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月組
「パリの空よりも高く」「ホフマン物語」「マジシャンの憂鬱/MAHOROBA」
「JAZZYな妖精たち/REVUE of DREAMS」「愛しき人よ」
「向き合うのに目はそらしてしまう~タンゴ・ダンサー、紫吹淳」「花の宝塚風土記/シニョール・ドン・ファン」
「長い春の果てに」「ガイズ&ドールズ」「大海賊/ジャズマニア」浜松公演
「更に狂はじ」「プロヴァンスの碧い空」「から騒ぎ」
「うたかたの恋/ミリオン・ドリームス」「黒い瞳」
「ブエノスアイレスの風」「ダンス以前・ダンス以後-WEST SIDE STORY」
パリの空よりも高く
『パリの空よりも高く』は、菊田一夫原作の『花咲く港』をかすかに下敷きにしているというから、同じ月組で全国ツアーが決まっている『ダル・レークの恋』と同様かと思ったが、スポーツニッポンの花井伸夫氏によると『花咲く港』が江戸時代の長崎を舞台にした人情話だったのに対し、本作はそのアイデアをもらっただけで「大胆に翻案・潤色した…新しいロマンチック・コメディー」「人物設定が、言われてみれば似ていると気がつくくらいで、オリジナル作品と銘打っても、問題はないように思える」ということだから、植田紳爾らしい作品に仕上がったといえるのだろう。
まず気になったのは、芝居がなかなか始まらないこと。もちろんデュエットダンスがすごくきれいで華やかでいい。瀬奈じゅんのキレのいい動き、霧矢大夢も張りとツヤのある動きで、かなり戻ってきた感じ。見ごたえがある。さすがは羽山紀代美の振付だ。そしてロケットが始まり、これも身体の左右の動きが面白い、なかなかいい振付だと思うのだが、何の枠組みもなくオープニングがここまで長いと、いささか焦れる。
始まったと思ったら、やはりさすがは植田作品、きっちりと時代背景や人物の関係を長いセリフで丁寧に説明してくれる。エレノール(出雲綾)の説明などは、大変聞き取りやすい明瞭なセリフ回しでもあり、冒頭に様々な背景を説明するのは観客への親切といえるかも知れないが、芝居を読み解く興をそぐし、特に今回のように冒頭からショーのような場面が続いての後だから、演劇的に観客の意識をスムーズかつスピーディにドラマの中に誘導する、印象的な場面がほしかったところ。
しかし、この芝居には、その植田らしい古臭さを楽しめる場面もあった。アルマンド(瀬奈)、ジョルジュ(大空祐飛)、ギスターブ(霧矢)の3人は、狂言における時間の流れにも通じるような、やや時代がかった演技をのんびりと楽しませる大らかさがあったし、瀬奈と大空のかけあいはテンポも間合いの取り方もよく、非常に魅力的だった。「ボンボン…」と歌いながら銀橋を渡る場面など、古き佳き時代とはこのようなものをいうのかと感心させられたほど。嵐で塔が危機にという盛り上げ方といい、ミミ(彩乃かなみ)の中途半端な位置づけといい、植田らしい大ざっぱな展開が目立った。おそらく植田は、実際に菊田作品を踏まえたかどうかということよりも、それを冠することで、ちょっと肩の力を抜いた上で、ある種の古めかしさを意図的に提出しようとしたのではないか。
人々はあまりにも簡単にだまされる。でも瀬奈も大空も二人とも偽物かと言えば、大空は本当にジュリアン・ジャッケの息子なのだから、完全に嘘をついているわけではない。徐々に人々の塔建設の熱意にほだされて逃げるに逃げられなくなり、それならもう腹をくくって最後まで名プランナーであり続けた方が名誉も報酬も得られただろうに、無理矢理途中抜けするのは、本当に間が抜けている。善人にならないことを自分たちに課しているのが、妙に律儀でおもしろい。悪党にもなり切れなければ、善人にも英雄にもなれない、中途半端で滑稽な二人。これもまた狂言のようではないか。
瀬奈は、人々が事の推移にあっけに取られているところで「パッパーッ」と取ってつけたように大声で高らかに笑って見せたり、陽性であっけらかんとした魅力を見せた。ショーの歌で高音の魅力を見せたのが新鮮。ショー冒頭のサックスのソロをバックにしたダンスは、実に粘りと色気があり、すばらしかった。ここの憧花ゆりののカゲソロも短かったが色っぽく、よく雰囲気を出した。無音になってからのダンスは、ちょっと宝塚では例を見ないほどの緊張感があった。クラブ・フルムーンでのタメのある出方も非常にトップらしい貫禄を見せていた。細かいことだが、燕尾服の襟の直し方が実に決まっていて、ゾクゾクさせる。
霧矢は建築家エッフェルで、吃音という人物造形が性格を表わすために手っ取り早かったのだろうとは思うが、小さいころから吃音で悩んできたぼくにとっては、ちょっと勘弁してほしいと思った設定。もちろん霧矢のせいではない。まじめ一本で塔づくりのことしか興味がない、人生に不器用な職人肌の人物を的確に、ユーモラスに演じていた。歌にはさすがに力があり、率直に言って久しぶりに魅力が全開されたように思える。終盤の祝賀会の場面でお色直しではないが正装で現れたときの美しさといったら、なかった。ショーでも正確な動きに色気があって魅力的という、この上ないダンスを見せてくれた。
大空がこういうかわいらしい役ができるようになったのがいい。最後にミミのボタンをくすねてきたというあたりの愛らしさは、絶品。ショーで目立ったのが桐生園加。ちょっと進行役のようなダンスのセンスがよく、こういう何気ない仕事をきっちりとできるのは、実力の現われだと思える。シェラザードの場面で桐生とペアを組んだ美鳳あや、ダンスにスピード感があってよかった。今回が退団公演になる紫水梗華、ダイナミックなダンスを存分に見せてくれて、あまりに惜しい。ロケットSといういい役割をもらい、いったん引っ込んでまたセンターに戻ってくるというのは異例の厚遇だとは思え、それはそれですばらしかったが、もっともっと見たかった。星条海斗のダンスがすばらしかったのも収穫。腰の沈め方が非常に丁寧で色っぽかった。
月組がこんなにダンスのレベルが高い組だということは、うれしい発見だった。ただ、その中で、組替えで移ってきた遼河はるひには、ダンスについてもっとがんばってもらいたい。(2007年1月)
ホフマン物語
宝塚歌劇のような大衆性をもった商業演劇にとって、実験精神というのは、相容れないものとして排除されてもよかったはずだ。それなのに、30年前という時期に、実験劇場としてバウホールが建てられたというのは、本当に不思議なことだ。「歌劇」3月号の「花の道より」(小林公平)によれば、1971年に小劇場が閉鎖され、翌72年には中劇場(新芸劇場)も取り壊され、大劇場のみとなっていたところへ、75年には一公演の日数が一ヵ月から45日に延長され、一組あたり年3回の公演が2回に減ってしまうことになってしまうこともあり、スター級のリサイタル、実験作、(オフ)ブロードウェイ作品、出演者・演出家の若手養成、を目的に500人劇場を作ったとのことである。
もちろん、営業的な充実を図るということもあっただろう。上記の間に74年『ベルサイユのばら』、77年『風と共に去りぬ』を入れてみれば、財政面・動員面での充実を受けた拡充であり、営業面からの要請もあっただろうことも見えてくる。さらに、73年に『ジーザス・クライスト・スーパースター』映画化と日本初演(劇団四季)も大いに影響したものと思われる。
しかし、ベルばら、風共ブームに沸く中で、実験性への挑戦、後進の育成をめざして小劇場を建設するというのは、慧眼といってよいだろう。そのこけら落としとして上演された『ホフマン物語』の再演は、その精神を明確に再提示するものとなったと同時に、その精神が現在も息づいているのかどうかを反照するといえよう。
原脚本の菅沼潤は、宝塚を「本格的」なものにしたかったのだろう。朝比奈隆指揮の大阪フィルの演奏ということにも、おそらく相当のこだわりがあったに違いない。必ずしも歌の専門家というだけではない宝塚の団員たち、しかも男声は男役という女性であることなど百も承知の上で、オペラを原曲に近い形で上演するというのは、宝塚歌劇というものを、本物の舞台芸術として提出したい、享受させてやるぞという執念のような思いの現れ以外の何ものでもない。
それを受け継ぐ形で、今回の脚本・演出の谷正純は、カットされていたオリジナルから十数曲を増やし、出演者は楽譜の束を抱えて苦しみ悶えることになったそうだ。それは原曲に近い形での上演という意味で、「本格的」を目指すものだったといっていいだろう。
さらに、「ハロー・ダンシング!!」と同じように、若手中心のワークショップである。同じ演目を同じカンパニーで上演するといいながらも、特に本作は娘役を中心に短い会期の中で多くの役替わりがあるということで、出演者の負担は相当なものだったと思われる。
主役のホフマンが明日海りお(前半)、青樹泉(後半、以下同)。ホフマンを闇の運命に導こうとする悪魔やリンドルフ枢密院議員やミラクル博士が青樹、星条海斗。ホフマンの友人ニクラウスが宇月颯、明日海。という具合で、男役は会期の前半と後半での役替わりだが、娘役はその前半・後半の中、四分の一単位での役替わりがあった。病に冒された歌手アントニアは前-前が羽咲まな、前-後が青葉みちる、後-前と後-後が夢咲ねね。高級娼婦ジュリエッタが順に青葉、夢咲、美鳳あや、夢咲。機会仕掛けの人形オランピアが夢咲、美鳳、花陽みら、夢咲。夢咲中心のローテーションとはいえ、数日ごとに役が替わり、めまぐるしいことであった。
このように多くの配役が変わるから、セリフや曲をたくさんマスターするという意味では、いい訓練になると思われたのだろう。また、組合せが様々に変わるから、アンサンブルのワークをさせるにも最適という趣向だったと思われる。
しかし、ただセリフや曲を覚え、きちんと発声できる程度のことでは、宝塚歌劇のワークショップの成果というには物足りない。役者が育つのは、役を深めるからであって、セリフを要領よく覚えたり、多くの役を小器用にこなすのは大したことでないばかりか、演技というものに対する取組を、浅く留まらせてしまうおそれがある。ぼくは実際のところ前半と後半の計二回しか観ることができなかったが、ころころと相手役を変えるのは、演技の深まりという意味では、あまり効果がなかったのではないか。
出演者では、ホフマンと悪魔という色の異なる二役を演じた青樹が幅の広さを見せた。スタイルのよさはもちろんだが、張りと艶のある男らしいいい声がコントロールできていた。明日海は、ホフマンとその従者ニクラウスで、あまり色の違いを出すことができず、自分でも物足りなかっただろうが、酔っぱらう姿にはなかなかの色気があり、もう少しで凄みになると思うと楽しみだ。また明日海は女役でミューズ(詩の女神)も演じたが、容姿といい声といい並の娘役を払うほどの美しさ。地声と裏声の転換で少しだけ不安定なところもあったようだが、伸びのある魅力的な歌声を披露した。なお、ミューズとニクラウスを二役で演じるのは、オッフェンバックの原作どおりで、決して宝塚ならではの設定ではないらしい。
各場面で出づっぱりの未沙のえるは、芝居はもちろん、膨大な量の歌をそつなくこなし、ダンスも達者。当然のこととはいえ、その存在感の大きさには改めて唸らされた。専科生やベテランの退団が続く中、こういう存在の重要性を改めて見せてくれたことは、実にうれしく貴重なことであった。
ずいぶん評価を上げたのは、星条だったのではないだろうか。前半でフランツという耳の遠いふりをする老従僕役をコミカルに演じて見せたかと思うと、後半では高慢な役人リンドルフや粘着質の医師ミラクルを、嫌味たっぷりに存分に演じきった。
後半ではこのフランツがフランシスカという老女となり、青葉が演じたが、あまり使用人らしくなかったような気がする。羽咲のアントニア、アントニアの母親を見たが、さすがに歌声は柔らかで美しく、強い表現力と説得力がある。萌花ゆりあのアントニアの母親役も、まず美しく、情のこもった歌声が印象に残った。
本作後に星組に異動になる夢咲は、さすがに充実していた。歌は高音部では特筆するほどの技巧はないようだが素直で聞きやすく、ジュリエッタで地声の強い歌を歌ったのは大いに魅力的だった。実は自動人形であるというオランピアでの無表情さや色のないロボットのような声、突然嵐のように暴走する様など、かなり思い切った演技だったように思う。ジュリエッタで肩の線の揺れなどで妖艶さまで出せていたのは、すばらしい。ただ、瀕死の歌手アントニアで、階段の上り方が楽しげだったのには、少々違和感があった。なお、入団一年目の花陽もオランピアに抜擢されたが、日程の関係で見ることができなかった。「スポーツニッポン 宝塚歌劇支局」(薮下哲司)によれば、「まさにお人形」だったそうで、見逃したのが残念だ。
宇月は、広がりのある歌声、さわやかな表情と身のこなしで好印象を残した。特に後半の資産家シュレーミル役では、風格さえ感じさせることができていた。瑞羽奏都のいきいきした表情とダイナミックなダンス、五十鈴ひかりのチャーミングな演技もよかった。
悪魔の影法師を演じた流輝一斗、麗百愛は、シャープなダンスと厳しい表情がよくできていた。特に麗の動きには柔らかさもあり、いつもながら惚れ惚れする。美鳳あやの上品なダンスもよかった。
つまらないことかもしれないが、酒場で酌み交わされていたのはドイツでよく使われる蓋付きのビアマグだと思うが、これでワインを飲むというのはどうなんだろう?
「マジシャンの憂鬱/MAHOROBA」
「MAHOROBA」は、郷土芸能研究会の厚い伝統を生かそうと、OGで外部でも大活躍の謝珠栄が工夫を凝らしたショーである。オウス(瀬奈じゅん)がヤマトタケルとして成長し、異族を征討していくが、ほのかに愛するオトタチバナ姫(彩乃かなみ)を荒ぶる海の神オオワタツミ(嘉月絵里)に人身御供として捧げる形で失い、ヤマトヒメ(花瀬みずか)から授かった草薙の剣も失い、鬼(エミシ)との戦いに敗れ命を失うが、白鷺に姿を変えて再生する、という悲しくも美しい物語仕立てのコンパクトなショーとなっている。
衣裳(有村淳)も音楽もすばらしく、絢爛たる美しさが悲劇を深めた。特に上妻宏光の津軽三味線と、それに続く二胡は圧巻。謝は三味線の奏法についても、フラメンコのようにしてはどうかとアドバイスしたとのことだが(「歌劇」八月号の座談会による)、複数の奏者による演奏や多重録音を使ったというのにシンプルで、しかも叙情性は豊かで、上妻がめざしたという「凛とした美しさ」が実現されているように思えた。
謝はその美しい悲劇に、春夏秋冬とそれに関わる農事の歳時記を重ね合わせ、琉球から東北に至る民俗舞踊を当てはめ、四季のめぐりと人々の営みを寿ぐという枠組みを作った。その意味で、実に的確にYAMATOはMAHOROBA(本当によい場所)であるとの賛歌であったわけだが、少々気になった点がある。
一つは、郷土芸能研究会の伝統を引き継いだというわりには、民俗的、土着的な色合いが薄いように思えたこと。数え上げれば、インドネシア舞踊のような冒頭から、琉球、九州、鳥取、東北と各地の風俗と衣裳を取り入れていたのだが、物語の後景に引いてしまったのか、民俗舞踊を見せられる時に当然のように期待される身体が共鳴するような昂揚に欠けたように思われた。あるいは、物語の昂揚と同調していたために、舞踊それ自体の昂揚として意識することがなかったのかもしれない。そうだったとしても、舞踊の身体は、物語を逸脱してほしい。
もう一つは、基本的に大多数の観客は、瀬奈が演じている支配者、征服者であるヤマト側のヤマトタケルに寄り添う視線で物語に没入して行くから、何ごともなくても、クマソやエミシは敵役であって、その限定の中で敵役にも見せ場を作らなければならない。しかしながら、エミシとの戦いでサルメ(霧矢大夢)とサダル(大空祐飛)が倒れ、傷ついたヤマトタケルが続くシーンで息絶えるに及んで、多くの観客は遼河はるひや桐生園加、嘉月らのエミシを憎き敵役としてしか位置づけられない。ダンスや歌の一つひとつのシーンを等価に観ていきたかったので、できれば準トップ格の霧矢と大空を揃って瀬奈に随わせるのではなく、どちらかは敵役に回すなどして、敵味方のバランスをとってほしかった。
感心したのは、LEDカーテンを使った映像(奥秀太郎)が、おそらく初めて効果的に使われていたこと。ニライカナイの場面で、水泡が立ち昇っていったり、南の海の色鮮やかな魚たちが林立した帯状のLEDを移動する姿、大粒の雪、落ちる椿などからは、天上界の存在を意識させるような浮揚感さえ受けた。
瀬奈は、序盤ではやや稚気のある幼さを出していたが、終盤では雄々しい戦士としての悲劇を体現、五〇分の中で一人の男の一生を存分に演じきったといえるだろう。他には、大空の声のコントロールの上手さ、風の神シナツヒコ(桐生)のダンスの表現力の高さ、越乃リュウの随所での表情の強さと動きの鋭さ、が目立った。
一転して『マジシャンの憂鬱』は、軽快なテンポの、スタイリッシュなコメディ。侍女三人組(彩乃、憧花ゆりの、夢咲ねね)のドタバタした右往左往ぶりが特におかしい。彩乃が絶妙な間合いと声の高低で、コメディエンヌぶりを発見できたのは収穫。その延長上に、ラストの実にほほえましいハッピーエンドが待っていたというのは、味わいのある芝居だったわけだ。皇太子妃マレークの城咲あいの抑制した的確な演技もすばらしかった。皇太子ボルディジャールに今ひとつ皇太子らしさが見えなかったのは、「けど…」を連発するなどセリフの庶民らしさも一因か。司祭役の桐生は、ちょっと少年のようではあったが、コミカルな演技をよくこなした。シャンドール(瀬奈)の仲間たちは、出番が多い割には見せ場が少なく、残念だった。逆に墓守の未沙のえる、矢代鴻は、役柄もセリフも印象的で、下からセリフが出てくるような姿勢の取り方が絶妙だったといえるだろう。 (2007年8月)
JAZZYな妖精たち/REVUE of
DREAMS
谷正純はどうしたんだろう、としばらく前から思っている。プログラムに載せるポートレート、以前は必ず背広にネクタイだったのに、いつからかラフな服装になった。芝居の中であまり殺さなくなった。そして『JAZZYな妖精たち』では、下院議員選挙から大統領をめざすアメリカンドリーム序章に、妖精物語を起点とする青年たちの絆という物語を絡ませ、ニューヨークに流れ着いた妖精たちをジャズで踊らせるという荒技をかぶせてしまった。
以前からなかなか頑固なポリシーをもった作家ではある。一部では「谷ヒューマニズム」などとも言われているらしいが、登場人物一人ひとりのドラマを個別に書き上げることを重視し、その一つの集約として死に際を美しく描くことを貴んだ。懐しく思い出すのは『アナジ』(一九九六年)で、次々と倒れていく船乗りたちの最期の言葉や姿が印象的であった。そして、親子とか夫婦の情愛の真実を描くために、それが抗いようのないものによって押しつぶされてしまうさまも好んで取り上げた。『ささら笹舟』(二〇〇〇年)もまたそうであった。人が究極の状況に追い込まれた地点であらわれる真実の姿を描くために、様々な趣向をこらす作家だったといえよう。
そのように明確な作劇パターンをいくつか持っているということは、劇作家(と宝塚では呼ばれないのが不思議なことだが)としては悪いことではないと思う。そして谷は近年、さらに新たな何ものかを加えようとしたようだ。その一つが、子どもがそうであると考えられているような無垢に対して、たとえこの世では報われなかろうが、信を置くという姿勢だろう。
パトリック(瀬奈じゅん)とシャノン(彩乃かなみ)が子ども時代そのままに妖精を信じ続けていることは、何度も場面を変えて繰り返され、それに対してウォルター(霧矢大夢)は過去のこととして否定する。その対照を強調し、筋を展開させる過程で、妖精的なるものを信じることの大切さを説く。一方、パトリックは大統領への夢に妖精の力を借りようとしないし、シャノンも自分の病いの快癒を妖精に願わないということで、単なるご都合主義的なおとぎ話に終わることの甘さを回避しようとしているように思える。
しかしながら結果的には、いくつもの相反する価値観をテーマとして絡めようとしたことで、ずいぶんとドラマが中途半端に終わってしまったことも否めない。選挙戦の現実感と妖精たちの場面の落差はひじょうに大きく、シャノンの病いから死という重要なストーリーが脇筋に押しやられた感があるのも、消化しにくい。妖精たちの扱いも、いかにもアイルランドからNYに借りてきたようで、そういう意味では移民たちの居心地の悪さを象徴していた…わけはないか。光樹すばるや越乃リュウ、北翔海莉らは、しどころのない中では精一杯だったとはいえようが、ことにこれで退団の光樹には、名前だけは妖精王と大きな役だが、名誉職のようで、気の毒だった。
パトリックの魅力は、一時はダン(立ともみ)に選挙戦をゆだねるものの、愚直なまでに自分のやり方、自分が最も大切にするものを大切にすることを貫くところ。そしてこの劇での見どころは、一つにはラストのウォルターへの説得の場面ということになるのかもしれないが、は言葉中心の展開でややくどさもあり、むしろ「第十五場 選挙事務所」の「お前はスゲェ」を挙げたい。多少乱暴な言葉やしぐさの中に上昇志向の勢いの強さや若さがよく出ていて、新トップの勢いのよさとよくマッチしていた。
シャノンは、童話作家として成功の緒につくが、病いに倒れるという薄幸な役。彼女が自分の病名を知るのは、妖精たちが自分たちと同じように血が白くなっただけなのに、というのを聞いてだが、これは趣向としてあざとく、病いを言葉で遊んでいるようで、不愉快。見せ場は、パトリックとウォルターの間に入って、命をないがしろにするウォルターに「そんなに命がいらないなら、私にちょうだい!」と絶叫するところ。迫真の強さと悲しさで、彩乃のスケールの大きなすばらしい演技だった。第十場の銀橋での歌「あなたの中で、生き続けたい」も柔らかい動きと歌声が美しく、泣かせどころとなった。
ティモシーの大空祐飛には、不思議なうまさがある。ダンに白紙の小切手を渡された時の大きな笑い方など、世の中と自分自身の深い闇を見切ってしまったような不気味さがあり、秀逸だった。青樹泉が周りをよく見ていい動きをしていたようで、格段の進歩が見られた。
オープニングの雰囲気や色調とメロディに少々違和感があったが、アイリッシュ・ダンスは上昇感があって、すばらしかった。続く霧矢のスキャットはさすがに聞かせた。しかしながら、ラストでパトリックが「みんな、踊ってくれ、シャノンのハッピー・エンドを!」と言ったからといって、ダンらまで出てきて素知らぬ顔で踊っているのは、意味がわからなかった。
『REVUE OF DREAMS』は、トップお披露目公演らしい、サービス満点で組の団結力をアピールするショー。トップから若手有望株、実力派まで、次々に魅力を存分に満喫できた。トップらのバックで踊る北翔海莉、真野すがた、研ルイス、龍真咲らの幸福感、特に龍の強さと華やかさ、美鳳あやのダンスのキレ、ベルベットのような美しい歌声を聞かせた花瀬みずかの実力、楠恵華のスイング感、音姫すなおの高音と憧花ゆりののハーモニーのデュエットのすばらしさ、黒い存在感を遺憾なく発揮した月船さらら、城咲あいのワイルドなダンス、越乃のダンスの中での体の直線の作り方の見事さ、また瀬奈をリフトする強さと両者の形の美しさ、大空の剛毅なほどの強い歌、彩那音が端正な姿に加えダンスに粘りが出てきたこと、嘉月絵理と椎名葵の歌の力強さ、ロケットボーイを務めた星条海斗の陽性な華やかさ。「第五章 砂漠の夢」(振付=KAZUMI-BOY)は舞台美術も美しく、全体に砂が絶えず流れていく様を多くのダンサーで幻想的に描き、個々の実力もフルに発揮させて飽きさせない、いいショーだった。(2006年1月)
「愛しき人よ」
霧矢大夢の「復活」公演として期待された作品だったが、作品の求心性においても、出演者たちの魅力の発揮においても、物足りないものになってしまった。いくつものストーリーが同時並行的に流れているが、それらがうまくかみ合わず、一つの空気を作り出すに至らなかったのが、致命的。たとえば主人公の遠藤和実(霧矢)が婚約者・若菜(夏河ゆら)の心変わりによって「もう誰も愛さない」という心境に至るあたりがものすごく説明的で、かったるい。また、ストーリーの副主題としてでも、女からもらった首飾りが実は運命的なブルーダイヤ(洗剤の名前ではなくて)だった、うんぬんは必要だったのだろうか。「薔薇の封印」と同工にしか見えず、無理がありつまらない。挿入されるパリのショーの展開も上品でないし、演技のバックのダンスにも脈絡がなさ過ぎる。
ヒーローとヒロインの関係というもっとも重要な筋にしても、遠藤とジョセフィーヌ(城咲あい)のロマンチックなシーンが、いつの間にこの二人がそういう関係になっていたのかが描かれていないから、唐突にしか思えない。その唐突な気分のまま「やさしくして、抱いて」というような直接的なセリフが聞こえてくると、興ざめ。だいたい宝塚にはヒーローとヒロインがいつ恋に落ちたのかよくわからないものが多く、それはその二人はあらかじめ恋に落ちるように決まっているからなのだろうが、それに若い作家が寄りかかっているようでは、先が暗い。中国人スパイ凛麗河(美鳳あや)と和実の恋の生成もまったく不明で、行きあたりばったりとしか思えない。ミシェル(楠恵華)は登場も唐突なら、隠していた和実からの手紙を後になってジョセフィーヌに見せるのも不可解で、存在の必要性自体よくわからない。ナチス親衛隊幹部のケビン(月船さらら)が恋人のポーランド人・ミーナ(夏月都)を奪われて復讐を図るくだりで、街灯を消して暗闇で展開するのは、スリリングであることをねらったのだろうが、時間稼ぎにしか思えない。満州を一つのステージとして設定しようというのはわからないでもないが、せっかくの大きなドラマを一エピソードとして使ってしまうことで、わい小化してしまった。とにかく「愛しき人よ」という言葉ですべてを括ろうとするのが強引で、劇の芯としてうまく機能できず、ただの脈絡のない破滅劇に終わってしまった。果ては「愛しき人よ」という言葉が鼻に突いてしまったのだから、劇の効果としては失敗だ。一人ひとりの悲劇をきちんとドラマとして描くこともできなかったのに、一つの言葉で括ることで劇の構成として成立させようというところに、今回の作・演出、齋藤吉正のそもそもの無理があったといえよう。
ピエロ姿のミカエル(憧花ゆりの)、長い腕と、その関節の動きの創り出す形が美しく、見ていて気持ちいい。夏月、なかなか愛らしくて好演といってよいと思われたが、気の毒だったのは、月船が復讐を誓って歌う歌に唱和するのが、わずか二小節程度とあまりに短く、感情を作る前に終わってしまったところ。城咲あい(ジョゼ)はダンスの動きも優雅で、ジョッキー姿も美しかった。演技や動きも問題なく、もう少しいい芝居でヒロイン姿を見たい。紫城るいは川島芳子という謎めいた人物で、おいしい役どころ。歌も存在感も文句ない。軍服姿のシルエットも美しく、狂気の表現も素晴らしかった。
夏河ゆらにこのような役をさせたことについては、よくわからない。まず、人物造型として、ひどい役だ。しかし、そのひどさ、脈絡のなさを魅力につなげられなかったのは残念でもあった。
大きな役ではないが、ボリス(龍真咲)が歌もオーバーな演技もなかなかよかった。大門誠(真野すがた)も立ち姿やシルエットが美しく、凛とした魅力がある。
さて、問題の霧矢だが、歌にもダンスにも冴えが見られず、苦しい舞台となってしまった。若菜に予想外の裏切りを受けたことを知った時のリアクションも妙に浅く、もしこれが紫吹淳だったら、もっと複雑で深いものになっただろうに、などと思ってしまった。また、ジョセフィーヌの父を手にかけたことを告白するシーンで、客席に背を向けていたために表情が見えないのは、いかがか。せっかくの演技の見せどころを失ってしまったようで、惜しかった。
なお、ラストで霧矢が絞首台からどうやら生き延びたらしいことが説明もなく突きつけられるのだが、そこへ現われたジョセフィーヌと久々の再会であるとは、重ねてまったく不可解。霧矢の「俺には何もない」というセリフにも迫真する力がなく、またも、紫吹ならこういうセリフを、どんな無茶な劇でも成立させてしまったのではなかったかと、懐しく思えてしまった。
最後に書き添えておくが、もう宝塚でナチスを出すのはやめてはどうか。これまた「薔薇の封印」とかぶっていたので辟易としたのは確かだし、歴史感覚的に問題だということはもちろんだが、それは置いても、ナチスを出すことによって芝居が薄くなるのは観ていて耐えられない。今回もナチスであるケビンとポーランド人であるミーナの恋というのは、ナチスであっても人間的な感情があることを描こうとしたのだろうが、設定自体が陳腐なステレオタイプで、出て来た瞬間に結末がわかってしまうようなもの。また他のナチス(磯野千尋、青樹泉、紫水梗華)は感情や内面を描く必要のないただの悪役、いわば「悪」という看板をつけた書き割りに終始し、彼らの登場がドラマにならない。芝居の中に悪を置くのは重要なことだが、それがあまりに安易なステレオタイプでは、芝居を豊かなものにはしない。また、明らかにナチスや日本軍の軍服などに対して美的に憧憬する視点があるようで、それが一部の人間を不愉快にさせているということは意識しておいてほしい。
「薔薇の封印」の多くのダンスシーンを見ていて、なるほど紫吹淳はすぐれたダンサーであることを改めて痛感することができたが、その一方で、紫吹の魅力とは、彼女が優れたダンサーであるという枠の中にとどまるものではないことも、改めて認識することができた。
何人かの、いわゆるコンテンポラリー・ダンスのダンサーとしゃべっていると、ダンスとはいったいどのような状態のことをさすのか、わからなくなってくることがある。よく動くことがよいダンスであるのか? むしろ見せたいのは、止まっている時の姿、たたずまいのようなものではないか? そんな「境地」のことを言うなら、動きは手段にすぎないのか……うんぬん。紫吹のダンスを考えることが、実はダンスというものの本質を考えることであるということを、ちょっとゆっくりたどっていきたい。
紫吹はもちろん、さすがに幼少から鍛練を積んだバレエダンサーだけあって、今さら言うまでもなくよく動く。特に、わかっていながら見るたびにいつも驚かされるのが、足を垂直近くに上げる時で、勢いをつけて身体のバネの反発力や遠心力で上げるのではなく、静かに天から引き上げられるように柔らかさそのものでふんわりと上げていくのがいい。安寿ミラでもそうだったが、男役としてのシャープで速い動きはもちろん、必要に応じて緩やかな表情をもった柔らかい動きをとることができるのが、実は大きな魅力であった。
このことはまた、宝塚の男役というものの一つの重要な側面をあぶり出している。男役は女性から見た男の理想形であると言われるが、それだけではなく、女性性の頂点としてのすぐれた属性をも求められているのではないか。それがダンスにおいては、一人の女性ダンサーとしての美点や卓越性をも見せることで(実はそこでは性差など存在しないのだろうが)、男役としての色香がいっそう高まるということではないのか。
もちろん動きの中で「決め」のフォルムがひじょうに美しいことが、紫吹のもつ大きく重要な特質だ。どこを切り取ってもカッコいい。それだけでももちろん大したことなのだが、ぼくたちが彼女にため息をついてきたのは、どうもそれだけではなかったように思うのだ。幸運にも花組の「アプローズ・タカラヅカ!」に特別出演した紫吹を見ることができたのだが、これが大劇場では最後だという感慨に浸りながら、ダンスとして振付された動きを終えたあとの紫吹のしぐさ(動きというよりも)の、あけすけに言えば色っぽさに打ちのめされていたのだった。
ちょっと見た目には、それは銀橋の上で花組トップの春野寿美礼がダンディに歌い踊っているのを、特別出演である紫吹が「若いやつにはかなわねえなぁ」と照れているしぐさのようにも思える。ひじを曲げて片手をポケットに突っ込んで、斜めな姿勢をとる。どこもまっすぐではない感じ。ちょっと目を伏せたかと思うと、天を仰ぐように口をやや開いて上を向く。紫吹のこのような何げないしぐさに、ぼくたちは幾度ため息つき、共に天を仰いできたことか。紫吹の舞台を見たあとでは、やくざ映画を観た後の観客がみんな高倉健や菅原文太みたいに眉間に皺を寄せて「チッ」て言いながら吸い殻を踏みつぶすように、紫吹のまねをして天を仰ぎ、曇っていてもまぶしそうに目を細めてみたくなる。
このようないくつかのシーンで見られた、正面から向き合うことに照れてしまう姿勢を、含羞と呼んでおこうと思うのだが、それはたとえば「長い春の果てに」で手術の結果がわかるのを待たずに旅に出てしまうところをはじめ、芝居の役柄でもたくさん重んじられてきたことは、いうまでもない。しかし芝居の中では比較的わかりやすいそのような含羞が、芝居にとどまらず、ダンスの中でも見られることが、紫吹の魅力の幅を大きく広げてきた。彼女はダンスの動きの中で刻々とフォルムを決定してカッコいいダンサーであることを続けながら、次の瞬間にそのフォルムを崩すことに大きな意味を見いだしてきたように思う。当たり前のことだと思わないでほしい。動きの中でフォルムはもちろん瞬間瞬間に変化するものだが、その変化や移行の中間の過程を彼女ほどきらめかせているダンサーには、なかなかお目にかかれない。最もわかりやすい例をあげれば、カッコいいポーズを決めた後で、フッと息を抜くようにそのポーズを崩してしまった姿を見せられることがある。まるで自らがカッコいい状態であることを恥じるようで、それがまたカッコよさを増幅させる。そうしてぼくたちは、紫吹の虜になってしまった。
どこで紫吹がその、境地のようなスタイルを身につけたのか。それを考えると、やはり再三同じことを書き続けているようで恥ずかしいくらいだが、「ブエノスアイレスの風」に行きつかざるをえない。ドラマとして、人物造型としての特色もいろいろと指摘することはできるが、ここでは、これがタンゴの劇であったことを思い出そう。タンゴというダンスが、その発祥の頃に特徴的だったのは、男女が向かい合って踊るということだったそうだ。しかし、二人が向き合って踊るダンスであるというのに、斜め下に視線をそらしたり、離れて踊ることが多く、男女が互いを乱暴に扱っているように見えることが多いのも、またタンゴ・ダンスの魅力である。視線を斜め下に落とすことで身体の線が複雑な曲線となり、身体がその軸を中心にして、内部に対称点をもつ。そのようなタンゴの魅力が、紫吹淳という存在だった。
二人は向き合うことで、かえって互いが隠さなければならないことを意識させられるように、視線をそらす。それはたいてい過去だったり別の場所に残してきた何かの事情だったりする。そのことを忘れるために踊りはじめたはずだったのに、タンゴというリズムとそれに乗ったメロディのせいでそれを思い出さされてしまった。しかしそれにしても、目の前のこの女はどうしたものか。ああ、この様子ではこの女も、何かわけありに違いない。……紫吹が踊るタンゴというダンスのフォルムの一つを思い出すだけで、そんな物語が立ち昇ってくる。カッコよく、スタイリッシュに踊れることに何の意味があるのか、と自分自身の運命や能力を突き放しながら、傍らにダンスで生きようという女が現われれば、とことんつきあってやる。そんな物語でもあった。
身体が物語をもつのは、なぜか。それでぼくは最初の問いかけに舞い戻ることになる。その身体がそうなら、踊っていなくても、そこにダンスはなくても、何か人を揺り動かすものが立ち昇るのだ。その身体が「そう」であるためには、その身体はできるだけ寡黙であり、クールであり、ストイックでなければならないだろう。誰もが感嘆するようなテクニックはできるだけ抑制され、できればひざを数センチ揺らすだけでいい、もちろんセクシャルな感覚を含めて、それだけで人を恍惚に溺れさせる。そうなるためには、自分の身体だけではなく、それを包む空気を同じトーンに染め上げなければならないはずだ。そういうことができていたのが、紫吹という一人の存在であった。宝塚という、役割が限定されているように思われる世界では、大変珍しいことであった。
紫吹の大きな魅力に、そのクールネスがあった。しかし、その冷静さは表面だけのことで、実際のところ、その奥底にはやさしく熱く、燃えたぎる血が流れていることを、ぼくたちはみんな知っていた。しかしそれを彼女は隠す。そういう表現のできる存在であった。彼女が舞台の上にいるだけで、ドラマが生まれ、風が吹く。そういう気にさせた。花組に特別出演した彼女を見ながら、ぼくはほとんど自分自身に戸惑っていた。なぜ、こんなに彼女にひかれてしまったのだろうかと。それはおそらく、彼女がもっている独特の翳りのようなものに自分自身の中の何かが共鳴するからに違いない。そのようにして、劇場という空間を揺り動かすことができる彼女であった。(宝塚アカデミア21)
花の宝塚風土記/シニョール・ドン・ファン
まず「花の風土記」は、たくさんの細部を楽しむことができた、劇団員個々の魅力をうまく引き出したショーとなった。冒頭、銀橋で紫吹淳、汐風幸、霧矢大夢らが扇をきらめかせる指さばきの美しさは、それぞれに絶品で、これぞ日本物のショーの醍醐味だと思わせられた。
これまでなかなかその魅力を実感できなかった松本悠里についても、長崎丸山を舞台にした「花燈籠」で、腕から指へのさばきが美しく、微妙な上体の揺れも美しかった。竹久夢二らしいアンニュイな雰囲気が的確に出ていて、美々杏里の歌の魅力もあいまって、息を呑むような見ごたえのある場面に仕上がっていた。
「港に咲く花」は、なかなか設定がよく理解できなくて戸惑ったのだが、紫吹の美しくりりしい書生姿が魅力的だったこと、映美くららの眼ざしが変わる瞬間がドラマティックだったこと、最後に遠くを見つめる紫吹のたたずまいに哀愁が漂って美しかったこと、など細部を楽しめた。
続く「花の民謡集」では、やはり汐風の姿の美しさが際立った。冒頭の花笠音頭でさりげなく帯に手をやる形など、おそらくどうとも説明のしようのない、本人にとっては自然なものなのだろう。また、全体の動きがパッと切り替わる時の切り返しが、紫吹を筆頭に鮮やかで、この組は紫吹を中心によくまとまってきたのだなと思えた。
東儀秀樹の音楽で話題となった「石庭」の汐風のすばらしさについては別稿にゆずるが、越乃リュウの背のスッとした立ち方、腰の開き具合、上体の反りが美しく、厳粛さが重畳した。扇で裾をパンと払う音もすばらしく、プログラムではこの者たちは亡霊のような存在であると記されているが、むしろ死を前にした覚悟のような重みがあって、このような素踊りを宝塚で見られたということは、大きな喜びである。
さて、民謡から「栄耀栄華の果て」の人々と来て、歌舞伎誕生だから音楽史的には確かに念仏踊りなんだろうが、これはいかにもきつかった。せっかく若手娘役を十数名も出しているのに、編笠のせいでほとんど顔もわからないし、意味の理解できない居心地の悪いシーンとなってしまった。どうしてもお勉強の成果を発表したかったのなら、セリフやスライドの説明で処理したほうがよかったのではないか。
しかしとにかく、阿国の彩輝直が美しく、山三の紫吹との絡みがいい空気を醸し出しているところへ、紫城るいの歌が不思議な魅力を加えていたのが、いかにも「傾き」という倒錯さえ出しかけていたのは面白かった。考えてみれば、宝塚のもっている本来的な危うさそのものであるのだが、それをふだん宝塚は封印している。こういうところでその片鱗のようなものが顔を出したのは、まことに興味深かった。若衆歌舞伎の大空祐飛がひじょうに色っぽく、松羽目前の霧矢(野郎歌舞伎)が立派だったのはもちろん、左右で歌う嘉月絵理、越乃がたいそう凛々しかったのが目を引いた。
「シニョール・ドン・ファン」は、時節柄「Love & Peace」の処理が気にかかったが、ぼくは個人的に、この植田景子のメッセージの送り方に賛同する。月並みな言い方だが、人はわかりあえなくても許しあえるのではないかというシンプルな祈りにも近い思いを感じることができたように思い、ぼくも一緒にそのメッセージを送りたいと思った。
もちろんそれがメインテーマではないし、ロドルフォ(汐風)一人罪をかぶって終わりかよ、という納得しきれないものが澱のように残るが、かつてちょっとした悪ふざけをしたことが予想もつかない大きな結果をもたらしてしまって、言い出せないまま歳月だけが過ぎ、贖罪の心を抱きながら、始末のつけどころだけを探して当のレオの傍らに居続けてきた男としてロドルフォを見るとき、その大団円としてのピエヴェスタ修道院での告白を、誰が責めることができようか。むしろ、自ら罪を一人で背負ったことで、彼は贖罪の安堵を得ることができた。罪の意識を引きずってきた男が、最後にきっぱりと清算することができたということは、そのあとの再出発に光明が見えたということで、退団する汐風のはなむけとして、逆説的にふさわしい役だったといえよう。このような男の姿を創り出せたところに、植田景子の大きな進歩があったように思えた。
娘役たちに見せ場が多く、光った。映美のラストの人間という存在への問いかけは真に迫っていた。夏河ゆらは、いつも「怪演」気味なのだが、とにかく存在感を発揮したし、美原志帆はおいしい役どころをきっちりと美しく演じきれたのがいい。紫城の田舎娘らしさは愛らしく好感が持てたし、城咲あいは複雑な背景を持つノーブルな女を好演。また、第6場エステルームは、ミュージカルナンバーとして傑作。エステティシャンの穂波亜莉亜をはじめ、娘役のパワーと意気込みが伝わってきた。
最後の「ブラックメール」を手に、死地となるかもしれない場所へ向かうレオ、グラスをあおって上体がグラリと揺れるのが、一瞬信じられないものを見たような気にさせるほど、すばらしかった。空間がゆがんだ。
長い春の果てに/ With a Song in my Heart
いきなりエヴァ(映美くらら)に「世界で一番好きな人!」と満面に笑みを浮かべて叫ばれても、幼いころに父親を失った彼女に、当時インターンだったステファン(紫吹淳)がやさしく面倒を見てやったというような前段が提示されていない以上、頭の中は「?」だらけで、全然ついていけない。作劇上はなかなかの冒険だったといえよう。この唐突さがあったために、好意的に解釈すれば、観る者はステファンと当惑を共有し、一方でエヴァの愛らしい一途なとんちんかんぶりが強調されるわけだから、まんざら失敗とばかりは決めつけられない。実際、十四歳という少女と女の狭間にある女の子の巧まざるコケットリィを映美が全開できたのは、ほとんど暴走に近いようなエヴァの思い込みが、多少のストーリー展開の無理は承知の上でまっすぐに描けていたからであり、それを映美が思いきりよくスライディングするように勢いよく乗っていったからだと思う。走り方一つ取っても、リュックの投げ捨て方でも、こまっしゃくれた少女が一途になったらこんなふうになるのか、と思わせるような説得力があった。
銀橋での歌、「私は、どうなるの?」という問いかけの前後も迫真。この現代の寓話のようなお話の中で、ひじょうに効果的に印象に残っているのは、「勇者のお守り」と呼ばれていたネックレスという小道具にまつわる少し長い展開のストーリーである。エヴァが無邪気にこれを欲しがって、ダメだって言われ、フローレンス(大空祐飛)を招いて失敗しちゃった後で譲ってもらって、本当によく病気と戦ってるよと讃えられ、手術室のドアノブにかけておくことにし、スペインのホテルでの通りすがりにこのことを尋ねられ、という一連の胸を打つエピソードは、風に舞う小さな羽根が描く螺旋のように最後まできらめいているが、これをここまできらめかせたのは、先に述べた映美のスピード感あふれる演技によるものだ。
映美がそのように疾走したから、紫吹は受けに回って抑制気味に演じることになるわけだが、かえってその魅力を存分に見せることができた。今回の紫吹は、歌でも演技でも、一つ一つがとても丁寧だった。病床のクロード(湖月わたる)との対面後の歌は、近年の宝塚の中でも屈指の名唱だが、これを生み出すにいたったのは、全編にわたる抑制が一気にあふれ出る形になったためではなかったか。
紫吹はその分、ショー「With a Song in my Heart」ではその魅力を全開させた。第二章「少年時代」でのいたずら好きそうな少年らしさや、第五章「チャイナ・ドール」での女性としてのセクシーさ、もちろん随所で発揮される男役としてのダンディな姿と、普通ならとうてい並立できないような魅力が次々と展開されたのが、すごい。同じような調子の曲が続いて、やや単調の気味のあったショーを、紫吹が持たせたといっても過言ではない。他にショーでは大空祐飛の腕の形や使い方の美しさ、美々杏里の歌のすばらしさが印象に残っている。逆に気になったのは、第四章「オリエント・ファンタジー」の大和悠河のバックで出てきた四人の中で、月船さららがやや弱く見えたこと(他の三人は、汐美真帆、大空祐飛、北翔海莉)、紫吹のセクシーなハイレグのダルマ姿の後で、映美がいかにも健康的な「サウンド・オブ・ミュージック」で現れたことの落差、決して悪くなかったエトワールの花城アリアだが、もう少しやさしい歌でゆったりと聞かせてくれてもよかったのではないかということ。
霧矢大夢は美容整形外科医としての平和で豊かな生活を守りたいが・・・という懊悩がよく出ていた。このことでステファンと議論する時のセリフのぶつかり合いには強い迫力が感じられ、両者の芝居巧者ぶりが発揮されていた。汐美真帆の歌、大和悠河のタイミングのいい芝居も印象に残る。湖月わたるは悪役が続いているが、前半ではあまり印象に残らなかったのが、奇妙。「改心」のドラマがきちんと描けていなかったせいではないかと思うが。
話題ともなった、二人の男役の女役、汐風幸のナタリーと大空祐飛のフローレンスだが、役柄としてもフローレンスのほうがのびのびと演じられたようだ。それにしても二人とも美しく、また大人の女の魅力をきっちりと出せていたのは、さすがである。特に汐風が芝居巧者ぶりを発揮し、この振幅の大きい難役を的確に演じきったのは大きな収穫だ。
映美は少女性ばかりが強調されるきらいがあったが、大人になったエヴァで目を引いたのは、ピアノの前で「大人になったら、ここに」とキスを促すところの、ひじの角度、背の傾け方など、形としてひじょうに美しかったところ。これを受けたステファンの声にもあまりにも多くの時間と思いがこもっているようで、すさまじいものがあった。
そうそう、ショコラのレシピは、ぜひとも教えてほしい。
ガイズ&ドールズ
オープニングの群舞から、何だか隅々まですごいエネルギーがあるな、さすが月組はブロードウェイ慣れしているんだと思ったら、最前列でひときわ鮮やかに動いているのが、越乃リュウ。全国ツアー「大海賊」でこれまで彼女に注目していなかった不明を恥じてしまったのだが、今回は初めからその魅力を再確認する作業ができたのが、うれしかった。
彼女のダンスの魅力をあえて説明すれば、空中での姿勢の美しさ、ことに軸足ではないほうの足が、まるで羽根のようにはばたいて見える。瞠目である。身体を斜めに倒す角度も並外れて深いのに背の直線に乱れはなく、すべての瞬間を写真にして残しておきたいような美しさだ。動きのすべてが意味ある角度をもち、その場面に必要な何ものかを物語っているように見えるところがすごい。芝居でも発声はきっちりとしていて柄が大きく、見ごたえがあった。
フィナーレの大階段でも、トップの隣りできっちりと抑えのある動きで、久々のまともな名脇役の予感。「歌劇」一月号で座談会初出席と拍手を受けていたようだが、入団九年目にしてこういうスターが現れるのだから、宝塚は深い。
作品全体については、さすがに最初から最後まで隅々まで楽しく、幸福感に満ちた名作。紫吹淳・映美くららのトップ・コンビは、大劇場ではお披露目とはいえ、何の危なげもなく、久々のラブラブ・コンビとして熱いムードを振りまいていた。紫吹はやや歌で苦しそうな日もあったが(会期の序盤から中盤)、それを補って余りあるスタイルを存分に見せてくれた。第一幕ラストで、路面をクソッとばかりに蹴りつける後ろ姿、下水道の場面で「金以上のものがかかってるんだ!」と切るタンカ、唇をかみしめるような悔恨の表情、もうそれだけでじゅうぶん陶酔させてくれる。
映美は、第二幕の硬さに工夫の余地がないものかと思わないでもなかったが(会期終盤にはかなり表情が出てきた)、泥酔シーンの水際だった鮮やかな思い切りのよさと、救世軍で登場する時の愛らしさで、おつりが来る。シンバルを叩く映美の人形があったら、ほしい。フィナーレのデュエットで紫吹にリフトされ、空中から紫吹を見つめる視線の熱さがいい。
そしてやはり霧矢大夢のアデレイド。彼女が現れると、途端に舞台が華やかに厚みを増し、ザッツ・エンターテインメント!!っていう気分になる。この作品を観た人には、何も改めて説明する必要がないと思われるぐらいで、ライターにとっては楽なのか酷なのか。そこそこ年齢を重ねていて、なおかつとてもチャーミング、という難しい役どころだが、キュートに演じ通した。
ネイサンの大和悠河は、スカイより年長に見えるかとかいろいろと心配されたが、別にそんなことを気にする必要はなく、チャーミングなネイサンができあがっていた。このネイサンがよかったのは、金欠で賭場も手配できないギャンブラー、アデレイドに圧されっぱなしの情けない万年婚約者、というダメな部分をためらうことなく出せていたからだ。注文をつければ、「下水道のクラップ・ゲーム」の場面でビッグ・ジュール(汐美真帆)に無理無体を突きつけられるところでは、もっとキレてもよかったのではないか。一転攻勢に出ようというところで、グッと大きさを出せれば、本当にスターだと思わせられたのに。
大空祐飛(ナイスリー・ナイスリー)は、そんなネイサンの子分格の仲間のようだから、ネイサンとのバランスからどうしても小物に見える。そのあたり、大空はある意味で逆手にとって、愛すべきチンピラとして役作りをしたのが成功した。歌にはさすがに力があり、大きな存在感をあらわすことができた。
月船さらら(ベニー)、北翔海莉(ラスティ)もよくやった。歌も動きもよく、月船のわざとO脚にデフォルメした面白さ、北翔の何とも情けなさそうないい人ぶり(?)が舞台をよく締めた。
汐美のビッグ・ジュールは、もっと異常で不気味な雰囲気を出してもよかったとは思うが、おかしな一面を強調することによって適当な奇妙さでとどめたところが、まあちょうどよかったといえるか。
瀧川末子の思いきったダンス、紫城るいの動きのよさ、美々杏里の特にフィナーレのカゲソロの素晴らしさ、嘉月絵里の落ち着いたセリフ回し、夏河ゆらの「怪演」の素晴らしさなど見どころはあったが、ちょっと主な配役以外はしどころがなかったかもしれない。
通しで指揮を担当した佐々田愛一郎の浮遊感のある指揮ぶり、終演後の短い演奏で客席から拍手をもらってにこやかに手を振るオーケストラのメンバーの笑顔も印象に残っている。また、線遠近法を強めたセットによる空間の鋭角的な広がりも、ブロードウェイらしい緊張感があって、紫吹のスタイルによく似合っていた。
それにしても、改めてさすがに月組はブロードウェイ・ミュージカルに強い。これほど組替えや新専科の発足やらで組のカラーが希薄になっていると言われるのに、特に群舞で強く「らしさ」が出ていたのには驚いた。これには、やはりベテラン陣が一貫して醸成している組のカラーというものがあるといわずにはおれない。劇団全体としても、こういうものを大切にいってほしい。
大海賊/ジャズ・マニア(浜松公演)
映美くららが素晴らしいとまず思ったのは、楽しさ、うれしさ、憧れが率直に伝わってきたことだ。これは彼女が出てくる場面すべてで強く伝わってきたのだが、ことに二人が船上で初めて出会った場面(第14場 船上での出逢い)は印象に残っている。
まず基本的に役作りがきちんとできていた。「私のことなど、もうどうなってもいいのです」というセリフあたりから、役がぴったりと彼女自身に付いていて、不自然なところがなく、ひじょうにいいトーンでドラマが展開しようとしていることがわかった。そして何よりもエミリオ(紫吹淳)にどんどん引かれていくさまが、手に取るようにわかった。出会いの視線の交錯が劇的であった上に、エミリオがエレーヌ(映美)に問われて、なぜ海賊になったかを語るシーンは、ただ語られている言葉の内容を超えて、無言のエレーヌが雄弁に愛の始まりを語っていたという点において、ひじょうに完成度の高いものとなった。心の動きが観る者にまっすぐに伝わってくる。だからセリフにも力がある。
同じことはショーでも遺憾なく発揮される。視線の投げ方一つとっても、ホール全体に行き渡り、天賦のスターであるようにさえ思えた。そして、これは宝塚にとってひじょうに大切なことだが、何だか久しぶりにトップの男役と娘役がラブラブなコンビを観たような気がする。ダンスとしての動きがどうこうという以前に、挙措動作、立ち居振る舞いがひじょうに美しく、現れただけで光を帯びている。他の娘役と同じ動きをしているはずなのに抜きん出て見えるのは、身体の直線はあくまでストレートに、曲線はいっそう優雅に、ということができているからだ。動きの細部に神経が行き届き、また行き届いた神経を美しさに反映することができているから、彼女が動くと空気が変わる。眉間に寄せられる皺の一つ一つさえいとおしい。
そのような娘役を得て、紫吹淳はノリノリだ。少年として初々しい姿も見せてくれたし、船長としての宣言も力強かった。マントの扱いは鮮やかで、エレーヌにカードを引かせて船に残すあたりの、侠気にあふれた断念の厳しさは水際立っていた。繰り返しになるがこれは、本当にエミリオとエレーヌが強く運命的に引かれ合っていることが手に取るようにわかるからこそ、エースのカードを引いた時に観客も共に深く落胆してしまったのだ。
ショーでもシャープでダンディな姿を見せた。「シャレード」など映美とのデュエットは心とろけるような思いをさせてくれたし、ダンサーとしての本領を発揮させた「ブルース・イン・ザ・ナイト」では、宝塚の男役の動きの美しさを、余すところなく全身で見せてくれた。紫吹のたとえばターン一つとっても、速度だけではなく、タメやブレーキの利かせ方によって、時間の流れを止めてしまうような艶と色気を帯びている。そのせいで観る者はその動きが現実の時間を超えて流す時間の中に引き込まれ、陶酔していくのだ。歌でも、やや抑え気味にすることで、ハスキーな魅力を倍加させていたのがよかった。
それに対して、客席を圧しようとしてか奇妙に大きな声を出し、逆に客席を引かせてしまうようだったのが、大和悠河。東京公演を観ていないので、役替わりの比較はできないが、ことにショーでは歌の弱さが露呈。声を大きく出すことで音程等が安定すると思ったのか、あるいは芝居で本役の湖月の歌唱法を曲解したのか、張り上げるようなメリハリのない歌い方では、歌の心や存在の大きさが出ないばかりか、舞台の空気を壊し、他のスターにも迷惑だ。いわゆる「ぶち壊し」というやつ。先日の新人公演で歌に進歩が見えたと評価したが、不明を恥じるしかない。
それでも、救いはあった。越乃リュウ、その人だ。まず芝居では、大和の脇にいながら、粘りのある歌、ダイナミックなダンス、何ともいいクセのある所作で、やや色の濃い悪役に、みごとにはまっていた。最近こういう味のある脇役が少なくなったと思っていただけに、強く魅かれた。
霧矢大夢は、ことにショーで大活躍。「A列車で行こう」「42nd ストリート」「シャレード」の熱唱は、強く耳に残っている。GIのダンスもシャープで素晴らしかった。芝居で、客席に乱入して「好きだー!」と叫ぶあたりもパワフルで、やはり観る者を引き込みがっちりと掴む力があるな、と再確認した。
北翔海莉がぐっとよくなっていた。何より表情が生き生きと豊かになっていたのがいい。歌の声も素直に出ていたし、演技が自然で、無理せず笑いを誘えていたのは、たいしたもの。研ルイス、青樹泉の身のこなしに、目を引くものがあった。
娘役の歌で、瀧川末子、花城アリアが目立っていた。また、穂波亜莉亜が歌を含め、艶もパンチもある強い存在感を示せた。花瀬みずかは、勝ち気でチャーミングな役を愛らしくかつ強く演じることができていた。また、光樹すばる、夏河ゆら、美原志帆らのダンスが優雅で宝塚らしいゴージャスな雰囲気を出していたのも、よかった。
「更に狂はじ」
精算してみれば、いい作品だったということになる。なるほど、役者の魅力はかなりうまく引き出せていたし、世阿弥とその息子たちというなじみのない人物像、南北朝の合一を図る人々と宮廷の強大化を好まぬ足利家という、複雑で多くの人に予備知識のない時代背景である割には、精一杯よくまとまっていたような気がした。しかし、やはり時代の政治的背景や複雑な人間関係は、もう少し整理されているべきだった。登場人物の複雑な人間関係を自分なりに解きほぐし、改めてオリジナルな織物に紡ぎあげていくという作業は、作者にとって気持ちのいいことだろうが、その世界に一番親しく詳しい自分自身を尺度に芝居を作ってはいけない。それにだいたい、観客は観世の家と足利将軍家との確執を見に来ているのではなく、スターの輝きを見たくて来ている。
霧矢、大和以下の出演者はよくがんばっていたが、見終わっていま一つ満足感、充実感に欠けたのは、作品自体が劇のヤマを作ることに成功しなかったからだ。先ほども述べたように、人間関係が複雑だった分、作品を通じてほとんど常に新しい情報が与えられ、多くのドラマが提示され、それは「千のプラトー」ではないが、高原の連なりのように絶えざる緊迫を観る者に強いた。そういう意味でぎっしりしたドラマではあった。しかしながら残念なことに、盛り上がりっぱなしということは、その割には山が小さいということでもある。
それはまた劇の構成以外にも原因があったのかもしれない。大和悠河、霧矢大夢という二人のスターを微妙なバランスで使わなければならなかったはずだからだ。実際、どちらのひいきということではなくとも、観世元雅という世阿弥の実子(大和)と元重という養子(霧矢)のどちらをどう見ていくかで、この作品の見え方はずいぶん異なった。
とはいっても、もちろんこの作品のピークは、元雅が元重の手に持たせた刀で自害のような形で落命するシーンに決まっている。だから問題は、この血のつながりはないが仲もよく芸の上ではライバルであろう二人がなぜこのような運命に翻弄されなければならなかったか、そこにみづのえ(白羽ゆり)という女性がどう関わっているか、そのことからどのような哀しみがこの三人を中心とした人々にわき起こるか、がいかに適切に作品の中で描かれ、スポットを浴びるように鮮明に照らし出されるかにかかっていた。肝心のこの点を、作者は急ぎ、端折ってしまったように思う。
最も端折られてしまった感のあるみづのえの白羽は、それでも「せねばならぬことが」ある女性らしく、視線に力があり、歌も特に中音部の伸びが美しく劇的で強かった。踊りにもいい表情が出ていて、文句ない。姿も美しく、何拍子も揃ったレベルの高い娘役のホープだ。
追われて上皇の許へ行こうとする彼女を「今ならどこの誰とも知れぬ身になれる」と説いて逃亡を勧める錦木御前(星里未子)の科白が、実のある素晴らしいものだった。結局みづのえを義円(箙かおる)らに渡す間諜の槐木御前(瀧川末子)も冷たく抑えた役柄を好演。錦木の言葉を受けて「私が、どこの誰とも知れぬ身に…」と呟くみづのえを意味ありげに見る小さな表情の変化で、大きなドラマを予感させた。独特の美しさが出てきたようで楽しみだ。冒頭の千代童の宝生ルミがキラキラして初々しく、目立った。ここの陰ソロを務めた北原里麻が艶のあるいい声をしていた。
霧矢については、どの場面をとっても素晴らしく、言うことがない。第一幕ラストの歌で高音が微妙にふるえるところなど、理性や解釈を超えて観る者の身体に直接響いてきたものだ。ポスターやプログラムでは、もちろん大和の扱いのほうが大きかったが、観終わった多くの者は、霧矢のほうから強い印象を与えられて劇場を後にしたのではなかったか。
大和も主に芝居のうまさで見せた。特に「私には、この狂うた男が救われようとは、とても思えないのです」といった「弱法師」をめぐる言葉には迫真の力があった。仙洞御所で井筒にこと寄せてみづのえと語り合う場面は本当にみずみずしく、いい若さが出ていた。踊りも霧矢とは対照的な一種の柔らかさがあり、健闘したといえるだろう。
北畠満雅の大樹槙が粘りのあるいい歌を歌っていたのは、発見。いかにも三男坊といった元能(遼河はるひ)と久秋(一色瑠加)のコンビが面白く、いいアクセントになっていた。萬あきらの歌を久しぶりに聞けたのはうれしかった。他には、彩那音、眞宮由妃の姿の美しさ、北嶋麻実、名城あおいといった実力派の好演が目立った。
「プロヴァンスの碧い空」
クリスマスのドラマシティの公演といえば、ちょっとお祭り気分の軽い「いい話」にしてちょうどいいんじゃないかと誰しも思うだろうが、太田哲則作・演出の「プロヴァンスの碧い空」は、そんな配慮の全くない、どっしりと重厚で暗鬱な、本格的なドラマだった。率直に言って、この作品を宝塚の枠の中にとどめておくのは惜しい。広く演劇関係者に観せたい。切実に、そう思った。
暗転の処理の美しさ。たとえば第一幕のオーギュスト(真山葉瑠)とアンドレ(紫吹淳)の決闘のシーンを、暗転の中、音だけで「見せた」ところ。その結果オーギュストが落命し、アンドレに禁錮刑が下る判決の場面も、また暗転に台詞だけが流れるものだった。暗闇は観る者を内向させる。太田のこの暗転の意識的な多用は、劇に闇を取り入れ、流れを堰き止め、観る者が立ち止まって自ら劇の中に入り込み、シーンを創り出すことを要求する。それによって観る者はますます劇に没入し、劇場が空間としての求心性をもつ。
驚かされたのが、幕開き直後の回想シーン。観る者にとっては予告として現れるわけだが、これには二つの効果があったといえよう。一つは、時間の混乱。もう一つは平凡だが重要なことで、その台詞なりシーンなりが後で現れたときにそこがポイントだったことを指し示す働き。その結果、観る者の脳裡で一つのシーンや台詞が幾重にも響き合い、増幅する。
その上に、いくつかの緊密な仕掛けがシンメトリーのように仕組まれている。全体は二つの小説を組合わせたものでありながら、Chez Albertという居酒屋兼ホテルで船出を待つ間の回想としてきっちりと収められている。Chez Albertは第一幕冒頭、第二幕冒頭、そしてラストと、三度出てくる。
三度出てくるものは、いくつかある。たとえば決闘。アンドレはオーギュストと決闘してその命を奪い、アラン(大空祐飛)の決闘の申込みをはぐらかし、フィリップ(初風緑)とも決闘せざるを得ない状況に至らんとして、ジェルメーヌ(美原志帆)がエディット(北嶋麻実)に撃たれ息絶え、決闘も流れる。ジェルメーヌと通じた青年も、アントワーヌ(大樹槙)、アンドレ、フィリップの三人ということになる。こんな数字合せは遊びに過ぎないが、そのような形式美を探り当てるのもまた一つの楽しみなほどに、時間のすべてがスリリングだったのだ。他にも、ソファの下の櫛の再現、世間の噂の処理、遠くで響く銃声など、いくつもの効果や仕掛けがちりばめられていて、何度も唸らせられた。
このように構築的な形式美を張りめぐらした上で、劇はアンドレの運命の変転を大きな振幅で不安定に流れていく。紫吹は、まだ世間慣れしていない学生を、チャーミングな瞳をクルクルきらめかせて若々しく愛らしく演じたかと思うと、あっという間に年上の女性との禁断の恋の歓喜に身を委ね、その快楽に身を焦がしている。あんな青二才がいつの間に覚えたのかと思うほど、その抱擁は獣のように情熱的で愛撫は激しい。そして外人部隊に入営した彼の痛ましい落魄の姿。第二幕で小作人を叱る経営者としてのクールな有能ぶりは、心を凍らせた末の仮面なのだと容易に想像させるものだった。そしてすべてを放擲してしまったような、再びの激情。紫吹淳という多面体を余すことなく表出させた。
美原志帆は、よくやった。ジェルメーヌが、いつも愛されていないとダメな女であることを納得させるだけのはかなさ、あわれさまで表わしえていたことには、驚いた。繰り返すが、紫吹との抱擁はおそらく宝塚では稀な濃厚さを振りまくものだった。アンドレに比べると終始同じ姿勢を崩さないので、しどころがなさそうに見えるフィリップの初風だが、これも「守る」ことの凄絶ささえ滲ませていたようで、好演。鳴海じゅんがいいシーンをもらって、十分に応えたといえよう。北嶋麻実が今回は女役で、錯乱の姿には鬼気迫るものがあり、芸達者なところを見せた。紫城るいが可愛らしいだけではないいい味を出しかけているのも頼もしい。大空祐飛がやや損な役に回ったが、いつもそこここにいそうな、リアリティは出せていたと思う。叶千佳も、何も考えていなさそうなのに突発的に行動する若さを、よく体現していた。
音楽(吉崎憲治)がまた素晴らしかった。たとえばアンドレの母シモーヌ(梨花ますみ)の誕生日を祝うパーティの場面で、やや不協和音気味の不安を煽るアカペラが、やがて美しく響き合ったかと思ったら、そこにヒソヒソと会話が混じる展開には、実にハラハラさせられた。また、公園で伯母のカトリーヌ(邦なつき)がアンドレに「薔薇に魅かれるのは当然だが…」とジェルメーヌとの仲を警戒した後の歌、高低の差が激しい難曲と思われたが、邦がみごとに歌いきったのは当然とはいえ、この劇のトーンを的確にあらわすような不安感を煽る旋律で、時間と空間を定めえた。梨花や邦、それに萬あきら、真山葉瑠がしっかりと脇を固めていたことは、いうまでもない。
プログラムに藤井大介自身が書いていることではあるが、これは要するに野田秀樹の「から騒ぎ」だったわけだが、そうであったことと、それをこんなにまで咀嚼しえていたことについて、小田島雄志の指導があったにせよ、やはり画期的なことだったと言わざるを得ないだろう。ぼくなどは、なんだか野田版に似てるなぁと思いながら家に帰ってビデオを見、改めてその近さに気づいたという間抜けな観客だが、野田版を鮮烈に覚えている者なら、星野瞳が「姉のパール」と口にした時に、その樹木希林の抑揚とほとんど同じであることに、いささか鼻白んでさえいたかもしれない。
その線で言えば、これは「銀ちゃんの恋」が「宝塚で初めてのつかこうへい」だったように同様、「宝塚で初めての野田秀樹」ともてはやしてもよいのだが、「銀ちゃんの恋」が宝塚やつかという枠を超えて感動的だったほどには衝撃的ではなかったのは、ストーリーの性格によるもので、これはこれで小洒落たいい出来だったことに違いはない。シェイクスピア劇という枠を生かしながら、野田が相撲の世界に転じて描いたように、音楽業界に舞台を設定したことで、劇の骨組みがしっかりしていたことで、安心して観ていられたことが大きい。何よりも賞賛すべき点は、美意識がしっかりしていたところで、特に道化たちの扱い(衣裳や化粧を含めて)が舞台空間を引き締める重要な要素となった。幕が上がる前から道化たちが客席を跳梁し、客いじりで観る者を喜ばせる。徐々に明るくなるステージにシルエットになる彼らの姿が美しく、またフィナーレの後のオルゴールの人形のようなシーンも合わせ、作品に額縁を作ろうとするような洒落っ気に、センスのよさをうかがわせた。
一部で辟易された駄洒落の連発も、ずいぶん野田版を踏襲していたが、けっして上滑りにならず、シェイクスピアの喜劇の雰囲気と思想をうまく出していた。この駄洒落は、単なる言葉遊びであるという一面と、ほんの一言の思わせぶりな言葉(そして「オセロー」から巧みに取り入れた、たった一枚のハンカチ、等々)が人を恋に陥らせてしまったり、嫉妬の渦に巻き込んでしまったりするという面をみごとに描き出している。人の心をもてあそぶ効果的な小道具として、実にうまく機能し、シェイクスピア~野田の系譜を正統的に引き継げていたといえよう。
野田版で斉藤由貴がやった役をルビーという役名で叶千佳が演じたが、これはよくやった。欲をいえば、斉藤がたどたどしさを残しながらの超早口という、何とも奇妙なしゃべり方を会得して、幼くて、こまっしゃくれてて、賢そうに見えるけど本当はそうでもなくて、でもからだだけは一人前、という絶妙のアンバランスを体現したのに比べれば、ちょっと抜けが足りなかったような気はする。でも、アゴを突き出して機関銃のようにポンポンしゃべり倒す感じは、とても可愛かった。課題の歌は、自分でやや臆病になっているようなところが気にかかるが、慣れが必要なのだろう。歌を短めに切って「ニャン」と終わるところなど、可愛さ爆発、という感じ。
大空祐飛は、純情を通り越してシャイで無口なロッカー、ブルースを演じて秀逸。もともとちょっとイカレているのが「姉のパール」にぞっこんになったせいでますますイカレて、夢見てしまっている表情がひじょうに魅力的だ。といってもけっして三の線だけではなく、ギターを持ったところなどロッカーとしての姿が美しく、近ごろの人気の急上昇を納得できた。
初風緑のシャープさが光った。プレスリー・ナンバーでは低音部のシャウトも「Love me tender」もよかったし、酔っぱらった姿の思いきりのよさ、ブルースを殺そうと決意するところの強さ、ブルースと闘う最中に「あいつはもしかしたら悪党じゃないのかもしれない」と呟く戸惑いの表情など、見せ場をよく自分のものにしていて、しびれた。
パールの星野瞳もよかった。前述のように野田版では樹木希林が思い切った醜女役として演じとおしたのに対し、そこまで醜くも老けてもいないので、ブルースがパールのことを「美しく見えないんですかぁ!」とロッキーらに訴える場面で、もう一つ笑いを取れなかったのは残念だったが、芝居の間のよさ、とぼけ具合、ふとしたさびしさが見える表情の素晴らしさなど、達者なものだ。どんな事情によってかは知らないが、このような人が宝塚を去ってしまうことを本当に残念に思う。ドレス姿の美しさ、歌は言うまでもなく絶品。
他には、狂言回し役の二人の道化(三杉千佳、あゆら華央)、牢屋に入ったライト(鳴海じゅん)の歌、随所で可憐で豊かな表情を見せてステージのアクセントとなった湖泉きらら。
地方公演(全国ツアー)を見たのは初めてだったので、いろいろと戸惑うことはあったが、制約のある条件の下、日々一定のテンションを保っておくのは大変なことだろうなと思った。冒頭の舞踏会が全体になんだかギクシャクしていて、ワルツの流れに乗っていないように見え、実のところ不安を抱えたまま劇は始まったのだ。
そんな条件下で事実上のお披露目となる檀れいに注目が集まるのは当然のことで、こと檀に関していえば、適役に恵まれ、まず順調な滑り出しだったといえる。歌もダンスも少なくとも難はなく、可愛く哀しい、初々しいマリーだった。
とはいえ、雪組の新公の頃から指摘していた首の位置の悪さは相変わらずで、せっかくの美貌が半減している。そしてもう一つどうしても指摘しておきたいのだが、白城あやかのマリーに比べると、キラキラした輝きが乏しかったように思う。無邪気で大胆で、こわいものを知らないうちに悲劇に急転していった運命の綾をもったマリーを演じきるためには、少し臆病に見えたのが残念。しかしそれも、首がすくんでいるということが影響していないとはいえない。形から見えてくるものがある。直せるものなら、まず形から直してみてほしい。
演技では、ドイツ大使館の舞踏会でヨゼフ皇帝(立ともみ)に、これだけの美しさならどこへ行っても幸せになれる、と言われてキョトンとしている表情、ルドルフに「帰ることのできない旅だ」と言われて初めてのように驚いてみせるところなどで、画期的な幼さを見せた。この舞踏会では、ステファニー皇太子妃(美原志帆)、ジャン・サルヴァドル(汐美真帆)、マリーの視線の交錯が見事だったが、マリーに焦点を当てれば、自らの幸福が他人の不幸であることを初めて知った少女の驚き、悲しみ、戸惑いが出せていたように思う。おそらく檀は、マリーがこの日初めてすべてを――自分の運命のすべてを知った、というドラマを設定しえたのだろう。
旧来のファンには失礼だが、今回ぼくは初めて真琴つばさの大きさがわかった。冒頭に述べたような悪い条件をものともせず、かえってそれを逆手にとってけっこうベタなアドリブを入れたり、檀の体形(顔の形など)をネタにしたり、かくれんぼのシーンで「ローンウルフ」を肴にして観客をほぐし、客席の中に入っていく姿に、呆気にとられ、驚嘆した。懐の深さ、サービス精神の豊かさに余裕が見られ、端々にちょっとしたスキを見せながらも、観客の心をぐっと引き寄せ、鮮やかにつかんでしまうのは、天性のものなのだろうと思った。眉間に寄せた縦じわも色っぽく、何よりもルドルフの思いつめた悲壮感が出ていたのがよかった。
汐美真帆の額に一筋かかった髪が色っぽく、ミリー(花瀬みずか)への呼びかけのやさしさ、最後の遺書を読む場面の重々しさなど、台詞回しにも工夫の跡が見られた。美原志帆の冷たく高慢ないらだつ姿、視線の強さ、背中の美しさに見惚れた。エリザベートの夏河ゆら、しみじみとしていた。台詞の第一声と次の声に大きな落差を与えて劇的に聞かせるところなど、達者なものだ。千紘れいかのマリンカは期待通りの美しさ。下半身のラインが非常にセクシーで、ルドルフが背中に回す手がいやらしくてよかった。ただ、地声に比べて裏声が弱いのが気になるところ。
ロシェックの光樹すばるはうまく抜けていてよかったが、ブラッドフィッシュの大和悠河はちょっと勘違いか、はしゃぎ過ぎ。ツェヴェッカ夫人の北原里麻は、艶のあるいい声をしているので、台詞回しにもう少し磨きをかけたい。隅っこだが、モーリスの楠恵華が実にいい表情で控えていたのが目立った。
ショーは、冒頭で男役たちの膝の返しがかっこよくて、魅せられる。大和悠河が黒エンビ姿にいい押し出しがあって、ちゃんと見せているのがすごい。歌では相変わらず苦しんでいるが、この太い声は、艶はないとはいうものの、安定すればいい味が出せるのではないか。
表情が乏しいかと心配された檀だが、美しさのつりあいにおいてももちろん、演技の面でも初々しさや悲壮感や様々な色を出して真琴によく合っていたようだ。そのことが、何よりもこの公演の収穫だったと思う。他と比較しても、いい役でお披露目をさせてもらったといえる。
「黒い瞳」で第一に印象に残っているのは、舞台を幾何学的に切っていく空間構成の美しさだ。コサックたちが円を作り、トリオが三角を作り、そして雪の精が直線的に横切る……と、はっきりした空間美を打ち出せた点に、謝珠栄を演出・振付に起用した意味があった。この美しさは、コサックが気勢を上げる場面、戦闘の場面など随所に見られ、ぼくはコサックたちの志の真っすぐな強さや、彼らが敗れていく悲しみに深く打たれた。空間的に構図が美しいということは、劇の構成が堅牢だということと通じている。実際、この劇はトリオの三人(嘉月絵理、霧矢大夢、大和悠河)を扇の要のようにして、見事に大きく広い空間を持ち得たといってよい。
ニコライ(真琴つばさ)は、ペテルブルクから辺境に赴任し、いろいろののちに郷里に帰ることになるが、その一歩手前で再び戦線に加わり、スパイの嫌疑をかけられてペテルブルクに召喚され、再び女を探して辺境に走る。この扇の弧のような大きな地理的な揺れが、この劇をドラマティックに締めている。
その扇の弧は、またマーシャ(風花舞)も同じく辿らなければならない道のりだ。あえて付け加えれば、彼女は出自という点でも、コサックと白系ロシアとの間を大きな振幅で揺れ動いた。コサックの娘として生まれた彼女が拾われてロシア人の娘になり、思う人を得てコサックであることを打ち明け、コサックの大将(プガチョフ=紫吹淳)に育ての親を殺され、当の大将のおかげで救い出され、今度はニコライを救うためにコサックであることを打ち明けて結婚をあきらめ、辺境に身を隠す。このような激しい運命の弧の変転をひたむきに受け止め立ち向かう姿を、風花舞はただただけなげで美しく愛らしく演じた。
この長く大きないくつもの扇の弧の中で、最もぼくたちの印象に残っているのが、ニコライがマーシャを救い出すためにオレンブルグから辺境ベロゴールスクへ向かう途次で、ニコライとプガチョフの二人が橇に乗って雪の中を進む、あの第十場前半だろう。この場面は、舞台美術も照明も曲も歌も振付も役者も、すべてが実に素晴らしい。二人の運命が交わり、やがて離れていくのをみごとに収斂させている。求心的な舞台美術の中で、トリオが三頭立ての形で橇を引き、鈴を鳴らし踊るのは、眼前の光景が象徴的な加工を施されて二重に映し出されているような厚みをもった時間となっており、堪能した。
天下の半ばを手中に収めたように意気上がるプガチョフ。捕らわれて絞首刑になるはずのところを、二度までもプガチョフに昔のよしみで助けてもらったニコライ。二人の運命の矢の向きは対照的だ。本来なら完全に上下の関係になるところなのに、まるで同志のように率直に胸の内を吐露しあう。そんな屈託のなさを素直に出せるのが、真琴の美点だ。
あくまで背筋を立てて威儀を正して話すニコライに対して、プガチョフは上体を振り子のように揺らして話すし、抑揚の大きなしゃべり方で、あくまでアウトローであることを強調する。これも紫吹の真骨頂だ。紫吹はこういう大きさを実にうまく見せる。最初に現われたときは乞食同然だったのが、ピョートルⅢ世を名乗ってロシア国家を揺るがし、やがて戦い敗れて反乱者として処刑される。ここにもまた大きな運命の振幅がある。プガチョフは自らそれを引き寄せ、半ば自らそうなることを知りながら夢を潰していった。
こうして見てくると、マーシャとプガチョフが運命の大きな揺れに激しく左右されていたのに比べ、ニコライは浮沈が浅いというわけではないのに、いつも淡々としていたように思える。このような、運命を淡々と受け入れ見送り、流れ去っていくのを眺めているような、ぼくは村上春樹の小説の主人公に相通ずるところがあると思っているのだが、そういう青年を演じさせると、真琴の右に出る者はいないのではないか。
サヨナラとなった風花舞の魅力の片鱗は、随所に見られた。雪中で倒れているニコライの耳許で「だめよ、眠っては」と囁いてタンタン、とタンバリンのように鼓を打つ雪の少女としては、愛らしい衣装に身を包んで原初的なダンスの力を発揮した。つまり、彼女が踊り、鼓を打つことで、一人の生命が救われ、物語が開いた、ということだ。他のシーンも含め、風花舞というダンサーが、ダンスに基本を置きながら急激にすべてに力をつけていったこの何年かを振り返ることができた。
樹里咲穂の真に迫るのっぴきならない選択には、目頭が熱くなった。西条三恵もよく応えた。初風緑の徹底した暗さ、成瀬こうきの真っすぐさ、藤京子の美しさ、名城あおい、大和悠河が記憶に残っている。
ショー「ル・ボレロ・ルージュ」は、少々期待外れ。紫吹淳の大車輪の活躍には堪能したが、他の若手に少し分け持たせるということは考えなかったのだろうか。
八月六日 於・シアター・ドラマシティ(梅田)。作・演出=正塚晴彦。
紫吹淳の主演で、以前星組が大劇場で公演した正塚氏の「二人だけが悪(わる)」の後日譚であると聞いていた。「二人……」で紫吹はアリシア(白城あやか)が面倒を見ている教会の孤児たちのリーダー格で、ゲリラではなかった。
矢代鴻の味のある歌、那津乃咲の目の使い方の上手い「いい女」と、大人っぽい雰囲気を出して劇のトーンを定めた後、「タンゴは踊れるのか」とニコラス(紫吹)が尋ねられる。
この一言でぼくたちは「二人……」からの連続と断絶を予感する。前作で二度目に「タンゴは踊れる? ジェイ」とアリシアがジェイ(麻路さき)に尋ねたのは、「これから私たちはずっと二人の時間を共にすることができるかしら、まるでタンゴを踊り続けるように」という甘やかなささやきであった。しかしここでは、ニコラスは仕事を探していて、それに続けて「お前、ゲリラじゃないのか?」と念を押される。ぼくも改めて念を押しておくが、劇で「ゲリラじゃないのか」と問われるということは、彼がゲリラだったということだ。
バーテンダーは募集していないが、店で踊るダンサーなら使うぞ、という程度の問いかけだったのだが、「踊れないとは言ってない」とニコラスはそこにいたイサベラ(西條三恵)をつかまえて踊る。この時の西條のおびえた目がいい。どこから来たとも知れぬ男と初めて踊るという以上に、この男のタンゴには何かがあるのだな、と見る者に予感させる、深いおびえだ。
いつもどこかでバンドネオンが響いている。いつも誰かがタンゴを踊っている。そこには必ずドラマがある。あれから七年だそうだ。紫吹の美しい低音が、七年を歌い語る。その七年を経て、紫吹が目の優しい好青年になっている(または、そう装うことができるようになっている)のに、まだ獲物を狙う狼のようにギラギラした男がいる。樹里咲穂演じるリカルドだ。
軍事政権が倒れ、一応民主勢力が政権をとった。もう戦うべき敵はいない。……だからもう戦えないとニコラスは思っている。しかし社会が、自分たちの暮らしがよくなったわけではない。この見せ掛けの民主勢力を倒さなければならない。……まだ戦いは続いているとリカルドは考える。ぼくにはリカルドの思いはわからないではないが、なんだか戦いのための戦いのようにも思える。「こんなに簡単に終わっちまうのか!」と気色ばむリカルドに、客席からでも「お前、戦うべき敵を想定することで、自分のアイデンティティを再構築しようとしているんじゃないか」と叫びたくなる。時代の興奮が去って生き延びてしまった男たちを描くという画期的なこの劇で、対照的な二人をこのような形で対置させたということは、なんと魅力的であることか。このような精神のやむを得ざるありようをこそ美学と呼ぶのであって、格好をつけるのを美学というのではない、などと憎まれ口も叩きたくなる。
二人の会話を聞いているリカルドの妹、リリアナ(叶千佳)。自分はそんな難しい話には関係ないし……と手持ち無沙汰でいながら、ニコラスへの憧れのような甘い思いを漂わせているのがいい。彼はリリアナに八年ぶりに会ったというから、見違えるのも当然だ。今の彼女が十八歳だとして、最後に会ったのは十歳ということになる。「同士の妹の女の子」が目の前に一人の娘として現れている。歳月というのは、このようにして形をとる。
この劇では紫吹が主役であり、西條と叶がそれに絡むのだから、西條と叶が紫吹とどういう関係を築いていくかが、一つの見どころだ。その行く末を予感させるのが、はじめに述べた西條のおびえであり、いま述べた叶の憧れだ。ふつう宝塚では男役スターとそれなりの娘役が出てくれば、そこに愛が芽生えることを前提として劇が進められると思っていいが、二人ともまだ紫吹と同格のコンビを組む柄でないこともあり、対等な三角関係で一人の男を奪い合うというような展開にはならない。
ここでニコラスは友リカルドを失った後、なんとかその妹リリアナは助け出す。そのせいでイサベラとの決定的な約束を反故にしてしまう。これはニコラスにとっては一つの義を通すことだったが、イサベラにしてみれば「裏切り」であった。あのときのニコラスにイサベラを思い出す余裕があったとしても、彼はリリアナを助けに行くことを選ばざるを得なかった。これは運命としか言いようがなく、その逆は考えられない。このようなドラマを経て、ようやくニコラスはイサベラに自身をぶつける。ただしここでは、その後の二人のことはわからない。
二人は、オルケスタ・アルヘンチーノのオーディションを受けることになっていた。イサベラにとって、それは人生を変えるすごいことだ。「もし通ったら、なにもかもがうまくいくのよ」。しかしそれもニコラスにとっては相対的なことのようだ。「ここが自分の居場所かどうか……」とためらう彼に、イサベラは「それが見つかるまでは私と踊って」と懇願する。「懇願」というと少々ニュアンスが異なるか。一見甘い恋の言葉のように見えて、おそらく実はイサベラにとって第一義的にはオーディションのためのカップリングであって、色恋は二の次になっているように窺えるところがこの劇の洒落たところだと思う。みんな人生の目の前のことで精一杯だ。おそらくニコラス以外は。ダンスが人生である女と、人生にダンスがついてきてしまった男がペアを組んだわけだ。
オーディションの当日、ニコラスは来ない。「機会はまた作ってやる」と慰める店のオーナー(美郷真也。好演)に、顔をくしゃくしゃにしてこらえるイサベラ。遠くでニコラスが走っている。建物を出て、我が身を抱きすくめ、後ろ姿で泣いているイサベラ。そこに雨が降る。雨宿りしている彼女を見つけたニコラス。雨に打たれながら「すまなかった」。「どうしたのよ」と笑顔を作り、こらえきれずに泣く女。「どこかへ行ったのかと思った」……「友だちが」と言って男の表情が崩れる。「死んだんだ……せっかく生き残ったのに」と壁に体を打ちつける男。「だから来れなかったんだ」「ええ」。
この劇のすごいところは、出来事の重みと、それを再現することの重みを併せ持つことができたところにある。悲劇は起きた。リカルドが撃たれた。さらなる悲劇は何とか防げた。人質になっていたリリアナは助け出した。そしてリカルドが撃たれて死んだ事実より、それを知ったリリアナの悲しみが胸を打つ。
ここでは感情を必死で抑えていたニコラスが、やはり自分の悲しみを抑えているイサドラの前で、やっと、初めて命をかけた緊張と抑えていた感情を開放する。ニコラスの口から、事情を説明する形で出来事の最も本質的な部分だけが再現されることで、ぼくたちはそこで語られなかったことを含めたその出来事の本当の意味を確認し、二人の男の、劇では見られなかったすべての姿を思い浮かべることさえできる。そしてさらに、その一方の男が今はいないことについて、ニコラスと一緒に、初めてゆっくりと悲しむことになる。
「二人だけが悪」はジェイとアリシアの恋物語の体裁をとっていながら、実のところジェイとアレクセイ(稔幸)という二人の男の友情の物語だった。そして今回の作品では、恋物語が結論を持たない分だけ、友情の軸がさらに強調された。面白いことに、どちらの劇でも二人は考え方や立場は全く異なっている。元FBIとKGB、再革命についての考え方。それでも友誼というものは成立する。前作でそれはハッピーエンドの形をとったが、今回はそうはいかなかった。かえって、あまり強調されているわけではないが、ニコラスがリカルドを訪ねなければ、悲劇はああいう形では起きなかったはずだった。
みんな何かを失った。ニコラスとリリアナはリカルドを。イサベラはダンサーとしてのデビューを。補足すれば、このように対置されているということは、やはりイサベラには再び機会はめぐりこないであろう。それはなぜかとあえて問えば、ニコラスはここに留まらないということではないか。やはり彼は風なのだ。
ニコラスが誰をパートナーに選ぶかは慎重に曖昧にされている。イサベラでもリリアナでもないかも知れない。最後にニコラスがリリアナに「これからは、俺が兄貴だ」と言って遮二無二抱き締めるのを見て、「兄貴だから恋人ではない」ととるか、「兄のような恋人になる」ととるか、どちらも成立するようにできている。あの抱き締め方も、妹のように抱いているのか、恋人のように抱いているのか、自分の悲しみをぶつけるように抱いているのか、どのように取っても切ない。すべては、これからのことだ。どのようなものになるにせよ、この三人に明日は来る。
軸となった四人は、素晴らしかった。紫吹淳はあらゆる点で驚異的な成長を見せた。低音の魅力、ニコラスの人柄を語りうるほどに自分のものとしたタンゴ、劇の彫込みの深さ。柄の大きさをそのままに相手役への包容力として昇華させたし、成熟を装った若さを表わしえていた。西條も叶もこれだけの哀愁を帯びえたということを、これからの貴重な財産としてからだに刻み込んでおくべきだ。そして樹里咲穂、無茶なキャラクターを思い切り魅力的に演じ切った。
タンゴというものが、人々のドラマをこのようにみごとに捉え切るダンスであるということも、改めて思い知らされた。イサベラはまさしくタンゴで生きようとしているし、ニコラスは自己流のタンゴでとりあえずの生活の糧を得ている。「二人だけが悪」で帽子を目深にかぶって誰かわからぬほどに背景に引きながらも舞台の空気を濃密に作ったタンゴ・マオは、今度はちゃんと顔を見せ、それぞれの暮らしがあることを表わしていた(ということを、「宝塚アカデミア」の荒川夏子さんから伺った)。ダンスの一つのスタイルの中にこれほどの思いを込められたことを、凄まじいことだと思う。紫吹、樹里という、「WEST SIDE STORY」でベルナルドとアニタを組んだ二人が再び醸し出した濃密な空気を、満腔に味わいながら、もっと何度も見たい、終わってほしくないと思った。
ダンス以前・ダンス以後-WEST SIDE STORY のダンス
●芝居のダンス
聖書にもあるように、どんなに美しい言葉でも、そこに愛がなければ虚ろに響く銅鑼に等しい。どんなに美しい歌声でも、それが一つの劇の中で歌われる以上、劇の流れを促し進める振り子のような思いの揺れを持っていなければ、かえって劇を止めて芝居を振り出しに戻してしまうことになる。歌が上手いと賞賛されてきたトップの舞台を物足りなく思っていたのは、そのようにして劇がぶつ切りになってしまうことが多かったからだ。さて、ダンスではどうか。「芝居のダンス」という定義や評価はできるものなのだろうか。
宝塚では多くの場合、ダンスはショーで披露されることになる。前半のお芝居の部分では、場面設定がダンスを必要とする場合(舞踏会やディスコの場面、登場人物がダンサーだった場合など)を除くと、男女の関係の深まりを象徴的に示唆する場合、憤怒や深い悲哀などの強い感情を表わす場合、というようにダンスシーンは独立した場が設定されていることが多く、往々にしてダンスは劇の流れと切れた、取って付けたようなものとなっていることが多かったように思う。最もわかりやすいのが、悲しく終わった劇のエピローグで、ヒーローとヒロインが白衣をまとって天上で結ばれるのを、甘やかなダンスで締めるというパターンだろう。どんなに悲しく切なく理不尽な(あるいは、無理のある、ひどい……)劇でも、最後に美しい二人がデュエットダンスを美しく舞うことで、ぼくたちは「ああよかった」と思うことができる(または、思わせられてしまう)。もちろん、それはそれとしてダンスが美しく機能していると言えるのだが、ただまあ、お決まりというか、いつも「チャンチャン!」という切り上げられ方をしてしまっているような思いがないわけではない。
その点、宝塚で上演されたいわゆる舶来ミュージカルを思い出すと、劇の流れや小さなきっかけからごく自然に、うねりのようにダンスが生まれていたものが多い。たとえば「ハウ・トゥー・サクシード」の「コーヒーブレイク」などが印象に残っている。
「小躍りする」とか「欣喜雀躍」という言葉があるように、人は感情が激する時に踊るのだ。それをややデフォルメしたのがミュージカルという舞台芸術であり、宝塚歌劇であるはずだ。歌にも踊りにも、歌い踊るための必然がある。しばしばダンスが上手いと評される有望な生徒のダンスに、ひどい言い方になるが、器械体操のような味気なさを感じることがある。振付や演出の責任も大いにあろうが、確かに手足はよく動いているのに、分度器で計って動いているようで、そこに至る必然、言い換えれば情感や余韻が感じられない、と不満に思うのだ。逆にその余韻や情感が感じられるダンス、これがつまり「芝居のダンス」なのではないか。
●ダンスバトル
「WEST SIDE STORY」(以下、WSSと省略)は、中でもダンスの力が劇を推し進める。ダンスがジェット団とシャーク団の性格を規定し、やがて劇の結末までのすべてを決定するような力を持っている。冒頭のジェット団のリーダー=リフ(初風緑)ら6人によるちょっとスローな味のあるダンス、シャーク団のリーダー=ベルナルド(紫吹淳)ら3人のシャープさ。そして体育館のダンスパーティーを思い出してみよう。
生徒会長みたいなグラッドハンド(名城あおい)がフォークダンスみたいなのを提案するのはご愛敬として、これはまさにダンスバトルだ。2階席から観ているとジェット団、シャーク団それぞれが隊列を組むように真っすぐの、また斜めの線を作って向き合うのが美しい(時折線が乱れ気味だったのが残念だが)。直線の対立が鋭い緊張を生み、臨界状態から爆発するようにシャーク団が踊る。ベルナルド(紫吹淳)とアニタ(樹里咲穂)を軸に、肌色を濃いめに塗ったプエルトリカンたちによるシャープでアグレッシブなダンスだ。小藤田千恵子が「ミュージカル」3月号で、劇団四季のWWSとアメリカから来日したカンパニーを比較して、「さすが来日公演だと思ったのは、それらしい人種の人がキャスティングされていることでしたね。人種が本来持っている力が、作品のパワーになるわけで、それはやっぱり日本人がやるのとは違った魅力がありました」と述べていたが、今回月組のWWSのシャーク団の面々には、人種のパワーを感じさせる熱さがあったように思う。たとえば紫吹がターンのあとで首を後ろにカッと反らせる鮮やかさや、2段ロケットのように伸びる足先は、ただのフリとしてではなく、プエルトリカンのアメリカ社会への欲望や野心の激しさ、ベルナルド自身の暗い情熱の表われと見える。
このシーンをダンスバトルと見れば、シャーク団の圧勝だ。日本人同士の舞台でありながら、不良白人少年のジェット団と、有色人種である移民少年のシャーク団に、ダンスの質の違いが振り分けられていたのは素晴らしい。巧拙というのではない。正確に指摘するのは難しいが、シャーク団の動きはたっぷりとタメを利かせて、遠心力で発射していくタイプのダンスだ。歌でなら、こぶしやパンチが利いているとでもいうのだろうか。プエルトリコでの日々とそこからの距離を、「いつかきっと……」というエネルギーと、白人でないと人間扱いされない社会への屈折した激情に変えて、既存の枠を越え出て壊していこうとする力のあるダンスだ。いみじくもアニタがブライダル・ショップでマリア(風花舞)に言っている、「ダンスは、何かを急いで発散させる」のだと。
そのアニタが芯になって「アメリカ」は展開する。プエルトリコに帰りたい、向こうのほうがよっぽどいいというロザリア(星野瞳)をいちいち押さえ付けてアメリカを謳歌しながら、身のこなしはプエルトリコそのまま。美原志帆や那津乃咲ら、樹里以外の面々も含め、「CAN-CAN」以来の月組娘役パワーが全開した素晴らしいダンスピースだ。
それに比べれば、ジェット団にはそのような屈折が少なく、幼い。彼らとてシュランク(真山葉瑠。白人に見えないんだが)に罵倒され、また苦いユーモアの印象的な佳曲「クラプキ巡査」で自嘲も込めて吐露されていたように、プエルトリカンよりは昔にだが、ヨーロッパのどこかで食い詰め、一獲千金を夢見て新大陸にやってきたものの、夢叶わずいつかずるずると社会の底辺に追いやられた者たちの、悪ガキどもである。だから彼らもまた踊らずにはいられない。にもかかわらず、彼らはプエルトリカンに対しては見下す側だし、守りの側だ。初風、成瀬こうき、霧矢大夢、大和悠河といった若手が、シャーク団の濃いダンスとは対照的な、手足のさばきのストレートな動きで、ジェット団のナイーブな幼さを巧まずして出せていたのは、皮肉ではなく感心した。
中でも叶千佳が演じた、女の子でありながらジェット団に入りたがって、煙たがられているエニーボディズは、重要な役どころだった。ぼくが印象に残っているのは、第二幕の「バレエ・シークエンス」で叶がケンケンのような微笑ましいステップを踏むところで、そこからトニーとマリアのどこか遠く(=somewhere)での夢見た幸福が提示される。盆の縁をステップしていく軽やかな足取りと合わせて、彼女の無邪気さと中間性によって、なぜだか事態はすべて上手くいくのではないかというはかない期待を持たせるような力があった。(余談だが、叶は新人公演で少々失敗したらしい。本役でこれだけの存在感を出せていたのだし、無難にこなすばかりの新人公演が多い今日このごろ、かえってどーんと失敗して明日につなげるぐらいのほうが好ましいと思ってしまうのだが。)
●封印されたダンス
無邪気さと言えば、第二幕冒頭「I feel Pretty」の風花舞を挙げなければならない。風花が手首をチョンと地面に水平に曲げる、本当にプリティだ。バラの花をくわえてのダンスも、少女が背伸びして大人の女の真似をしているようで、微笑ましい。ベルナルドの妹という以上に、プエルトリカンの中でもひときわ幼く、マスコットのような存在なのだろう。彼女はまだアニタのように踊るほどには、激烈な感情の昂ぶりを経験もしていないし、必要ともしていないお嬢ちゃんなのだ。マリアはまだ踊らない。
そして、トニーはもう踊らない。ジェット団をリフと作った頃の若い(幼い)激しさから、トニーは一足早く抜け出て、大人への階段を一歩上りかけていた。まだジェット団のジャンパーを着てはいても、小さな路地一本を争ってにらみ合ったり殴り合ったりすることは馬鹿げたことだと思ってしまっている。それを真琴つばさは、やや前かがみで手持ちぶさたのような中途半端な姿勢を多用することで、的確に表現することに成功していた。特に第一幕の真琴は、何かを卒業したものの、まだ何ものにも所属していない、中途半端な青年の姿を、全身で現していた。
前半の体育館のダンスパーティーで、二人は踊らない。決定的な出会いの一瞬の後、マリアが「誰かと間違えているんじゃないの?」とためらうが、二人が互いの手を互いの頬に伸ばすところで、二人の立ち位置の遠さが印象に残っている。二人はまだ近づかない。だから二人の背中は深い角度に折られ、美しい線を作る。周囲と別して踊らないことで静かな美しさが生まれ、それが深い感情表現となった稀有な例だと思う。
ダンス以前とダンス以後の踊らない二人を共に踊らせるためには、二人を運命的な悲劇が襲うことが必要だった。二人はどこか(=somewhere)に行ってしまわなければならない。二人が今いる「ここ」では、もうやっていけない。二人は「ここ」にいながら、もう向こう側の存在だ。だから踊ったのだ。
もちろんそれは長くは続かない。思っていたとおり、悲劇は訪れる。行き違いによって街にさまよい出たトニーは、マリアとの抱擁を目前に、チノ(大空祐飛)に撃たれる。マリアは一瞬のような短い時間に、生きることの喜びと悲しみのあらゆる極限を味わうことになってしまった。
マリアは、もう踊らない。その代わりに、踊りを極めた者だけが会得できる、鋭く反らせた背中のカーブで、カーテンコールのプリマドンナのように堂々と、ゆっくりと、美しい貫禄さえ湛えて歩き去る。風花の足どり、姿は、大劇場の空間を根こそぎ一点に集中させてしまったようで、絶品だ。
もうマリアは踊らない。最期に絶え入りそうな息のトニーと和した「somewhere」を胸に、憎むことを覚えてしまったマリアは、しかしその憎悪をもダンスと共に封印してしまったのではないか。そんな、風花の後ろ姿が眼に焼き付いている。