演劇−か

化石オートバイ 片桐はいり 加藤健一事務所 グッドフェローズ+七ツ寺共同スタジオプロデュース
黒豚農場 グローブ座カンパニー  KTカムパニー CTT事務局


化石オートバイ「ガールフレンドとマグマ」 2000年8月27日 カラビンカ

 ギリシャ神話の、視線で生きている者をすべて石に変えてしまうゴルゴン(銀河哲朗)を中心とした、彼女に愛される彫刻家で火山予知連の男(山浦徹)の悲しいラブストーリー。

 石、石化、化石というものを軸に妄想を際限なく膨らませていって、そのプロットをつなぎ絡ませて奇形な世界を増殖させていく。……人が死んでも腐らなくなってしまっている世界。死んでもそのまま形が残る、だからマネキンやサイボーグに再利用される。それと対照させられるのが、見つめたものをすべて石にしてしまうというゴルゴンだ。彼女は愛する男でも見つめれば石にしてしまうからと、ベールをかぶっている。富士山が噴火して溶岩が流れ、すべてを飲み込もうとしている時、男に「君の力でこの流れを止めてくれ」と言われるが、実はもう彼女はわが身を嘆いてその目を自分でえぐり取ってしまっている。それでも渾身の力を振り絞ってすべてに呪いをかけると、すべてが、なんと時間さえも止まってしまう。その後の世界では、すべてのものが滅びるということを知らない。死んでも腐りなくならない。(元に戻る)

 この劇団の中で最も熱い演技が得意なはずの高須浩明でさえ、例えば劇団赤鬼に客演した時の熱く感動的な役柄と比べると、意外なほどクールな印象を与える。縄飛ぴょんは、女性であるにもかかわらず、少女や少年、老婆や男はできても若い女性は決して似合わないとされるキャラクターで、存在自体が「外している」ことだけは確かだ。その分、銀河哲朗が異様に美しい女を演じる。作・演出の山浦徹は普通の青年ができるという意味で、かえってこのユニットの中では異色なのかもしれないが、もちろんオバサンも老人もできる。役者はこの4人だけだ。

 いくつもの魅力的なプロットが寄せ木細工のようにみごとにかみ合っている。ベタな笑いも織り込まれているし、全体には感動的で献身的なラブストーリーでもあるのだが、それも彼らの手にかかると、妙に淡々と、低温でドライでスタイリッシュな作品に仕上がってしまう。それは一つには、劇の時間や空間の流れが寸断されていることによるのだろうし、さらには役者が様々な人物を演じ分けていることで用意されるといっていい。

 一つの時間設定の世界では、サイボーグ人間が存在し、虫がいなくなり、この世の中から滅びるということがなくなってしまっている。別の時間設定の世界はその3000年前、火山予知連のメンバーが富士山の噴火に備えている。ここで先に述べたラブストーリーが繰り広げられる。劇はこの二つの時間を短いスパンで行ったり来たりする。その上、ある時間の中で、同じ役者がTVのレポーターになったり殺人鬼になったり、狛犬になったり火山予知連の男になったりする。

 見る者は時間と人物の流れを追うのに精一杯になるのと同時に、その結果招かれた混乱が、劇の終息と共に一点に収束するのを楽しみ、感動することになる。収束のための惑乱であるように思えるが、その結果ストーリーが寸断されて見る者は没入を許されない。

 それ以上に、彼らにはのめり込まないことへの決意のようなものがあるような気がしてならない。たとえば4人とも台詞回しがやや、いわゆる芝居がかっているように思える。ほとんど場違いなほど破裂的でヤケになったようなギャグシーンが挿入され、それがかなり面白く、ややもすると前のシーンを忘れるほどだ。

 映画やテレビドラマでは、撮影はカット毎に行われ、最後に編集するのが普通の作り方だというが、彼らの劇では、逆に演劇ならではの時間の連続性を放棄し、映画やテレビドラマの作り方をそのまま模倣し定着しているようにも思える。

 にもかかわらず、彼らが本当に求めているのは、混乱ではないように思う。宙ぶらりんに止められている感覚、さらに言えば、イキそうなのに止められてしまっている感覚。じゃあ最後に激しいエクスタシーが待っているのかというと、そんな予定調和が用意されていないからこそ、クールでスタイリッシュだというのだ。もちろん一応の結末は用意されていて、謎解きのようなこともできるし、なるほどとうなずいて劇場を出ることはできるのだが、それが彼らの目的ではないのだなということもはっきりと知れる。彼らは劇を、一つの流れる物語の力としてより、転移する快楽として捉え、提出しているように思う。それがいうなれば彼らの美意識のようなもので、結成以来の作品に流れている一貫したトーンである。


片桐はいり「マシーン日記」

1997年、3月15日。昨日は風邪のため内田淳子が出る「近松」を諦める。今日は無理を押してKAVC(神戸アートビレッジセンター)へ、片桐はいりの「マシーン日記」(松尾スズキ作・演出)を見に行った。日常的にはあり得ないと思えるような男、夫婦、兄弟、元教師と元生徒などの関係性。幕が開いた当座はそれに戸惑うのだが、徐々にそれに馴れ、かえってその世界をいとおしいとまで思わせてしまう。……そのような剛腕が、いいお芝居にはしばしば見られるが、ここにもその剛腕があった。

 視覚的に最も印象に残っているのは、有薗芳記がコーンフレークを投げるところ。コーンフレークの黄色がパアーッと噴水のように飛び散って、その後の自虐的なまでの片桐に対する暴行を鮮やかに準備し彩った。

 機械=労働に憧れて工場に入る女性教師という設定がシモーヌ・ヴェイユを思わせ、そう先入観を持ってしまったせいか、随所にヴェイユらしい現実観が見られたように思うが、思い過ごしか?

 本当にいいお芝居だったと思う。見終わったあとの充実感がそれを証している。しかし、何かもどかしい。そのもどかしさは、すべての登場人物が抱えている世界に対するもどかしさややり場のなさが感染してしまったということで発生したものかも知れない。

 一方で、「仕掛けられたいい加減さ」みたいなものに対する評価を自分の中で定めきれないもどかしさもある。ちょっとこれは奥が深く、ゆっくりといつか考えてみたい。ぼくのまわりの若い人たち……オリゴ党の岩橋さんとか、芝居屋坂道ストアの大木さんとかの芝居の作り方にも、こういう「いい加減さ」が仄見えて、彼らに対してはぼくは大変高く評価していきたいと思っているんだけど。(劇場日記から)


加藤健一事務所「ザ・フォーリナー」

招待券が舞い込んできたので、一人で新神戸オリエンタルへ。仕事の都合で、数分遅れて入ってしまった。ラリー・シュー作、演出は元EDメタリックシアターの久世龍之介。

 シャイでシャイで自分に自信もなくどうしようもない男(チャーリー=加藤健一)が、一人で宿に泊まらなければならなくなる。静かに誰とも話さずに過ごす方法はないかと相談する彼は、友人(フロギー=山崎清介)のふとした思いつきで「外人だ」ということになって…という「笑劇」(パンフレット所収の久世龍之介の文章による)的顛末。外人なんか見たこともない人がほとんどという、アメリカはジャージー州の保守的な田舎町が舞台。喜劇的な要素とシリアスな要素が見事に織り混ぜられ、笑いに笑ったのにずっしり重いという、稀有なお芝居だった。

 チャーリーが外人を装うことで、一つ自分のありようというものを固定化することができたためとでも言おうか、徐々に心の開き方、他者との回路の結び方を見いだしていくという筋が一つ。

 英語のわからない外人を装うことになってしまったために、チャーリーは様々な悪だくみや、普通なら聞くはずのないような告白を聞いてしまう。そのことが最後に大どんでん返しでもあるんだろうか、という期待・スリルが一つ。ところがチャーリーは、最後まで「実はぼくは君たちの言ってたことが全部わかってたんだぞ。やい、そこの牧師!…」なんてことにはならない。一度言いかけるんだけれども、中断してしまって、最後まで彼は出所不明のチャー・ウン・リー(とフロギーが苦し紛れに「命名」する)のままだ。チャーリーはもうずっと外人なんだろうか。アイデンティティというのは、回復することで治癒するのではなく、新しいものを獲得することで回復するというのだろうか。このあたりがこのお芝居の最も大きな鍵かな、という感じ。

 KKK(クー・クラックス・クラン=白人だけのプロテスタント国家を主張する過激な秘密結社)を退治するに至る後半のスリリングなドタバタが一つ。このすごくシリアスな問題を、このように明るく破裂的な笑いの中で、しかも軽くするのではなく描き切ってしまうというのは、ものすごい力量だと思った。KKKはもちろん、他を排斥することによってしか自分を保てないという心の壁といったもののシンボルでもあると読めるはずだ。そうでなくてもいいけど。

 ちょっとおつむの足りないエラード(平田敦子)がチャーリーに英語を教えるという下りも傑作なところ。知恵遅れであること、外人であること、というようにアウトサイダーである者同士が結び合い、最後のKKK退治では大活躍するということ、お決まりとはいえよくできた美しいシーンだった。

それから……と、いくつもの見どころと、何層もの筋が入り組んで、そしてその一つ一つの筋が実に哀感を誘い、また巧みに絡み合う。それでいて、既に述べたようにものすごく笑える。山崎清介、触れていないが花王おさむ、土居裕子らも素晴らしく、加藤健一もシャイな外人という設定だけに過剰さがなく、いいアンサンブルを保っていた。 (1997年4月12日、新神戸オリエンタル劇場)


venice

グローブ座カンパニー

かわいそうなシャイロック

ヴェニスの商人(5月22日(日) 神戸・北野/新神戸オリエンタル劇場)
夏の夜の夢(8月11日(水) 神戸・北野/新神戸オリエンタル劇場)

 これらの公演が、ぼくのシェイクスピアのスタンダードになるとしたら、ぼくをこの先シェイクスピアで感動させるのは、たいへん難しいことになるに違いない。そう思わせるほど、これら東京・グローブ座カンパニーの公演は斬新で、シェイクスピアがやっぱりぼくたちの同時代人でありうることを確かめさせてくれた。もちろん一方では、触れるべきではないかもしれないが、演出や演技によっては、同じシェイクスピアでまったくリアリティのない退屈な時間を過ごすことがあるのも、七月にシアター・ポシェット(神戸)で見た劇団神戸プロデュース公演「マクベス」(夏目俊二演出)でいやというほど知らされてしまったのだが。

 ここでは主にジェラード・マーフィー(ロイヤル・シェイクスピア・シアター)演出、間宮啓行(アントーニオ)、羽場裕一(バッサーニオ)、上杉祥三(シャイロック)、毬谷友子(ポーシャ)らの「ヴェニスの商人」について語ることになる。まず、俳優たちはトレーナーやジーンズといった普段着で、飲み物など持ちながら舞台の両手に置かれた椅子に思い思いにすわる。その中で始まる。時代がかったセットも衣裳もない。通しげいこを見ている役者どうしの姿(朝日新聞の評による。六月一日付)にぼくたちはつきあうことになる。この始まりは、劇というもの(シェイクスピア劇というもの)についてのぼくたちの先入観をまず打ち破っておくためにも、役者たちの素顔の魅力を知らせるためにも、朝日の評とは異なるのだが、たいへん効果的だったといえよう。どんな芝居でも、最初の十数分は観客と役者の互いの力調べで妙に緊張した時間が流れるのであって、その緊張感こそが観劇の最初の喜びである。残念ながら朝日の評では、その醍醐味が忘れられていたようだ。

ここでの最大の魅力は上杉演じるシャイロックにあったといえる。憎々しげで蔑まれるべきユダヤ人高利貸しとして、劇を見終わった後「ああ、せいせいした」と言われるようなシャイロックは、ここには登場しない。人々から理不尽な人種差別、偏見、職業差別を受け、それでも最愛の娘を守ろうと必死で闘うけなげな姿が、上杉の小柄な身体の全体から立ち昇る。ぼくたちは彼を声援しても、とてもシニカルに見ることなどできない。そのため、ポーシャ扮する裁判官に「一滴たりとも血を流すことは許さぬ」と宣告されすべてを失うことになったときにも、ぼくは「それは殺生やで、むちゃくちゃやわ」と思いこそすれ、それを英断として喝采する気にはなれない。

 このように劇が転倒されていたために、危うくクライマックスが消滅してしまうところである。古典を現代に再生させるときの一つの目的は再解釈であり、従来の解釈をずらし、転倒することであることはいうまでもないが、ただそれだけでは劇の眼目がなくなり、ヤマを失うことになりかねない。このようにシャイロックと彼をめぐる状況のすべてを転倒させ、ヤマを潰しながらもなお一つのドラマでありえたのは、シェイクスピアの筆力もさることながら、マーフィーの演出と上杉をはじめとする役者の力であったはずだ。

 中でも特筆されなければならないのは、毬谷友子だ。この劇の眼目の一つに、ポーシャの婿選びがある。彼女は実はバッサーニオにぞっこんだが、父の遺言のため、金、銀、鉛の三つの箱の中から正しい箱を選んだ男と結婚しなければならないことになっている。バッサーニオが正しい箱を選べればよいが、そうでなければ、ポーシャは絶対に彼と一緒になることはできない、という設定だ。そこで召使いのネリッサ(松浦佐知子)と交わす不安に揺れる乙女心は絶品だ。それが後に判事となってシャイロックを裁いたかと思うと、指輪を手放してしまったことでバッサーニオを問い詰める過程の豹変ぶりは、この劇の裏側に女がどんどん成長する(図太くなっていく!)物語が秘められていることを発見させてくれた。

 さて、ここに至っていよいよ気づくのだが、シェイクスピアの劇は、うまくすると個々の役者に当てる光の加減をちょっと変えてみるだけで、全く違った表情を見せるようだ。ポーシャにスポットを当て、「ヴェニスの女相続人」という芝居もできたんじゃないかと想像してみると、楽しい。

ただ、ぼくたちが今シェイクスピアを「再発見」するのは、自分のシェイクスピア像をずらされることによってなのだ。つまり「ずらし」を目的としたシェイクスピアしか(野田秀樹においても)ぼくたちは見ていないのだろう。もちろん、シェイクスピアはそんなヤワなものではないとも言えよう。しかし、たまたまぼくが筋も知らずに「テンペスト」を見るとしても、初めて見るドキドキしたスリルを味わうことがないのは、本当に残念だ。もちろん、これが古典の宿命ではあるが。(視聴覚通信12号所収)


グッドフェローズ+七ツ寺共同スタジオプロデュース「神田川の妻」 2000年9月4日 OMS

 1994年初演の坂手洋二作品を、はせひろいち演出で。燐光群、ジャブジャブサーキットの2劇団の選抜キャストで上演。

 帰る道すがら、後ろで2人のちょうど団塊世代の男性が「そやけど、全共闘のこと知らんかったら半分もわからへんわなぁ」と嘆息混じりに話し合っていたようだが、確かにそういう面はあるだろう。どんなものでもそうで、その背景になっていることを共有できていればいるほど、共感の度合いも(反発の度合いも)高いのは当然のことだ。

 この劇は、半面は推理劇として成立している。「神田川の妻」と呼ばれている他愛ない怪奇現象の由来をはじめとするいくつかの不思議が、ラストで解決されるという面白みがある。一方では、かつて追い求められた革命という夢の顛末が綴られる。特に後者の緊張感の高さによって、この劇はすさまじく緊密で高温なものになったのだが、全共闘から連合赤軍という一連の流れを自らの熱として体験したか、ほとんど知らないかでは、劇の理解に相当の差が出てくるとしてもやむをえない。それが冒頭に紹介した二人の男の会話につながる。たとえばぼくは、自分自身が小さい頃から吃音に悩んでいること、年の離れた兄が大学でアジア経済を学び、アジアとの連帯を夢想しつつ日本の大企業に就職し、結果的に自ら死を選ぶに至ったことから、この劇からは狂おしいほど鋭い螺旋が切り込んできたと感じている。すべての人がこの螺旋を感じたとは思わないが、他の人は別の螺旋を見ているのだと思っている。

 問題は、にもかかわらず、そのような知識レベルの有無や劇の設定と重なる個人的体験を超え出て、ここから何が伝わっていったかということだ。ぼくたちは異国の古代のドラマに感動することができる。自分と何の共通性もないような人物の一生に涙することもできる。この劇が獲得した普遍性とは、革命という名のエロスを描ききることによって、そこに生きた者のぎりぎりの真実が活写されているからだ。そして、夢や理想は壊れるものだということも重要な真実の一つだし、もちろん劇的効果としてのタイプライターを叩く者らの不気味さ、その音、吃音者の声なども重要だ。

 かつて共同住宅だった、廃墟のような建物が舞台。ただしこの建物は、複雑な立地に建っているようだ。2階の右手の扉を開けると川の土手のようなところに出るようだ。おそらく天井川だろうから、右側のほうが敷地が高くなっているということなのだろう。正規の入り口は左側奥で、自転車に乗った者らはそこから入ってくる。正面奥には管理人に「ここから入ってきてはいけない、ここは通路じゃないんだから」といわれるような勝手口のような扉がある。手前の左右両側からも人は行き来する。つまりこの建物には5つの出入り口がある。このことが、この劇の性格を如実に物語っているといえる。

 いくつもの時間、何種類もの人々が現れる。吃音矯正に励みタイプライターを叩く男女、この建物の壁に「神田川の妻」と呼ばれる霊の影が映っていると騒ぐ人たち、それを取材に来る記者とカメラマン、この建物の元の住民と今も住んでいる男と管理人、昔ここに住んでいた女、その妹……。それほどに多様な人々や時間が出入りするためには、これほどのたくさんの出入り口が必要だったのだなと、舞台空間づくりそのものに深く納得することができる。

 ここで劇の空間は、すべて時間を結ぶ回路として成立しているといっていい。その回路が最も強く作用するのは、「反帝国武装戦線 神田川の妻」という部隊名で、かつてこの一室をアジトとしてアジアに進出した企業を爆破するための爆弾を作っていた女(既に死んでいる)と男(白髪の中年男になっている)の再会である。女は逮捕され、列車から川に飛び込んだという。男は生き延びて、今ここで異相にある女の手をとっている。

 このような回路を成立させてしまうのが、演劇というもののおそろしさだ。ここで性愛は、革命という理想のカムフラージュを得て本当は理想へと昇華するはずだったのに、逆に卑小で惨めなものになっている。しかし、だからこそいとおしい。「家族制度を打破するはずだった」者たちの部隊名が、かえって「神田川の妻」であるというアイロニーそれ自体が、意表をつきながらも本質をついて切実であることを、生き延びた男は今はよくわかっている。幸か不幸か二人とも生き延びてしまっていたら、きっと小市民的日常に埋没していただろう、などとも思う。

 いくつものプロットが「神田川の妻」という革命の夢と絶望をめぐって精妙に編み込まれていて、劇が終わってもすべての目を読み解くことができないままに大きな重石を預けられたままなような気がする。それがこの劇を見終えての率直な生理である。解かれた謎は、表面上だけのことであって、読み解けないままの謎を抱えていくことが、どれほど自身の生にとって重要なことであるかも、十分にわからされたような気がする。


劇団黒豚農場

第4回公演「Dear [f]−天気予報はいつも晴れ」を神戸アートビレッジセンター(KAVC)で。作・演出=藤田秀宏。KAVCが企画する、神戸の若手劇団のシリーズ公演のトップを飾る作品だったが、かなりつらかった。出勤の土曜日だったので、18:30開演というのもきつかった。

 前に見た「以蔵」の時も思ったのだが、そして若い劇団に対してはよくそう思うのだが、もっともっとシンプルに、本当に自分たちが見せたいのは何なのかということをキリキリと削ぎ落とす方向で考えてほしい。また、仮にもお金をもらって見てもらう以上、舞台での立ち姿のキレや美しさについても少しは配慮してほしい。筋力トレーニングだけでは舞台姿は変わらない。下半身がフラフラしていて浮き足立ったような、吊り人形か「レレレのおじさん」のような立ち姿は見苦しい。

 ふとしたことからドラえもんならぬ「ドザエモン」(藤田秀宏)のゴザに乗ってタイム&スペーストリップをすることになった4人(藤田の他にマー坊、アムロ浩司、谷渕由香子)。途中で桃太郎の時代にトリップしてしまったりするのは、あとで活かされるわけでもなく、全く余計。いくつめかのトリップでたどりついた星で、星間民族紛争を見る……巻き込まれるというだけの深さがなかったのが物足りない。トリッパーたちと星の人々との絡みがあまりに浅く、しかも最後(ドザエモンが、星の人々が求めていた神だったという)が強引なので、一本の芝居として束ねるのに無理があるように思えたのは残念。

 対立する二つの星のリーダー(ヤン=金本肇、ラトー=立脇透晴)を、出自は同じであるということにして、それがどのように対照的な人格を持ってしまったかということが一つの描き込みであったように思う。そして、二者が最後に和睦を結んで一つの国を作るが、敵役であるラトーが最後に身を引く形で去っていくという、いわば回心の劇も一つのテーマであろうが、それをつまらないギャグを配したことで弱めてしまったことは、この作品の最後の救いをも奪ってしまう結果となってしまった。

 対立する二つの星、狂言回しとしてのトリッパーたち、という太い構成がありえたのだから、もう一度全体を見直して再構成する余裕と見識があれば、骨太でヒューマンな、いい作品になれたものをと思う。

役者については、立脇、宮地亜也(エコという、王族の血を引いた女性で、ヤンの妹のように育った)、藤田、マー坊の四人はレベルをクリアしていると思う。四人というのは、結構多いほうだ。それだけに残念だ。 (1997年4月26日) 


KTカムパニー第11回公演「あとのまつり」

作=狩場直史、演出=二口大学。後継者不足か何かで村祭りが中止されるというのを聞いたことを直接的なきっかけとして村に戻ってきた坂井(金子魁伺)。幼なじみの木彫師・辻本(高田智之=客演)や左遷されてこの村にやってきた檀夫妻(きむらかずや、西野佳子=客演)と四人、体育館で踊り囃子の稽古をしている。四つの卓球台のようなお立ち台の上で一人ずつ踊り歌う姿が、まずは「自分の殻」というものを象徴しているようで切ない。

 ムラおこし、アイデンティティさがしが声高に語られ、ややフラットな展開だったが、「祭りをするなら自殺します」という投書が投げ込まれるにいたって、彼ら自身の独善性や固着がそれぞれに照射される下りが印象的だ。昨年秋、全国各地の中学や高校の文化祭や体育祭がそのような投書によって中止されたようだが、新聞でニュースを読んだだけではそのような投書を出す当人のリアリティについて何も想像できなかった。この劇の中で、投書の主は坂井や辻本の幼なじみのあや子(木村敦子、好演)によるものであることが知られるが、彼女の孤独をだれも救えない。周囲が祭りに浮かれていく中、それに添えない者の孤独はいや増しに増す。自殺したくなるほどその孤独は臨界に達するのだ。そのような思いがありうることについて、これはこの劇と離れた問題かも知れないが、その照射の鮮やかさには感服した。

 木村敦子は、「踊るミシン」でも好演したが、屈折して心の洞窟に入り込んでしまったような少女〜女性を演じさせると実にはまる。 (1997.3.30. 扇町ミュージアム・スクエア)


CTT事務局企画「のたり、のたり、」

1998年3月22日 於アトリエ劇研。作=深津篤史(桃園会)、演出=キタモトマサヤ(遊劇体)。

 あえてひどく乱暴に約めれば、薬物とアルコールに耽溺した青年たちの、せつない物語だ。百円(由螺:遊劇体)とトロちゃん(森川万里:桃園会)のまだるっこしい愛と、百円の自殺癖が中心になって、裸な人間関係がキリキリと傷ましい。

会話の端々から舞台は神戸の海に近い辺りであることが知られる。ポートアイランドのキリンのようなクレーンが劇の終盤で重要なメタファの軸になったり、「家めげた時……」や「ちゃんと自分の家できたから、ええやん」というような端々からだ。

 震災と、クスリやアルコールのことを結びつけようと思わないでもないが、どんな街にもアル中やシャブ中はいるはずで、とりたてて神戸を思う必要はないだろう。ただ、神戸を劇の舞台として設定しようとする時、どうしても「ポスト」ということを意識せざるを得ないのではないだろうか。何かの後の街、何かが起きた街、というように。最もわかりやすく言えば、北村想の「寿歌」の風景。

 そんな街でも、人は生きていなければいけないのだが、いくぶんかは「終わった存在」として生きているというのは、やや強引か。ピーと呼ばれている女がアイダの妻に「あんた、終わってるなぁ」と言われるシーンがある。説明しにくい言葉だが、すべてを言い当てているように思う。アイダはかつては百円らの仲間だったようだが、いまは抜けて、背広を着て登場している。妻もかつては仲間だったのだろう。今は子供がいる。あるいは、ピーに仲間の女が専門学校に通うことにする、と告げる。そのようにしてみんな抜けていく。ピーは薬剤師の娘のようで、いくつもの錠剤をポリポリと頬張り噛み潰していく。大声で笑う。終わっていると言われる。

 アイダが環状線と呼ばれる男(杉山寿弥)の部屋に、一人の女を連れてくる。記憶を失くしている環状線の妹だという。背広姿のアイダは、劇的な久々の対面を期待し、ちょっといいことをしているという高揚で、やや上ずっている。突然、タガが外れたように環状線が何か関係ない事を喋り始める。そして「人違いや。帰ってくれ」。妹だという女が何か喋り出そうとすると、必ずそれに被せるように環状線は猛烈に喋り出す。缶入の甘酒を勧めて、その後の二人の会話。「どや、うまいか」「うん。甘ぁて、おいしいわ。……私、これ飲んだら帰ります」「そやな」「もう来ません」「そのほうがええと思うわ」「昔、夙川の海で二人で甘酒飲んでホットドッグ……」「そら、うまそうやな」……これは切ない。これ以上言うまでもないが、環状線はどうも女が本当は妹であるらしいことに気づいたに違いない。その上で、しかし、おお妹よ、と両手を広げて抱擁できるような図太さは彼にはないということだ。彼が本当に記憶喪失しているかどうかは、どちらでもいいことのように思える。どちらにしても、同じようにこの場面の劇は痛烈に成立しているのだ。

 念のため確認しておこう。まず、環状線が本当に記憶喪失しているとした場合。彼は目の前に現れた女がわからない。「えっと」とうろたえながらも、喋り出そうとする女の堰が切れる前に自分の言葉を被せてしまうという、女に愁嘆場をさらけ出させないための配慮を保持している。それは、女の態度や状況−こんな惨めな境遇の男を、わざわざ嘘をついてまで兄だと言い張る人間は、普通いない−から、どうもこれは本当に妹らしいと気づいた彼の、精一杯の配慮(やさしさ)だ。

 次に、こちらはわりとわかりやすいのだが、彼の記憶喪失が虚言だとした場合、彼は目の前の女が妹だとわかっている。その上で兄妹としての対面を回避するのは、まともなOLの格好をして目の前に現れた「妹」と、浮浪者同然でデブ専の同性愛者で記憶喪失を装っている自分とを引き比べたとき、ここで兄だと名乗らないほうがいいと彼が判断したからに他ならない。彼と女とに交わされる会話の絶妙のテンポや美しいやさしさは、それで完全に説明がつく。

 先に述べたように、このシーンはどちらの解釈でも劇として成立し、しかも劇の方向を乱すこともない。劇は観客に委ねられているようだが、作家自身にとってはどうか。ぼくはあえて深津には、ぼくたちと同じように何も知らないでほしいと願っている。深津だけが環状線という男の出自来歴を知っていて、それを劇の上で小出しにしているというのではなく、深津もまたこの劇のシーンに現れてくる環状線のことしか知らなくて、ぼくたちと一緒になって「ほんまに記憶喪失やったんと違いますか」と呟いてほしいと思っている。深津の徹底した演劇の時空に対する禁欲とは、そのようなものだと思っている。作家もまたそこに現れた以外のことは何も知らないのだ、と。誰が一番知っているかといえば、それは決まっている、環状線その人だ。そしてそう思わせるだけの力量を、もちろんこの日の杉山も、深津率いる桃園会の面々も持ち合わせている。

 劇の登場人物たちは、「やっぱり、ちゃうかったんかぁ」または「おっさん、ほんまに覚えてないんや」と落胆しているが、劇を見ているほとんどの観客は、「きっとほんまはわかってるんや」と思っていたのではないか。なぜなら、そのほうが劇的だと思えるからだろう。先日の「うちやまつり」でもそう思ったのだが、つまり深津は観客に、「劇的であること」とは何か、という問いを投げかけているのではないだろうか。ぼくたちは劇場では、最も劇的であることを選ばなければならないのだろうか、それをもってぼくたちは観劇体験と呼ぶのだろうか。

 そのようなことを思わせながらも、もちろん深津の劇はじゅうぶんに劇的で、切ない。セックスの回数で思いの深さを測ろうとしているような言い方をしてしまう少女とそれに反発する友人、結局二人は同じ思いを抱いている。

 自殺未遂を繰り返す百円。彼がなぜ自傷行為を繰り返すのか、分け知りに分析的なことは絶対に言いたくない。最後に彼は「俺、行くわ。なんか、呼ばれてる気するし」と言って飛び降りる。今度はどうも未遂では終わらないようだ。その直前に百円がトロちゃんに「なんか話して。恐竜が会いに来る話がええ」とせがまれて、キリンの話をしている。100mくらいあるキリンがナントカ海溝に住んでいて、一年くらいかけて会いに来る。「会うてみたら灯台やねん。怪獣、怒ってぶちこわしや」「私が、灯台?」……このような、ネガティブで極端にまだるっこしい愛の表現が最後まで切なく、また何度か挿入される「その吠え声は、はるか百万年……」という詩のようなフレーズの鮮やかさも加わり、ああそうか、百円はナントカ海溝に戻って行ったんか、よかったなぁと、無理にでも思おうとしているのだった。


 Copyright:Shozo Jonen 1997-98, 上念省三:gaf05117@nifty.ne.jp


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