二十九日月 NIWATORI


二十九日月「朝の風景画」

 3月28日 劇団名は「にじゅうここのかづき」と読むそうだ。於CAMP(京都・四条河原町南)。作・演出=はしぐちしん。登場するのは令子(荒木千童=桃園会)、誠(尾方宣久=MONO)、千夏(辻美奈子)の三人。作・演出のはしぐちは、以前時空劇場に在籍し、その後桃園会にも客演していたりする。

 OLの令子のワンルームに、卒業制作を出さなくて留年した美大の学生・千夏とそのボーイフレンドの誠が訪ねてくる。怠惰な千夏と、卒業してOLという形で社会に入り込んでいる令子が対照的だ。

 劇は、前半のボヤ騒ぎでたまたまビールを買いに行っていた誠が疑われてしまうところ、後半で令子の母親が倒れたという電話が入り、すぐに亡くなるというところ、という二つの事件の間を、実に淡々とした会話が続くことで進行する。舞台転換もない。日本画専攻の千夏は、朝一瞬に見える張りつめて圧倒されそうな空を卒業制作として描こうとしていた時期もあったらしい。そんなしみじみとした会話も挟まれるが、大方はフラットだ。そこに暗転に代えてシンボリックな(と言っていいのかどうか)アクセントとして挿入されているのが、暗闇の中で、横になっている者に寄り添おうとする令子の思い詰めたような姿だ。

 さて、この劇を会話劇として見るとき、その味わいや緊密さにおいて、少し物足りなさを感じる。それが台本によるものなのか、荒木と辻の演技によるものなのかは分け定め難いが、張りつめた空気が感じられなかったのは残念だ。

 また、見終わって、つい松田正隆の「蝶のやうな私の郷愁」と比較する気分になってしまった。淡々とした時間の流れと突然起きる事件。劇の構図としては共通しているが、はしぐちはもう少し軽めの日常性を重んじる劇を動かそうとしたように思う。そうだとしたら、なおのこと千夏のあの空の色への思いや、令子の千夏への感情を深く描く必要があったのではないだろうか。

 あとほんの少しのところで素晴らしい作品になることが予感できただけに、少し残念だった。


劇団NIWATORI「グランド・ロマン」

 チキンジョージ(三宮)で劇団NIWATORI(余談だが、主宰で作・演出の菱田信也は宝塚の現雪組組長=チャルさんの弟)の「グランド・ロマン」。1940年の大晦日から翌年の真珠湾までの約1年間の、ニューヨークの日本人を描いた(日本人と言っても当時のことだから朝鮮半島の人も含んでいる)。芯となるのは格闘技ショーのチャンピオンである京三(前田常貴)のチャンピオンシップをめぐるストーリーで、それが行われるショーパブの支配人で暗い過去を秘めた金井(ひわだこういち)と朝鮮人の従業員ショーコ(しゃくふみえ)の実らぬ恋、京三を応援している日本大使館員松倉(鎌田圭司、シアターXXXX倶楽部から客演)とその甥で外交官をめざしている総一(十利桃太)の間に交わされる日本の外交政策、大東亜共栄圏思想をめぐる議論、などが絡み合った、やや錯綜した展開の芝居だが、時代背景をきちんと踏まえたことによって芝居の流れに一本の筋が明確にできたこと、客演の鎌田、荒木優子(京三がひそかに思いを寄せている、元の勤め先=大阪の料理屋のこいさん。松竹芸能俳優部からの客演)らの好演もあって、失礼だが、この劇団の公演としては初めて、見終わった後に深い満足感と感動を覚えた。

 その感動を一言で表わすのは難しいが、誰も望んでいないのにそうなってしまうことに対するかなしみを、一人一人のドラマとして丁寧に描き込み、美しく造形できたことによるのではないかと思う。大使館員である松倉は、何とかして日米開戦を回避しようと万策を尽くすが、叶わず、陸軍系の特務機関員・木下(山本由紀夫。宝塚の男役のような端正な顔だちが目を引く)に刺殺されてしまう。刺された後に木下に「郷里はどこか?」と聞き、木下が「高知であります」と答えたのに対し、「ふるさとの海や山は好きか?」と尋ねる。よくわからないけれども、松倉の人となりをよく示すと共に、木下の一本気で純粋な心をも掬い取って、偏りのないいいシーンだ。

 しばらくして妻・洋子(高田靖子)が戻ってくる。床に捨てられた匕首の鞘を見て事態を察して、あくまで静かなリアクションである。これまでのこの劇団の作品には、このような抑えて言外の空気に語らせるようなシーンはなかった。ずっとオーバーアクションが目立ち、見終わると疲れてしまうようなことが続いていたのに、このような急変を果たせたことは驚嘆に値する。

 ショーコは本当は李なにがしというのだが、創氏改名で日本名を名乗らされている。ショーパブのオーナーで満鉄社員と称する奄美(城野正富美、フリー)に誘われ、満州への「手土産」として、兵隊立ちの世話をする「看護婦」として満州に渡る。それを聞いて金井は、それが「慰安婦」であることを教えるが、強いて止めはしない。なぜいつも笑っていられるのかと苛立つ金井に、ショーコは「私のくにはきれいだから、いつも笑っていることにした」というような、これもよくはわからないが彼女なりの深い真情であろう一つのテーゼを謎のように提示して、去っていく。朝鮮に対してアンビヴァレントな思いを持っているらしい彼には、ショーコに対する思いをストレートに伝えることができなかったのだ。やがて、奄美の口から、金井が本当は金なにがしと言う朝鮮人で、広島の工場で日本人の主任を刺殺してアメリカに逃れてきたということが知れる。 ここでは、金井のどうしようもなさ、ショーコの悲しいまでの明るさが切ない。ショーコがいわゆる従軍慰安婦となっていくであろうこと、最後に日本に帰って自分の落とし前は自分でつけるとアメリカを去っていく金井が、数年後には郷里の広島で原爆に遭うであろうこと、そしてさらに言えば他のすべての登場人物たちのあまりに過酷なこれからの数年間を思うと、一種言いようのない戦慄が背筋を走る。

 それは芝居の外の話じゃないかと言われるかもしれない。しかし、この劇の中には、劇が終わった後の長い長い時間に展開される劇がはっきりと描かれている。時代の流れ、あるいは外交官である松倉のような男は、それは自分たちが作るものだと思っていたかもしれない。しかしどうもそれは一人の力ではどうしようもなく、一人を押し流してしまうものらしい。押し流されていく人々が、その中で何を考え、どう愛し、どのように動いたか、その一つ一つを生き生きと描けたこと、それがこの劇の成功の原因だったと、もう一度言っておく。(1997.3.24.劇場日記)


  Copyright:Shozo Jonen 1997-98, 上念省三:sjohn.leo.bekkoame.ne.jp


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