竹の内淳

後ろ姿のエロス

竹の内淳は「N/A」で、客席から懐中電灯を持って、黒いパンツにパーカー、ベストという現代の日常的な姿で現れたから、驚いた。彼の「じねん」と名づけられたパフォーマンスは、その場所の自然との交感から導き出されるうねりから動きが編み出されるものだったと思うが、ここでは意識的に無機的な装いをまとっているように見えた。ロボット振りのような動きがスピードと強さを増して、徐々に大きな動きとなり、時に彫像のように美しく静止する型を見せたかと思うと、急に後ろに跳ぶ、その滑落と昏倒の強さ。と一転してチューリップの「僕がつくった愛の唄」(「ラブリーエミリー、ラーラ、ラ、ララー」)が流れるのだが、動きは弛んだとはいえ、表情は硬いままだ。身体の大きさはもちろん、今回はシャープなカッコよさが見られた。おそらくこの場所を下見でもすれば、そのような踊りようしかありえないことが気づかれたはずで、そういう意味ではここでも彼はさすがに場所の気を敏感に内化していたといえるだろう。サッと上着を羽織って客席から退出する後ろ姿もクールで、彼の新しい一面が見えたようで、楽しかった。(ダンス・ショーケース(パフォーマンス・アート・メッセin大阪2001 731 グランキューブ大阪)


 そっけない体育館が試みの荒野に思えたり、お天気のいい草原に感じられたり、はたまた幾何学図形の中心のようにしか受け止められなかったりするのを目にして、あぁ、この竹の内淳という踊り手は、どんな空間でも自分の色に染め上げる、強いパワーを持っている人なのだな、と思った。それが27日、京都・東山青年の家で行なわれた別所誠洋とのパフォーマンスでのことだった。

 その竹の内が221日、神戸で「吟遊舞踏じねん」を舞った。会場は神戸アート・ビレッジ・センター1階のヒットパレットという食堂だったから、劇的空間ではないこと、甚だしい。そこに粗衣をまとった小柄な男が、遠くからの旅人のように姿を現わす。行く手に何かを見つけているらしい。導かれるように歩を進める。床を捉える足指が強い。目を閉じる。さっきまでは外界が見えていたのが、今は内界を見ようとしているのだろうか。次に目が開かれたときには、きっと違う世界が見えているのだろう、その時彼はぼくたちとは異なるところにいるのに悲しみを感じる。

 そして脚が開かれ、男は地に立つ樹になり、四肢は風を受ける枝になり、身体の軸が地球の運行そのもののようにグルグルと回り始める。キックの強い見た目にも快い旋回だが、当の本人にも旋回がやがて歓びになり、宗教的法悦に近づいていく様子がその表情から看て取れる。

 そこに俄(沖中格=サックスらの「無国籍即興音楽集団」)の音が入る。音とは、空気を震わせるものだが、竹の内には、その震えのすべてを受け止め、内化した上で出力する力があるように思う。たとえばこのようなことにも通じている……身体が曲がる、伸びるということでたわめられ、そして発せられる力があるはずだ。何かがいったん集まってくるのを受け止める身体、またはそのような場所である身体。

 竹の内は小動物になり、王になり、夜叉になり、女王になり、ピエロに……なることができる。よく動く眼球、厳かな張りをもった筋肉、ある種の芝居心によって、ぼくたちは彼のいくつもの現われを知っている。どのような形をとっていても、彼は音や光の源にスーッと引かれていく自然な動きをもっている。さっきまでぼくの目の前にいた彼が、何かに引かれてどこかへ行ってしまう。その後ろ姿は、遠ざかるということで強烈なエロスを残していく。「行かないで!」

 もう彼の姿は見えず、ぼくたちの遥か後方、柱の向こうでオーッ、オーッ、と吠え声をあげているのが聞こえた。会場に置かれたオブジェと戯れた後、徐々に彼は虚脱/収束していった。その時ぼくは、何かが元の状態に戻ろうとするときにどうしても吹き出してしまう、美しい痛みのようなものを感じた。

 それは、神戸というこの傷ついた地の痛みにシンクロしてあふれ出たものだったのかもしれないと思い至り、深く心に響いた。

PAN Press掲載)