日本でいう転機の機と同じですよ。日本の辞典を見たけどどうしてもない。老子を研究している人に聞いたら、これは転機の機と同じですよって。で、機っていうのは、ある意味で宇宙の分霊としての、創造主がおって、それを包んでいる宇宙のこういう広がりっていうのは、機だっていうんですよ。これは感動ですよ、感動。感動そのものなんだ。彼女に与えられた神の分霊、宇宙意識の天の機、神に喜びの中、感謝の中でお返ししたのでした。神から与えられた恩恵をね、全部記録して神への感謝として、お返しして死んでいったって言うんだよ。死んでいったんですよ。彼女に代わって、アルヘンチーナの亡霊とジャズとの重なりを踊ってみたい。ムラ・デーンの、彼女の思いをね、何とかして踊りの中でやってみたいというところで、初めて出会ったアルヘンチーナ。これは帽子をかぶってこう、やった。その次に、命が生んだ命。アルヘンチーナの亡霊。白いドレスを着て、こーして踊った。そして今度は、私がアルヘンチーナと、白いドレスを着たムラ・デーンっていう人の地獄の道行きですよ。または天国への。これをやりたいってところで苦心惨憺して、だからアルヘンチーナが来たけど帽子をそこに落として残して、そして私が白いドレスを着たのを二番目にやって、三番目にはね、その私が亡霊が、アルヘンチーナの服装を持って帽子を持ったりしてこうしてやるような、それは上手く行かなかったけれども、それを今日はガチッとやりたいと思ってるんですけどね(笑い)。そういうふうにして亡くなりましたからね。それが二番目でしょ。それから三番目にね、生と死の結婚。道行きですよ。死んだアルヘンチーナと、生きておったムラ・デーンとの。これをずーっとやっていきたい。そして最後に、それを具体的に踊りにすればどうなるかってことがあるけれども、それを踊りの中でずーっとやってきたわけですよ。アルヘンチーナやって、その次に白いドレスを着たアルヘンチーナの亡霊をやって、その次に三味線で死の道行き。それから今度、生まれてきたのは映画ですよ。映画をずーっとジャズを撮っていく。そのジャズのようなのを鏡かガラスの上でやっていけば、なかなか伝わらないけど、理解できなかったけれども、そういうような思いでもってね、あそこでジャズ発生のこうーいうところからさ、彼女が生み出した、人間を生むのと同じような、彼女は命を生み出した。ジャズの命を生み出したっていうところが、最後の所。最後にプレスリーの賛美歌を二曲やったんですけどね。昨日、ご覧になりました?

−− いえ、私はおととい。

大野 最初の時は「愛さずにはいられない」とかっていうような曲。最後の時がプレスリーの作った賛美歌ですよ。だから感動そのものだから、あんまり昨日はちょっと大きすぎちゃってね(笑い)。ダメだったんだよ。どうしてこんなに全部大きくするのか、ねえ。みんなだって耳ふさぎながら見てたよね(笑い)。そういう、プレスリー。

−− そうでしたか。

大野 私の若いときの、十いくつかの時にさ、プレスリーの曲を聴いたのが。いや、もっと歳をとってからかもわかんないね(笑い)。それから九十歳近くなってね、二、三年前に亡くなったって聞いて、亡くなるまで私はプレスリー、プレスリー。プレスリーをしょっちゅうずーっと聴いておったってことで、私が自分に捧げるつもりでね、プレスリーの曲を最後にさっと、全然違うけれどもやったわけですよ。喜んでくれるだろうと。それがアルヘンチーナの亡霊と言うところで、これがそうなったわけですよ。それからもう一つはね、はいつくばって泥にまみれ、こたえなければ、ずぼっずぼっと映画の中で、私の作った映画の中であるんですけれども、泥まみれになりながらね、ここまで泥に埋まりながらさ、農業の水田ですよ、その中に鏡を持ってずーっと入り込んできて、すると水で進めるでしょ、こうして歩いていくと、ずずーっとなる、それを天の方にこーして向けると、空がうつる、それから鳥がうつる、天がうつる,宇宙がうつる! そういうようなことの中でね、神から与えられた分霊に対して泥にまみれて応えなければならない,という気持ちがあるから、鏡なんですよ。そしてそこでジャズを入れてるんだね。

−− あそこ、ずいぶん激しい動きですね。

大野 そうそう(笑い)。ああいう動きは、だいたい単純な動きの方がいいんじゃないかということがあっても、こうしてこうして、なんてことはね、その時その時ですよ。やった後でみんな忘れちゃいますよ。そして後でやるときには新鮮で、やらないとダメだからね。覚えてやったっていうのは、全然ダメですよ。新鮮でないから。その時に生まれたものでなくちゃならない,という気持ちがありますからね。こういうものは、天とのつながり。そういう中で私はね、たとえば雷がね……雨がダーッと降って、雷が鳴る。そういう歩き方ってどういうふうにしたらいいのかってことをね、自分で考えるわけですよ。花火がゴーンッとあがったとか、どれ見ても同じでしょ。丹精凝らしてあっちこっちでパッパッとこうなっても、結局さらにそれがこうなって、パワワーッとなる。どれ見ても同じですよ。同じような感じでしょ。そういうどれ見ても同じことよりも、むしろ人生の中で失敗して、バラバラになって,というような中でね、踊りができないかと思わないか、しょっちゅう考えているかどうかっていうこと。だからあんまりまとまってきちっとこうしたから、これはいいなって、そんなのじゃダメだから、雷がいつの間にかこうして、椅子の上に雷がこうして歩いてきてるような時には、ほんとにバンバーンッとならすだけで雷の音になる。こういう動きとか、風の時はね、こっちからこう吹くと、それじゃ一方ですよ。だけどこうなるところだってあるわけですよ。場所があるしね。そういうふうにね、一方的にこういうものをね、パントマイムでこうやろうなんて、そんなことでなくね、もうそれは自分の私の心の中で「風、風」と格闘するようなつもりで、自由に奔放にやんなくちゃダメだ。というようなことがありますからね。

−− 昔から、土方さんと比べて、「即興の大野」って言われてたのは、そういうことなんですね。

大野 そうそう、そうですね。それから、桜の花の美しさ、ただひたすらに、っていうのは、原石鼎っていう人の文章で、小島信夫さんがこれを書いてくれた。うれしさに狐手を出す曇り花。大正9年。この狐の手を、自体密声、本当にうれしさにわれしらず手が出るようなことが、具体的にこうやって手を出すってことじゃないわけですよ。

−− われしらずってところがポイントなわけですね。

大野 そうですね。日本画で、絵の中でこういうことをやってる人もおるってことですね。心の奥まったところへ住まっておるのに、狐がある。これは全部の人にあると思ってるわけですよ。神にだってある。神は機という漢字で全部の宇宙を覆う。これが人間には分け与えられた分霊ですよ。この中に自体密声、密やかに感じる、自分でも気がつかないけれども我知らず行為雲のがある。そういうことがね、これは自然の中にだって神の中にだってあるんじゃないだろうか。というふうにその時に考えたわけですよ。そしたら神から与えられた神の分霊、魂、命ですから。そういうことは自体密声と深くつながりがある。そういうことなんですよ。

−− つまり密声というのは、自分の周囲に対して秘めた密やかなということではなく、自分自身でも気づいていないんですね。

大野 そうそう。そうなんですよ。

−− その自分にとっての密声というものが、宇宙にもあるということで、宇宙密声ということが出てくる。

大野 宇宙にもあるんじゃないかっていうことで。それが、もう、神のもので。自然だってね、神によって造られた自然だってやっぱりそういう密声がある。生命のないものだって、無生物の中にだってある。

−− 神にも自分に密やかな秘めたものがある、それを知らないというのは、普通の宗教の神に対する考え方とは違いますよね。

大野 そうですね。

  ★

大野 よく夜夢見ることあるんですよ。五十年か六十年前の夢を見る。露天掘りの夢なんですけど、昔このくらいの写真を私のおじがオーストラリアに行って鉱山の視察をしたときに、こういう写真を撮ってきた。その写真を見たのがね、五十年か六十年前のことですよ。それを夢見てね、黄銅鉱っていうか、緑青の吹くのがころころころーっと崩れて転がっていくわけですよ。何となく人の気配がするような感じだけれども、どこを見ても人はおらなかった。だけども命がころころーっと。それを五十年以上経って私の夢の中に登場してきたんですよ。それは神の造った自然と人間の、無生物だから命がないのかっていうことですね。無生物としての神の造った作品ですよ。自然ということです。

−− そこにもやはり分霊されているんじゃないかと。

大野 そうですね。そういうものは大事にしなくちゃいけない、大事にしないでもうけるために全部使ってしまうわけでしょ。

−− ああ、欲望でね。

大野 しまいに喧嘩、争い。イスラエルへ行ったときにね、山の中へずーっと登ったときにね、こんなところに生き物なんか住めないだろうと思ったんです。下の方へ行くと死海があるでしょ。塩っ辛くてね、眼にはいると眼が痛いくらい。そこで泳いだこともあるけどね。山の方へ行こうと思って四百メートル、もっとずーっと登って、地中海が隆起したところですよ、死海の周りってのは。こんなところに生き物は住めないだろうと思ったところが、ちょっとした窪地があるとね、そこに花が咲いてるんです。それがチューリップだとかアネモネだとかデイジーとかいろいろ日本でもよく見られるのの小型のやつですよ。小さいんだけれども確実にある。それが咲いてる。それから食べ物はね、隆起したんだから、ミミズだって泥食べて生きてるでしょ。生き物だって、泥たべていきられないわけじゃないでしょ。ただし水をどうするか。ずーっと下の岩塩がプールの役割を果たして、そこに水がたまるだろう。水がたまって昼間は照らされるから、水蒸気になってぐーっとあがってくるだろう。そこに獣が穴を掘って生きている。夜になって冷えてくると毛のところに水滴が溜まるだろう。三回か四回目かに山に登ったときに、なんか隅っこの方でチョロチョロっと動いたんですよ、生き物がいるんだなと思って、それから全山至る所にちょろちょろたくさん住んでおった。それに気がつかなかったんだね。そういうふうにプールの役割をして、岩塩がコンクリートみたいに、その上に水が溜まって、上から照らされるから水蒸気になって夜になると溜まるだろう、それを吸って生きてる。

−− それを知ってて彼らはそこを選んだわけじゃないですよね。

大野 自然に育てられたわけでしょう。あそこは何千年も前からしょっちゅう争いがあってね、苦心惨憺して生きておって、いつか元のところに帰るということがあった民族ですよね。世界中の民族が、出たりは行ったり、戦争の歴史ですよ。イスラエルだけが戦争の歴史ではなくしてね、世界中人類の五千年の歴史は戦争の歴史と同じですよ。そういう中でその獣は必死になって生きてきて、水も与えられず、食べ物も与えられず、その中で生きてきた。生きられないということはないわけですよ。そういうのが人類五千年の歴史なんだ。戦争ばかりで「これはわれわれの土地だ」なんて、誰の土地でもないでしょ、獣たちが生きてるでしょ。もっと獣たちがこれはわれわれの土地だと叫んでもらいたいぐらいです。

−− 戦争の歴史の中で、今でも先生が踊り続けていくということは、言ってみれば獣の立場の応援みたいなことでもあるのかも知れませんね。

大野 そうですね。生き物、自然、恩恵そのもの、それをこうして受け取ったんだから。これはわれわれの土地だなんてことはね。人類の歴心なんて戦争の歴史ですから、そこで何かできたとしたら、宇宙の中で神から与えられた分霊としてね、アダムとイヴが住んでおってそのうち知恵のみをこうしてかじって、そして追放されちゃう。それは神様の腕の中で、神様の感動を恩恵を受けながら、生きている。感動がないと。それは転機の機。これが老子あたりの言っている生き方なんです。一番中心になる考え方じゃないかと思ってます。


1996年3月20日、大阪・道頓堀TORII HALLにて 聞き手:上念省三


©Shozo Jonen, 1997 上念省三:gaf05117@nifty.ne.jp

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