は行
坂東玉三郎 羊団 ふれねる缶
坂東玉三郎ほか「ナスターシャ」
1993年3月20日 於・ギャラクシーホール
基本的に、芝居などのぼく自身がそれほど熱心にたくさん見ていない分野についてはあまり語りたくない。よく見ている人には自明のことがたくさんあるだろうし、何を今さらそんなことに感動するのかとも思われるだろう。しかし、ぼくが見てしまって、ほぼ絶対的に(そのジャンルの中では比較的にということではなく)素晴らしいと思えたものについては、やはり、少なくとも素晴らしかったということだけは伝えておきたい。そう思う以上、この「ナスターシャ」については何か語らなくてはいけない。
この芝居は、アンジェイ・ワイダとマチェイ・カルピンスキィの脚本で、タイトルからも想像できるように、ドストエフスキーの「白痴」の後日談の形を取っている。毎日放送の社屋の一部である百数十名しか収容できない小さな空間をラゴージン(永島敏行。好演)の部屋にしつらえ、観客はそこに招かれた客人、と案内にはあったが、窃視者だ。舞台と客席を区切るものは何もなく、基本的には観客と役者は同じ平面に立っている。これは、小劇場では見慣れた光景なのだが、ぼくたちは玉三郎に対してこのように接することに馴れてはいない。こんぴら歌舞伎や、玉三郎自ら復興させた八千代座での客席の近さを、玉三郎や勘九郎がさかんに強調しているが、おそらくそれとひじょうによく似ていて全く逆の空気が充満していたはずだ。それは親密性ではなく、咳どころか息をするのもためらわれる緊迫感であり、その意味ではたとえばかつての天井桟敷のアトリエ公演などに似た空気だったともいえる。舞台はあくまで暗く、よく見えない。開演の知らせは何もなく、いつの間にか真っ黒な服を着たラゴージンが入り口近くの椅子に沈み込むように坐っていた。柱時計の音が大きい。そこへノックの音と共に白い服を着たムイシュキンがナスターシャを探しにやって来る。蝿の羽音がうるさい。すでに「白痴」という物語が終わってしまった地点からスタートしているこの劇は、さまざまな場面が唐突な回想として断片的に語られるしかないように決定づけられている。時はまた現在に戻り、やがてムイシュキンはナスターシャが既にラゴージンによって殺されて隣室のベッドに横たわっていることを知る。この劇において、現在はそれだけだ。
果たしてこの舞台で本当に素晴らしかったのは坂東玉三郎という一人の役者だったのだろうか。あるいは玉三郎が演じたムイシュキン及びナスターシャだったのか……いや、玉三郎が既にラゴージンによって殺されたナスターシャと、まだ生きていて過去ばかりに浸っている無垢なムイシュキンとの間を往還する途次に覗く絶対的な深淵だったのではなかったか。
この舞台は玉三郎の存在感や魅力が前面に押し出されるというよりは、むしろドラマ自体の複雑な重層性が頭に残る。玉三郎という役者は、だいたい舞台の枠を越えて彼自身が持つ魔性を強烈に印象づけるのだが、この公演では、白痴と呼ばれるようにあまりに無垢で純粋で、人間の闇の部分をかけらも持たないムイシュキンと、女の魔性を備えてはいるが終始「回想される存在」でしかないナスターシャを、連続しながらとはいえ別の役柄として演じるために、玉三郎は徹底的に魔性の存在であることを許されず、聖性と魔性、生と死、現在と過去を往還する存在として、常に二重性として、また途次として存在し、その新たな魅力を発揮していたといえるからだ。
この公演の一つの眼目は、玉三郎が舞台上で観客の目の前でムイシュキンからナスターシャに変身するということだった。舞台の上で着替えたり顔をつくったりするのかしらなどと勘違いもしていたのだが、形式的には一枚のショールを羽織るだけでムイシュキンはナスターシャに変貌する。撫で肩で弱々しい青年公爵が、運命に翻弄されながらも正対する残酷な魔性の女へと、玉三郎においてすべてが瞬時に変質する。その瞬間を見きわめることこそ、この劇を見る最大の喜びだったのだ。何度でも繰り返すが、玉三郎の魅力は、歌舞伎や舞踊という枠を超え、人性を超えて向こう側へ行ってしまうトランスを見せることにあると思うのだが、ここでは行ってしまうのではなく、何度も行き来するからこそ、ナスターシャとムイシュキンの裏返しの同質性がはっきりとした形で現われ、ワイダらの解釈を明確にすることができた。ワイダ自身語っているように、この脚本は玉三郎という二つの性を往還することのできる稀有な役者の存在によってはじめて本来的な姿で実現できたわけで、玉三郎がそのような脚本にめぐりあい演じることができたということ、ワイダにとっても、玉三郎にとっても、そしてそれを目にすることができたぼくたちにとっても、たいへんな幸せであったと思うのだ。
羊団「Jericho」
3月15日 於ウィングフィールド。作=松田正隆、演出=水沼健。出演=幹ジュンコ(内田淳子改メ)、金替康博。
劇は暗転をはさんで二場から成っている。第一場は、エルサレムとエリコの道すがら、傷を負い、行き倒れている男(金替)を、エリコに住む妹を訪ねてポーランドからやってきた元看護婦の女(幹)が手当てしてやるところから始まる。幹のすっとんきょうな甲高い声、言葉が通じないことでユーモラスなほどのオーバーアクションになっている様が凄みさえ帯びて面白い。彼女は彼に包帯を巻きながら「空は曇りて窓の外で 御使いたちは雲の上……」と讃美歌らしい歌を口ずさむ。地名、行き倒れの男、などの要素も相まって、キリスト教的な題材を扱うらしいことが知れる。
言葉が通じない男に向かって、独り言のように女は身の上話を続ける。妹は交通事故で、自分は半年前に病気で夫を亡くしたこと、自分はもう男の人とどうこういうような年ではないが妹はこれから再婚できる若さだということ、妹の結婚は反対されていたこと……。ふと気づくと彼女は彼を包帯でぐるぐる巻きにしてしまっている。どうしたというのだろう、すると包帯を巻きながら彼女から「足の内側だったかしら……ホクロがありました」という台詞が飛び出す。
これまでの「内田淳子」に比べると、まず年齢設定が高く、ややユーモラスで庶民的な女性を演じているのに気づく。ぼくは松田作品の中で、西部講堂で上演された「月下之門」が(何度目かの)ターニング・ポイントだったと思っているが、そこで初めて見た「内田淳子」の酷薄な姿、やや時間は離れるが昨年の「月の岬」の金替の落ちぶれたみすぼらしい姿、というように、元時空劇場の二人の役者が、それぞれに役柄の幅を広げてきて、いい意味で裏切り、驚かせるのが、とても楽しみだった。そういう興味をも十分に満足させた公演だったといえる。
見知らぬ行き倒れの男を介抱するというのは、聖書の有名な「よきサマリア人」だと、そのように思わせながら、亡夫の内腿のホクロに言及するというきわどい展開をしたかと思うと、男の顔まで包帯でぐるぐる巻きにし、「あの人は苦しんで苦しんで、苦しみ抜いて死んでいった」と歯を食いしばるようにして叫んでみたりする。亡夫の苦しみを目の前の男に照射しているように見えなくもないが、ここではまだ、やや早計か。しかし次にはカバンの中から男物の上着を取り出して男に着せ、この辺りからまさに舞台は別の時空に入っていったと言えるだろう。観客はあれよあれよと驚き見守るばかりである。続いて女が亡夫の思い出話を、地面に指で何か書きながら(これも聖書のシーンを思わせる)問わず語りに一人ごちていると、果たして男がごく当たり前のように何気なく「眩しいんだ」と呟く。そして女は、驚かない。
知らない間に劇はどこへ入ってしまってたんだ? とぼくたちが訝しく思うのを尻目に、劇はそのままのトーンで淡々と進んでいく。振り返ればここまで、淡々ととはいっても、予想外の展開や、独白による回想という形での未知の事実の続々の提示、と劇は息つくひまなく激しいスピードでシーンを刻んできた。この表面には現われない激しいスピード感(眩暈性)が、この劇の予想外の魅力であった。何も難解なわけではないのに、観客は置いて行かれるような焦燥を持つ。
空間はそのままに時間がさかのぼっているのかと思う。生前の夫とのポーランドでの日々に戻って回想のシーンが演じられているのかと。しかし、女が「あなたは死んだのよ。死んだの、そうよ」と厳しく冷たい目で遠くを見、男が「じゃあ、一体ここはどこなんだ?」と問うに至って、ぼくたちのとっかかりもなくなってしまっている。ここは今なのだ。しかし、ぼくたちには男と一緒になって「ここはどこなんだ?」と問い返すしかない。さっきまで<行き倒れ>と<通りすがり>だった二人が、いつどこで、何をきっかけに、<一人はもう死んでしまっているはずの夫婦>に関係を変えたのか。包帯のせいか、上着のせいか? いや、この劇にはそんな小道具がきっかけとして必要とされていたのではないようだ。もともと男はここでは女の夫であったわけで、たまたま包帯を巻いたり上着を着せたりしたことでそれが明らかになったにすぎない。
つまりもちろん、道端で行き倒れている人物は、常に通りがかる者の隣人である。そのような意味のことが聖書には書いてある。隣人であるということは、最も近いところでいえば、親きょうだいであったり夫であったりするわけだ。しかし、そのような小賢しく強引な理屈をそのまま舞台に乗せてしまう腕力は、いったいどこから来ているのか。このような腕力の強さ、強引さがあからさまに出てきたのが、「月下之門」だったと思っている。にもかかわらず、松田正隆の紡ぐ世界は予定調和的なみごとな美しさをもって収束する。それは、彼が積み重ねていく細部や展開が、実にドラマチックだったり叙情的だったりするからで、ぼくたちは多くの場合そこに目を奪われて、松田の作品をホームドラマ風なスケールの小さなものと見間違えてはいなかっただろうか。
第一場の後半は、その種のドラマを丁寧に展開していくものだ。夫が倒れた朝のこと、生命保険、葬儀の後「あの女」に子供の養育費をせがまれたこと、その子供を連れてエルサレムまでやってきたこと、その子供とはぐれたこと、……淡々と、しかしやはり凄まじいテンポと残酷さでキリキリと夫を追い詰めていく女には、鬼気迫るものがある。女のその鬼気は、険しい形相となって現れるのではなく、冷たく平たい盾のような顔になって目に見える。
男はこの場所でやり直そうと持ちかける。ここに家を建ててここに窓を作ろう、という。「ここに窓があれば、お前は俺が働きに出るのを見ていられる」という甘い台詞だ。女はにべもなく、妹のところへ向かおうとする。「妹と俺とどっちが大事なんだ」と迫る男に「妹よ」と答えるが、ふと、「そこはダメよ。西日が入るわ」と歩み寄ると見せた途端、女がトランクで男の頭を殴り、男は倒れる。男が独白の後、がばっと起き上がり、暗転、ベルが鳴って場面が変わる。いよいよ第二場が始まる。
終わりの日への備えを促す牧師の説教が、オープンリールのテープレコーダーから流れている。幹が第一場とは異なる衣装で、もっと小さなトランクを抱えて出てくる。舞台の食卓の上にはぶどう酒と皿。様子を窺う女。そこへ男が戻ってくる。何か堂々とした、威風さえ漂う物腰である。女が尋ねる、「私はエリコから来たんです。エルサレムへはこの道を行けばいいのかしら。女の人がここを通りませんでした? 私の姉なんです、子供連れの」。男は窓から遠くを指して「あの丘を越えていけばエルサレムですよ……私もいつの日かあの丘を越えてエルサレムまで行かないといけないんですよ」と謎めいた言葉を連ねる。女が第一場の女の妹であることはわかった。姉と落ち合うためにエリコからエルサレムへ、姉と逆の道を歩いているのだろう。ということは、姉とはまだ出会っていないということだから、第一場と同じ時間の出来事か。とすれば、この男は誰か。いや、妹はエリコで待っていて、姉がそこを訪ねるはずだったわけだから、姉の到着が遅れて、心配した妹が探しに出ているに違いない。それにしても、この男は誰か?
こんな謎を抱えたまま、劇は意外な展開を見せる。男が女にぶどう酒を無理強いしたりしている内に、ふとした拍子で、置いてあった一つの大きなトランクの蓋が開き、こぼれ出た中身からから一通の手紙を女が手にとる。じっと読む女(余談だが、この公演のちらしの写真(上掲。撮影=松本謙一郎)で幹が手紙を読んでいるのは、このシーンからだそうだ。もちろんフェルメール「読書する女」をふまえている)。「それは私の姉の……それは私の姉の荷物です!」と焦った口調で詰問する女に対して、男は「飲まないんですか」とぶどう酒を執拗にすすめ続けている。
ここに至ってぼくたちは、すべての謎が解けたように思う。第一場の男が逆に女を襲ってトランクを奪ったのだ。そういえば、女は夫の保険金を全部持ってきたと言っていたし……。なんだ、追い剥ぎの話か……それにしてはしかし、亡夫への恨みつらみの繰り言は、劇の上でどこへ解消されてしまったんだろう? 第一場の夫との時間は、日照りの荒野の中で女が見た幻だったのだろうか。それがどのような経過で女を殺す(殺したかどうかははっきりしていないが)に至ったのか、いま一つはっきりしない。それに、この男の妙な威厳は何か。まるで預言者か神のような……?
女が「あの荷物を見せてください」と強く言うと、男はきっぱりと「いやです」と答える。揉み合ううちに、男が懐手に構えたナイフにかぶさるように、女の腹が刺される。あまりにも急な展開に驚くと同時に、何もここまでという気もしてしまう。あまりにひどい話じゃないか。行きずりのケガ人を介抱した女が逆に追い剥ぎに遭い、妹まで刺されてしまう。聖書では救われるはずの「よきサマリア人」なのに……と思うが、考えてみれば聖書は現世での救いや応報を約束しているわけではない。聖書の世界は、往々にして不条理だ。
果たして、半ば予想されていたように、男が「私が道である。……私を通らずしては、誰も父の御許に行くことはできない」と神の子イエス・キリストになる。ぶどう酒を持って「これは私の血」と聖餐を行う。床では女が呻き声をあげて苦しんでいる。男は「私はもうすぐ父の御許に行く」と威厳に満ちた表情で宣言している。男は自分の未来の苦しみを予見してか、世の人すべての苦しみ(たとえば、床で呻いている女とか)を背負ってか目に涙を浮かべ、やがて涙は頬を伝い、イエスそのものとして語り続けている。女は砂をかきむしって苦しんでいる。
第一場で男は女の亡夫になる。第二場で男はイエス・キリストになる。第一場の男と第二場の男が同一人物だと確定できる材料はないが、そのほうが面白い。仮に同一人物だったとすると、彼は本当に何者なのか。いくつかの回答が考えられるが、やはり最後に提示されたイエス・キリストであるとするのが一般的だろう。それは何よりも、最後の金替の独白による「神の子」の名乗りの威厳と迫力によって動かないものとなっている。謎解きのような説明をあえて加えようとは思わないが、そう解釈することですべての展開と理屈を通りやすくする方法はいくらでも見つけられるだろう。
たとえば救済ということの様々なありようについて、特に最近の宗教をめぐるいくつかの「事件」の中でぼくたちは鋭く突き付けられ、考えさせられているはずだが、ぼくたちはそれらをすべて「非現実的」ということで考察の埒外に置いているような気がする。正義のための殺戮という一事について、それを「よかったね」という論理ないし感情は、戦争と宗教には存在しているはずだ。たとえばそんな見方をこの劇に被せて見ることもできる。
このように、なるべくリアルタイムに近い格好で劇とそこで反応するぼく自身を反芻してみるが、やはりどうしようもなく難解さが残る。にもかかわらず、約1時間ほどの短いこの劇を見終わって、たまらなく重く、どっしりしたものを見たという満足感が残ったのは、二人の役者の凄みと、それを引き出した演出(水沼健)の力も大きい。そしてやはり不条理を不条理のままに投げ出す意気と、それを支える細部の展開の妙、これは何ものにも代えがたい。見せかけの深さではなく、本当に突き詰められた深みが、ここにはあったように思う。
ふれねる缶「リサイコロ」
2001年5月19日 ウイングフィールド作=川添恵子、演出=薬丸裕生。小さな玩具卸店(?)を舞台に、勤務時間中に人生ゲームみたいなのを始めちゃう従業員たち(女性4人+パートの男性)、そんな社員に「しっかりして下さいよ」と苛立っているしっかりしたパートの女性、すごく頼りない男性社員、枯れた桜を切りに来たのにそのゲームに混じっちゃう木材店の従業員たち(男性二人)、のふだんっぽい会話で展開する、テンポのいいお芝居。
この劇にはいくつかの面白みがある。まず一つは、そのゲームの役回りとゲーム参加者の実人生がシンクロしている面白さ。「結婚」というと皆一喜一憂するし、「借金」というと実際にサラ金にまで手を出しているらしい和田(井上岬)が嘆き、彼女に限ってどんどんゲームでも借金がかさんでいく。劇の手法としては平凡だったかもしれないが、舞台上で本当にサイコロを転がしているみたいにリアルで熱がこもっていて、よかった。
もう一つは、ちょっと意外な殺人事件がひそんでいたことだ。序盤から、実はそれと思わせる伏線が引かれていたことはわかった。今日(日曜日らしい)来ると言っていた課長が来ない。女子トイレが壁もトイレットペーパーも水びたし、後でネクタイピンが落ちていたことがわかる。ダメ社員・宮内(恒川良太郎)が何度か課長の携帯に電話するが出ない。課長の着信音は武富士のテーマだという会話があり、木材店の従業員たちがどこかから武富士のテーマが聞こえてくると言う。課長の奥さんから「夫の愛人を出してくれ」という電話がかかる。……
そしてゲームで、西尾(きたまこと)が青い顔で「振りなおしてもいいんだよね」と確認、何度も何度もサイコロを振る姿がどうやら尋常ではない。それまではサイコロの目が出た時にそのコマに書かれた指示を読み上げては一喜一憂していたのが、今度はなかなか読まれず、しばらくしてやっと「犯罪をおかしていたのがばれて刑務所へ…」と和田が読み、木材店の二人が桜の木の下から課長の死体が出てきたと告げる。
楽しく軽薄なゲームが続いていたのが急転直下である。西尾は終始クールで真面目な会計担当を貫いてきた。他の女子社員がスナック菓子をつまみながら馬鹿話に興じている中、一人で残っている伝票を片付けているのが西尾だった。ゲームのマス目の指示に一喜一憂する他の者を横目に、たかがゲームのことじゃない、とうそぶいていた。それが突然の乱れである。きたまことはよく演じた。クールなところではあくまでまっすぐに美しく、乱れてサイコロを振り続ける姿には鬼気迫るものがあった。
ただ、やや伏線を数多く執拗なほど張り過ぎたかもしれない。たとえば、トイレにネクタイピンが落ちていたというのは、必要なかったのではないか。トイレが壁もトイレットペーパーも水びたしだというだけで、なかなか明かされないほうが、恐ろしい。このあたりはミステリー劇のひじょうに難しいところだと言えるだろう。そしてこの劇をさらに難しく(そして魅力的に)したのは、ミステリー劇であることをなかなか明らかにしなかったところにある。
この劇は、初めはよくできたコメディであるように思われた。ゲームが延々と続くと、ちょっとゆるい劇であるように思われた。そしてどうもこれは課長をめぐる謎を解きつつある劇であるとわかった。ぼくはかねてから、謎解きの劇はひじょうに難しいと思っている。謎が解けただけで劇への興味はなくなってしまうし、謎解きのための仕掛けを考えるだけで多くの作家の労力は使い果たされてしまうし、犯人を犯人と見せないことのために演出家及び役者の精力は尽きてしまう。ミステリー劇が成立するために必要なのは、おそらくは、これまでぼくが観た中でいえば、安寿ミラのような傑出した存在感を持つ女優だ。一人の女が「運命の女」として前半はあくまでクールに、かえって被害者のように怯えていて、最後に大きなどんでん返しでガラガラッと本性を露わにする。その時、女はなぜか、とんでもなく光り輝き、神々しさまで見せてしまうのだ。
初めて客演したというきたまことのことを、傑出した存在感をもっているとまでほめるのは控えておいたほうがいいが、この劇のラストでは、背筋をゾクゾクさせるほどに強く空間を歪めることができていた。彼女をここまで仕立て上げられたからこそ、この劇は成功することができたといえよう。他の役者もそれぞれ個性を前面に押し出しながら劇のまとまりを乱すことなく、レベルの高い演技を見せた。木材会社のパートの津村を演じた、あべかつみが、ちゃらんぽらんで大ざっぱな味を出し、好演。
ふれねる缶「ホワイトさん」
2000年9月10日 ウイングフィールド作=川添恵子、演出=岬恵利乃。精神病院の患者のリハビリのために、患者と一般人そして医師たちが、合宿を行っている。一般人には、誰が患者とは知らされていない。この設定自体はなかなか秀逸だと思った。ただ、劇中の人物たちの興味に引きずられて、観ているこちらも、「誰が患者なんだろう」「誰が『おかしい』んだろう」ということに関心が集まってしまい、犯人探しで劇が終わってしまうという危険もあった。
最終的には、みんなにおいしい梅干しを配ったりして、ずーっと場を仕切っていたリーダー格の男・田尾(MAN-SAKU。爆烈幻獣所属)が、その梅干し配りという特権的立場を奪われるのをきっかけに壊れてしまう、という形で「患者」が特定されるが、実は他にも、一見無垢で子供っぽく見えた女性・小木(築山加奈子。鉛乃文檎)が実は無垢を装っていたなかなかのワルだったことがわかったり、他の人には見えない女性(それが「ホワイトさん」。緑風子。酔族館)に話しかけている青年・中野(早乙女優。フリー)がいたり、ということが観る者にも明らかになる。つまり、単純な犯人探しであることは回避したとはいえ、「みんなおかしいんだよ」というステレオタイプな結論に終わってしまったような印象もある。
観ていると、みんな少しずつ、またはかなりおかしい。ガンダムか何かのフィギュアを片時も話さず、おどおどと人見知りしてほとんど誰とも喋らない男・脇本(藤澤孝一。元祖まみちゃん)。それが実は病院の看護士だというのは、ちょっと凝りすぎ、やや無理がある。また、「患者」が壊れる一つのきっかけとなる、梅干しを配ってしまうのが、彼が患者だということを知っているはずの医師・山川(内藤和也。CINE BAD BOYS)だというのも、かなり矛盾している。
それでもぼくがこの劇に鮮烈な印象を持っているのは、中野とホワイトさんの会話の中心を占める、透明なコップを写生するというエピソードの生かし方が素晴らしいと思ったからだ。
ホワイトさんは、いつも暗いところでスケッチブックを片手に何か描いている。中野が聞くと、コップにできる影を描いているのだと言う。その会話の中から「ありえない線を入れなきゃダメだと言われた」というフレーズが重要なキーとして出てくる。また別の日、部屋に白のパステルが落ちていた。「うまい人は、白をうまく使うんです」と中野が皆に説明する。ラストで、小木が「ホワイトさんって、誰なんですかぁ?」と無邪気に尋ね、ほとんど初めてホワイトさんが中野にだけ見えている幻のような存在だったことがわかるが、それに続く中野の長い独白でこのコップの向こう側の風景のことが語られ、その切なさに、ぼくはここでこの劇がただの犯人探しや謎解き、ステレオタイプに陥らずに済んだことを、喜んだのだ。
MAN-SAKUが、三宅裕司みたいで、おかしくてしょうがなかった。粘り気味のセリフ、錯乱の激しさが強く印象に残っている。緑風子の強烈な非存在感には脱帽。早乙女優の普通らしさからラストの戸惑いの鋭さも秀逸。藤澤孝一の内向ぶりは恐かった。全体に、細かな視線の交錯で空気を変えるような、丁寧な演技が光った。
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