銀幕遊学◎レプリカント

'88年、音楽家兼演出家の佐藤剛(現在、佐藤香聲と改名)により、演劇的コラボレーション集団として大阪で結成される。以来、アーティスティックな衣装とメイクで飾ったパフォーマーのムーヴメントと、弦楽ユニットのライブ演奏を中心とした、ビジュアルとサウンド基調のステージ作りで熱狂的な人気を集めている。東京国際演劇祭'92、北東京実験演劇祭、'93ロサンゼルス市ジャパン・フェスティバル、大阪現代芸術祭'95'96他、多くの演劇祭に招待され、活躍の場を広げている。

佐藤香聲 銀幕遊学◎レプリカント代表。イベント&CMプランナー、CFディレクター、コンポーザー。兵庫県姫路市出身。

 

19993月、佐藤香聲インタビューより

 銀幕遊学◎レプリカントを主宰する佐藤香聲。その名からも、「アスファルト・オペラ」と名づけられた一連の公演タイトルからも、硬質な美意識が立ちのぼってくる。そして実際に作品を観て、やはり強固な美意識と堅固なコンセプトによって完璧を求めた閉じた世界が展開されているように思うだろう。

 −「アスファルト・オペラ」というと、都会的なイメージを持ちますが。

佐藤 たとえば夏のアスファルトがグニャグニャになるみたいに、なんにでも対応できる。今後何が入るかわからへん、舞台でできることならなんでもドッキングさせたらいいと、コンクリートみたいに最初から形の決まったものよりええんちゃうんかなあと思って。

 −日常的な言葉ではない、造語が交わされることが多いですね。意味をとれない言葉が語られることによって、観る者には言葉の音の美しさを感じると同時に疎外感なり焦燥なりも生まれます。

佐藤 実際には、意味があります。たとえば「世界の果てまで連れてって」とか「約束」とか。それをいろんな方法で分解してるんです。最低限それだけ与えておいて、そこからどう広がるかは、それを発声するときとか踊るときに与えていくもんやと思います。

 −それはパフォーマーには与えられているかもしれませんが、われわれ観る者には与えられていない情報ですね。わからなくてもいいんでしょうか。

佐藤 わかるというか、どこへ行きよるかとか、どこかへ収束するのか、回りよるのかとか、っていうのがわかればいい。

 −何か表わしたいものとか、世界って、あるんですか。

佐藤 コンセプトというほどのものでもないですけど、土台はあります。一番表現したいのは、「何もない」ということなんです。からっぽ。

 格別の不幸を背負っているわけではない。さほど劇的な日々を送っているわけでもない。表現すべきものを持たない以上、ストーリーにこだわるのではなく、日常から発するイメージを組み合わせたほうが斬新なものができるのではないか……それが佐藤の「何もない」と語ることの内実だ。音楽、言葉、美術、美粧、身体の動き、映像、装置……あらゆる要素を取り入れるのも、「馬鹿でかいからっぽ」を造るという、佐藤が考える最も現代的なアプローチなのだ。

 −今回、七年間の三作品を再演しようということですが、何かきっかけがあったのですか。

佐藤 夏にアジア小劇場ネットワークという企画で、香港、台湾、東京、大阪と回るんですが、それに向けてレプリカントの言葉と身体という共通言語を確認しようということを目的としています。

 −これまでも何度か再演されていますが。

佐藤 作品を造るときには、なぜそう思いついたかわからないことが多いんです。再演して改めて「なんや、こんな筋道で考えとったんか」ということも多いです。「inter−」「−logue」「−phobia」の三部作の連続上演で、動きについての自分たちのメソッドを整理したので、これからは心情的な表情の要素を加えていっているところです。同じ動くのでも、追われているのか悲しいのか、というような状況を与えていくわけです。

そうした方向性から派生したという別ユニット、砂月−13は、「女中たち」「サロメ」と、文学作品を題材とした公演を行なってきている。印象としてはクール、フラットで、感情がなさそうに見えていた彼らの舞台に、ドラマを見出す、そんな再演になるのかもしれない。また、細かいズレや曖昧な部分をもっと増やしたい、とも言う。ミニマル・ミュージックを基本にして、そこで繰り広げられる音の手品のような面白さを舞台の上でも展開していけるのではないかと。次のステップが、いっそう楽しみになってくる。

(「劇の宇宙」掲載)


 銀幕◎遊学レプリカントの栃村ゆき子を中心としたユニット「砂月-13」が、ワイルドの「サロメ」を題材にした「三つのヴェール・ダンス」(19981129日、於・アムリッタ)は、栃村の動きのキレと冷たい表情、言葉の処理、サロメとヨカナーン(冨田大介)の対立の厳しさ、音楽の美しさなど、全てにわたって高い完成度で見る者を圧した。(PAN PRESS


1998531日 於・ジーベックホール(神戸、ポートアイランド)。椅子を軸としたパフォーマンス。今回は女性パフォーマーだけで、舞台上の二十数脚のパイプ椅子を折畳み、投げ出し、座り、その上に立ち、といういくつかの動きが、例によって反復する変拍子に乗って展開する。チラシのコピーを借りれば、「プログレッシブな反復音楽(ミニマル・ミュージック)とメカニカルな身体表現(パフォーマンス)が交錯する「音像空間劇」(アスファルト・オペラ)」ということになる。

 このユニットは、佐藤剛が「台本・楽曲・舞台効果」という形ですべてを統括しているようで、やはりチラシによると「音楽を視覚化するための演劇的コラボレーション集団」であると規定しているように、必ずしも身体表現を前面に押し出すユニットではないとしているが、やはり正直に言うと、ダンサー(ここではパフォーマーと呼ばれる)のダンスのレベルがまず問われるのではないだろうか。これはぼくがダンスを見続けているからというだけでなく、動きとして目に入ってくるのは人間の身体の動きだけで、あとは、美術も音楽も、その効果として背景に引いているように思えるのが普通だと思う。だからどうしても、パフォーマーたちがどのようなコンセプトでどのような動きをし、それが動きとしてどのようなレベルであるかを問われるのは、やむを得ないだろう。

 パイプ椅子を立てたり倒したり向きを変えたりというスピーディな一連の動きは、けっこうドライブな緊迫感を与えてくれるはずのものだが、むしろ感じたのは、身体の遠さということである。いくぶんかはその化粧や衣装のせいで、パフォーマーたちは人間ではないような相貌を帯びているからかもしれない。しかし、身体表現の芯になるのが、見たところ瀬川奈央子一人になっていることが、いかにも物足りない。昔のこのユニットには、もっとドライブ感があって、スリリングなステージを展開していたのにな、と少しさびしく思ってしまった。

 以前から使われていた手法ではあったと思うが、声と動きの扱いには、面白いところがあった。栃村ゆき子がターンしながら意味のない声を間欠的に出していくところで、掛け声といった威勢のいいものとは全く別種の、奇妙な外しを思わせて、かえっていいテンポを生んだ。続いて栃村は、あえて関節を直角に(または鋭角的に)つくることでロボットか操り人形を思わせるような違和を生んだが、このような違和をもっと徹底して繰り出していけば、さらに一貫したトーンで塗り込めることができたのではないだろうか。

 このような、人間ではないような感じ(まだるっこしい言い方だが、「非人間的」というと、ちょっとニュアンスが加わってしまう感じがするので)は、サイボーグとか新しい生物体というよりは、爬虫類とか動物に近い気がしてしまうのが奇妙だ。

 やや繰り返しになるが、このユニットについて、今最も物足りなく思うのは、パフォーマーのコマ不足だ。古い公演のチラシを見ると、イシダトウショウ、今はAOEの二人(鈴木恵女、久保亜紀子)、岸草一、有吉ら、踊れて個性的でスケールの大きなパフォーマーがどんどん巣立っていったことがわかる。ぼくが初めてこのユニットを見たのは、思えばその最後の時期に当たっていたということになるのかも知れない。公演ごとに、こんなはずじゃないよな、という思いがよぎってしまうのが残念だ。佐藤剛が生み出すコンセプトが強烈なだけに、パフォーマーにはそれを跳ね返すほどの個性がないと、ステージが平板なものになってしまうと思う。

 今回の公演のラストの、身体が倒れるのと同時に椅子を倒していくシーン、一種の凄惨ささえ湛えたその回転と転倒は、一つの王国の終わりを語っているようで、切なかった。


銀幕遊学◎レプリカントという美しい名前を持ったユニットの公演は圧倒的だった/何よりも音と光と動きが完全に同調して一瞬の内に眼前の世界を変える完璧さには何度も目が眩んだことを言っておかなければならない/書物のメタファ、意味ありげな言葉以前の音の羅列、重要なモチーフとなったパンドラの匣、それらが有機的に連関するオーガニックな舞台に、しばし酔い痴れることができた

銀幕遊学◎レプリカント(19951126日、天満橋・都住創センター)「−LOGUE〜架空庭園の円舞曲」(JAMCi '96.2


「夜通し起きてる月の狂気が…」
懐しい新しさ/そしてダンスの瞬間性

 銀幕遊学◎レプリカントの栃村ゆき子と村田英子による「夜通し起きてる月の狂気が、彼女の身体をかじってゆく。」と題されたステージワークは、20世紀美術史の分厚い本の粒子の荒い小さな写真のように、妙に懐しい新しさを感じさせた。<実験的><前衛的>という言葉は、レトロやアナクロと同義なように思えてしまうが、言わばそれを正面切って問うた公演だった。台本・構成・演出=シュー・フォンテーヌ、共同演出=佐藤香声。

 小学校の理科の時間に凹面鏡、凸面鏡というのを習ったが、その時に先生が使ったのがスプーンだった。スプーンの凹面に、凸面に、世界は大きく小さく、歪んで映った。この公演で彼女たちは、スプーンを月や電話や鏡や測量計に見立て、美しい言葉たちと織り合わせて世界を作っていった。稲垣足穂のような不思議さを漂わせながら、やがて主題ははかない愛の官能に移っていく。

 舞台下手奥に置かれた流砂の階段。突然引かれた舞台の紗幕に愛とその戸惑いをめぐる言葉が映し出される。その向こう側で一人が美しい背中を見せながら踊る。あるいは、二本のスプーンを合わせ、離し、また合わせて、支える掌を小指から順にゆっくりと開いていく。そのように強調される官能が、流砂の音に共調する。最後までスプーンの面に映った世界を見せられていたような気がして、しばらく地平線の歪みが気になった。

(7月27日、都住創センター)(「JAMCi199710月号掲載)