新制度のスタートに伴う夢想と、予想される幻滅
ぼくはもう、公演評以外はあまり書きたくないと思っている。詳細は省略するが、宝塚をめぐる状況論は、不毛だ。だから、この新・専科制度のスタートによって、ぼくが興味を引かれるのは、ただ一点、どんな作品でどんな組み合わせが見られるのか、ということに尽きている。
この制度の発表は、星組「黄金のファラオ」大劇場公演の最中だったから、ぼくたちは結構心配した。絵麻緒や彩輝は、くさらずにきちんと舞台を務めているだろうか、とか。次にこの制度を実感したのは、宙組バウホール公演「FREEDOM」で樹里咲穂の肩書きが「専科」となっていたことだったが、作品の出来はよかったし、当然のことだが違和感はなかった。続く大劇場公演の雪組「凱旋門」、宙組「望郷は海を越えて」でもその組出身者以外の新・専科所属者の出演はなく、稽古や準備の日程上やむをえないとしても、せっかく発表した制度が実質的に機能していないのが物足りなく思われた。宙組のショー「ミレニアム・チャレンジャー」で上衣を肩脱ぎにすると全員の背に「宙」というゼッケンが現れたと思ったら、湖月のものだけ「専」に変わったという、素直には笑えない石田演出らしい寒いネタがあったが、そういうことをサラリと演じているとすれば、劇団員も観客もさほど屈託なく受け止めているということなのだろう。
新しい制度の発表に当たって、プロデュースする側は戦略的に、それがいかにうまく機能し、素晴らしい結果を残すかを、すぐにでも目に見える形で明らかにし、ファンや劇団員に起こりうる不安や不満を押さえ込む必要があった。しかし、やはり宝塚歌劇団はそのような手を打てず、部外者には、この制度の発足が十分に検討されていない、思い付きのものであるように見えてしまった。
多くのことが明らかにされていない中で、気になることは、まず新・専科に移った十人の中から、トップに就任する者がいるのかどうか、そしてこの制度が今後も継続するのかということだ。つまり具体的にいえば、月組次期トップは誰なのか、それが新・専科から選ばれた場合、月組の新準トップ、三番手は専科に移るのか、ということだ。これが明らかになれば、今後この制度がどのように展開するのか、おおよそわかることになる。
現時点ではこの制度が実質的に機能する(といっても、紫吹の休演を受けて香寿が入ったというだけだが)月組大劇場公演「ゼンダ城の虜」が始まっていないので、この制度がいかに素晴らしいものかとかを、経験的に語れないのが残念だ。当面の配役は制度発足と同時に発表されるべきだったが、その中で興味を引いたのが、ショーだけに参加するというケースがあったことだ。そういう自由さが許されているのなら、期待はかなり広がっていく。
さらには、組の枠の中に専科の者を振り分けていくのではなく、専科の者たちがその公演の中心となって、自由に全組からオーディション方式で出演者を募集し、一本の公演を打つことはできないだろうか。たとえば正塚作品を紫吹、香寿、樹里、初風、そして少数の娘役をセレクトして加えて上演するとか。山本周五郎ものを汐風、絵麻緒、湖月を中心にしてやるとか。専科の十人だけで、誰かは女役にもなって一本の洒落たミュージカルをやるとか。娘役も再編しなくちゃ。このように考えていくと、想像は夢想となり希望となって……はかなく消えていくのだろうか。
ただ、そのような企画もあっていいとは思うものの、それが主流となるようなことでもあれば、各組に一人のトップスターが存在することを前提としたピラミッド制度は崩れていくだろう。フィナーレで大階段を降りてくる順番、羽根の大小をどうするのか、という現実的な問題もある。トップスターが出てきさえすれば、劇場の空気が二、三度上がるような緊張感、昂揚感もなくなるかもしれない。このようなことはナンセンスであるように見えながら、これまでの宝塚歌劇の「水戸黄門的」な安心感を支えてきたものであり、大衆文化としての宝塚歌劇を保証していたものだった。宝塚の作劇はこのようなトップスター制度に依存して初めて成立する部分が大きく、それを脱して現在の演出家陣がまともな戯曲を創造し続けられるかどうか、これもはなはだ心許ない。
そしてさらにいろいろのことを考えたり心配したりするのだが、どこかでは、新・専科制度なんて集客力の低下に危機を感じている歌劇団が打った、一時的な起爆剤に過ぎないさ、とも思っている。新劇場のオープニングや、いまだに噂の絶えないベルばら再々演を乗り切るためのその場しのぎであるとも。結局翻弄されるのは、劇団員とファンだけ、お疲れさん。……だから、公演評以外のことは、あまり書きたくないと思っているのだ。おわかりいただけただろうか。
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