★あ 青い森 赤鬼 劇団・太陽族 いるかHotel  Vortex Café 売込隊ビーム 大阪新撰組

★か 化石オートバイ 片桐はいり 加藤健一事務所 グッドフェローズ+七ツ寺共同スタジオ グローブ座カンパニー 黒豚農場

★さ サードステージ 時空劇場 芝居屋坂道ストア 青年団

★た damim dumbtype TAKE IT EASY!  TPプロデュース 桃園会 トライアングルシアター

★な 二十九日月 劇団NIWATORI

★は 坂東玉三郎 羊団 ふれねる缶

★ま 満遊戯賊

や 遊気舎 (後藤ひろひとインタビュー)

わらび座

その他 「ダイヤルMを廻せ」「夏の庭」「ひょうご舞台芸術−バッファローの月

 ※ 劇団プロフィールは、「パフォーミングアーツ・メッセ2000in大阪」「KAVCチャレンジシアター2000 Portal」などによる


完全犯罪の瓦解を<>に凝縮させた快楽的推理劇

安寿ミラ他「ダイヤルMを廻せ」

 安寿ミラ、「検察側の証人」に続くミステリ・ストレートプレイ第二弾、というふれこみの公演だったが、意外にも安寿が際立った印象を残したわけではない。大谷亮介、升毅、壤晴彦、岡森諦の男優陣が素晴らしかったことはもちろん、安寿が決して違和感なく、一人の女優としてマーゴットを演じきったことで、逆にいよいよ彼女が<元タカラヅカ>の呪縛を脱したのだなという感慨を持った。大谷が夫トニーの隠し切れない品の悪さを随所で巧みに見せた。

 倒叙形式をとった、妻殺し未遂の推理劇だが、本当の主役はラストでギーッと開かれる扉だったかもしれない。もし、隠した鍵でトニーが扉を開けて入ってくれば、彼が真犯人である……開かなければそれは立証できず、マーゴットは明日処刑されてしまう……ぼくたちは固唾をのんで扉を注視する。舞台と客席の視線が同じ方向をとって凍りつく場面だ。

 率直に言うと、そのような仕掛けで劇場に緊張を走らせたことに対して、やられた、という悔しさがないわけではない。しかしとにかく、ミステリ劇というのは面白い、と「検察側…」に続いて感心させられた。(10/4、シアタードラマシティ) (「JAMCi」掲載)


ひょうご舞台芸術「バッファローの月」

AYU

左の写真は、宝塚ファンの皆さんのために、元娘役トップスターで、ロザリンド役を好演した鮎ゆうきの姿を、公演パンフレットから。劇中劇で「私生活」のシビルをやるんですが、よかったですよ。ステージの上で立ち往生してしまうんですけど、姿の美しさと、困惑の表情のおかしさ。ちょっとぎくしゃくしたところは相変わらずですが、それも一つの味になっていて、昨年の「おやすみデズデモーナおはようジュリエット」に比べると、大飛躍です。香坂千晶も出てて、大声で泣くときに口が落花生の殻の形になるのが、本当にかわいかった。ぼくの席の二列ほど後ろで、貝原俊民・兵庫県知事と、小林公平・阪急会長(でしたっけ、宝塚の理事長、だったっけ。両方?)が並んでご観劇。

 藤村志保、加藤武主演という、渋いお芝居だが、もともとは「レンド・ミー・ア・テナー」のケン・ラドヴィッッグ作の喜劇。わかりやすく言えば、三谷幸喜の「ショウ・マスト・ゴー・オン」みたいな感じで、旅回りの一座の舞台裏を、すれ違いと勘違いでおもしろおかしく描いていくのだが、ちょっとテンポが乗り切らず、もっと大爆笑できたのになと、やや物足りなかった。

 その大半は演出(勝田安彦)に思い切りが足りなかったことにある。もっと徹底的にエンターテインメントに徹するべきだった。笑わせるためにどうするか、せっかく野村昭子がとぼけたいい味を出すし、鮎ゆうきが相当の覚悟でコメディエンヌになろうと努力していたようなのだから、もっともっと詰め込んでいかなければ。一つには、加藤武がちょっと足を引っ張った感じ。重々しすぎるって言うか、身体が重いのもあるけれど、もうちょっと素敵に見せないと。もとはブロードウェイの名優だったという設定でもあり、さすがに名女優だったシャーロット(藤村)が連れ添っているという雰囲気が出てこない。そして、メリーゴーラウンド的ドタバタについて来れていない。このミスキャストは、兵庫現代芸術劇場芸術監督の山崎正和大先生の責任です。

4月中旬には東京・アートスフィアでもやるそうですので、そのときまでにはブラッシュアップしていてほしい。(1997.4.4. 新神戸オリエンタル劇場)


奥田瑛二ほか「夏の庭」

 「夏の庭」を見てきました。奥田瑛二、西田ひかる、藤村志保、久世星佳という、アレです。ノンちゃん退団ご初舞台、アル中の母、っていう。東京公演でご覧になった方も多いかと思います。けっこう近づいてからチケットぴあで買ったので、後ろから3列目、下手端っこという悪い席でしたが、立ち見も出ている状態。

 場面転換時の音楽の扱いがつまらなかったり、子役が重要な芝居なのでもう一つ物足りなかったり、回想場面(戦争中の満州でのできごと)の挿入が唐突だったり、いじめの解釈自体で評価が分かれてしまうだろうなと思ったり、難しいハードルはいくつかありましたが、まあ充実していたほうだと言えるでしょう。東京公演を見た人からあまりよくないという話を聞いていたのですが、それほどでもない感じ。時が解決してくれたのでしょうか。

 奥田瑛二は、時折演技が大きくなり過ぎるところがあるとしても、老人特有のといった感じでクリアできる範囲だったと思います。腕と足の長さがうまく機能して、ダイナミックでした。西田ひかるは、最初誰だかわからなかったぐらい、ヤンキーメイクが堂に入ってました。ちょっと平板かと思われますが、舞台初出演ということで、大目に見てあげましょう。声も十分通ってたし、よかったです。藤村志保…テンポがゆっくりしているのはおばあさん役だからいいんだけど、なんか持って回った感じで、ちょっと苦手です。

 さて、久世星佳ですが、全然違和感なくて、宝塚出身の女優っていう感じがしませんでした。第一作としては大したものです。原作を読んでいないのでわからないのですが、写真家の女性なのでしょうか、セットの背景にはピンで止められた紙焼きがたくさん止められていました。夫の浮気に苦しみ、息子のいじめ(加害者側としての)に苦しみ、アルコールに溺れた、不安定で抑制できない部分をみごとにさらけ出していたと言えるでしょう。

 次の舞台が楽しみです。(1997年8月25日、近鉄劇場)


わらび座「春秋山伏記」

 1997319日 藤沢周平原作、元宝塚歌劇団の演出家・大関弘政演出のミュージカル、わらび座「春秋山伏記」を、吹田メイシアター大ホールで。

 予想に反してと言うと大変失礼だが、完成度の高い素晴らしい出来で、驚いた。特に踊りで男性陣の動きがすがすがしく見事で、覚悟が決まっているというか、動きが揃うということが表面的なことではないことを思い知らされた感じ。歌のソロやデュエットが何組かで行われたが、どれもレベルが高く、主役を張れる役者が多いという印象を受けた。

 ある信念を持って運営されている劇団のようで、たとえば役者の名前が出されない。徹底的にスター制を排除しているようで、それが上記のことにもつながるのだろうか。群舞の美しさも、統制とか一体感という意味合いにおいて、そのようなことから生じるのだろうか。

特記しておきたいのは、踊り、笑い、エロティシズムという、根源的なものの力が非常に重要視されていたことだ。たとえば、ある娘が恋人を亡くしたショックで寝込んで立ち上がれなくなっているのを、主人公の山伏・大鷲坊の法力で治癒させるという場面で使われていたユーモラスな踊り。心の治癒にとって、言葉による説得ももちろん重要だろうが、笑い、踊りという根源的なものの力のよみがえりの力を借りることの大切さも痛感した。

 不義密通の現場を夫に踏み込まれ、大立ち回りの末、夫婦ともに死ぬというシーンは強く印象に残っている。妻は、飯炊き女からこうやって普通の暮らしをさせてくれたのは夫のおかげだ、しかしだらしのない私はいつかまたこんなことを起こしてしまうに違いない、だからもう生きていてもしょうがない、ただ死ぬ前に夫の歌で舞いたい、と願い、自分で歌い始める。やがて夫がそれに和して歌う。美しい、切ない歌である。美しい舞いである。これを見てぼくたちは、円満な解決が図られるものと自然に期待していた。ところが、その歌と舞いが済むと、驚いたことに夫婦は刀を持って睨み合い、夫が妻に「斬れ」と胸を差しだし、その後夫が妻を刺し、重なるようにして倒れてしまう。大鷲坊らは二人に手を合わせ、念仏を唱える。……大鷲坊や村人は二人を止めない。死んだ方が幸せだということを皆が悟っていたということなのだろうか。見ていて、一種衝撃だった。死というものがここでは相対化されている、とでも言うのだろうか。死ぬしか解決の道がないと、皆が瞬時に納得し、最も良い方法で死なせたということだろうか。

このような死に対する意識、価値観は、ぼくらが親しい近代にはあり得ないことのように思う。原作を未読なので確かなことは言えないが、それを藤沢周平がこのような近世村落の中にさりげなく(でもないか)描き、それを大関がそのままに取り上げて美しい歌と舞いに昇華し、わらび座の面々が見事に演じたということ、これは奇跡に近いのではないかとさえ思ったのだ。笑い、踊りという根源的なものの力、と先に書いたが、そのような根源性の中では、死というものもあり得る根源の一つとして相対化されているのだろう。ラディカルということの本当のありようを見たような気がする。(劇場日記から)


遊気舎「じゃばら」

劇の内側も外側も、何だか/投げやりじゃないですか?

 10周年を迎えた遊気舎が数年前に初演された「じゃばら」を再演。初演を見ていないので比較できないが、見世物小屋が明るいファッションショーのように見えたのが意外。他に左記の点に着目した。

(1) 劇の中で映画を作るコンペの話。ストーリーを変えてしまうライバル(楠見薫)の妨害の中、真実・史実・事実を求める監督(山本忠。結末で彼の<狂気>が見え、よかった)だが、ライバルがいなくなってそんな何もかもがバカらしくなり、どうでもいいと叫んでしまう。この自己破壊衝動をどう受け止めようか。

(2) メリック(=エレファントマン)を黒人青年(Vinay Talley)に演じさせたこと。見世物一座の座長(川下大洋)の見事な口上によって、おぞけをふるう醜怪な姿として紹介されるメリック。初演ではハンガリー人が演じたそうだが、人種差別・偏見にさらされている黒人にあえて演じさせることで、彼らは何を引き受けようとしたのだろう。あえてしこりを置くことで、止揚・昇華するふくらみを持たせることに成功したか。

(3) 絶対的正義、圧倒的感動の徹底的な否定。見世物禁止令前夜、最後の興行に盛り上がる一座、感動する客席……そのクライマックスは乱暴に断たれてしまう。作者(後藤ひろひと)の精神の姿勢が顕著に看取できる。劇的興奮を壊した上で、無理矢理に雪を降らせて形だけ収束させるラスト。監督の言葉と共に、この劇全体の作りが重なり、何だか投げやりなものを見せられた印象が残ってしまった。

(4) コンポーネント化の進行。役者のキャラクターに依存した劇の断片化。一つのドラマを時空軸に依拠して構築する、旧来の求心的な劇団の概念からは逸脱しているのだろうが。(1997727日)(「JAMCi」掲載)


見世物小屋からパヴィリオンへ〜「じゃばら」プレビュー

 遊気舎の役者はみんな変で素敵だ。こう書くと、タナカヒロコみたいなのが「変じゃない」って言いそうだけど、素敵。「素敵だ」から「て」を抜くと、「好きだ」だ。

 ぼくが理想とする遊気舎の公演形態を、「遊気園地」と名付けよう。パヴィリオンは「クボッティの館」、「魔瑠ゾーン」、「ひろひと屋敷」、トイレは「うべん所」(う・べんじょ)とか。てんでばらばらに何かやってるの。ぼくらは不思議な中国の運転手の車に乗って一つずつ見ていって、気に入ったところで降りたり。時々、何だか変な探検隊とすれ違う。

「じゃばら」、読むとね(ごめんなさい、見てません)、パヴィリオンじゃない、見世物小屋なの。再演前だそうだからあんまりちゃんと言わないことにするけど、象男とか、巨女とか、親の因果が子に報いとか、いわゆる。

 昔、晴海の見本市会場で見た天井棧敷のレミングだったか、何に驚いたかって、広い会場の方々で、いろんなことやってて、とにかくどこに目を奪われたらいいのかわからなくって、心を全部奪われた。闇に。

 パヴィリオンって言ったけど、今の遊気舎には見世物小屋のいかがわしさ、闇はないです。でも、パヴィリオンを独立したものとして楽しむことはできます。これって、いいことなのかなぁ……パヴィリオンをつなぐ通路とか、ハウステンボスみたいにすっごいものにしようと考えてるのはわかるんだけど、それが山忠さん(好き!)だったりするんだろうけど。この手の着脱可能なコンポーネントな感じって、なんか「今」なのかも知れない。

 でも、その今、「じゃばら」をもう一回やろうとしてるわけね……わけわかんないけど、前回と全然違うものになりそうな気がする。


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