宝塚に於ける天使と悪魔−美は善悪の共棲にあり

 フランス語で天使(アンジュ)は男性名詞だそうだが、宝塚歌劇において役者(生徒と呼ぶ)はすべて天使であると言っていい。「朗らかに、清く正しく美しく」というテーゼにもあらわれているように、そこには濁や悪や醜はそもそも存在しない。

 それでも宝塚にはしばしば悪魔が登場する。たとえば「ファウスト」を翻案した「天使の微笑、悪魔の涙」('90年、月組公演。小池修一郎作)は二番手の涼風真世が冷たい表情で堕天使=悪魔メフィストを好演した。しかし言うまでもないが、それはあくまでもトップでファウスト役の剣幸の魅力を引き立てるために存在するのであって、悪魔はトップを支える二番手男役の役回りでしかありえない。逆に、トップは常に正義である。今年の星組公演「カサノヴァ・夢のかたみ」(小池修一郎作)で、二番手の麻路さきが演じた謎の錬金術師=サン・ジェルマン伯爵が、秘密結社フリーメイソンの組織を利用して世界征服を企みながら、最後はトップの紫苑ゆう演ずるカサノヴァ(色事師であるよりも、女の望みの実現のために身を引く好漢として描かれる)に敗れてしまうのと似ている。

 宝塚ではしばしば、このような二番手の悪役はおいしい役どころとされているようだ。宝塚のテーゼには反するのかも知れないが、多くの場合正義よりも悪徳の方が魅力的であり、美しく、また舞台の上で滅びを迎えることが多いだけに一種の美学を持ちうる。美はたいていニヒルでクールな悪の側についており、その意味で麻路は後ろ姿の美しさ、客席を巻き込む圧倒的なアウラによって、よい悪魔スターになれる素質をそなえている。紫苑のあとを受けてトップに就く麻路が、宝塚における新しいトップ像を拓く可能性は大きい。

 さて、人間の内面に天使と悪魔が共存するというのは陳腐な言説だが、宝塚では一人のスターにそのような分裂した性格を与え、内面の葛藤や苦悩を演じさせることは好まれないようだ。たとえば今年の月組公演「風と共に去りぬ――バトラー編」(天海祐希主演)ではスカーレット・オハラを娘役の麻乃佳世と男役の真琴つばさという二人に演じさせた。同じ場面に二人のスカーレットを登場させ、彼女の天使性と悪魔性(というのが言い過ぎであれば、社会性と内面)を演じ分けさせたのだ。

 また、昨年の星組公演のショー「パパラギ」の中の、悪魔が神学生(麻路)に恋をする「キリエ−恋するアイツウ」では、悪魔が自らの姿を聖少女に変身させて愛の成就を図ろうとするが、聖少女の美しい姿を娘役の白城あやかに、悪魔の本態を千珠晄にと巧妙に踊り分けさせた。これは神学生が聖少女を追いかけていくと、早変わりのようなしかけでアイツウ(サモア語で悪魔)に姿が変わるというスリリングなもので、スピーディでエロティシズム溢れるダンスが印象的だった。

 一人の人間の対立する二面を二人の役者に演じさせるのは、視覚的効果からいって魅力的ではあるが、人物造型が分裂する上に、それぞれの役者の中では平板にとどまってしまいがちなのは残念だ。もちろん、両面を一人で演じたからといって常に役が深まるわけではない。「風と共に去りぬ」にはスカーレットを中心に据えた「スカーレット編」もあって、今年の雪組公演では一路真輝がスカーレットを一人で演じたのだが、どうも気の強さばかりが目立ってしまい、強弱の両面を十全に描くには至っていなかったようで残念だった。

 しかし、宝塚にも確実に新しい波が押し寄せてきている。そろそろ天使と悪魔の両面を合わせ持つ総合的な人間像を描き、演じるスターが出てきてもいい頃だ。美は悪と通じるときに最高のレベルを獲得する。その意味で、「ブラック・ジャック」(正塚晴彦作)を好演した安寿ミラ(花組トップ)や麻路というアウラを持った魅力的なスターがおり、トップ娘役にも高貴さと危険な美しさ、エロティシズムを兼ね備えた白城、蓮っ葉でコケティッシュな魅力を持つ麻乃という魅力的な芸達者がいるこの時期がチャンスではないか。おまけに意欲的な実験作を送り続けている小池や正塚ら、若い世代の作家も油がのっている。彼女たちが従来の宝塚の路線を逸脱しようとするとき、天使と悪魔を演じ分けるのではなく、綜合した存在としての一個の人格を演じる、新しいスケールの大きなドラマが宝塚で展開されうるはずだ。(「JAMCi199412月号)

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