宙 組
「黎明の風」「NEVERSLEEP」「A/L」
「貴城けいコンサート I have a dream」「不滅の恋人たち」「走る娘役 サヨナラ花總まり」
「永遠の少年性 サヨナラ和央ようか」「W-WING」「炎に口づけを/ネオ・ヴォヤージュ」「Le Petite Jardin」
「ホテル・ステラマリス/レビュー伝説」(大阪公演) 「ホテル・ステラマリス」「BOXMAN」
「傭兵ピエール/満天大夜總会」「鳳凰伝/ザ・ショー・ストッパー」「エイジ・オブ・イノセンス」
「激情/ザ・レビュー'99」「この世界での立ち方−ありがとう綾咲成美」「エリザベート」
黎明の風
会期の序盤と中盤に観て、大和悠河の演技がはっきりと変わっていたのには驚かされた。喉元でセリフを抑え、腹に戻してから出してくるような、実に味のある発声、セリフ回しを会得したようだったのだ。それはつまり、あごの引き方にも視線の定め方にも関わることだ。凄まじいことだと思った。おそらくこれは、轟悠と舞台で並びながら、マッカーサーのダイナミックなドラマをいかにして深みのあるものにするか、白洲次郎を上回るほどの大きな存在感をいかにして出せるか、という苦闘の結実だったといっていいだろう。これが大和の、演技に対する柔軟さと貪欲さの所産だということを、すべての組子たちは胸に刻み込んでおいてほしい。もちろん轟から盗んだ(学び取った)技術や境地もあったはずだ。大和にこれを盗ませたいと観客に思わせるほど、轟の役づくりや演技は充実していたし、断片的に配置されたエピソードに表われた「轟=次郎」の姿は感動的だった。
石田昌也の作劇は、白洲に関する数多ある印象的なエピソードを拾い並べ、歌謡曲などを配して時代相を表わし、英雄的なシンパシーや愛国的なパッションをかきたてるような味付けを適度に施すという、オーソドックスな構成だといっていいだろう。占領、講和、独立といった分岐がやや混乱していたようにも思うが、「バスチーユに白旗が…」を思い出させるような「日の丸が…」という宮川の感激をはじめ、昨今のプチ右傾化という世相の範囲内にうまく収めている。再軍備や憲法改正に関する言及も、「ほんの少し右」という範囲に収めているし、北朝鮮に関しても万人が納得しそうなコメントにとどめている。
そういう立ち位置は、坂本龍馬を扱う時と同様で、時代の大きな転換点に、身を粉にして働く「男」の心ばえに価値を置いているものであって、それを狂信的なパトリオリズムに直結させる気がないことは、吉田反戦グループのメンバーのやりとりにもあるとおりだろう。しかしこのような態度が、意図ある人々によってある種の短絡性を付加されれば、容易に何ものかにつながっていくということは、過去の歴史に照らせばはっきりしている。一部の演劇がその大衆性や商業性の故に、結果的に時代の流れに棹をさしてしまったという歴史も。
退団公演となってしまった美郷真也組長に、石田は実に味のある当て書きをし、酒井澄夫もショーで場面のポイントとなる大きな役を与え、美郷もそれによく応えた。途中からとはいえ同期の和央ようかによる長期トップコンビも、そして一作トップも見てきて、やっと雪組時代からの同窓である轟の来演も迎えることができた上での花道である。演出家陣も含め、不自然にならない範囲で最大限の配慮を示したものと思われる。運よく観ることのできた千秋楽では、「羽田空港/講和全権団出発」で居残り組の若手から一輪ずつ花を手渡されていたが、その思いは観客も同じことだったと思う。なお、美郷の近藤が、三つボタンの背広の上から二つ目までを止めていたのはブリティッシュトラッドにかなっていて、よかった。若手はこういうことを学び取ってほしいものだ。細かいことだが、風莉じんの背広の袖が長すぎるのが、いかにもな感じでおかしかった。衣裳部のクリーンヒットだと思う。
和音美桜は、急な代役で「よくやった」という範囲で評価されてしまうのが逆に気の毒。強弱をつけて破天荒な部分もしっとりした部分もあり、歌も身のこなしももちろん達者にこなしたが、少し色あいを変えて見せるようなところもほしかった。上品で美しかった藤咲えりも、同様に「大変だったね」というところだが、キャリアが浅い分、目立つ役をえて得をした。「カントリー・ジェントルメン」の歌では大きいアクションが目立って、楽しさが伝わってくるようだった。
ショーでも同様で、美羽あさひはもちろん悪くなく、「よくやった」のは確かだが、陽月華で観たかったなと思わせてしまうのが気の毒。女役をこなした凪七瑠海にしても、よく踊ってはいたが、男役が女役を踊るとき特有の濃い危うさが感じられなかったのが残念。
しかし、大和の充実ぶりが牽引力となったのか、宙組が若手に至るまでずいぶんいきいきとしてきたことを実感でき、うれしかった。こういう集団の力というものを言葉で明示するのは難しいのだが、たとえばショーの、出入りの激しいフォーメーションが印象的だった「Passion 大空へ」で、出てくるダンサー一人ひとりが非常に晴れやかに充実した表情をしていたことや、轟を中心にした大海亜呼や綾瀬あきなのダンスにつやと共にキレがあり、また轟をしっとりと包み込むようなムードさえ出せていたのがよかった。最近の大海は、ダンスや歌の上手さだけではなく、舞台を包み込み他に影響を与えるような大きさを持っているように思う。他にも彩苑ゆきのたたずまい、鈴奈沙也の思い切った演技と空港の場面でのしっとりとした泣き、綾瀬のはちきれんばかりの大きな動き、美風舞良の情感のこもった表情、天咲千華の大らかな動きと愛くるしい表情など、娘役の充実した姿が目立って、元気をもらえたように思う。
それにしても、少なくとも宝塚大劇場では、集客面では苦労したようだった。後半の大和の充実ぶりを見ると、もっと多くの人に観てほしかった。ただ『黎明の風』については、オープニングが焦土の風景の「無条件降伏」ではいかにも暗く重く、憂鬱な気分になってしまったこともいくぶんかはマイナスに響いているのではないか。重々しく本格的な雰囲気を出そうとするのもいいが、華やかさも忘れないでほしい。
「NEVERSLEEP」
うだつの上がらない探偵事務所の半人前の調査員が、大きな事件に巻き込まれて容疑者扱いされるが、殺された二人の幽霊に導かれ、冷淡そうに見えた同僚の力も借りて事件を解決、ハッピーエンド、という物語。
調査員サミュエル(蘭寿とむ)は、浮気調査の仕事しか回してもらえない冴えないポジションで、決して二枚目役ではないし、自ら積極的に難局を切り開いて行くというわけでもない。アクシデントや周囲の思惑、様々なことに巻き込まれて困難な状況に陥っても、半ば諦め投げているようで切迫感もなく、ヒーローらしくない。せっかくギャングに襲われたブリジッドを助けても、逆に犯人に間違えられてフライパンで殴られて倒れてしまう、というのだから、徹底している。気を失い、休憩を挟んで、第二幕冒頭が気絶した夢の中から始まるというのが、これまた少々お間抜けで、逆にしゃれてもいる。
しかし、意外にもというべきか、そういう役が蘭寿にとてもよく似合っているのだ。『マラケシュ・紅の墓標』で演じた偏執狂的だったりストーカーっぽかったり狂信的だったりする異常性を帯びた役もよかったが、おそらく『くらわんか』で喜劇的な演技が開花したのだろう、このサミュエルのような二枚目半を、うまくボケながら飄々と淡々と演じることができるほどに、演技の幅が広がったということだろう。歌は傑出しているわけではないが、特徴的な軽みと伸びがあるようで、これを今後どう生かしていけるか楽しみだ。
サミュエルの同僚のマイルズ(七帆ひかる)は、元地方検事補。あくまでクールで、そう言えば主な登場人物の中で唯一メガネをかけている。プログラムの写真の順番では後ろの方だが、実は準主役と言っていい大きな役。歌では中低音の広がりがすばらしく、余裕があるから、歌に自在にドラマを盛り込むことができる。その力が検事補時代に不正を追及して被疑者を留置場でピストル自殺に追い込んだ回想シーンの、長く激しく、ドラマティックな歌にみごとに発揮された。終盤の展開にも波乱があって、ハッピーエンドを助けるおいしい役どころ。
ヒロイン役のブリジッドは美羽あさひ。特に初めからサミュエルを男として意識していたわけではないが、検事局へ連行されたところへ手錠をかけられた彼が連れてこられたのを見て「本当に役立たず!」と言った後の複雑な表情は、ここから愛が始まるという瞬間をはっきりと見せ、すばらしかった。歌では中音域でさらにふくらみが出れば、さらに魅力が増すと思われた。
風莉じんがやはりすばらしい高音の張りのある歌を聴かせ、渋く落ち着いた演技と合わせて、なくてはならない存在になっている。暁郷が、非常にクールな男前ぶりを発揮した。彩苑ゆきが、普通にどこの会社にもいそうな小うるさく有能なベテラン社員を好演。大海亜呼も最近目立って大きく使われるようになったが、レベルの高い歌とダンス、大人っぽく情の深い演技で芝居の重要な役割を占めている。投げキッス一つとっても実にきれいな形を作る。サミュエルの妹のドロシー(花影アリス)、その友人アデリン(愛花ちさき)が、この劇の中で数少ない若々しい愛らしい姿を見せて花を添えた。
実はこの劇は、専科生をはじめベテランの力に大いにあずかっており、またその魅力を遺憾なく発揮できたことが、いい味わいを醸し出せた一因だったといえよう。黒幕の市長(萬あきら)はさすがの貫禄で、キャロリン(五峰亜季)としっとりしたダンスを見せた。萬が市長の表裏の二面を極端な落差をつけることなく演じ分けるうまさは、まさに大人の腹芸である。五峰がダンスだけでなく、力強く難曲を歌い上げ、魅力の幅の広がりを見せたのもすばらしい。
また、殺されて幽霊で出てくる刑事ジェイムズを演じた一樹千尋が本当によくなっている。力の抜き具合をすっかり会得したようで、それは演技にも歌にも大人の余裕としてあらわれ、専科生が演じるにふさわしい幅や広がりとして表現できている。実はブリジッドの父親であるロススタインの美郷真也も、ジェイムズと共に幽霊として現れてブリジッドをおろおろと見守ることになるのだが、笑いも涙も自在に誘って、実にチャーミングなおじさんを演じきった。この二人の幽霊がサミュエルをうまい具合に導くところ、展開としても面白かった。 (2007年、バウホール)
「A/L(アール) 怪盗ルパンの青春より」
待望久しかった大和悠河のトップお披露目で、星組から主演娘役として移籍した陽月華とのトップコンビ第一作のドラマシティ公演とあって、大和らしいすっきりと華やかな作品を期待したのだが、いくつもの筋の絡まった、少々面倒くさいサスペンスとなった。
タイトルのA/L(アルセーヌ・ルパン)は、ラウル(大和)の乳母で後見人のル・ブラン(美風舞良。持ち味の歌声がすばらしく、落ち着いた演技やユーモラスな一面を見せ、大活躍)の小説の中の登場人物であり、令嬢アニエス(陽月)の幼い頃には、既に彼女の心のヒーローだったようだ。アニエスは、いつかルパンが自分をこの窮屈な城館の生活から解放してくれる、と夢見ている。様々な出来事の結果、ラウルは心ならずも怪盗A/Lに扮して活躍することになる。つまり、大和は最初からルパンとして登場するのではなく、ルパンになるのだ。だから、単純に怪盗ルパンの物語として、大和が大活躍すると期待したファンには、なかなか物語が始まらず焦らされているような気分になっただろう。
その上、ラウルの母アンリエット(光あけみ。専科)のローアン枢機卿(十輝いりす。終盤でのしみじみとした述懐に、演技の上達ぶりが見られた)との悲恋、ラウルのローアンとの劇的な再会、アニエスの母(鈴奈沙也)や婚約者レオン公爵(悠未ひろ)の企み、ホームズとワトソンの参加、エヴァ(和音美桜。夢見る乙女のようで、セリフのフワフワした感じがうまかった。カゲソロも絶品)やドニス(早霧せいな)をはじめとするラウルの大学の仲間たち、奇妙な科学研究者ゴッズ博士(寿つかさ)と、多すぎるほどの種類の登場人物にそれなりの筋立てを与えなければいけないものだから、ラウルの関わる主筋が細くなってしまったのではないか。
なお、これを言ってはおしまいなのだが、アニエスが幼い頃に絵本を読んでくれていた幼なじみのラウルに、最後まで気づかないのはいくらなんでも腑に落ちない。このすれ違いが二人の恋心を盛り上げるとしても、設定に無理があるように思えた。
大和は、さすがに美しく色気があって水際立ってかっこいい。そこはかとなく少年らしさをたたえているのが、またいい。あれよあれよという間に怪盗ルパンにさせられるおろおろとした表情も面白味があった。
ダンスを得意とする陽月に、バレリーナとしてオペラ座デビューを目前に控えているアニエスという役が与えられたのはよかった。第五場でバレエを崩してジャズダンス風にしてしまうところのスピード感はさすが。ラウルとパリのカフェでデートする時も、ショルダーバッグを提げて踊る姿がチャーミングだったし、マルセイユでのダンスのリフトもよく息が合っていた。また、マルセイユからパリまで送ろうと申し出るA/Lに「ノン、けっこうよ」と一人で去る後ろ姿は逆光の夕陽に包まれ、セリフの間合いといい、しぐさに込められた情感といい、集中力を高めて美しいシーンを残してくれた。この後で大和の歌に乗せて、ひじを外側へ回して反らした背をひねるようにして顔から離れていく動きは、思いの残る別れの表現として、非常にうまい。陽月には、特に現代劇での演技のうまさ以上に、ダンスに人物の性格や感情を盛り込むことができることで、宝塚の舞台人としての表現の幅を大きく広げる可能性がある。歌は確かに弱いが、それを補って余りあるといえよう。
開演前にホームズ(北翔海莉。とぼけたふりで実はすべてを知っている名探偵の、余裕のあるインテリジェンスがよく出ていた)とワトソン(春風弥里。群を抜いてスタイルがよく、酔っぱらいの演技がうまかった)が客席に降りる大サービスは、面白かった。北翔の客いじりもなかなかのもので、芝居が始まる前に既に卒倒していた御仁もおられたのではないか。
トップのお披露目公演であった一方、初嶺麿代の卒業公演でもあった。初嶺はガニマール警部というずっこけ刑事のような役どころだったのだが、ユーモアのセンスとテンポのよさで、芸達者ぶりを遺憾なく発揮してくれた。ユーモラスといえば、いよいよすべてが明らかになる最後のパーティーでA/Lに扮して登場、即座に逮捕されるドニス(早霧)のなよなよと情けない姿は、傑作だった。(2007年3月、シアター・ドラマシティ)
貴城けいコンサート『I have a dream』
貴城けいのコンサート『I have a dream』は、まずは大変豪華でバラエティ豊かで、楽しくてキレイで、貴城や紫城るいの早すぎる退団が惜しまれるものであったことは間違いない。大阪の千秋楽に観たからか、「宙組ファンクラブ」名義でペンライトが配られ、カーテンコールの際にみんなでそれを振ったわけだが、それをみた貴城が「何、しんみりしちゃって?」ってな感じで明るくぶっ飛ばしたものだから、彼女の素の姿を全然知らなかったぼくなどは、へぇーこんなにお茶目で明るい人だったんだと思うと同時に、早期退団で打ちひしがれているファンを明るくさせようという気配りをしているのかなと感心もした。
そこに、貴城の自分自身に対する呼びかけのようなものがあったのかどうかは、ぼくにはわからない。ペンライトを振って様々なことを思い惜しんでいるファンに、わざわざぶっきらぼうなぐらいの声と明るい表情で「しんみりしないでね」というような意味のことを言わせたことそのものが、やはり奇妙な、いや異様な公演だったと思ってしまう。このステージの出来そのものがどうこうというより、この人が本公演一作で退団するんだ…ということに、どうしても思いが及んでしまう。カーテンコールで何度も「愛してるよー!」と客席に叫んでくれたが、ファンならずとも「愛されるには短すぎる」と思ってしまうだろう。
二部構成ではあるが、コンサートということだったので、和央ようかの時のようにスタンディングで大変なのかと思って臨んだが、第一幕は「貴城けいが、歴史上の人物となり、生まれ変わってゆくストーリー」(プログラムより)という設定で、オムニバスっぽい小芝居。冒頭のツタンカーメンは、ちょっと被り物が合っていないような気がしないでもなかったのだが、それよりも、王になっていろいろと改革をしようとするが、側近の陰謀ですぐに暗殺されてしまう、という筋書きは、一作退団の新トップのコンサートの冒頭にしては、少々無神経ではないかと思われ、ちょっと先行きが思いやられた。
構成としては、運命と愛によって固く結ばれた男女が、運命に引き裂かれながら幾度もの転生のたびにまためぐりあう、というもので、貴城は続いてラファエロ、明智光秀、オスカー・ワイルド、チェ・ゲバラと時空を超え、衣裳を変えて(光秀は和装ではなく、白いシャツと黒いパンツに着物を肩掛け。補うように『ささら笹舟』(20000年、雪組)の粗めの映像があったが、効果としては微妙)、その美貌と魅力を存分に発揮する、というものだったようだ。もちろん紫城もそれなりに恋人や妻や妹として絡んではくるのだが、ちょっと存在感は小さい。
本来であれば貴城もトップに立つ以上、普通なら何作かは主演作品があって、そこで様々な役を演じたはずだろう。しかし、一作、しかも坂本龍馬ということでは、ショーで多少は豪華なコスチュームが見られるかもしれないが、貴城のゴージャスな美貌を存分に発揮するに十分な公演となるかどうか。『COPACABANA』もラテンの金ラメのコスチュームはあったものの、基本はスーツ姿。それならばと、このコンサートで多くの衣裳をとバランスをとったわけか、とも勘繰られた。
第二幕はJ-POP、ジャズ、ラテン、クラシックと各分野ほぼ同じ曲数を並べ、最後にフィナーレと、これもバラエティは豊か。前述のようなことで総花的な構成にせざるを得ないと考えたのかもしれないが、やや平板に終わった感がある。大まかにいうと、J-POPは面白く聴けたが、他のジャンルの曲には、ややアレンジ過剰のものもあり、退屈な時間もあったような気がする。
さて、貴城については、トップらしい柄の大きさ、存在感、美しさとある種の翳りが出ていたのが何よりよかった。出演者は本人を含めて13名と、小規模なユニットではあったが、宙組のこのメンバーの中心としての大きさ、貫禄のようなものが、表情や身ぶりからしっかりと感じとれた。
彼女の美しさが、風格、純粋さ、妖艶+背徳性、野性味と、様々な形で味わえたことも感動的だった。多少無理のある構成や展開も、そのためのことだったと思えば、多少は納得できる。シーン別に見ると、明智光秀でシンプルな衣裳が逆に華やかな大きさをアピールしていたのがすばらしかったし、続くオスカー・ワイルドでは、早霧せいな演じるドリアン・グレイとの危険なやり取りが、卒倒もの。早霧は女役に当たっても美しく妖艶だが、男役でこれほど危険な雰囲気が出せるのは、すごい。また、唐突なゲバラだが、強いていえば『Never Say Good Bye』を思い出させて宙組としてのつながりを感じさせなくもないし、何より貴城の華麗な男っぽさが際立ったとはいえる。
両脇で使われた北翔海莉と七帆ひかるは、それぞれによく踊り、歌の実力と大きな存在感をアピール。美羽あさひの扱いがずいぶん大きくなっているのは喜ばしく、特にラファエロの場面での人妻はずいぶんセクシーで、演技が一回り洗練されたように思えた。いつも舞台をピリリと引き締めてくれる彩苑ゆきは、貴城と同期ということもあり、今回も特に目立つ場面でなくてもしっかりした演技と表情が光っている。なるべく長くがんばってほしい娘役の一人。驚いたのが随所に光る春風弥里のダンスのうまさで、特に凪七瑠海が女役になってのデュエットは、目を見張るものがあった。凪七も随分男役として安定してきたように思う。視線の使い方や歩き方の表情の変え方が的確で、非常に情のこもった演技をする。もちろん愛らしい。同期で芸能一家の愛花ちさきも、動きや表情が美しく、華やかで期待できる。
紫城は、何よりも貴城とのペアがヴィジュアル的にも美しく、息が合っているという以上に、運命を共にする強い絆のようなものを感じさせた。元・男役だということでだろうか、第二幕冒頭のジーンズ、Tシャツ姿がやけにかっこよくて色っぽく、全体にもっと紫城の魅力を前面に押し出してくれてもよかったのにな、と残念。貴城と共に、これから超高速でトップとして駆け抜けていくのかと思うと、瞬きもせずに見ていかなければならない。
走る娘役〜がむしゃらな魅力
いよいよ花總まりが退団する。もちろんこれまで何人もの娘役が、トップスターが退団してきたわけだが、トップ娘役としての「在位」の長さだけでは測れない、何か独特の感懐をもってしまう。花總がトップを務めた十二年間で、宝塚はどう変わったのだろうかとか、男役と娘役の立場に変化はあっただろうかとか、宝塚のありようそのものに影響を与えうるほどの歳月であったように思われる。
途中で話が終わってしまったために続編が待たれる(?)『虹のナターシャ』(1996)のナタ公をはじめ、新人公演も含めたスカーレット・オハラ、額田王、エリザベート、マリー・アントワネット、トゥーランドット、ジャンヌ・ダルク、そしてHANACHANGと、タイトルロールや主役格が非常に多かったことは、誰しもすぐに気づくだろう。芝居の中での比重の大きな役を与えられることで、どんどん自分の演技の幅を広げていったことになる。
「在位」とか「君臨」と言われて不自然でなかったのは、まさに女王のような存在だったからだろう。トップ男役を食ってしまうように言われたのは、雪組から宙組にかけて、四人のトップ男役の退団を見送り、つまり新組発足を含めて五人のトップ男役のお披露目を迎えたからだろう。花總の在位が長かったために、多くの有望な娘役がトップになれずに去ってしまった、という批判もあった。しかし、それは花總のせいではありえない。長期在位の弊害はいろいろと言われたが、いつしかそれも圧倒的な存在感で蹴散らした。
それは一体いつごろからだったろうか。本書の執筆者の間でも、「最近、花總、いいですよね」という声が、最初はややためらいがちに、相手の感触を探るような感じで言われ始めた時期というのがあった。ぼく自身は、2001年の『カステル・ミラージュ』の時に「久しぶりに花總がよかった。4人でネヴァダの砂漠にラスベガスを見に行ったところ、旅装で裸足の姿がとても初々しく、エヴァ=マリーという人は、どんな境遇に置かれていてもこういうきらめきを失わなかったのだろうな、などと一人納得することができたほどだ」と称賛し、翌年『鳳凰伝』のトゥーランドットでは、人物像の揺れに疑問を呈しながら、もしこの芝居を娘役である花總が支配するような形にもっていけていれば、大傑作になったかもしれないと、もう完全に宙組の芝居の魅力が花總にかかっていることを認識していた。それからでも、5年の歳月である。
特にすばらしかったのは、『BOXMAN』のドリーだったと言っていいだろう。この評でぼくは「境地」「しいて言えば言葉で説明できない域の演技を体得」という言葉まで使って、彼女が役自身になりきった上で細かい演技が演技であるということを超えて成立していることを賛嘆している。
おそらく多くの人が、「宝塚GRAPH」6月号掲載の1996年、雪組時代のエリザベートをはじめ、10年近く前の彼女の写真を見て、驚いたのではなかったか。大まかに言って、宙組に移るまでの彼女は、目に強い陰影をつけるような描き方をしていたのが、組替えの後、急激に目を中心にナチュラルな化粧のしかたになっていく。1994年、新人公演のスカーレット・オハラと2004年、全国ツアーのスカーレット・オハラを見比べても同じことだ。それとおそらくは軌を一にするような形で、演技の幅が自由自在に広がり、また眼ざしの表現力が強くなった。そして時折舞台で涙を流すようにもなった。
またかと思われるかもしれないが、ぼくは本当に花總が走る姿が好きだ。楚々としたお嬢様や気の強いワーキングウーマンや、運命の女カルメンやアイドル、薄幸な少女ジジ、20世紀初頭アメリカのフラッパー、どんな姿も懐しく思い浮かべることができるが、その走る姿のシルエットだけは、思い出すと、たまらない気分になる。そんなにもがむしゃらにならなくてもいいのにとか、そういう痛ましさが先にたってしまう。しかし考えてみれば、舞台でこんなにも懸命に走る姿を見せる娘役というのは、そういなかったのではなかっただろうか。彼女が求められ、応えてきた役どころが、いつもなりふりかまわず走っているような、女王でさえも、少女でさえも、そんなものだったのではなかったか。そう思うと、この12年間というものすごく長期にわたって、ずーっと懸命にがむしゃらに走り続けてきた娘役であったということか。
ある時期、おそらくは組替えの前あたり、走るのがちょっとつらかったり馬鹿らしかったりしたようなことがあったのかもしれない。それが楽しくはならなかったかもしれないが、また当たり前のように走ることができるようになった頃、きっとぼくたちの目に彼女の姿がひときわ輝きを増して見えるようになったのだろう。和央との同時退団を、彼女は女優生活の溶暗のように迎えようとしている。一人で目立つことをすることを、自分に禁じているかのような去り際を迎えようとしている。そのことをぼくは大変惜しく思っているが、『W-WING-』でも舞台の上で脇にいるのが楽しくてしょうがないといったような彼女の悟りを開いたような表情を目にすると、これが彼女の彼女なりの幕の下ろし方なんだろうな、と納得せざるをえない。凡人には想像すら及ばない歳月であっただろう。何も言わずに去っていくのだろうか、「終わっちゃった」という言葉を羽山紀代美が紹介しているが(「歌劇」5月号)、ぼくにとってもその空白の虚脱感は、想像以上に大きなものであることだろう。(2006年7月退団)
永遠の少年性〜和央ようかの魅力
2000年、『うたかたの恋』全国ツアーでトップとなって足かけ七年、新人公演でオスカルを、本公演ではトップとしてフェルゼンを演じているし、『ファントム』で怪人という当たり役も得た。トートこそ演じてはいないが、エルマー、ルドルフ、フランツ・ヨーゼフと『エリザベート』の主要な役をいずれも好演している。『嵐が丘』のヒースクリフなどという、とことん暗いドラマの主役という異例の役を演じきったのも迫力だった。トップ在籍の長さも近年では例外的だったが、作品にも大いに恵まれたといっていいだろう。
長く雪組で多くのトップを、率直にいって恵まれないトップも見てきて、既にトップ娘役であった花總まりの事実上の相手役のような準トップ時代を経て、花總と共に宙組の創立に参加。準トップとして轟悠、姿月あさとと二人のトップの下につくというのは、おそらくあまり例のないことだっただろう。いずれにせよ悪い経験ではなかったと思う。姿月のトップが足かけ3年と案外短かった(と思うのだが)こともあっただろうが、やはり花總とのコンビで5組随一の観客動員力を誇ったことが、何よりトップ在団の長期化の直接の理由だろう。
正直に言って、ぼくはこれまで和央ようかのことは、あまりふれてこなかったし、ふれたとしても何らかのバランスの悪さやちぐはぐさを指摘したりしてしまって、あまり彼女の魅力についてきっちりと語ってこなかった。最後になってまだ言うか、とまたお叱りを受けるのを覚悟で書くと、確かに声量は豊かであるとはいえ、ファンの間で言われているほどには歌がうまいとは思わないし、ダンスについても長い四肢を存分に使い切っているというほどには魅力的であると感じたこともない。ぼくが和央に感じる魅力は、そして多くの人が彼女に感じる魅力の根底にあると思われるのは、ほとんど一点、永遠の少年性というところにある。
雪組時代のバウ公演、太田哲則の『嵐が丘』(一九九七)のヒースクリフは、本当に救いのない存在だった。しかし最終的にそれを魅力的な人物として造型できたのは、主役である和央の中に、自分ではどうしようもない運命や風土の空気(アトモスフィア)によって左右される人生というものに、何とか自分の力で立ち向かおうとしていくがむしゃらさがあり、その結果として悪となり、破滅していく存在となったという運命的な破滅性があったからだった。その後先を顧みずひたすらに突き進み、狂気を感じさせる暗い情熱には、ある種の未完成な人格をもった少年を思わせる魅力があった。
宙組に移って準トップ時代のドラマシティ公演『Crossroad』(一九九九)のアルフォンソは、女の思いに応えられず、「今も私のこと、嫌い?」と聞かれて、「いや、…どう答えていいか、わからない。…ジプシーの女しか、知らないから」、そして次にやっと「おまえが、嫌いじゃないよ」
と口ごもるようにしか返せない、そんな男であった。その女が追ってきた男たちに撃たれて倒れても、なお女を抱えて「嫌いじゃない」としか繰り返せない。そういう幼さやまだるっこしさが、童顔というのとはまた違うが、和央の独特の魅力となっていた。ぼくがこのドラマで忘れられないのは、海にだったか、アルフォンソが石を投げるシーンである。和央は長い手足がもつれるように、むちゃくちゃなフォームで投げた。小石と一緒にわが身も投げ飛ばしてしまうようなフォームであった。不器用とかアンバランスとかそういうことを超えて、そんなナマな姿をさらけ出してしまう無垢な役者の存在に、ある種の感動さえ覚えたのだった。
ブロマイドやポストカードで、時折和央のお茶目でいたずらっぽい表情を見かけて、ぼくはそういう部分をあまり知らないなと何となく思っていたが、二〇〇五年末の『W−WING』で随所に彼女が見せたキュートでナチュラルな表情は、いつまでたっても、そして最後まで少年性を失わない、彼女の魅力のありようとして、とっくにファンや彼女自身は自覚していたものだったのだと思われた。そんなものがあるかどうかは別として、いわゆる母性本能を大いに刺激する存在なんだろうなと思って、納得させられた。『ファントム』(二〇〇四)で樹里咲穂演じる父キャリエールとのやり取りが名場面となりえたのは、和央の中に背伸びしたりつくろったりしようとはしない無垢な少年の心があったからだったろう。
振り返れば、ドラマシティ公演『BOXMAN』(二〇〇四)も、『Crossroad』と同じく正塚晴彦のスマッシュヒットで、菊田一夫演劇賞を受賞している。ここでは、いろいろな修羅場を潜り抜けてきて、今は足を洗った男。この魅力的な作品で、花總がある種のトラウマをもち不安定な精神を抱えた存在として登場、和央は陰のある過去をもちながら女を大きく包み込む大人としての存在である。その花總のドリーが相当な名演であったためにあまり目立っていわれなかったかもしれないが、正塚が和央に大人の役を当てたというのは、画期的なことであり、それをこの二人が過不足なく的確にバランスよく演じられたというのは、すばらしいことではなかったか。
そして三度の正塚劇である『ホテルステラマリス』(二〇〇五)は、ある種リアルな設定の中で、自分が自分に定めた掟のようなもの(夢や理想というとあまりにプラスのイメージがつくが、そうではなくて)に対してどれだけ忠実でありうるかということについて、一人の男が少しずつ自分を発見し、本当に愛すべき女性をも発見していく物語であった。冒頭で作品にも恵まれたと書いたが、和央がトップスタートしてゆっくりと成長していくのと軌を一にするような形で、自己像についてのターニングポイントとなるような作品にめぐり会えたのは、本当に幸福だったといえるだろう。
『W−WING』は確かに大きなアクシデントによってとんでもないステージになったが、和央の少年性を再確認するには、ファンにとっても佳品であったといってよい。最後の作品となった小池修一郎の『NEVER SAY GOODBYE』もまた、デラシネ(根無し草)であると自覚していた男が、スペイン内戦で自分の居場所を見つけ、そして自分のパートナーとなる女性を見つける物語であった。和央ようかという未完成でがむしゃらな魅力を持った少年のようなスターが、その魅力を抱えたままゆっくりと大人になっていくのに付き合えて、本当に感動的だった。多くの女性は和央の中にいつもふれることのできない少年性を見つけて、その成長に心を奪われてきただろうし、数少ない男性は和央の中に永遠の少年らしさを見つけて、自分もまたそうでありたいと憧憬のような思いをもって見つめてきたことだろう。宙組の、和央の動員力の大きさは、このあたりに秘密があったに違いない。(2006年7月退団)
「不滅の恋人たちへ」
太田哲則の作品については、ずいぶん好意的に見てきたつもりだが、今回は演劇的喜びに乏しく、筋とこだわりに溺れた失敗作だったといわざるを得ない。ヤマアラシのジレンマではないが、二人の才能ある男女の強さが外にも内にも鋭い刃となって激しく傷つけ合ってしまう、なかなか読みごたえのある筋ではあったが、見ごたえのある芝居にならなかったのは残念だった。
まず、バウ作品にしては豪華な多くのメンバーを揃えたにもかかわらず、個々の見せ場に乏しかったのは残念だった。第二に、歌やダンスの比重がひじょうに小さく、ストレートプレイのようであったにもかかわらず、ドラマのふくらみがなく、起伏の乏しい作品になったのは残念だった。第三に、フィナーレを設けなかったのは、太田作品に多いとはいえ、バランス感覚からいっても観客へのサービスからいっても疑問が残るところだ。最後に、結果的に主演の大和悠河の魅力を多面的に引き出すことができなかったのは、誠に残念なことであった。
もちろんこのようなことは太田にとっては釈迦に説法の確信犯であって、今さらいわれる筋合いのものではないだろう。しかしながら太田は、にもかかわらずこれが激しくドラマティックな作品となることを夢想していたのではなかったか。それなら、ぼくが前述のような印象をもってしまったのは、なぜだったのだろうか。
プログラムで太田自身が「崩れた男の魅力は宝塚歌劇の男役の伝統…」と書いているが、この劇で主役であるミュッセ(大和)に疑問を感じたのは、その崩れが単に酒に溺れたことによるものにしか思えなかったところだ。もちろんそこに至るにも相応の理由があるのだろうが、酒以前の愛と文学の苦悩による人格の分裂こそをストレートに伝えるべきではなかったか。酒に溺れる様子を演じる大和は美しく悲しく印象的であったが、ミュッセの理知的な表現の苦悩、愛の苦しみは印象として強く残っていない。もし素面のミュッセの苦悩がありありと描かれ、大和が振幅大きく演じ、そこから酒に溺れて崩れていくプロセスが描かれていたら、全く様相の違ったドラマになっていたのではなかったか。
終盤の第十一場で、トゥルーズのミュッセの許へジョルジュ(紫城るい)が押し掛けたくだりの、官能的な絡みからあれよあれよという間に激しい諍いに移っていくシーンは、美しくドラマティックで圧倒的だった。しかし正直にいうと、その時既に観る者は、ミュッセとサンドの後ろ向きで言葉の多い言い争いに疲れていた。言い争いだけでなく、出会い、始まり、深まりなど、一連の二人の関係はほとんどが言葉によって辿られていて、歌やしぐさやダンスや沈黙で描かれる余地がほとんどなかったのが、観ていて疲労してしまった主因だったといえよう。もし、この場面のような官能的な絡みが、前半の二人の恋情の高まりの場面で甘美なままに終わるラブシーンとして提示され、ダンスや歌が続けば、この劇を観終えた印象は一変したかもしれない。
繰り返しになるが、大和の姿は美しく、紫城と共に絵の中から出てきたように見ごたえがあった。冒頭のこの世のものとは思えないような声のトーン、美しさは、強く印象に残っている。また紫城の男装の倒錯的な魅力をはじめ、二人とも衣裳が変わるたびに新たな魅力を振りまいた。しかし演技に関して特に大和は、おそらくはあえて単色に抑え、クールな美しさに終始した。もしかしたら、もっとダイナミックにできたかもしれない。悲しみでも喜びでも、はじけるような激しさがなかったことは残念だった。劇中劇『戯れに恋はすまじ』の立ち稽古に姿を見せたときぐらいは、もう少し違う表情を見せてほしかった。
それに比べれば、紫城は様々な衣裳のバリエーションだけでなく、愛らしさも激しさもじゅうぶんに見せたといえるだろう。今回改めて特に気に入ったのが、彼女のある種の狂気さえ感じさせかねない突発的な笑い方の魅力。ドラマを作る力がある。
笑い方といえば、箙かおるのそれにも、観る者をぎょっとさせるような力がある。千雅てる子の低い声もいい雰囲気を作ったし、五峰亜季の美しさと存在感はすばらしかった。鈴奈沙也は随所にうまさを見せたが、もっと見たいと不満が残る。美羽あさひは美しく、「坊っちゃまね、ハハハ…」の、これまた笑い方がよかった。彩苑ゆきは酒場の女も掃除婦も、実に達者な演技を見せ、いいスパイスとなっていたといえるだろう。花影アリスは、しばらく見ない間にふてぶてしさまで湛え、表現が大きく大胆になったのが何より。初嶺麿代は道化めいたところもあり、うまさは見せたが、こんな役では物足りない。和涼華は革命の場面での凛々しい美しさ、第二幕冒頭の華やかな姿など、ずいぶんスター性が出てきた。風莉じんはセリフ回しも歌も個性的でうまく、名脇役として育つタイプだ。遼河はるひは張りのある歌声や鮮やかな立ち姿で魅力を見せたが、出番が少なく役不足。それは悠未ひろも同様で、サンドの愛人となる医師という大きな役なのに、場面はずいぶん端折られてしまって、見せ場に乏しかったのは残念。サンドのマネージャー役のように出されていたジャンヌの美風舞良はセリフ回しも的確で、端々にサンドと特殊な関係であったこともほのめかせて好演。音乃いづみ、和音美桜は歌の見せ場を作ってもらってはいたが、大劇場のショーの方が持ち場が長いぐらい。和音の高音が上がりきらないように聞こえたが、ぼくが聴いた回だけだったかもしれない。夢大輝や夏大海はそこここで芝居巧者ぶりを発揮。天羽珠紀は表情の明るさと歌声で目立った。十輝いりす、七帆ひかるや凪七瑠海は大きな役ではないが、姿のよさで存在感を発揮できていた。文芸評論家サント・ブーブという本来なら大きな役となるはずの寿つかさの見せ場がなかったのも残念。彼の存在を大きく描けば、ミュッセとサンドの文学的葛藤もずいぶん明瞭になり、劇が重層化できたのではなかったか。
(2006年1月、バウホール)
和央ようかリサイタル「W-WING」
S 何ていったらいいのか、論じにくい公演になっちゃったわね。
J うん…まさかこんなことになるとはね。「歌劇」誌でも「秘密の仕掛けを楽しみに」なんて和央ようかが言ってたようだから、本人もフライングには入れ込んでたと思うし、事故とはいえ、気の毒だよ。
S 事故って言えるのかした。だいたい、フライングが回数も種類も多すぎたでしょ。一通りだったら慣れるかもしれないけど、いろんな吊り方だったのもよくなかったんじゃない? あのシーンは吊革に腕一本でぶら下がってて、今だから言うわけじゃないけど、ちょっと危ないんじゃないかなって思ったわよ。公式サイトには「右手で握っていたフライング用の装置より、握り手が抜け」転落したって出てたけど、なんかあっても大丈夫なように、二重の安全を図らなかったのは、やっぱり問題よね。
J だいたい大切な「生徒」にフライングをさせようとか、許すっていうこと自体が信じられない。このことでものすごく不満なのは、最初の発表では「和央ようかが過って舞台上に転落」「過ってバランスを崩し」となっていたことだよ。ドラマシティでのことだから、劇場側の過失とは言いにくかったのかもしれないけど、和央を守る姿勢というものが見られない。ちょっと一方的過ぎじゃないか! 後の発表を見ると、装置の不具合だったように読めるのに。
S そうよね。誰が過っても、不測の事態にはならないようにしておくのが舞台関係者の責任よね。
J 紫吹淳や初風緑も舞台上の事故でケガをしたけど、もう二度とこんなことは起こしてほしくないね。落ちてからのタカちゃん、一曲歌い続けて、起き上がろうとしてたりとか、「だいじょうぶだよ」って言ってくれてたとか、中止が決まってから自分でマイクを通して挨拶したとか、涙ぐましいよね。
S まったくよね。悔しかっただろうな…。十六日から二十九日までの予定で、二十一日に中止、東京も中止ということは、大ざっぱに言ってチケットを買った四分の三の人が観れなかったのね。せっかくだから、公演を振り返ってみましょうよ。
J でも、スタンディング、手拍子、一緒に踊ってたりで、あんまり覚えてないんだ(苦笑)。
S あの「W・I・N・G」って手振り、やってたの? すごいなぁ。
J 何回もやってたから、覚えちゃった。っていうか、せっかくのチャンスだったんだから、はじけなきゃ! ふだん大劇場で声出したり「過剰な拍手」もできないもんだから、みんなすごかったよね。ファンクラブの人だろうけど、星形の蛍光ペンみたいなの振ったり、ラメ付きのうちわかな、お祭りみたい。タカちゃん(和央)も客席に何度も降りてきてくれたし、すごいサービスだったな。通路で誰かの荷物につまづいてたけど、あれもわざとかな? ヨン様なんて、雰囲気出てて、絶品だった。
S マフラーで靴まで磨くし(笑)。ルパン三世も、奇妙に似合ってたよね。カーペンターズの「Please Mr.Postman」で郵便局員になって自転車で舞台走ってる姿もかわいかったし。ふだん見慣れてるカッコいいタカちゃんじゃなくて、かわいいタカちゃんだった、っていう印象が強いのよね。それでかな、私、ちょっと乗り切れなくて…。
J でもこういうのは自分から飛び込むぐらいの気持ちで乗っちゃわないと損、損。「今日はタカちゃんと盛り上がるぞー」って。
S 熱烈なファンの人はそうだろうけど、無理して乗るっていうのも、何だかねぇ。
J もったいないなぁ。コミカルなシーンが多くて、確かにかわいい路線を強調してたよね。あと、もっと花總まりがバンバン前面に出てくるのかと思ったけど、その他大勢の中のリーダー、って感じだったのも意外。「W」って、和央と花總のダブルかと思ってたぐらいだったのに。
S なんかスタイルのいいきれいな子が端っこで一生懸命踊ってるな、って思ったら、花總だった(笑)。けなげ。
J もちろんデュエットのシーンもたくさんあるんだけど、引き立て役に回ったっていう感じだったね。自分でもそういう役回りを楽しんでるふうだったかな。花總がフリフリで歌ってるところにタカちゃんが女装(?)で出てきて、みんなに「キャワイイーッ」とか言われて、ふてくされてる花總に「昔は『Go! Go!ハナちゃん!!』なんて言われてたのにね」って振るところなんて、本気で腹立ててるような演技をしながら、すごく面白がってるようだった。
S それがすっごく楽しそうでさ、なんか改めて花總ってかわいいな、って思っちゃったわよ。他の出演者、下級生はどうだった?
J ホントにほとんど覚えてない、識別できてない(苦笑)。ただ、正直いって、歌とか実力で「さすが」とうならせる選抜メンバー、って感じではなかったね。
S アレッていうようなソロやハモリもありました。
J ダンスでは、えっちゃん(大海亜呼)あたりがシャープだったかな。早霧せいな、八雲美佳、麻音颯斗、萌野りりああたりがいい表情してたのはわかったけど…。バウ公演のメンバーが厚かったのに比べると、ちょっと。
S ま、タカちゃんだけ見せたい、ってライブだったわけよね。それがこんなことになっちゃって…。
J 再演って、スケジュール的に無理かな。
S ディナーショーぐらいならできるかもしれないけど、まずは治療や体力回復に専念してほしいわ。
J そうだね、悔いのないサヨナラ公演にしてほしいもんね。
(2006年1月)
炎に口づけを/ネオ・ヴォヤージュ
寿つかさはダンスの人として知られているのだし、何も歌でリスキーな勝負をする必要はないのだから、第一場のフェルランド(寿)による過去のエピソードの説明は、歌われる必要はなかった。歌はどうしても間延びするし、聞き取りにくい場合がある。何か昂揚した場面でセリフが自然に歌になるというような幸福な遷移はめったに見られないかもしれないのでそこまで求めないにしても、ただの語りを歌にするというのでは、ドラマの始まりを弛緩させ、寿にとっても無用な減点となりかねない。そんなふうに、何も無理に歌にしなくてもと思われるような箇所まで歌にしたことで、耳が疲れるというか、単調な印象を受けることになってしまったのは否めない。作曲・編曲の甲斐正人は魅力的なメロディ・メーカーだと思うし、今回も和央ようかの力を生かして、難曲でありながら名曲を作れてはいたのだが、大きく歌い上げるタイプの曲が続き、やや単色に染まってしまったような気がする。
しかしそれを甲斐の責に帰するには当たらない。木村信司の脚本・演出が単色であった以上、音楽はそれを超えて色を与えることはできないからだ。もちろん木村は意図的に単色しか与えなかった。祭や舞踏会のシーンを入れて息抜きをさせようといった、宝塚ではよくある気分(だけではないが)転換を排し、一本調子で正面切って「愛」を問うたわけである。またもや「蛮勇」と呼んでいい。役者たちはその一本調子によく耐えた。
登場人物をキリスト教社会という集合の中と外というふうに分ければ、ルーナ伯爵(初風緑)と兵士、修道院の人たちは、一貫して中にいる。パリア(大和悠河)は外にいる。マンリーコ(和央)は十分には描かれていないが、外から中へ入ろうという野望を持ちながら、外へスピンアウトしようとしている。あるいは、吟遊詩人という側面からは、内外の往還が自在であるというべきなのかもしれない。レオノーラ(花總まり)は中の者でありながら、マンリーコと出会ったばかりに居場所が不安定になってしまう。
ここで気をつけておきたいのは、ある者が中か外かを決定するのは、とりあえず第一義的にはルーナ伯爵であるということだ。それは約めれば「キリスト者であるか否か」ということであって、その一元的な尺度に対して、「ジプシー」であるパリアらの歌「俺たちはジーザスが嫌いじゃない」に現れているような考え方は(いささか単純すぎるようにも思えるが)、それを相対化するものであって、許容することができない。その尺度の中にある限りは、ルーナ伯爵が修道院長(毬穂えりな)に一応伺いをたてるとはいうものの、外の存在である「ジプシー」たちに何をしたってかまわない。そういう社会のありようのすべてを代表するシンボルとして、ルーナ伯爵は存在させられている。
キリスト教の歴史は、自分たちと同じ「人間」(=キリスト教徒)の範囲を広げてきた歴史である。大航海によって新しい陸地を見つければ、そこにいる者たちを殺すか改宗させるかした。新天地で従わぬ異教徒がいれば、殺してそこにキリスト教徒が入植して繁栄すればいい。その考え方は延々と続き、ホロコースト(ショアー)に結果する。キリスト教が、異教徒もまた人間であるということを、価値相対主義によってではなく個人の救済というレベルにおいて「発見」し、異教との対話を始めたのは、ごく最近のことだと言っていいかもしれない。なかなか成果は出そうにないが、多くの人々がその方向で努力していることは確かで、もっと多くの人々がその道に希望を抱いている。にもかかわらず、昨今アメリカ合州国は「悪の枢軸」と称してまた「非−人間」の分別を行おうとしている。そのことについてはぼくも猛然と非難したい。それが、今回ぼくが木村のコンセプトに対して斜め二五度ぐらいからシンパシーを感じる理由である。もちろんぼくは木村と違って、隣人愛が成立することを信じている。
このように、同じ土俵で議論することの愚を意識しながらも、それでもなおこのように多くの言葉を費やすのは、あえてルーナ伯爵を、初風緑という重要なスターの退団公演であるにもかかわらず、黒一色の単色な造型に仕立てたことの理由を探りたかったからだ。
ルーナ伯爵という人物像は、一個の人間であるよりも、一つの思想の表われである。ここまで読まれた方は既にお気づきのように、このような劇の作り方は、プロパガンダと呼ばれるもの、政治や思想に芸術が奉仕させられるあり方であって、それが実は木村が忌み嫌ってきたはずの全体主義の考え方=すべては全体という名の一つのものに奉仕するという考え方に帰着するのではなかったか。おそらく木村はそうであることを知りながら、あえてある考え方(プログラムによれば、「愛は決して、世界を救いません」というテーゼ)を主張するために、このような人物像を作ったのだろう。
もちろん初風はすばらしく魅力的であった。木村の言葉を借りれば、レオノーラをモノにしたいという欲望から、「嫉妬や恨み、憎しみ」とすべての暗い情念が生まれてきている人物を、その暗さにおいていきいきと輝かせ、第八場で世俗の成功と栄光を一身に受けると、この上ない喜びと残虐さを表わしえていた。
大和をはじめとして、「ジプシー」の男女は、いきいきとしていた。男役はその長身や愛らしさを生かして一人ひとり別種の魅力を発揮した。できれば一人ずつ殺してやってほしかった。娘役は歌手チーム。外の者らしい、破格の歌唱力が、いっそうの悲しみを募った。
紫城るいの侍女ぶりは美しく堂に入っている。一樹千尋は愚かな母を熱演。ちょっと動きすぎのところもあったが、それも含めてこの母がもう少し賢明だったら、すべての悲劇は起きなかったのではないかと思わせるようなところが、逆に好ましかった。
和央も歌のスケールの大きさで遺憾なく魅力を発揮、花總の恋する乙女はたまらなく愛らしかった。二人とも粗衣で美しさが強調されたのは、すばらしい。第10場「牢獄」でのやりとりは、男と女の感情の曲線がひじょうに的確に描かれているといっていいだろう。確かに救いのない結末ではあるが、この二人の互いをいとおしむ自己犠牲の心がぼくたちの心に残り、救済ではなかったとはいえある種の幸福感がなかったわけではない。これを受けて、もしラストでジーザスのように息絶えるマンリーコの傍らに、マリアのようにレオノーラを立たせていたら、観る者の後味はずいぶん変わっただろうに、それを知っていながらそうしない木村であるということだ。
ショー『ネオ・ヴォヤージュ』はセイレーン、ザ・レディ、ジンジャー・Rなど花總が相変わらず魅力を全開。その傍らで、娘役ではずいぶん自信をつけているのか存在感の大きくなった和音美桜、表情がすっきりした感のある美羽あさひ、ぞくぞくするほどの歌声の魅力を発揮した音乃いづみあたりがいい意味で目立ってきた。紫城が大和や遼河とのデュエットでキュートな存在感を出せていたのもいい。
男役では、大和のハロウィンの場面での使い方自体には疑問が残るが、姿の美しさ、場面を締める統率力には敬服。一人で舞台の求心力をつくる力は十分にある。この場面に出てきた和涼華、早霧せいな、凪七瑠海らの若手は、他の場面でも大活躍。大いに目立っていて将来が楽しみだ。後でチャイナレディとして女役を演じた早霧の妖艶なほどの美しさ、ロケットAとしてラインダンスの芯を務めた凪七の鮮やかさ。新公を卒業した遼河はるひや悠未ひろもバウ公演を経てめきめきと充実してきているし、七帆ひかる、十輝いりすらもずいぶん育ってきている。どんどん若手にチャンスを与えるような作品づくりをしないと、本当にもったいない。
Le
Petite Jardin(悠未)
まさかこんなにすばらしい公演だとは想像もしていなかった。ぼくが観たのは十九日十一時、前楽の公演で、それなりに完成度は高まっていたとは思うが、これまでバウで観た作品の中で、最も感動的だったといっていいだろう。今思いつく範囲では一カ所を除いて脚本や設定におかしなところがなく、役者がそれぞれの役を思い切り生ききったという点で、何度ものカーテンコール、スタンディング・オベーションに値し、それを目にした役者たちが感動で顔色を変えるほどの公演であった。
これでもかというほど一人ひとりのバックに物語が込められていたのに、それが煩雑や辟易と思われなかったのは、それが一軒のレストランをめぐる人々という共通項を持っていた上に、そのレストランがそもそも持っている信念とそれを受け継ごうとする人々によって、柔らかくあたたかい空間として存続しているという雰囲気の中にふんわりと配置されていたからではなかったか。
エリーヌ(咲花杏)の化学物質にふれると昏倒してしまうという体質も、それによってパリから夢を諦める形で戻らざるをえなくなり、ガーデナーとして懸命にこの店で生きている、という設定自体から、この場所が彼女にとって唯一の生きる場所であるということを無理なくストレートにあらわせている。そんなけなげな彼女が、四つ葉のクローバーには、Hope, Heart, Happiness, Healthと四つのアッシュをあらわしているけど、私には最後のHealthが欠けてるからダメなのかな、なんて言うもんだから、もうそこでぼくたちは彼女の哀しみに完全にダウンしているところに、続けてアラン(悠未ひろ)に「本当のこと答えて」と、もうそこでエリーヌは泣いてしまっている。「セシルさんのこと、好き?」…ぼくたちは深く嘆息する、ああ、なんと残酷なんだろう、何とかこの子の思いに答えてやることはできないのだろうか、アランよ、何とかしろよ、と。「どうして私、ほしいもの、何にも手に入れられないのかな…こんな人生、大っ嫌い」と気丈に嘆くエリーヌに、アランは精一杯生きている今のエリーヌが大好きだ、と言う。これは愛の言葉ではないかもしれないが、彼女の懸命さへの最大限のエールである。そしてアランはエリーヌの母イヴォンヌ(毬穂えりな。ものすごく好演)に「彼女なら乗り越えていけますよ」とも言う。アランはあくまで真摯で、その場をごまかすようなことを一つも言わない。その純粋で真摯な男の背中を表現するのに、この悠未ひろという役者が、いかに好適だったか!
悠未はどちらかというと、派手さの面で少々欠けるところがあり、不器用な印象のある役者のように思っていた。それが、純粋に信念を突き進む朴訥なほどのまじめさ、かつて大切なものを失ってしまったという痛恨からくる、自分の大切なものを守ろうとする激しい強さ、多くの個性を束ねあげていく包容力、となってみごとに適役として結実した感がある。ダンスなどの動きも堂々としており、大きさを本当の意味で大きさとして認識し、表現しえていた。悠未という個性が中心にあったからこそ、この劇で多くのドラマがすさまじいほどの感動を呼んだといって過言ではない。アラン自身のドラマを含め、すべてのドラマについてアラン=悠未が実にみごとに寄り添い、共に悲しみ喜び、いとおしむ心が感じ取れ、そのためにぼくたちも一緒になって泣いたり喜んだりできたのだ。
咲花杏は、ここでセリフの前に泣いてしまっていて、それは演技としては適切ではなかったのかもしれないが、そういうことを超えてこらえているものが溢れるときというのは、えてして自分では制御できないのだということを適切に示していたといえる。ああ、もう泣いている、と思わせることで、彼女の思いと諦めの深さがひしひしと伝わってくる、名演だったとさえいえよう。
風莉じんはロワゾー四代をすばらしく演じたが、特に金婚式を前にして老妻を亡くしながら店を訪ねてきた老ロワゾーについては、設定、構成、ドラマの盛り上げ方、歌、その歌へのアランの和し方、それがアランがかつて妻を失ったことへの反照、とすべてにおいて完璧だった。人は死んでも、記憶され、語られることでこの老妻のように幸福に生き続けることができるのか、ということを改めて確認させられるシーンであり、これもまたミシェル・シャンティが亡くなっても、その遺志が多くの人々によって受け継がれ生き続けていることを重畳に物語るものだった。
天才パティシェの名を十代でほしいままにしたというパトリック(凪七瑠海)は細く長い腕を存分に生かして、いい動きを見せた。歌も悪くない。ヒロイン役セシルの和音美桜は、前半やや硬すぎて、もう少し奔放さを見せてくれてもよかったが、終盤で父の思い出の食事を口にするあたりの表情の柔らかさは好対照で秀逸。料理人ジャンの十輝いりすは、すぐにしゃがみ込んで拗ねてしまうところなど、よいキャラクターをうまく出していた。「負け組にはならない」と言いながら同情されてしまうルイスを演じた夏大海は、我慢の役どころだったが、よく耐えて冷たさを出せていた。日本人でジャンの片腕のサチ(綾花ちか)も一本気な純粋さがよく出ていた。客席に下りてきてくれたときに、間近で見たが、本当にかわいらしい。
ダンスシーンがテンポといい大きさといい、ひじょうによかったのは収穫。特に大柄な悠未、十輝の動きが自然で、長い四肢をよくコントロールできていたのはよかった。プログラムのキャストが一覧表になっていたり、人物紹介で年齢・星座・血液型まで出ていたのは、植田景子一流のこだわりか。こういう部分だけでなく、芝居の中にもいい意味でこだわりが出ていたのが、今回は成功したと言えよう。次の作品が楽しみだ。
ホテルステラマリス レビュー伝説 全国ツアー(大阪)
全国ツアー公演の醍醐味は役替わりにあるのだが、人数が少なくなることで、とんでもない人が群舞の端で踊っているのを見つけたりするのも、楽しみの一つだ。今回も、ふと群舞で寿つかさの軽快なダンスが目に入ったりして、得した気分になったりした。しかし何よりも、一人ひとりからにじみ出てくるパワーがずいぶん大きくなるせいか、舞台の求心力が本公演より高まっていたような充実感を味わえたのがうれしかった。
組替えもあり、中堅・若手がバウ公演で大きく抜けることもあり、大幅な役替わりになったといえよう。主なところは、アレンを大和悠河(大劇場公演=水夏希)、アリソンを音乃いづみ(彩乃かなみ)、ガイを七帆ひかる(大和)、リンドンを和涼華(悠未ひろ)、ダニエルを八雲美佳(遼河はるひ)。
よかったのは大和のアレン。動きやセリフのよさはもちろんのことだが、ホテル再建にかけるひたむきさや、第十一場「中庭」でのステイシー(花總まり)のやりとりに見え隠れする、いい具合な人のよさが、アレンという人物造型にひじょうに的確に思えた。ことにステイシーの背中を押しやるようにして退場させる姿や、「他の男のこと考えながら、俺の隣に座るな!」と言う乱暴さ加減の見せ方にうまく情がこもっていて、名場面の一つになったといえよう。姿も垂直感が鮮やかで、実際の大きさよりも大らかさがあってうるわしい。
一方、大和が演じたリンドンを受け持った七帆は、少々苦労した。せっかくの長身なのに、腕の動きなどただまっすぐ出てくるだけなので、実際よりも小さく見えてしまうのが一つの難。縮こまって見えないためには、大きな人はもっと大きく見せるための工夫をしなければならない。それが欠けた上に、セリフ回しなどずいぶん工夫したのだろうが、乱暴さを強調しすぎたために、リンドンが何だかがさつでヤクザっぽく、さらにいえばチンピラみたいに見えてしまった。リンドンは確かに賞金稼ぎ、まっとうではない人物かもしれないが、調査員に間違えられるという設定もある。まして宝塚のホープとして歩いていこうという存在なのだから、上品さと下品さ、大きさと小ささなど、対照的なものを併せもったたっぷりとした芸の幅を見せてほしい。
アリソンの音乃は、歌に心配のない人なので、彩乃の役も意外ではなかった。新人公演で主演娘役の経験もあり、その意味でも順当というべきなのだろう。新人公演で観た時よりずっとリラックスして自然な表情が出ていて、安心した。ただ、中盤から後半にかけて、ちょっと演技が厳しすぎるというか、性格がきつく出すぎていたようなのが、気にかかった。ウィリアム(和央ようか)がいうことを聞いてくれない苛立ち、ステイシーにウィリアムを奪われてしまうことの受け入れがたさに、お嬢様らしい高慢さ(プライド)がない交ぜになった複雑さを見たかったのに、高慢さが勝ちすぎたように思えた。歌声はやはり実に柔らかく、すばらしかった。
和央は全体に演技が深められ、なかなかのはまり役だと納得させる力をもっていたが、特に第五場「ホール」で、副支配人として紹介されて登場する場面のやや硬い表情はすばらしかった。リンドンの和は、若々しく明るいさわやかさがよく出ていた。サリー(出雲綾)の美風舞良、セリフ回しがうまく、いい存在感を出していた。料理長ダニエルの八雲は、熱い一本気な感じがうまく出ていたのがいい。
ショー「レビュー伝説」では、鈴奈沙也の鮮やかな歌を久しぶりに堪能できたのがうれしかった。軍楽隊姿(エトワール座員)の美郷真也が、妙にすかしていて、七帆との身長差をうまくユーモラスに使って、いい味を出していたのも満足。
大劇場公演でこのショーを観た時には、ジジ(花總)が肺を病んでいて余命いくばくもないという設定を、なんと陳腐で安易かと思っていたが、数カ月を経て再び観て、何だかしみじみと悲しく思っている自分に驚いた。花總の演技の深まりもある。「照れるなぁ」と笑ってみせるかわいらしさ、男役の群舞をしゃがみ込んで観ている眼ざしのまっすぐさなど、随所で彼女の存在感に打たれた。冒頭に述べたような一人ひとりの熱さもあっただろう。それらの舞台の上のことに加えて、震災後十年、JR宝塚線の惨事によって中断された命のことにふと思いが及んだことは確かだ。ジジはこうやってみんなの協力で夢を叶えることができたけれど、同じように十七歳で亡くなった高校生や、その他の人たちの叶えられなかった夢を思うと、他人事とは思えず、悔しくなった。舞台にはそういう力がある。
そして、ことのついでのように付け加えるのは申し訳ないけれど、JRの事故で負傷した万理沙ひとみの、一日も早い回復を祈るばかりだ。
舞台という神秘、あるいは。(ホテル・ステラマリスに事寄せて)
劇場の中では日常は忘れさせてくれると言うが、時折日常で気になっていることが思い出されてしまって舞台上の出来事に集中できなくて困ることもある。それは日常の気がかりがあまりに強く重いためなのか、舞台上の世界があまりに陳腐だったり稚拙だったりで集中できないためなのか、まあ割合はともかく、その両方であるということなのだろう。
宝塚歌劇では珍しく、宙組大劇場公演「ホテル・ステラマリス」は、つぶれかけた名門ホテルの再建策をテーマとした、なかなか現実味の濃い作品だった。作者(宝塚では演出家と呼ぶ)の正塚晴彦は、今の宝塚ではもっともレベルの高い作品を続々と生み出している作家で、以前ショー「デパートメント・ストア」ではつぶれかけて幽霊屋敷と化したデパートを題材に、デパートへの憧れやワクワク感を前面に押し出してデパートの復活をテンポのよいストーリー・ショーに仕立てあげた手腕を思い出すこともできる。
「ホテル・ステラマリス」では、名門貴族の一族が経営する古いタイプのホテルに、買収の話が持ちあがっている。従業員は客の誰某が視察や監査に来た内偵者だとかんぐっている。結局はホテル学を研究している大学教員と名乗っていた(和央ようか)が再建会社の担当者で、買収後副社長に就任する。
そこから先が、いま18歳人口の急減と新増設大学の増加で構造不況に見舞われている大学関係者(このページの筆者の多くがそうですね)にとっても甚だリアルに切実で頭を抱えたくなるような展開なのだ。顧客のニーズを掘り起こす新企画、節約、仕入れの調整、新しい顧客層の開拓、古い経営者の棚上げ、従業員解雇の噂……、さらに周辺の再開発話から転売の話まで持ちあがり、再建会社幹部の出来レースかとの疑惑まで出てくる始末。後半でワークシェアリングの提案が決め手となって解雇は避けられたということになり従業員が団結とやる気を取り戻すというくだりでも、けっこう真剣に「それで問題が解決するのだろうか」と考え込んでしまった。
劇場という空間にはある種の神秘があって、観る者をどこか異空間に誘うと同時に、現実の空間から遮蔽するバリアのようなものを持っているはずだ。闇をつくり光を当てる照明という装置もそれに深くかかわっているし、何より舞台という(それが一段高くなっていようが、すり鉢型に低くなっていようが)区切られた特異な空間の中であれば何が起きても驚かないという自明な前提によって守られた神秘がある。
舞台の上の世界を観てぼくたちが身につまされる思いになる時、それでもそこには微妙で薄い膜のような隔たりがあって、そのおかげで観劇という行為が成立し、うまくするとカタルシスと呼ばれる現象があらわれることになる。
さて、前回に引き続きまたぼくはここでダンスというものに対して問わざるをえないのだが、ダンスを観るという行為を通じて、ぼくたちは内部に何をどのように成立させているのだろうか。そこで身体がくりひろげる超絶技巧に感嘆したり、自分のダンス創作の参考にしたりというところを超えて、何かきっちりと世界を受け取っているだろうか。
優劣を論じるのではなく、ダンスの味わい方には、身体の動きそのものを観ることで喜びを得るというもの、ダンサーが表現しようとする世界を共有することで喜びを得るもの、ダンサーの表現方法そのものをメタに味わうもの、など様々な層があるだろう。ダンスを観ることで、前回ここで述べたような見ごたえを体験することが乏しいのは、この2番目の経験が稀であるからだろう。
ぼくが今もっとも怖れているのは、身体の鍛錬をしたダンサーが少なくなって1番目の動きそのものを味わうことによる喜びも失われ、3番目の方法論の工夫についても単純な思いつきの域さえ出ず、となるとダンスが何の魅力も見どころもないものになってしまうのではないかということだ。(PAN PRESS 2005.2)
「BOXMAN」
楽しく面白い芝居だった。特に記憶されるべきは、寿つかさの怪演ぶりだったが、
主役の二人をはじめ、他の出演者も「正塚劇」のテンポをよく体得して、間(ま)の
よくとれたメリハリのある展開となった。全員を通して目立ってよかったのは、セリ
フの、中でも間投詞のうまさ。言いよどんだり、畳みかけたりといった緩急と心の揺
れがひじょうにはっきりした形で伝わってきたのがよかった。
寿つかさ(ディケンズ)は「ねぇー」という不自然でやや気持ち悪い間投詞を続
発、それだけでも十二分に変でいやな金持ちといったインパクトのある役どころだっ
たのに、徐々に金の力でヒロインを拘束しようとしているようだ、おためごかしの許
せないやつだ、と不快感がエスカレート、あげくのはては一連の機密漏洩騒動に「ビ
ジネスとして」深く関わっていた張本人だったことが判明し、ケビンに「社会的に抹
殺するぞ」と引導を渡される、本当にいやないやな役なのに、単なる存在感だけでは
ない、人間の真実の一端を迫力ある演技で見せてくれたので、その引導を渡されて
引っ込む時に拍手が起きたのだ。どんな欲得ずくや金目当てがあったとしても、ディ
ケンズがドリーを愛している気持ちは純粋なものに思えたからこその好演であって、
言ってみれば、彼にとっては金持ちになってしまったことが悲劇だったのではなかっ
たか。一つの役を何重にも楽しませ、味合わせてくれたのが、最大の収穫。
元・金庫破りの青年ケビン(和央ようか)は、ある事故をきっかけに足を洗い、金
庫会社に勤めている。営業の相棒であるドリー(花總まり)とのペアは順調に売上を
伸ばしていたが、ちょっとした不注意で新製品の設計図を盗まれ、窮地におちいる。
そういう企業機密をめぐる人々の駆け引きや思惑が主軸。それにドリーと母親テレサ
(矢代鴻)とのやや根深い確執、ドリーに求婚している実業家ディケンズ(寿)の暗
躍、ケビンの昔の仲間たちの誘惑、金庫会社の古い職人ロジャー(未沙のえる)と社
長(美郷真也)の足跡の交錯といったいくつもの物語が絡みあって、ぼくたちがイ
メージしているところの「正塚劇」を織りなしていく。
正塚晴彦という作家は、こうしたいくつもの軸の中で、男の内面の物語を描くこと
にもっとも大きな労力を注ぐ。このドラマで瞬間最大風速的な盛り上がりの一つは、
ロジャーと社長の金庫というものの技術開発や商品化をめぐる考え方の対立と、それ
に起因するロジャーの機密漏洩であり、ここに一つ、男が夢や信条に生きていこうと
することの困難さや、それが破れようとした時の行動の極端さが鮮やかに描かれ、経
営者と開発者の対立という「プロジェクトX」ばりのテーマも楽しめた。もちろん未
沙、美郷の演技が的確であったことはいうまでもなく、特に未沙のポーカーフェイス
で淡々とした間を外さないジョークが会心で、その弟子格のルーズベルト(十輝いり
す)も思いきった演技で笑いを誘った。
またやや細い線にとどまったが、昔の仕事仲間リロイ(遼河はるひ)らとのしがら
みは、ケビンの暗い過去を徐々に明らかにすると同時に、現在の日常を平穏に送る決
意も明らかにするもので、正塚劇には親しいテーマだといってよいだろう。だからこ
そ、ケビンの過去につながるリロイ、カリート(速水リキ)、ダイアン(初嶺磨代、
女役)らの出番が多くて、もう少し存在感があれば、と惜しまれもした。特に遼河は
歌が弱く、存在感も希薄。昔の仕事仲間として過去を共有し、今も何か企んでいてケ
ビンに近づいているというのに、どっしりした重みがないのが物足りなかった。第一
幕終盤での和央とのセリフのかけ合いの部分は、そのかぶり具合が適切でいいテンポ
だと思ったが、杖という小道具になじめないせいもあったのか、全体的にぎこちなく
役がなじんでいない印象。逆に初嶺は衣装といい態度といい、やさぐれた元お嬢様と
いった崩れた感じがうまく出ていて、むしろダイアンを軸に過去の物語を展開しても
面白かったのではないか。
しいて気になったところをあげれば、正塚のドラマにジャズというのがどうも居心
地が悪く、不つりあいな感じがしたこと。ドリーと母テレサの間の感情の変化がやや
もたもたしたように思えたこと。
花總演じるドリーは、本当のところは近くで大声を出されると震えてしまうような
微妙なところももった、ごく普通の女性なのに、仕事についても、母親の面倒を見る
ことについても、ディケンズからの金銭がらみの様々なオファーについても、手一杯
精一杯やろうとしてしまって、実はパニック寸前のぎりぎりのところにいたようだ。
そういう危うさを、花總はすばらしく好演した。母親が入っている高級な施設を訪ね
て「近いうちにここを出ましょう。無理をして、できる以上のことをするのは、やめ
たの。……私たちにできる生活をするの」と述懐するあたりの穏やかさは、花總の新
境地のように思えた。ケビンが「この街を出る」と言った時の声にならない声のリア
クションや、「今度こそもう本当に会えないよね」の後での震えるような抱きつき
方、そして彼がFBIに拘束された時の震えるような悔しがり方は、実に実にすばら
しく感動的だった。この後、舞台には心象とも実景ともつかぬ微妙な雪が舞うのだ
が、ここで花總がごく自然に、率直かつ素直な、ノンビブラートに歌った歌が、
ちょっとハスキーな感じもして舞台の空気に深くよりそうものだったのも銘記した
い。そして戻ってきたケビンが「FBIに雇われた」と言うとまっすぐ倒れるところ
も、何とはなしに彼女らしくて微笑ましく、演技としてもうまかった。久々に正塚劇
を得て、また何か、しいて言えば言葉で説明できない域の演技を体得したように思え
る。
傭兵ピエール/満天大夜總会
劇全体を見れば、強引なハッピーエンドに驚かされたり、これでもかとばかりになかなか終わらない執拗な展開に辟易とさせられたりと、いろいろと問題は多かった。特に後半のジャンヌ・ダルクが凌辱される場面のきたならしさといったら、なかった。ここでいったん落とすことによって、彼女を受け入れるピエールの心持ちを強調したり、その後の展開を対照として見せようとしたのかもしれないが、激しさや酷さときたならしさは別物である。宝塚の作家はなぜか少なからず時折このような勘違いをする。要するに品がない、というだけのことかもしれないが、いくぶんかは稽古場で倒錯的な欲望を開放しているのではないかと勘繰りたくもなる。
それでも、この劇は花總まり(ジャンヌ・ダルク)の存在の大きさ、演技の自在さにほんの少し救われた感がある。もっとも、冒頭で火あぶりの宣告を受けた際のステレオタイプなリアクションとか、これは台本の問題でもあるのだが、ピエール(和央ようか)と出会った際の「生娘なのです」(こんなセリフが飛び出て来るあたりの神経というかセンスにそもそも問題があると思うが)から「神の使いなのです」までの展開がまったくつかめない、読みの深まりのなさなど、演技面での欠陥もあったが、特にカマトトぶったおとぼけの芝居など、まずそのカマトトぶりが愉快で、甲冑姿も含めて虚心に見れば可愛らしくチャーミングだし、テンポや間合いがよく、劇の流れに緩急がついたのがいい。花總は、いっときトップであることの不安の裏返しか、それを鼻にかけたような高慢さが目について見苦しかった時期があったように思うが、トゥーランドット姫あたりを境にか、ちょっと肩の力の抜けた、いいテンポの芝居ができるようになり、ユーモラスなシーンに軽快さが生まれてくるようになった。またしても、花總が芝居の芯を形づくったといっていいだろう。
その結果というか、ピエールの和央は、ジャンヌを追うだけの役に終始し、まずは損な役どころである。和央が気の毒なのは、花總に重々しい貫禄を求められる役が続いているため、その対照として重みが出せずにいることだと思う。本来、重々しさや貫禄というのは、トップに就けば自然に備わってくるように、宝塚ではできているはずのものだった。つまり、周囲もファンもトップを中心に舞台を観るようになるし、演出家も振付家もトップがトップに見えるように舞台を作るものだった。現在の宙組を見ていると、花總の充実ぶりがトップである和央を完全に食ってしまっているように思う。あるいは1=「娘役トップ」、2=「男役トップ」というはっきりと逆転したダブルトップ制に突入していると見たほうがよいのかもしれないが、それによって和央の魅力が全開できていないなら、繰り返すが気の毒でしょうがない。ただし、観客に気の毒がられているようではしかたないので、自分の力で自分の魅力を前面に押し出さなければならないのだが。
和央で定評のある歌では、メリハリの付け方が気になった。たとえば「人は君を、救世主と呼ぶ」というなかなか盛り上がるのあるいい歌があったが、この符割で「救世主」という歌詞が短く詰められているので強調されない。ここは何とか歌いまわしを変えてでも、大切な単語をきっちりと伝わるように歌えなかったものか。それともこのようなことは、作編曲者だけの問題なのだろうか。
さて、娼婦ルイーズ役の彩乃かなみが、新人公演の低調ぶりとはうって変わって、役を完全に自分のものにしていて初めて歌えるような歌を聞かせてくれた。ことにショー「満天大夜總会」では、後半の低音を生かした歌声、それに続くダンスと見どころ聞かせどころ満載で、スターの迫力を感じさせた。
退団する華宮あいりは女役。司教の愛人カトリーヌという変態的な役どころなのだが、目立つことは目立ったが、宝塚最後の配役がこれか、という落胆を禁じえなかった。同じく最後の公演となる椿火呂花、あまり目立たなかったように思うのだが、これも残念。ぼくの嗜好のせいかもしれないが、傭兵隊という男くさい世界を描いている割には、全体的に集団化してしまったせいか、個々の男役が案外目立たなかったのは残念に思った。
娘役で、まずヴィベットに抜擢された花影アリスは舞台を歩くスピードなどの間合いも的確で、初々しくはかなげな少女をよく演じきった。ショーで熊猫役に当たった四人(音乃いづみ、和音美桜、咲花杏、華凛もゆる)が愛らしく、目を引いた。一方ベテランでは貴柳みどり(アニエス)がシャルル七世の傍らで王の意志を曲げる愛人を好演。頭のよさといやらしい権謀が合わさって、ぬめっとした存在感を押し出せていた。
『鳳凰伝 ザ・ショー・ストッパー』
この劇で気になるのは、登場人物のあまりに極端な変身ぶりが、よく描けてなかったのか、よく演じられなかったのか、とにかくずいぶん当惑させられ、率直にいうとあきれてがっかりもした。
一人はコラサン国の王女・アデルマ(ふづき美世)で、本当のところはトゥーランドットに奪われた祖国(というのも、いささか逆恨み)を取り戻すために、その後継としてカラフ(和央ようか)に近づいたということなのだろうが、表面上はカラフへの愛が一連の行動をとらせたことになっている。もちろん出会いの一目惚れは純粋な気持ちだったろうが、カラフが他国の王族であり、トゥーランドットの謎を解いた勇気と知力のある男だと知った時から、その気持ちに少なからぬ打算や計算が入り混じったと考えてよいだろう。それについて、(出雲綾)らが一言説明してもよかった。それに加えて、いわゆる女の勘が働いて、タマル(彩乃かなみ)への狂ったように激しい打擲となってしまった、という内面の描写がかなり端折られてしまったようだ。しかもふづきの演技がかなり平板で、ある感情からある感情へ揺れる間の途中の揺らぎが表現できていなかったようで、観ていてつらかった。打擲の場面でも、ただ残虐になってしまっただけで、哀感のようなものがたたえられていなかったようだ。
もう一人、わけがわかりにくい振幅があったのは、他ならぬトゥーランドット(花總まり)その人だ。やはり最後の最後になって「その名は…愛」となって、カラフにひざまづくというのでは、せっかくこれまで鉄面皮のような表情で男を次々に死に追いやってきた冷たい魅力をもった女王的存在が、やっぱり男を立てて生きていくことにする、というのだから、がっかりだ。
もしここで「花總まり」という存在の固有な魅力に基づいて、「その名は…カラフ」とやって、しかしトゥーランドットの恣意によってカラフにわが夫として命を与えるということにしたなら、男役偏重という宝塚の伝統をみごとに逆手にとった、あっと驚かせるような傑作になりえたかもしれないのに。
そう思いたくなるほど、この花總は冷たい威厳に満ち、堂々として、透徹した魅力をもって、美しかった。衣裳がすごいと聞いていたが、それを忘れるほど、透明感にあふれていた。無理にこじつけるわけではなく、復讐心のあまりの強さに、その存在は精神性だけになってしまったような、妖気さえ漂うような美しさだった。
他には、北京の民(歌手・男)の苑みかげが、歌と演技の強い力で印象に残った。退団がひじょうに残念だ。歌の実力については、エンカレッジ・コンサートでまさに瞠目させられていたのだが、演技もきっちりと押さえるべきところは押さえて、わかりやすく見せてくれたところがいい。歌のうまい名脇役として確乎とした地位を占めるべき人だった。とにかくもっと歌を聴きたかった。
水夏希は、クールな中にも熱い友情と男気にあふれた豪快なバラクを、的確かつ大ぶりに演じ、魅力的な人物の少ないこの芝居をきっちりと締めることに成功した。そのことは本当に高く評価したいのだが、本水を使ったという振れ込みの最期の格闘シーンは、どうにも子ども用のプールの中でじゃれあっているように見えて、夢大輝ともども気の毒だった。
彩乃かなみのタマルも、ひたむきで内に思いを秘めた薄幸な女性を鋭い勢いで演じきり、涙を誘った。歌の力はいうまでもなく、演技にもしっかりとした方向性が明確で、鮮やかに際立った人物像を創り上げることができた。
タン(久遠麻耶)とトン(椿火呂花)は楽しげでいきいきとしていたが、この公演が最後となる久遠にとって、このような役でよかったのだろうか。ゼリムの初嶺まよ は実に愛らしく、強く印象に残ったが、初嶺もこのような使われ方でよかったのかどうか。ここは娘役のホープに当てて、しっかりと大人の男をさせなければならないのではないか。
「ザ・ショー・ストッパー」については、某紙でショーはストップしなかったと書かれたが、その通りで、あまりメリハリもなく、あっと驚かせるような趣向もなかったように思う。フィナーレで拍手の手を止めてしまうのは、観劇の感激を低下させることはあっても、それを面白がれるような出来ではなかった。
エイジ・オブ・イノセンス
椿火呂花のバウ初主役に話題が集中するはずの公演だったが、ふづき美世、美羽あさひという、正直に言ってこれまでの新人公演などでも今ひとつあか抜けのしない、ぱっとしない若手娘役がどこまでドラマを盛り上げることができるかが、この公演の成否の鍵を握っていたと言っていい。
まずSCENE1の大舞踏会で、いきなり黒燕尾の男役たちが三角形になって始めたダンスと、プリマドンナ(音乃いづみ)の歌声は、いかにも場違いで唐突なように思えた。また、エレン(ふづき)が場の空気から浮いた奇妙な雰囲気で一人入ってくるところに、「何だろう?」と不審に思わせる力はあったとはいえ、「あれだけの美女が…」と指さされるほどの迫力は持ち合せておらず、歩き方もバタバタしていて残念だった。その周囲でも、銀行家・ボーフォートの悠未ひろの視線の配り方がいちいち大きすぎるなど、全体に展開がギクシャクしているようで、ぼくが観たのは公演終盤だったのに、劇の空気が定まっていないのを不思議に思った。
ふづきにはこの伯爵夫人の役どころはいささか荷が重かったのか、随所で必要以上に取ってつけたような態度が気になった。セリフ回しに引きが見られないのが、全体に単調な印象を与えてしまった。では、若い婚約者・メイを演じた美羽が若さを生かして適役となったかというと、全体に凡庸で見るべきところがなく、華やかな美しさが感じられなかったのがつらい。椿火呂花演じるニューランドとエレンの狭間で、いかに二人の関係に気づいてしまい、そのことに思い悩んだかという、最も肝心なドラマが奥深く表現しきれていなかったのが不満。もちろんそれは美羽一人の責任ではないのだが、第1幕ラストでメイがウェディングドレスで現われる三人の場面が、奇妙に散漫で緊張感を欠いたのは、理解できない。ただしそれを、個々の出演者の責にばかり帰すのは、気の毒というものだろう。ここは「哀しみのコルドバ」の「エル・アモール」のように、三人の感情が絡み合って緊迫した三角形となるべきだったのに、演出(植田景子)は何を思ったか、ここで多人数を出し、わざと弛緩させてしまった。したがって、エレンが振り返って「結婚、おめでとう」と言ったのに対してニューランドが哄笑で応える印象的なはずのシーンも、しばらくたって後から意味がわかるような、取ってつけたテンポの悪い芝居となってしまった。
この劇全編を通じて物足りなかったのは、主要な登場人物の内面の葛藤が、きちんと演劇的に表現されておらず、三人の感情の絡みをきっちりと描こうとしているとは思えず、ただセリフを並べただけの段取り芝居になってしまっていたことだ。エレンの離婚訴訟うんぬんというのが、説明として複雑で、途中でどうでもよくなってしまったのも、劇の処理としてはまずい。原作に引きずられてしまったのだろうか。致命的だったのは、第1幕終盤でニューランドがエレンに「あなたがもう一人の求愛したかった女性だから」と告白するに至る思いが唐突で、いつそんなに抑えきれないまでにあふれ返ったのかが、見えてこなかったことだ。再び引き合いに出すが、構図としては「哀しみのコルドバ」に類似した人間関係の設定であるにもかかわらず、強烈に引き合う心の矢印が、人物の間に見えてこなかった。
そして最後が、メイの妊娠という事実の強みによってニューランドを「いたい場所」から「いるべき場所」に引き据えるという、強引な幕引きなのだから、ニューランドはただのうつけ者にしか思えない。ニューランド、エレン、メイ、どの内面も綿密に描かれることなく、最後まで浅薄で盛り上がることがなかった。演劇的喜びの感じられない公演となってしまったといっていい。
だからせっかくバウ初主演の椿も、せいぜいエレンの姿に凍りつくのが精一杯で、美しい姿もほとんど無表情な印象しか残さなかったのが残念だ。「u」の音を出す時に、口をすぼめすぎるのが、表情が崩れるように見えるので気になる。あらゆる瞬間に美しく見せられるように気を配ってほしい。
奇妙な歌が多かったのも、不思議に思えた。ニューランドがエレンの秘書のリヴィエール(速水リキ)に対して「これほど深く大きな愛…」とたたえるのは、いかにも不自然。またメイの「I love you……, I think of you」という歌も歌詞のノリもセンスも悪く、まだるっこしく思えた。
そんな中で、速水の歌は実によかった。語頭が鮮やかに美しく、この中でほとんど唯一と言ってもいい、抑制のきいた上質な発声だったと思う。鈴鹿照の演技も、さすがに素晴らしいものだった。長身の男役が多かったのも、見た目に鮮やかで美しい。遼河はるひ がセリフも歌も明るく華やかでいい。地味で低調な舞台の中で、数少ない救いとなった。
エンカレッジ・コンサート
冒頭の全員による「未来へ」で、これはなかなか強いな、久々にいいエンカレッジになるかな、と思ったら、はたしてひじょうに元気のいい、若々しい公演となって、最後の組としてこの企画をよく締めくくった。歴史の浅い組だけに、若干の組替えがあったとはいえ、ほとんどのメンバーが同じ舞台を経験し、記憶を共有しているのがいい。だから「未来へ」や「明日へのエナジー」(宙組のお披露目公演のショー「シトラスの風」から)に対して全員の思い入れが強く、それらを歌う時の求心性が、一段と高いわけだ。
いきなり余談だが、開場直後に席につくと、閉じた幕の向こう側でお稽古をしている歌声が聞こえてくる。彼女たちにとっては日常的なことなのかもしれないが、このコンサートにかける意気込みが伝わってくるような気がして、こちらも「さぁ!」という気分になった。
恒例の第二部冒頭のアカペラは「アゲイン」。最初のノリでややふらついたような気がしたが、すぐに安心して聞けるようになった。これも恒例の、アカペラ後の吉崎憲治(音楽監督・指揮)へのインタビュー。女声だけの合唱では、どうしても低音の響きが物足りなくなるが、この組だけでなく、浅さを感じさせないいいアンサンブルになった、宝塚ならではの重厚さで、自慢していい、とほめた。これはこのエンカレッジ・コンサート全体の全組への賛辞であり、身内とはいえ、あるいは身内ならではの愛に満ちたすばらしいコメントで、聞いているこちらまでうれしく、誇らしく思えた。
もう一曲、全員による「明日へのエナジー」は、風輝マヤのノリがよくて感心したが、本公演の出雲綾のパートを担当した鈴奈沙也がちょっと硬かったのが残念。この曲に関しては、むしろ若手のほうが大喜びで生き生きと歌っていたのが興味深かった。宙組の中では、一種の伝説と化していて、若手は歌いたくてしょうがなかったのではなかったか。組の中でそういう伝説が生成する時に立ち合うというのは、貴重な経験だろうなと思った。
さて、もともと歌では定評のある速水リキが「アマール・アマール」。声のツヤや張りもさることながら、ブレスの巧みさで聞きごたえのある、迫力と情感のあるすばらしい歌になった。無声の「h」の使い方がなかなかクサくて、それがまた蠱惑的でよかった。
巽希和が「愛と青春の宝塚」の藤原紀香にそっくりに見えてなんだかおかしかったのだが、明るくはちきれんばかりの溌剌さ。大きな目からどんどん光線を出しているようで見ていて気持ちいい。中音域が強く、高音もストレートできれい。舌が長いのか、口を大きく開けて歌う時に、舌の裏側が見えるのが少し気になったが、顔の角度に配慮すればよいのではないか。
芽映はるかは、低音から高音まで声質が変わらず、安定していた。腕の動きがとても美しかったのも目を引いた。悠未ひろの低音がよく、いい広がりと大きさをもてている。マイクの持ち方がちょっと不自然。風莉じんがメリハリの利いたいい雰囲気で、丁寧に歌っているのがいい。「グラナダ」でも声に伸びがあり、軽めに歌っているようできちんと押さえるべきところは押さえられていた。鈴奈について、クラシックの歌唱には詳しくないが、おそらく絶品。風輝は芯の定まった落ち着いた歌唱で、大きなドラマを感じさせる。本当に実力があるなと感じさせた。久路あかりはきちんとムードの出せる人で、申し分ない。退団の報せは、ひじょうに残念だ。久遠麻耶の「君はマグノリアの花の如く」は、彼女の端正なイメージにあまりにもはまり過ぎで、かえって選曲ミスではなかったか。「愛と死の輪舞」の激しさをよく出せていただけに、残念に思った。
真木薫は、一曲目でも低音の出だしが魅力的でうまいと思ったが、第二部の「As if we never said Good bye」のほうがリラックスできたのか、ささやくような引き気味の歌い方(こういうのは姿月あさとの「遺産」だと思う)、表情がこなれていて、高音がひじょうによく出て、ずっとよかった。一公演の中でも格段に成長する、若手というのはそういうものだろうと思った。同じことは天羽珠紀にもあてはまり、二曲目のほうがずっとよかった。天羽は声質がやや平板に聞こえたあたり、工夫が必要ではないか。
感心したのが優花えり。表情が豊かでステージングがうまく、いい空気を作る。もちろん歌唱力は文句なく、低音から中音の地声の美しさ、声の絞りに感嘆した。もう一人驚いたのが、苑みかげ。姿もいいし、ダイナミックでスケールの大きな歌唱である。「追憶」ではハミングから入り、力と張りのある強い歌唱力で聴かせ、最後にはブレイクするようなシャウトと、歌の幅の広さも見せつけた。鈴奈のアリアに数小節だけヘルプで出てきた時のクラシカルな歌唱の端正さも含め、これからどんどん重用されることを希望する。
まことに運よく、全組のエンカレッジ・コンサートを聴くことができたが、ふだんはスポットを浴びることのない脇役や娘役や若手の、もしかしたら一世一代かもしれない熱唱にも数多くふれることができ、本当によかった。大劇場でコーラスを聴く時、舞台の隅っこのほうからもこんなスターたちが、とんでもないほど魅力的な歌声を客席に向かって送り込んでいる、と思えるのが、何より楽しい。
「カステル・ミラージュ/ダンシング・スピリッツ」
「カステル・ミラージュ」は、絶賛するほどではないとは思うが、近年の小池修一郎の作品としては、彼の名声をおとしめない程度以上にはよくできた作品だと思った。いくつもの障害を越えて二人は結ばれようとする、しかし現実では……という、宝塚らしい構図を大切にしながら、洒落た仕上がりとなっていた。
大人数のコーラスをバックに、いくつかのソロが突出する形で速いテンポでストーリーが展開されるシーン(たとえば「ホテル・ブルーバード〜テイラー」が、ステージングとしてひじょうにスリリングで、印象に残っている。また湖月わたるを中心に、陵あきの、大峯麻友、出雲綾らが「世界を回すのは自分だ」と歌う第八場「テイラー邸」もかなり力のある、緊迫感あふれる場面だった。こういう場面の作り方は、あるいは「エリザベート」から吸収したものかもしれないと思った。
ただ、またしてもぼくの読みの浅さを露呈するようで気が引けるのだが、レオナード(和央ようか)が何によって、どの段階で死を決意したか、そしてそれに伴う煩悶がどのようなものであったか、という最もドラマティックな部分をずいぶん省略してしまったことが、少々物足りなく思えた。もちろんこれを独白の形で処理してしまうのは、彼のドラマツルギーが許さなかったのだろうし、ダンスでじゅうぶん語られていたともいえるのだが、彼の死がやや唐突に見え、それを悲しむ間もなく、小型飛行機から遺灰を撒くというシーンに移ったため、ラストがえらくバタバタしたものに思えてしまった。
しかし、さすがにいいセリフがたくさんあった。たとえばエヴァ=マリー(花總まり)の「でも、私のほうが待てないかもしれないわ」。リチャード(湖月)の城の中で、篭の鳥であるしかないと思っていた彼女からの、大胆で性急な言葉。また、レオナードとエヴァ=マリーの「女に拒否されたのは初めてだ」「うれしいわ、あなたの初めての女になれて」。ゾクゾクするような大人の会話、古い映画のようだ。そして、ジュリエッタ(陵)がエヴァ=マリーにリチャードの庇護について忠告する「彼があなたを好きなうちは……お休みなさい」、これはセリフの間合いも素晴らしく、陵の芝居のうまさを再認識させられた。他にも随所ハードボイルドでスマートな会話劇を満喫することができた。
久しぶりに花總がよかった。四人でネヴァダの砂漠にラスベガスを見に行ったところ、旅装で裸足の姿がとても初々しく、エヴァ=マリーという人は、どんな境遇に置かれていてもこういうきらめきを失わなかったのだろうな、などと一人納得することができたほどだ。リチャードにレオナードと同行していたことを告白するくだりも、前のめりな角度のあるいい演技で、エヴァ=マリーのピュアな部分がよく出せていたと思う。
湖月(テイラー)、伊織直加(アントニオ)、成瀬こうき(フランク)と専科からの三人がさすがに重厚さを見せ、舞台を締めた。伊織が渋く貫禄のある大人の男をこんなにダンディに演じられるとは、驚いた。湖月も成瀬も、もっと冷たさや悪さを強調してもよかったとは思うが、湖月が柄の大きさを正面切って出せていたのはよかったし、成瀬からはライバルに一歩先を越されている男の苛立ちがよく伝わってきた。
オープニングの群舞のリーダーとしてさっそうとした姿を見せた水夏希(ジョー)が、少し明るめのミュージカル・スターの役で、軽快な溌剌さと律義なまっすぐさをうまく出せた。「フィガロ!」で芝居のテンポを体得したのだろうか、間合いを心得た押し引きのある会話がよかった。
和央は、相変わらず役の深め方が足りないところが散見されたものの、芝居のテンポのよさに支えられ、おおむね好演といえよう。ストーリー進行に重要な役割を果たした多くのダンスシーンで、動きがけっこうよかったのが収穫。
「ダンシング・スピリッツ」は、宙組の若さ、元気のよさを存分に発揮したテンポのいいショー。専科の三人に配慮してきちんと場面を与えているのはいいのだが、組の若手や娘役に与えられる場面が少なくなったのは残念。
細かいことだが、芝居で男役がスーツ(シングルもダブルも)の前ボタンをかけていたのが、ダンディで新鮮に見えた。
激情/ザ・レビュー'99
「激情」は「黒い瞳」に続いて作=柴田侑宏、演出=謝珠栄という組合せで、さすがに十字の形の大道具の使い方など、空間構成に素晴らしいひらめきが見られ、二階席からもずいぶん楽しめたのがうれしかったのだが、前作でニコライやプガチョフの大きな人生の振幅が劇空間の広がりとなって眩暈を起こさせたほどのスリルを味わうことは、できなかったように思う。
まじめでまっすぐ過ぎるほどの軍人ホセ(姿月あさと)がカルメン(花總まり)との運命的な出会いによって軍を去り、ジプシーの犯罪集団の頭領となり、殺人を重ね、カルメンへの独占欲からカルメンをも殺すに至るという大きなドラマが、やや描ききれていなかった。なぜなら、この劇がホセのドラマであるのか、カルメンのドラマであるのかが、どっちつかずに終わったからで、いっそホセの変転とカルメンの不動ぶりをきっぱりと鮮やかに対照的に描いた方がよかった。「ホセとカルメン」と副題につけたのだから、本来そうするはずだったのだろうが、カルメンの強さ(頑なさ)がやけに目立ち、ホセがただ翻弄される受け身の男に終始してしまったのが残念だ。特に、ホセがガルシア(和央ようか)を殺した後でカルメンが「これであんたがあたいの亭主さ。さぞやご満足だろう」と吐き捨てるように言うあたりから、カルメンの心の動きが見えにくくなった。
音楽が覚えやすく印象的なメロディが多かったことはうれしかった。中でも姿月は、メゾピアノの魅力をふんだんに発揮した。こちらの耳に入り込んでくるのではなく、耳をすますという姿勢をとらせる。聞き入らせることで、歌のドラマの中に浸らせる。そしてそれだけにもちろん、フォルテシモのシャウトの強さ、激しさが烈しく胸を打つことになる。また、うつむいたままボリュームある歌声を出すことができるのも、歌いながら演技する必要のある宝塚にとって、当然のことながら大きなプラスとなっている。実にこれでずいぶんホセの心の揺れの表現を支えることができていた。
花總も「エリザベート」で身につけた、語るような歌い方を自分のものにしている。クラブ「リーリャス・パスティア」でのダンサーとしてのフラメンコはダイナミックな大きさに欠けているようで物足りなかったが、台詞回し、目の使い方などドラマの空気を作る力については申しぶんない。何より、花總が自分のことを「あたい」と呼ぶようなキャラクターに使えたことは、大成功だった。「虹のナターシャ」のナタ公以来の蓮っ葉さに加えて、自己中心的な傲慢さや芯の強さが魅力的に出せていた。
「ザ・レビュー'99」は、まずオープニングでステージの両端に娘役が細いラインを作ったために中央のスペースが大きく開き過ぎ、間が抜けてしまった。そのラインに動きがなかったのでいっそうである。五組化以来、再三指摘されているが、床ばかり見えるような空間の作り方は控えてほしい。
「ノバ・ボサ・ノバ」の後では、このようにシーンが次々と現われるショーが平板なものに思えてしまうが、本来はこのように次々とレビューすることそのものが一つの興奮でありうるはずだ。今回はそのレベルまで達していなかったように思った。それでもかすかに「アトランティック・オーシャン」は、夢輝のあ、朝比奈慶、久遠麻耶、華宮あいり、そして祐輝薫、寿つかさ、樹里咲穂、高翔みず希と、次々にスターが登場する華やかなショーらしさを垣間見せたように思う。つまり、これで生徒各人のスケールがもう少し大きければ、ものすごく興奮しただろうな、というようなことを思わせた。
姿月と花總がデッキで密会するという設定のシーンでは、床の広さが気にならず、かえって空間のうつろさとして効果的だった。空間の使い方は難しいと痛感。
「オペレッタ」では、バックで踊る夢月真生、風輝マヤ、月丘七央が作ったラインが美しくシャープに目立った。「夢人」については、ぼくの世代にとって特にそうなのかもしれないが、この名曲自体が和風な「ニュー・ミュージック」のようで少々古びて聞こえてしまった。姿月がどちらかというとサラリと歌おうとしたので、まだ聞けたけれども。また、湖月わたるの歌声に幅がなく、ドラマを感じられず、シーンの締めとしていかにも物足りなかった。最後の群舞が寿をはじめ、素晴らしかっただけに、残念。
湖月については、劇でも闘牛士エスカミリオとしての色気が感じられなかった。登場シーンが少ないだけに、もっと濃い色づけをして、観客の心に存在を刻みつけなければ。逆に和央は二役目のカルメンの夫のガルシアで、短い時間の中に強い個性を発揮した。「アトランティック・オーシャン」を終えたところで、前のシーンの乾杯をせり上がった和央の持ったグラスへのピンスポットで受けるのが、実に洒落ていた。こういう「遊び」をもっと作ってほしい。
この世界での立ち方−ありがとう綾咲成美
綾咲成美がいなくなるということは、宝塚から一つの笑顔が消えるということだ。そのことの大きさを、ぼくたちは少しずつ知るだろう。いつかそれに代わる笑顔を見つけることもあるだろうが、彼女の笑顔が胸底から消えることはない。
ぼくたちはふだん、凡庸さに耐えるだけの日々を送っているが、そんな中で宝塚を観ると心底楽しむことができ、また歩いていくことができるような気がしたりする。それは慰撫であり、気晴らしであるのだが、綾咲を見るということは、もう少し強い、積極的な意味を帯びていたように思っている。
ぼくが綾咲から受け取ったのは、ぼくはこの世の中で、どのように立っていればいいのだろう、ということへの一つの解答だったのではないか。何度も書いてきたことだが、彼女の舞台姿がひときわ目を引いたのは、美しいS字を形づくる凛とした姿勢による。それによって彼女は、舞台に立っていることの喜びを全身から発散していた。
「舞台に立つことが苦痛だ、ということは、ありませんでしたねぇ」と振り返っていたように、それは本当に彼女自身が幸せだ、楽しいと思っていたからだが、技術的にも、身体のクセや悪いところをかなり意識して矯正していたようだ。肩が前に閉じ気味になったり、首を前に突き出したりといったところを、上級生の娘役から指摘してもらい、稽古場の鏡に写しながら直していったという。「舞台には鏡がないから、ちゃんとできていたかどうかわかりませんけど」とはにかむ彼女だが、どこかに鏡を仮想できていたに違いない。見られること、見られていることを意識することで、姿は美しくなっていく。それを自分の内側に仮構しえたことによって、彼女の美しさは決定された。
美しい立ち姿を獲得できたことで、動き=ダンスの美しさも保証された。高校は音楽科だったように、ピアノは幼い頃から始めていたし、歌は好きだし得意だった。しかし、高校の修学旅行で「大いなる遺産」を見て受験を決めたわけだから、ダンスはほとんどゼロからのスタート。音楽学校では特にバレエについていけず、たいへんだったそうだ。それでも劇団レッスンにまめに通ったおかげで「研二ぐらいで、ちょっと殻を破ったっていうか、お見せしてもいいかなって思えるようになった」という。上級生からスカートの裾のさばき方などをいろいろと教えてもらったとも言っていたが、ゼロからのスタートだったことで、かえって素直に貪欲に多くを学び吸収することができたのではなかったか。彼女のダンスは実際、ぼくなりの最大級の讃辞を呈すると、万里柚美のダンスに通じる優雅さを獲得しつつあった。
彼女が退団するはっきりとした理由は、結局聞くことができていない。尊敬していた上級生が退団したことを契機に、ずいぶん前から「その時」を意識していたという。潮時を探しながらの数年間だったともいえる。
「誠の群像」新人公演の抜擢で存在を知られ、青年館の「夜明けの天使たち」でいい芝居を演じ、香港公演組に選出、雑誌のルポで香港行き(写真左。マガジンハウス「楽」'98年1月号)と、あれよあれよという間に注目の娘役となりつつあった。そして「エクスカリバー」で初めて大劇場本公演で台詞(かつらでございます!)のある役。新人公演で陵あきのの役。このあたりですっかりファンは「これから」を期待したのだが、彼女自身は「シトラスの風」でゴスペルの場面に参加できて、本当に感動し、「もう、いいかな」と思っていたという。千ほさちもそのようなことを言っていたが、一番いい時にやめたいという、あれだろう。それは、今以上にいい時をこれから迎えられるとは思えない、ということでもある。今やめれば、宝塚のすべてを楽しく美しい思い出にしておける、という見切りを彼女なりにしたわけだ。このことについては、これ以上考えない。
先生に相談したら、でも次はエリザベートだからと、もう一公演がんばることにして、十二月二十日、誕生日の前の日に卒業することにしたわけだ。「千秋楽がいちばんよくできたと思います。回るのとか、スカートさばきとか」と言っていたが、最高の姿を見せた。ピンクのバラの髪飾りをつけて、スポットをもらって、客席を隅々まで見渡して、ちょっと涙を流して、組長に紹介されて、呼ばれて、「はい」と返事をして、大階段を降りて、たくさんの人に感謝を込めた少し長い挨拶をちょっとつっかえたけど無事に終えた。ちょっと泣いた。ぼくもちょっと泣いた。
最後にぼくたちは彼女に「てんちゃん、あたたかい夢をありがとう」と、揃わぬ声を投げかけた。実に彼女は、ほんわかとしたあたたかい雰囲気をもっていた。ファンと一緒にカメラに収まると、彼女が必ず「ありがとうございました」と言う人だった。今はぼくが「ありがとうございました」と言う番だ。
「エリザベート」
劇を見ていちいち腑に落ちる必要があるとは思わないが、今回のトート(姿月あさと)で初めて「なぜ最後にトートがルキーニ(湖月わたる)にナイフを渡したか」が納得できたように思っている。何を今さらと思われるだろうが、最終弁論でフランツ・ヨーゼフ(和央ようか)に、エリザベート(花総まり)の命を奪わないのは「愛を拒絶されるのが怖いからだろう」と迫られたトートが「違う!」と絶叫するように否むのを聞いて、そうだったのか、痛いところを突かれて逆上し、それで半ば性急にルキーニに命を奪わせたのか、とわかったような気になった。
無論、この解釈はトートをあまりに人間的な感情に属した存在として見ており、あるいは矮小化しているととられるかもしれない。しかし、そう思わせるような人間的魅力に満ちたトートを得たことを、ぼくは宝塚の「エリザベート」のために喜びたいと思うのだ。
姿月のトートは怒る、悲しむ、煽動する、悔しがる。シャウトを多用した姿月の伸びのある歌がトートの感情の昂ぶりを写す。エリザベートをあきらめたり、彼女に拒まれたりすると、髪に手をやって神経質そうなさびしさを見せる。エリザベートの奢侈を糾弾する時には民衆の先頭に立って怒り、憤り、煽り立てる。フランツ・ヨーゼフにライバル心をむき出しにする。ルドルフ(朝海ひかる)の死に打ちひしがれたエリザベートが「死なせて」と懇願するのを喜んだのも束の間、彼女の表情に自分への愛が看て取れないと、怒って彼女を地面に叩きつける。続く「まだ私を愛してはいない」の歌は、叫びに近い。
このような激しく生々しく、感情をむき出しにした、やんちゃでわがままなトートに初めて出会って、ぼくはこの劇の骨格がはっきりと見えてきたように思っている。姿月は日を追って飛躍的に新しいトート像を確立していった。それは凄まじいまでの彫り込みだった。エリザベート、フランツ・ヨーゼフ、ルキーニらすべてが、爆走するトートに引きずられるようにして役そのものになりきり、深いところからの演技を築き得ていた。
そこから見えてきたのが、ルドルフの狂気すれすれの純粋さと野心だ。トートがルドルフを後ろから抱いてのデュエットダンスで、羽交い締めと見えるほどにきつく乱暴に抱いていたのは、トートが乱暴にルドルフの運命をねじ曲げてしまったことを、よく現わしていた。この公演で最も株を上げたのは朝海だったが、予想をはるかに上回って歌がよかったということ以上に、ルドルフという一人の青年がどんな弱さを持ち、何を悲しみ、望み、諦め、嘆いて、倒れていったのかが、ひじょうにリアルに共感できるまでに表現しえていたことによる。トートに王座=ハンガリー国王をちらつかされて、視線を揺らし、表情を崩す。このままでは王家はダメになるという正義感と使命感をトートに巧みに操られ、本人もその存在を知らなかった野心をくすぐられ、ついに反逆者として果てる。
朝海はルドルフの心の乱れを、実に細かく描き上げた。登場の際、読んでいた地下新聞を父に取り上げられ、破られた時のビクッとする激しさ。エリザベートとのデュエットでママならわかるはずだ、と甘えを見せたのを「わからないわ」と拒絶された時の、自分に言い聞かせ納得させる内側に押さえ込むような表情。精緻な織物が紡ぎ上げられるように、細部の積み上げから一人の青年皇太子を立ち上げ、朝海という一人のスターが姿を現わしたことに、しみじみとした喜びを感じた。
宙組公演の全体の傾向といってもいいが、どの生徒、どの場面をとっても、より丁寧に深く彫り込まれていた。地下新聞を民衆に配るツェップス(葵美哉)の表情、しぐさはいかにもクールで、理論革命家の相貌を見せていた。リヒテンシュタイン(美々杏里)をはじめとする女官たちがゾフィー(出雲綾)側であることは、少々過剰かと思えるほどによくわかった。バート・イシュルで侍従(月丘七央)がコーヒーを注ごうとしてこけて、自分の手にかけてしまい、大げさに熱がってフーフーと吹くところなど、爆笑ものだ。女官や侍従たちの過剰な身ぶり、結婚式後の舞踏会の人形めかしたコミカルなダンスなど、随所にちりばめられた戯画性が、軸となる数人の周囲をがっちりと固めたことで、このドラマの深刻さは増し、「キッチュ」という一種の批評性と共に自己言及的な深さを持ち得たといえるだろう。
ただこの深刻さについては、ドイツやハンガリーを中心とした中央ヨーロッパのこの百年という歴史を、体温として生々しく実感できなければ、本当には汲み取りにくいのではないかと思わざるを得ない。そのような、まだ底が見えない恐ろしいほどの深さを持ったドラマのようだ。大劇場終盤のレベルからスタートする東京公演、組替えによる若干の配役変更はあるが、ちょっと恐ろしいほどだ。