「視聴覚通信」15号 1995.7.17発行


・その時・

 揺れが収まったと思われて、散乱したCDを掻き分けてようよう居間に足を踏み入れると、三本の本棚が折り重なり、わりと奮発して買ったライトが落ち、足をおろす場所を探すのも大変な状態だったが、白いソファーの上に神戸の詩人である季村敏夫の詩集『都市のさざなみ』(1991年、書肆山田)が、ポンと置かれたように表紙を見せていた。

 

  夢ではない
  夢から醒めたわけでもなかった
  私達はむすばれようと
  草の身をくねらせ
  虫の息に濡れながら
  夢とうつつのあいだを
  転がるように漂っていった     
(季村「浅い眠りの そこに」から)

 

 最初の突き上げに驚いて目を覚まし、ややあっての掻き混ぜられるような強烈な回転のさなかは、隣で寝ていた妻に覆い被さってただただ早く揺れが収まることを願っていただけだ。頭の中では「話が違うやろ、神戸ではこんなことはないはずやったやんか」とか「やれやれ」とか「トホホ」とかいった言葉がかけめぐらないでもなかったが、それもやがて「あかん、これ以上揺れたら(家が)潰れる!」という危機的な悲鳴に変わり、その途端に揺れは収まった。

 夢だとは思わなかったようだ。むしろその当座は、妙に淡々とそれなりに現実を受け入れていたように思う。ただし、それは本当の現実がよく把握できていなかったからだろう。窓から向かいの家がペッシャンコになっていることは見えたように思う。夜明け前だったから暗くて見えなかったはずだとも思うのだが、家々が崩れて土ぼこりが上がり、空気を白く染めていたせいではなかったか、確かに見えたと思っている。その途端、悲鳴に近い声を上げて妻を呼んでいた。

 

   夜明け。透明なガラスがゆれている。ゆれているのは、湾曲した表面に
 うつる樹木の影だが、その小さなコップ全体を包む、ふるえのようなもの
  に驚く。 
    (季村「ふたつの手紙」から)

 

・象徴を解読することの困難・

 一枚の絵について書こう。既に他の文章で触れたが、もう一度ここに写しておこう。……震災後初めて目にした「芸術」として意識に残っているのは、赤塚山高校の敬愛館という建物の入り口にかけられていた高校生の油絵だった。震災の翌日、自宅は幸い残ったとホッとしたのも束の間、御影浜のLPGタンクに亀裂が入り、ガス洩れ、爆発のおそれがあるというので避難勧告が出され、自宅から六甲の方へ歩いて一時間余りの避難先で見たものだ。在校生か卒業生が描いたものなのだろう。……着いたときに「絵があるな」と思った記憶はあるものの、それがどのようなものであるのか「鑑賞」しようという気にはならなかった。ただ何度かそこを通るうちにふと、この世の中には「芸術」というものが存在していたことを思い出し、絵をじっと見つめるという行為自体を思い出したのだ。(演劇情報誌「JAMCi」4月号掲載の拙文から)

 後日撮った写真を掲げておくが、深すぎるほどの青空、砂丘、蠅か虻のような虫、銀色に輝く「α」の文字、画面を持つ両手、など普段なら陳腐なサンボリスムとして一瞥しただけで通り過ぎた作品だったかもしれないが、あのような状況下に眼に入った一枚としては、意味を持ちすぎていた。現実の重みにほとんど思考や判断の停止状態にあったぼくにとって、世界の始まり(α)とか、世界の把持を意味する手とか、砂丘とか荒蕪の地とか、そのような描かれたものを読みとることはたいへん困難なことだった。現実が瓦礫と、砕片と化してしまった中で、世界を一つの象徴体系として読ませようとするこのような絵画は、まるで別世界のもののようであった。世界があまりにナマなかたちで露出している中で、ぼくは直接性をしか受け付けることができなくなっていたのかもしれない。象徴や記号を読みとり、一つの画面の中に統一された意味世界として解読し、ある評価を与えようという作業、これまで何気なく繰り返してきたそのような作業を、まるで初めてのことのように行なったのだ。あの場所でだったから、それはとても短い時間だったかもしれない。しかし、この作品の存在に気づき、絵を見るということを思い出したぼくは、懐かしさとも悔しさとも苛立ちともつかぬ複雑な思いで、キャンバスを焦がすほどの思いで見つめていたように思う。

 

・芸術という枠組み・

 そんな手探りは、多少性質を変えて今も続いている。画廊で作品に対するたび、芝居やダンスやパフォーマンスを見るたびに、「それがどうしたというのか?」という、いわば約束違反の問いかけから始めなければいけなくなってしまっているのだ。これまでの自分が美術とか芸術とかいった枠の存在を自明として、その中で個々の意義なり価値を評価しようとしていたことを知らされた。特に何年か前にこの「視聴覚通信」を始め、最近になって「じゃむち」や「現代詩手帖」に原稿を書くようになってから、何かを見る時に自分のテンションを殊更に高め、それをある枠組みの中の「作品」であるとまず措定し、ぼくがそれを「批評」しなければならないという意識に囚われていたのかもしれない。もちろん今でも、それが悪いことだとか非常識なことだとか、無意味なことだというふうにばかりは思わない。すべての事柄には枠組みというものがあって、それで成り立っているということはわかっているつもりだ。しかし、大げさに言えばすべての枠組みが壊れてしまったような街の人間として、枠組みを既存の自明のものとして、問わずに話を進めることにはどうしても抵抗がある。もう少し建設的に言えば、枠組みを一度確認してからでないとアプローチできないような状態にある。先に述べたような、避難所で見た作品について考えているということそのものが面白いと言える。画廊、美術館という、作品が作品であることを保証する枠の中で見たものではなかったのだから。また、無意味な比較だが、いま神戸のどこででも、フランク・ステラの最新作(ニューヨーク、Gagosian画廊、三−四月の個展の広告による)とそっくりな立体を見ることができる。美術(映画でも演劇でも小説でもだが)の多くが求めてきた廃墟や終焉のようなものがここに見えている。作家たちが警鐘として鳴らしてきた世の終わりが現前しているかのように見える今、世の終わりを声高に云々することに新奇性はない。壊れた街並みを見つめている方が、美術館や画廊に行くよりもずっとエキサイティングであるが、それは芸術という枠組みの中でのみ与えられる感動の、スケールの小ささについて考えさせてくれる。

 

  以前と以後
  うまれる前と生き終えたあとの
  それぞれに違う闇のことをかんがえてみたが
  まだ半分以上眠りのほうについている頭では
  深く考えることはできなかった     
(季村「小さなスケッチ」から)

 

 その日の夕方には避難勧告が解除された。後日、ガス洩れはまだ続いており、爆発の危険が去ったための解除ではなかったことを知るのだが。翌朝、帰宅。電気は22日まで止まっていたので、しばらくは夜明けと共に起き、夕暮れには布団にはいるという生活を送ることになる。テレビもつかないので、世の中の状況や地震の実態は、まだ掴めていなかったと言える。23日、上司に車で連れて行ってもらって、やっと出勤。妻も同道させてもらい、温かい食事をとったり、勤務先(三木市内の短大)の施設で風呂に入ったり、何もなかったような平穏な時空にやや違和感を持ちながら、その当たり前さに安らぐ。職場の図書館では、書架の本が三分の一ほど落ち、パーティションのガラスが十枚割れ、天井のボードが剥落、落下するなどの被害があったと電話で聞いていたが、この日の朝、雨漏りで惨憺たる状況になっているのに茫然。雨にはしばらく悩まされることになる。

 

・記 録・

 このころぼくは、このように展覧会や芝居を見て何かコメントをつけるという、いわゆる批評活動を続けるのは当分中止せざるを得ないと、諦めていた。まずこの「通信」以外の活動で言えば、前述の「じゃむち」の編集部に、今回は何とか震災がらみで何か書けるかもしれないが、神戸の美術館や画廊、劇場は半ば壊滅状態だし、大阪へも神戸へも交通機関が寸断され、当分ほとんど何も見られないだろうから、ダンスやパフォーマンスのレビュー記事も書けないだろうと、連絡していた。昨春から連載を始めていた「現代詩手帖」については、12月号、1月号の不掲載について編集部から連絡がなかったことや、震災後も電話一本はがき一枚ないことから、今後の仕事はないものと諦めていた。まあぼくには自分のメディアがあるのだから、しばらくは無理にしても、それこそ「復興」できる日が来るだろう、それにしても外部の媒体にせっかく取っかかりができたのにと、時に、深く残念に思ったりしていた。

 以前から2月5日の宝塚歌劇星組名古屋公演のチケットを取っていたので、物ごとを予定通りに進めるのも大事なことだとか、休息も必要だとか思い、四日から名古屋へ。まず名古屋市美術館で「赤瀬川原平の冒険/脳内リゾート開発大作戦」を見る。ネオ・ダダ、ハイレッド・センター、千円札裁判事件、櫻画報、トマソン路上観察学、ステレオ写真と、彼の数奇な芸術的半生(?)を回顧する大きな展観だった。

 さて、赤瀬川原平の展観について、何か総合的なことをいうのは難しい。一つだけこの展覧会自体の印象を述べておこう。ここに展示されていたのは、多くが行為の記録写真である。読売アンデパンダンという展覧会自体一つの事件として記録されるべき存在であるし、山手線事件、敗戦記念晩餐会、ミキサー計画、シェルター計画、大パノラマ展、ドロッピング・イベント、超掃除的イベント、すべて記録写真による展示でありながら、それを見るぼくたちにその行為の前衛性がかなりシャープに伝わってきたことは、大きな驚きだった。

 そのシャープさは、たとえば「具体」の行為の記録と比べてみた時によくわかるような気がする。ぼくは「具体」に地域的同一性以上に強い親近感を持ち、たいへん高く評価しているつもりなのだが、1960年という時点での、「具体」の「インターナショナル・スカイ・フェスティバル」と、第3回までのネオ・ダダ展とを比べるとき、前者が何だか牧歌的・微温的なダルな感じがするのに対し、後者は都市に対する攻撃性、自己を晒す衝撃度が強く感じられ、現在性において勝っているように思われる。もちろん、記録者の問題もあるだろう。また、再現可能度が高いからといって、それがすぐれた行為だったかどうかはわからない。「具体」と「ネオ・ダダ」を比べて、メンバーの独立性の高低を言い、それをこの理由として済ませられるのかどうかも定かではない。しかし、いくつかの「具体」展を見て、その行為や絵画制作の現場をビデオや再現で見たときの臨場感が、あくまで歴史的行為の再現でしかないようだったのに対し、「ネオ・ダダ」のそれは、現在そのもののように思えた。最も強くその現在性が感じられたのは、一九六四年に行われたドロッピング・イベントだった。池の坊会館の屋上からハイレッド・センターの面々が傘や背広やシーツやトランクをただ落とすというその行為の写真から、ぼくは「ドサッ」「ドスッ」という音を聴き、何ともいいようのない開放感を与えられていた。

 

・記 憶・

 ぼくがこれらのことを考えながら痛切に感じ大切にしておこうと思ったのは、行為は減衰することなく記録することができるのだ、ということだった。ぼくたちの現在はどうなってしまうのだろう、というのがかなり以前からぼくには切迫した問いだった。現在の切片を忘却することなく、ちゃんと記憶しておいてくれる何ものかを求める気持ちが、ぼくにはたいそう強かった。裏返せば、ぼく自身はそれら細部や切片をどうしようもなく忘却してしまう存在であることを諦めと共に認識していたということになる。ぼくたちの日常はぼくたち自身によって忘れられてゆく。ぼくは誰かのことを、何かのことを忘れてゆく。ぼくも誰かによって忘れられる。しかし、どこか、誰か、何かがぼくたちの営みのすべてを完璧に覚えておいてくれはしないものだろうか? それをぼくはいつからか「記憶の銀行」などと自分だけで呼んで、ちょうど神のようなものだと見なしていた。今のぼくが痛切に望むのは、現在のちょっと前(1月16日)をすべて覚えていてくれる何ものかがいないかということだ。

 赤瀬川の三十数年前からの行為の数々が、このように一堂に展観され、それらが少なくともぼくを圧倒する程に新鮮で現在的な迫力を持って再現されていたことで、ぼくはこの今現在が将来において再現可能であることを教えられた。これは大きな救済だった。行為(狭義のパフォーマンスでなく)が保存でき、再現でき、ある未来の時点で現在的であり得るということは、ぼくたちの現在が永遠性や普遍性を持ちうるということではないか。そんな祈りに近い希望を与えられた展観だった。

 このようなことは、赤瀬川の芸術行為の本質とは関係のない、「被災地」の人間の感傷に過ぎないのかもしれない。これを書いているいま5月初旬になるが、百日余を経ていまだにぼくは何を見ても震災のことを離れることができないでいる。崩れ壊れた家はずいぶん解体や撤去が進み、更地になったところが多いとはいえ、まだ崩れた姿をあの日のままに晒している家も多い。うちのそばの小学校の同期生の全壊した家は、かつては門だったところにあふれんばかりの花やお菓子が供えられ、運び出されたピアノが雨ざらしになり、毎年見事な花を咲かせていた藤棚は崩れたのに、藤の蔓は旺盛に茂っている。一方で職場に行けばあの日以前と全く変わらない風景があり仕事がある。大阪の画廊に行っても同様だ。この落差が今のぼくの存在の様態の核になっていると思う。それ故にぼくは芸術や表現の本質的問題を探り当てることからいくぶんずれてしまっているかもしれないとは思う。しかし、いつかそれらが、片方の忘却によってではなく、収斂される時が来ることを信じているのだが。

 

・カタルシス・

 「JAMCi」では、あの日からすっかり涙もろくなったぼくが宝塚歌劇星組名古屋公演「若き日の唄は忘れじ/ジャンプ・オリエント」を見て何度も涙にむせんだことを書いた。「恋の笹舟」という、麻路さき(新トップ)と白城あやか(トップ娘役)の少年時代の淡い恋情を歌う場面ではその美しさに感動し、万里柚美の「……間違った結婚をしてしまいました」という台詞に運命を嘆き悔やむことの切なさを思い、ラストの白城の「でも、きっとこういうふうに終わるのですね。この世に悔いを持たぬ人などいないのでしょうから」という台詞に、悔いを残して命を失った人々のことを思って滂沱の涙と、つまりは美しいといっては涙を流し、悲運だといっては目頭を押さえ、それではあんまり可哀想だと思ってはしゃくり上げ、よかったと安堵してはよろこびにふるえ、台詞の端々にまた反応してせきあげて、という次第だったのだ。

 おそらくショーについては触れられることが少ないだろうから、なぜぼくが久城彬と神田智のデュエットによる「オリエンタル・フラワー」でも涙にむせんでいたかを書いておかねばならない。一面の花畑をバックに歌われるその歌詞「心も凍る寒さも過ぎ去り、山から吹き下ろす一陣の風春を告げ、めぐる春それは命よみがえるときめきの時……」に、そうかこれは六甲から吹き下ろす風のことを言っていたのかと思った途端、はたしてこの神戸の街に春が来るのだろうか、いや久城と神田がこう歌ってくれる以上、春は来るのだ、と思ったのだ。久城はこれまであまり大きな場面を持ったことがなかったと思うが、それが二人で階段を下りてきたとき、久城自身の喜びがダイレクトに伝わってきて、続く真織由季の存在感のある歌声の素晴らしさと共に、それが「被災地」の春を告げるものであったことに深く感じ入ってしまったのだ。

 遡るが1月19日、避難所から帰る道すがら、前日にも見ていたはずだったのに街並みの惨状を眼にし、あふれそうな涙を必死でこらえていた。なぜか涙を流してはいけないような、こらえなければならないような規制が働いていたような気がする。今ここで泣いてしまってはいけないとか、ろくに被災もしていないぼくが泣いては家や家族を失った人たちに申し訳ないとか、さまざまな思いがめぐったのだと思う。そのようにあの日以後こらえさせられていたものが、宝塚歌劇の舞台を導線として一気にあふれ出たのだったろう。それは本当の意味でカタルシスとなってぼくを解放し、浄化してくれた。

 

・別世界・

あの日から郵便の配達はしばらく止まっていた。初めて郵便が届いた時はうれしかった。その中に十七日消印で京都の工芸作家・岡本潤三氏からの「現代・京都の工芸展」(京都文化博物館、1月19〜29日)の案内があって、京都か、別世界やろな、ええなぁと思ったが、受け取ったときには会期が既に過ぎており、苦笑してしまった。郵便局の中がどれほど大変だったか、図書館どころではなかったんだろうな。

 2月10日(金)、仕事が早く終わったので、帰りに大阪に寄り、久しぶりに画廊を歩く。よく神戸から大阪へ行くと、そのあまりの平穏さに腹が立つという声を聞いたが、ぼくはかえってホッとした。ここまで来ればこのように何気ない日常があるということに安心したのだ。梅田駅を出て、西天満の画廊へ行こうと新御堂筋の陸橋を渡るとき、ちょっと自分でも意外なほどの抑えきれない喜びがこみ上げてきた。また再びこのように画廊を歩き、絵を見ることができるという喜びだ。

 そのようにして、ギャラリー白の 勝生展では、館のこれまでの作品のゆっくりとした変化の流れを思い出しながら、そのシャープな緊張感に身を委ねることができた。彼の作品については、以前にも蝶の羽か蘭の花のようなフォルムがものすごいスピードを持っていることの緊張感について考えてみたことがあったが、しばらく前からそのフォルムが崩れつつあることが気になっていた。その崩れは、カビのコロニーができているようであったり、蝶であれば胴に当たる部分が異様に複雑化したりすることで生じている。ある一つの生命なり世界が、完成を通り越して爛熟し、腐敗していく過程を、館の近作はかなり長いタイムスパンで見せてくれているようだ。

 ぼくは何にせよ、崩れていくことにたいへん敏感になっていた。館の作品について、そのもの自体が高速で下降するというより、そのものの上を何かが高速で移動して行ったようだと書いたことがあった。しかし、今回見た作品では、運動ではなく、そのもの自体が変貌してしまう様が描かれている。これは館の作品を見るぼくにとって、かなり本質的な変化のように思われた。もちろん描かれたフォルム自体は、前作の延長線上にあるのだが、画面の運動が、空間的なものから時間的なものへと根本的に変質したようで、ひじょうに驚いた。

 

・リアリティ・

 翌11日、やはり前から切符を買っていたフィリップ・ジャンティ・カンパニー「いのちのパレード」(大阪・梅田/シアター・ドラマシティ)を見る。共同通信配信の神戸新聞で、上野房子が「不思議で楽しい場面の連続」「温かな視線に満ちた、愛すべき作品」と評していたが、まさにその通りだ。人形と役者といくつかの装置が対等に出現させるファンタジーの世界は、あまりの見事さと楽しさで、しばし現実を忘れさせてくれた。

 それがその場だけの楽しさだったと言うと、舞台の無力を言っているように受け止められるだろうか?

 16日(木)には東京壱組「違うチャスラフスカの犬(大阪・上本町/近鉄小劇場)を見る。巨大隕石が近づき、一週間以内に地球は滅びる、という設定で、平和だった島での犬たちの世界を描いた作品だった。悪いことに、ぼくたちは芝居の幕開きまでの十数分間、谷町九丁目の本屋で買った「サンデー毎日」や「アサヒグラフ」の臨時増刊号を読んでいた。カメラのレンズを通して見るぼくの街の惨状は、日々それ以上の光景を実際に目にしているはずだとはいえ、改めてぼくらの気分を重くしていた。

 この劇団の演出・役者の大谷亮介、制作の大谷薫平の兄弟は、ぼくの高校の先輩に当たる。あの日から1ヶ月もたたないというのに、神戸から1時間とかからぬ所で、世の終わりの芝居を演じることの居心地の悪さを最も強く感じていたのは、阪神間を出自とする彼ら自身だったのではないだろうか? もちろん、ぼくは決してあの日のことが、比喩的な意味でも世の終わりだったとは思っていない。別にはじまりだとも思っていないが。

有能な劇作家や演出家や役者やその他スタッフが作り上げた舞台を見て、その想像力、迫力がぼくの中で現実に及ばないことに唖然としたのだ。一般論として、どんなに感動的な舞台や作品を見ても、帰りの阪神電車の車窓から西宮や芦屋を越えたあたりで見える光景の方が、リアルでショッキングだ。その時、舞台の感動は一過性のものとして霧散してしまう。どこかに、この今の神戸の姿より強い力を持った舞台や作品がないものか、そうでないとぼくらの想像力がマグニチュードに敗れてしまったことになるではないか。

 22日(水)には近鉄劇場で上杉祥三、南果歩、平田満らの「クラウド9」(作=キャリル・チャーチル、演出=マシュー・ロイド)を見た。ゲイやレスビアンを軸に男と女のありようを大胆な役替わりで面白く見せてくれた佳作だったとは思うが、またしても「それがどうしたというのだ?」と思ってしまうのだ。このころぼくは、現実を超える舞台に当分めぐりあえないのではないかと絶望しかけていた。ステレオタイプに思われるかもしれないが、こんな時にこんな芝居など見ていていいのだろうか、という罪悪感に近い焦燥に囚われる。ぼくが芝居や絵を見るのはどういうことなのだ? 誰がどう言おうと、ぼくは芝居や絵を見なければならないという必然を、自らそんなに強く宣言することができただろうか? 

 

・美が不安であり焦燥だった・

 少々日が空く。3月11日(土)に、心斎橋のTORII HALLにRosaゆき演踏「月あかり、いま子象のそばで」を見に行く。「JAMCi」に、あまりに美しすぎてそれを不安に思ってしまう私というものを不審に思うことと、それら美しい動きが何かの喩としての意味に還元されてしまい、「身体の絶対性に向き合う完璧な美しさから徐々に遠ざかったのが残念だ」と書いていた。

 しかしその後、京都室町蛸薬師の元明倫小学校で、「こいのぼり」と題された彼女の舞台に再び接すること(5月7日、芸術祭典・京プレイベント<明倫遊演地>)もでき、彼女の身体が織りなすのは、物語そのものではなく、物語の微分のようなものではないかと思っている。彼女が心斎橋で<演踏>と名乗ったからには、演劇と舞踏の要素の組み合わせを意図していることは確かだろう。舞踏によくある、顔をクシャッと(何て言えばいいんだろう?)させたりという動きを取り入れながら、ぼくに幼時の記憶の物語が生成する一瞬前の感情を呼び起こす。頭の上に上げた手をコマ送りのようなスピードで下ろしたり、後ろ手で羽ばたきを見せたり、そういう動き一つ一つの美しさからぼくの中には甘い感傷が生じる。最後に、頭の上で水瓶を持つようなしぐさで、足を直線に運び、ステージの隅に置かれていた花束に頭上の水瓶の水を空ける格好をするのだが、そこからまるでぼくに水を与えられたような深い救済を感じた。

 3月のぼくにとって、美は不安であり焦燥だった。5月のぼくにとって、美は救済だった。Rosaの舞台を2ヶ月おいて見ることで、そんな言葉遊びのような対比に思い至り、これが一種の治癒というものなのかと、わがことながら驚いた。さあ、もう一度3月に戻り、その治癒の足どりをなぞってみようか。

 

・区切り・

 13日(月)、勤務先の教員A氏と一緒に大阪・梅田のナビオ美術館へ行き、「有元利夫の世界展」を見る。彼の作品の静謐と抒情について、今さらぼくが何を言い足すわけでもない。西宮の大谷で、渋谷の西武でと、大きな展覧会だけでも何度か見てきたが、そのたびに別世界へ連れていってくれるような深い魅力を湛えた稀有な作家だと思っている。静かな音楽が流れてくるのが見えるような画面に空から降ってくる赤い小さなボールや花びら、見る者を吸い込んでしまうような深い森。西宮市内に住み、目の前で給水車が空になってしまい、「すぐ来ますから」と言われて6時間待ったというA氏は、あの日以来初めての展覧会だということで、ずいぶん助かったと言っていた。

 このころぼくは、あの日以後に書いたいくつかの文章をまとめてコピーして、挨拶や礼状がわりに何人かの人に送った。大学図書館問題研究会ひょうご支部報に書いた「魚崎にて」、「JAMCi」4月号に書いた「舞台の力あるいは救済」、クライン文庫の目録に寄せた「死蔵」、勤務先の文芸部の文集のために書いたが未刊で、結局2月末に神戸で創刊された、発行元の電話番号が携帯電話だという、おそらくは未曾有の「地震ジャーナル・Reset」に掲載された「夢と幻に見た街」だ。これも一つの区切りを持たせる作業だった。

 

・WE ARE HERE・

 19日(日)には、神戸・南京町のギャラリー蝶屋で50人の作品を集めた「1.17展」を見る。サンパルでも同じような合同展を見た。大ざっぱに言って、物足りなかった。ただガレキを持ってきたような「作品」については、作者が表現にかんする専門家であることについてどう考えているか理解できないし、抽象については、展覧会の意図通り「記録」としての機能から見れば、まだるっこしい印象しかもてなかった。倒壊した建物を描いたり、あの日以前の風景を描いたものについては、ある種の感慨を覚えたが、写真の衝撃をどれほど超えられるものがあっただろうか?

実は5日(日)に、たしか今日までだったよなと思いながら神戸・三宮のシティギャラリーへ「WE ARE HERE」展を見に行ったのだが、勘違いで、前日で終わってしまっていた。入口のガラスのドアに福岡道雄の「神戸の街を確かに見ました」というメモが貼ってあり、ぼくもそれでも名刺を入れた。この展覧会については、「美術手帖」5月号に心ないと同時に意味もない言葉が載っている。とにかくぼくは作品を見られなかったのだから、言いようがないが、2月25日から始まっていたこの展覧会のお知らせはぼくのもとにも届いていた。2月初めのことだったろうが、とりあえずギャラリーもオーナーの向井さんも無事だったことに安心した。案内の文書には、自由な持ち込み形式で、出品料2000円の内1000円は義捐金となること、とにかく一度は見に来てほしいこと、などが書かれていた。写真でも文章でも広義の表現活動であれば何でもいいとあったので、ぼくも何かと思ったが、壊れた本棚のかけらやガラスの破片を持って行ってもしょうがないし、記録以外の写真を撮る気にはなれなかったし、何よりもぼくみたいなのがノコノコ駆けつけるのはギャラリーの趣旨に合うまいと思っていたのだ。八枚同封された案内はがきは、あの日以後どこで配られていたのか、全壊状態の家屋によく貼られていた「私はここに居ます」「We areHere」という連絡先を記した紙を縮小した形のもので、これを友人知人に送ってほしいということのようだった。これにはある意味で感動した。展覧会が作品発表の場ではなく、安否確認の場であり得たということだ。このころぼくたちは、大阪の画廊ででも、目の前の作品を云々することよりも互いの無事を喜び合ったり、共通の知人の安否の情報を交換することに、多くの時間と言葉を割いていたのだ。シティギャラリーは大阪に移転し、5月15日に新しいスタートを切った。

 

・歴史を継ぐということ・

26日(日)は伊丹市立美術館で「北アイルランドの若い画家たち」を見る。12人の作家の作品を集めたものだが、中で強く印象残った作家がディアドゥリー・オーカナルという1958年生まれの女性の「広場」という大きな作品だ。右三分の二は、暗いグレーの空の下、斜めにゆがんだ地平線に送電線かアンテナの鉄塔が林立しているという画面。左三分の一には、城壁の狭間のような半円形の穴がびっしりとあいた屏風状の高層の壁が重なっている。ここから漂う激しい疎外感と風景の殺伐に、一瞬今の神戸の街を見せられたように思ったが、いや神戸はこのようではないと思い直した。神戸の街は、廃墟のように見えるかもしれないが、そこには人間の生活のにおいと希望が息づいている。オーカナルの作品で左右の関係は、厳格な監視装置の見る側と見られる側のようであり、精神的な意味での絶望的な緊張感が漂っているように思える。「入れ物」という作品は、左三分の二が、細く薄い線で描かれた均質的なパーツから成るビルディングが地平面を失って浮遊しているように見えるものだが、人間の造った構造物の無機性をあらわにしている。

 1960年生まれのサイモン・ライリーは、キーファーに似た画面の衝撃力を持っている。それは主にマチエールの荒々しさと、茶と黒を中心とした画面の暗さによるようだ。「残されたメディア」では、それに加えて、典型的な線遠近法によって画面に激しい奥行きが出ていることからも、キーファーに似た苛烈さを生じていると言ってよいだろう。カタログに載った「作家の言葉」に「私は長い間じっと見つめてもらえるような絵画、ある種の感情を呼び覚ますような絵画、触れること、それも感覚に触れることのできる絵画、けれどもやはり触れられたくない、そういう絵画を描きたいと思っている」という一節があるが、それは成功していると言えよう。

 また、別室では「I am History Now」というテーマで北アイルランドの十人の作家が制作した版画作品が紹介された。ケルト文化とその伝説・神話、キリスト教新旧の対立、それに起因する歴史的な事件に基づいたりインスピレーションを得たりした数多くの作品は、テーマの「私が今、歴史である」という言葉の重みと共に、多くのことを考えさせてくれた。その中の一つは、ぼくたちは思考すべき歴史を持っていただろうかということだ。神話にしても歴史にしても、現代の問題にしても、自分自身の問題として表現に反映できるような形で持ち得ていただろうか。そして次に考えるのは、歴史的天災に遭遇したぼくたちは、あの日からのことをどのように記録し伝えることができるかということだ。そして、それ以前から流れ、今日以降も流れていくものをどのように。北アイルランドという困難な課題を抱えた土地に生きる彼らの鋭い問題意識が、ぼくに突きつけるものは大きかった。

 

・最終戦争の後・

 4月初旬は、年度始めの慌しさをものともせず、3月末日から再開した宝塚歌劇星組公演「国境のない地図」、Poety Partyのぬいぐるみダンス(?)を見、4月で唯一の晴天の週末となった8日にはパフォーマーのフルカワトシマサの肝いりで、大阪の桜之宮公園で楽しい花見をしたりというふうに過ぎていった。

 14日(金)、出張の帰りに劇団大阪新撰組「寿歌」を見る(大阪・四天王寺前/スタジオ・ガリバー)。北村想の名作である。噂でしか知らなかったが、あの日のあとに見るには最もふさわしいものだ。核戦争の終わった、ある関西の地方都市での物語だ。瓦礫ばかりとなった街で、直後の何日かは救急車や消防車のサイレン、ヘリコプターの爆音に苛まれたぼくたちにとって、何種かの爆弾が空を飛び交うこの芝居の設定は、妙に親しいものだったと言っていい。最終戦争のあとに生き残った2人と、どこからともなくやって来たヤスオ(ヤソ)。いったいぼくたちは、あの後に救世主が来るということを知っていただろうか?

 宗教学の山折哲雄は、5月11日付の産経新聞「とどかなくなった「言葉」」で「「仏典」や「聖書」の言葉が、今日ほんとうに苦しみ悲しんでいる人びとの心にとどかなくなってしまった」「宗教的な言葉が人びとの心にとどかなくなったという現実に直面して、宗教家たちの多くは、ボランティアのように」振る舞うことしかできなかったと指摘している。ここでもヤスオは、あまりに無力な姿をさらす。最初は覗きの痴漢に間違えられ、できることと言えば、ゲサクに「物品引き寄せの術」と呼ばれた、ものを増やす「手品」ぐらいなものだ。これはもちろん、イエスが魚やパンを増やした奇蹟をなぞったものではあるのだが。ヤスオの無力は、現世における神の無力だ。「今、雷にうたれた人は天国へ召されたのであります。そのための落雷であったのです。神は選ばれたのであります……」というヤスオの声はあくまで空しく、虚ろである。

 この芝居を大阪新撰組は実に淡々と演じた。キョウコ役の鈴木理枝子とゲサク役の当麻英始の「ええかげんな踊り」も、ヤスオ役の山田龍司と当麻の派手な立ち回りも、からだの動き、舞台上の人物配置のバランスがひじょうに的確だった。演出の当麻の、舞台の魅力を熟知したキレがいつもながら冴えていたと言えよう。ラストのキョウコがヤスオと別れるに当たって見せる切なさにもうたれた。鈴木は、以前の「吸血姫」では男役で、からだのキレのよさが印象的だったが、今回は少女の役で、声の美しさとかわいらしさが目立ち、守備範囲の広さがうかがわれる。

 

・すべての営みは労働か?・

 16日(日)には、ギャラリーKURANUKI(大阪・東心斎橋)で松井智惠個展「LABOUR(労働)」を見る。インスタレーションのうち、アクシデントで壁面に影を映し出すステンドグラスのような照明器具が壊れてしまったのが残念だと言われたが、ぼくは何かが壊れてしまうことには免疫ができていたから、それがあったことを想像して脳内に空間を作ることができたのは、かえって面白い体験だった。

 「働かざるもの/働きえぬもの/働きうるもの/彼女は重複する」「共同体という謎」という箴言のような言葉を壁に書き込み、毛足の長いフェイクファーに覆われた机の上にさまざまに装飾された電動ノコギリの大きな丸い歯。意味ありげな水彩画。昨年、移転前の同ギャラリーで見たインスタレーションでは、「彼女は説明する」「彼女は欠落する」「彼女は労働する」という言葉が書かれていたから、「彼女は」に続く動詞が行為から存在の形態へと変化したことが知れて面白い。

 ここではこれらの言葉は、その意味性によってよりも、ある緊張感を高めるために用いられているように思う。ある種の現代詩のようにテンションを高めるために機能し、作品と見る者の関係を緊張させる。その上で、ぼくたちはノコギリとフェイクファーの触感の対照やら、ノコギリの歯に絵が描かれていたりすることの違和感を楽しんでいればいいのだと思う。そこ中から新たな感覚を作ることこそ、松井の作品の魅力だと思うのだ。

 翌週末東京で、予定されていた新神戸オリエンタル劇場での公演が中止となってしまった上杉祥三、長野里美らの「ハムレット」を見る(22日、東京・大久保/グローブ座シアター)。「疾走するハムレット」というとおり、スピーディではあったが、なぜだかハムレットがただのわがまま息子のように思えてしまう。あえて「苦悩するハムレット」ではない像を打ち出そうとした結果だったのかも知れないが、上滑りな印象が残ったのが残念。

 

・記録としての美術行為・

 翌23日(日)、木場に新しくできた東京都現代美術館へ行く。開館記念展「Art in Japan 日本の現代美術1985−1995」である。ここで最も印象に残ったのは戸谷成雄「見られる扉U」だった。広い部屋に高い壁をつくり、七枚の細い扉を設けている作品。壁には石膏を指で掃いた跡が全面にうねうねと残されている。木の扉には人間の痕のような黒い影が描かれており、そのちょうど頭部に覗き穴が穿たれている。扉の影といい壁の指跡といい、行為や存在の痕跡を、戸谷がこれまでのチェーンソーとは違った方法で見せようとしているのかと思う。少し背伸びして覗き穴を覗くと、戸谷の作品ならではのチェーンソーの刻みが、穴の内側をグルリと覆うように見えてくる。ここに至って初めてまたは改めて、何か陰惨な気分が漂ってくる。高く部屋を隔てる壁、影や指あとが示す痕跡が、世界が終わってしまった後のような気分にさせる。

 真ん中の扉をくぐって向こう側に出てみると、新たな風景があった。石膏は蜜蝋に、木の扉はセメントに、人体の影はチェーンソーで刻み彫られた人の形に姿を変え、木の扉が実は柩であったことを知り、だからやや幅が狭かったのかと思い至り、慄然としたのだ。覗き穴から見えたのは、ちょうど人の頭部に当たるところだった。向こうからぼく(たち)は、誰か人の脳の中を見ていたのか。ここでこのような仕掛けによって、どのような酷薄な処遇を受けようともぼくたちの生が痕跡を刻みうること、ぼくたちの存在はこのように刻まれ、記憶され続ける可能性があることを教えられる。そこではチェーンソーは残酷な存在ではなく、うまく言えないが、行為や生命の存在を刻み込んでおいてくれるものとして、やさしくさえ思えたのだった。

 もう一つ、ぼくに衝撃を与えたのは、蔡國強「東方(三丈塔)」だった。「廃船の古材を使った塔を重ねて高さをちょうど三丈(約999センチ)にしたものです。三丈という高さは永遠を意味します。……四方に配置された地震計は大地の瞬時の変動を意味し、その脈動は塔の指し示す先にある宇宙と対比され、天と地、永遠と刹那という対極の概念を示します」というように、地震計を作品に内在させた作品だったのだ。

 ぼくは混乱した。これは「鎮魂の碑プロジェクト」と名付けられたもので、「大地震の際に記録された最も激しい地震波を型取った大型の屋外作品を制作し、震災による破壊が最も大きかった場所に設置」したものだというメモから、ようやくこれが関東大震災の記憶をとどめるために造られた作品だということがわかるだろう。そのメモには、1991.2.26.という日付があった。4年も前に、木場という地に現代美術館ができるということから、はるか関東大震災に思いをはせ、そのための鎮魂の碑を建てようという発想が、他ならぬ蔡から出たということで、ぼくたちは蔡國強というアーチストが歴史や現在、土地、そこに住む人々の思いといったものと、どのようにして関係を持ち、自分の表現として内在化するのかという方法論と、その作品がなぜどのようにして普遍的な衝撃を持ちうるのかという秘密を解く鍵を手にしたような気がしている。京都でも、万里の長城でも、広島でも、彼の行為は歴史を現在にダイレクトにつなぎ、ぼくたちがその延長線上を生きているということを痛烈に意識させる。

 都立現代美術館という新しい器に、廃船の材木を使い、そこでは誰もが忘れているような数十年前の惨劇をとどめるために、高さ999pの塔を建てる。その惨劇の引き金であり今なお続いている地球の微動を意識させる。偶然、開館の2ヶ月前には神戸という地でその微動は比較的大きな形を取り、関東大震災に匹敵するような惨劇が起きた。蔡の継続力と喚起力に敬服するとともに、いつか神戸でもこのような作品が造られ、そのことによって人々と土地が鎮められるのだなと、深くうれしく思った。

 他には、舟越桂、松井智惠、宮島達男、杉本博司を、再見のものも含めて、面白く見た。

 

・演劇による救済・

この前後に見た演劇などについては、「BRAIN SALAD」という雑誌に以下のような文章を寄せた。既に触れた劇団大阪新撰組の「寿歌」に感動したことを語った後からの部分を引いておこう。……

    ☆

 それだけに神戸の劇団蜃気楼「震災版・寿歌U」(6月10日、神戸・元町/兵庫県民小劇場。演出=棚橋洋一)をやると聞いたときの期待は大きかった。しかし「震災版」とあえて銘打たれたことでの不安もあった。果たして、不安が的中した。

 失敗の一つの原因は、劇中に挿入した神戸の人々の像にあった。若い役者たちによって演じられたそれは、声高に文句をたれ、怒鳴り声を上げるだけだった。黙々と水汲みに並び、救援物資に頭を下げていた神戸市民の一人として、それは耐えられるものではなかった。何かを非難するために、あえて告発する市民像を描いたのだとしても、それが一面的で矮小化されていては、共感の得られようもない。

 もう一つの原因は、震災を断片化して挿入しようとしたことそのものにあった。どうしたって断片にならないのだ。舞台の上手・下手に据えられた小さなスクリーンに震災後の街の写真をスライドで映したりしたことは、リアリティを演出することに全くつながらなかった。本当は、そのような街にやってきた旅芸人の一座の脳天気ぶり、あるいはその一人が街を再開発という名で簒奪しようとするスパイ的人間であるという脚色が今回の翻案のベースとなるはずだったのだろうが、木に竹を接ぐ格好になってしまい、バラバラになってしまった。

 同様の失敗が見られたのが、神戸大学演劇部OBを中心とした劇団☆世界一団「リアルること」だった(5月5日、大阪・梅田/カラビンカ)。トム・ストッパードの「リアルシング」をベースに、劇作家の男を取り巻く男女関係を中心に据え、震災やサリンのことを登場人物たちの会話にちりばめ、それを「リアル」と呼ぼうとしたが、脳天気にこそなれ、決してこの現実に拮抗するものとはならなかった。

 しいて言えば、神戸からも東京からも遥かに遠い世界のどこかで、震災もサリンもボスニアもヨーロッパの大洪水も、ブラウン管の向こうのこととしか思えない人々を描いていたように思えなくもない。最もリアルから離れたところに彼らの現在があると認識しているのなら、それも一つの覚悟ではあるが。

 逆に震災の体験に正面から取り組み、成功したのが、KOBE高校演劇合同公演「VOICE」である(5月4日、神戸・北野/シアターポシェット。作・演出=中井由梨子)。家が全壊したスタッフの一人の実体験をそのまま再現したリアルな一時間だった。主に父親役が発する下手なダジャレやユーモアも、ぼくたちが 避難所や停電した家の中で交わしたのと同じだった。

 ラスト近く、いよいよ家が解体されることになり、一家が親戚宅に移ることになった前夜、何か取り出しておきたいものはないかと聞かれたおばあちゃんは「強いて言えばアルバムかなぁ」と呟く。翌日、孫たちが崩れかけた家の中に入ってアルバムを探す……(知人にこのあらすじを話すと、「うちでもそうだったよ。アルバムだけは何とかとね」と淋しく笑った)。劇ではこのアルバムというメタファがエンディングの「私たちは歴史を生きたのだ」というモノローグにつながるのだが、この芝居の成功の原因は、このようなどこにでも転がっていたありふれた事実の断片を、いとおしく拾い上げて大切に自分たちの等身大の表現にできたことにあった。

 残酷や悲劇が圧倒したこの現実の中で、彼らはそれでも自分たちが日常を生きていくことを再確認し、語り継ぐべき歴史として直視した。その眼ざしは、はからずも人の営みの一つ一つに頬ずりするような慈愛に満ちたものとなった。この劇を見ることができたことで、ぼくもずいぶん救われたのだ。

 

・癒 し・

 この「救われた思い」を決定づけたのが、5月5日の夜に見た大阪新撰組「出発」(つかこうへい作。大阪・四天王寺前/スタジオガリバー)だったと言っていい。「VOICE」に感動したのは、同じ神戸に暮らす者としての連帯感によるものではないかと、いくぶんその感動の深さを留保しておきたい気分があった。もちろん、それだけの連帯感を喚起することができるというのは、大変なことだけれど。さらに言えば、震災がらみのことでしか、震災を正面から見据えたものによってでなければ感動することはできないのではないかという不安もあった。それが、この舞台を見ることで完全に払拭され、ぼくはまた演劇というものの持つ、異界を生成する力の虜になることができるのだという喜びに浸ることができた。あの日以前のスタンスに戻れたような気がした。ずいぶん長い時間、プロセスが必要だった。

 父親が、自分の存在を確認するために蒸発をしたことにし、実は家の床下に潜んでいる。目的は達せられ、家族は父の偉大さに気づくのだが、それが行き過ぎて、不在の父の像は理想化され肥大し、父はとても帰って来れないような状態に追いつめられていく、というような喜劇である。

 父親役の当麻の安定感はもちろんのこと、妻役の鈴木理枝子のしっとりした演技、妻の実母役、義母役の相川小百合、古川智子のヒステリックな体当たり、セーラー服姿で娘を演じたきたまことの清楚なけなげさなど、一つ一つの魅力を集積しても、この劇団についてはもどかしい。演劇をやり続けることの喜びが、客席に直接に伝わる劇団である。演劇というものの換えがたい魅力である直接性というものを、ひじょうに高いレベルで、ラディカルに持っている。いまのぼくにとって、この世界への直接性が最も重要なものなのだ。ぼくに、絵画や演劇やダンスから、確実に届いているものは何か? ぼくはきちんとそれを受け止めているか? ぼくの言葉は、届くのだろうか? ……

 そもそもぼくが2年ほど前から再び芝居を見るきっかけとなったのが、彼らが新神戸オリエンタル劇場でやった「ハイジのいた夏'93」だったのだ。既にふれたことがあったとは思うが、この劇団によって再び演劇の魅力にとりつかれた男がここに一人いるということは、客観的に言って大きな意義のあることだと思う。そして今年再びそのぼくは、3月半ばの「授業」(イヨネスコ作。南田吉信、相川小百合、きたまことの三人が好演)から始まった彼らのアトリエ公演を見続けることで、あの日からの癒しを受けることができていた。感謝している。

    ☆ ★ ☆

 前号からずいぶん月日がたってしまった上に、中抜きとなってしまったので、せめてこのかん見たもので印象に残っているものを、ずいぶん洩れは出ようが、名前だけでも挙げておこう。

 四月=映画「事の次第」(大阪・シネマヴェリテ)、浅野弥衛展(京都・アートスペース虹)、関西の美術(神戸・兵庫県立近代美術館)、熊谷誠展(大阪・信濃橋画廊)、大崎信之作品展(大阪・ギャラリー白)、五月=ベッドルーム−オン・リミット(大阪・扇町ミュージアムスクエア、アート・ナウ1994−啓示と持続(神戸・兵庫県立近代美術館)、東京ノート-青年団(東京・あごらホール)、KARADAがARTになるとき(東京・板橋区立美術館)、六月=生と性-女性が描く女性像(大阪府立現代美術センター)、宇都宮尚子展(ギャラリー白)、渡邉野子展(ギャラリー白)、七月=時間/美術(滋賀県立近代美術館)、七月大歌舞伎 堀川波の鼓(大阪・中座)、岡田直子展(ギャラリー白)、スナフキンの手紙-第三舞台(大阪・近鉄小劇場)、新見隆「未来の娘たち」展(大阪・児玉画廊)、京都の美-曽我孝司+藤本由紀夫+森口ゆたか(京都市美術館)、八月=車季南展(京都・ギャラリーマロニエ)、浅岡ゆみ個展Pool(ギャラリー白)、恋愛御法度-プロジェクトKUTO(扇町ミュージアムスクエア)、岡田久美子展(大阪・ONギャラリー)、九月=石川裕敏個展(ギャラリー白)、ブラッディ・マリー−これっきりハイテンションシアター(大阪・プラネットホール)、十月=眼の宇宙(兵庫県立近代美術館)、もう大丈夫-東京壱組(大阪・近鉄小劇場)、月下之門-時空劇場(京大西部講堂)、森口ゆたか展(京都・ギャラリーココ)、サラサーテの盤-犬の事ム所(扇町ミュージアムスクエア)、河崎ひろみ展(ギャラリー白)、橋本夏夫展(京都・石屋町ギャラリー)、十一月=金英淑展(大阪・ギャラリークオーレ)、ロミオとジュリエット−グローブ座カンパニー(大阪・MIDシアター)、太田三郎展(大阪・ギャラリーKURANUKI)、嶋本昭三展(神戸阪急ミュージアム)、雪之丞変化-花組芝居(中座)、十二月=ブリザード・ミュージック−キャラメルボックス(新神戸オリエンタル劇場)、金山平三記念美術展(兵庫県立近代美術館)、レオナルド・ダ・ヴィンチの憂鬱-フルカワトシマサ(AI HALL)、吸血姫-大阪新撰組(大阪・ウィングフィールド)、柳美和展(京都・ギャラリーそわか)、交響詩・大森良雄-遊気舎(伊丹・AI HALL)、一月=哀しみのコルドバ−宝塚歌劇花組(宝塚大劇場)、デイヴィッド・ナッシュ展(芦屋市立美術博物館)、赤松奨太チェロ・リサイタル、岩野勝人展 MENTAL CHAIR(ギャラリーそわか。十六日)