毎日放送「新見聞録−近畿は美しく 歌と緑の街、宝塚」1999年5月1日放送分 取材のためのメモ
ぼく自身は、いわゆる小劇場演劇とか、モダンダンスとかはずーっと見て、それについて批評めいた文章を書いたりはしていたんです。で、女房が友達に誘われて宝塚をかなり熱心にみるようになりまして、何度か誘われたんですが、拒否してたんですね。「君が見るのはかまわないけど、ぼくを巻き込まないでくれ」って。よき理解者ではあっても、同伴者にはなれないっていう感じでした。ぼくの中では、やはり宝塚歌劇というものは「大衆芸能」であるとして、一段低く見る意識があったのかも知れません。
何度か誘いを断わっていたんですが、とうとう「今度のは絶対いいから」って誘われて、じゃあまあ行くか、って見たのが星組の「うたかたの恋」で、これがけっこう面白かったんですよ。ストーリーも構成も音楽も演技も、悪くない、と思ったんですね。「じゃあ、これからも時々見る?」「いいよ」って、次に見たのがシアタードラマシティで同じ星組の「ライト&シャドウ」っていう他愛ないお芝居だったんですが、ここでぼくは万里柚美という娘役に惚れ込んでしまったんです。思えば、今のぼくを作っているのは、この瞬間ですね。
それから、その万里柚美にファンレターを出したり、それに返事がきたり、っていうようなことがあって、どんどんミーハーファンの道をまっしぐら進んでいくんですね。でも、この頃は、ぼくが本格的に論ずべきフィールドはやはり小劇場演劇やダンス、現代美術であって、宝塚は息抜き、次元が違う、と思っていたように思います。
それがちょっと変わったのは、震災のあと初めて見た、「若き日の歌は忘れじ」という公演だったかもしれません。震災から2週間余、水道もガスも止まったままの神戸を抜け出して、いわゆる被災地ルックで名古屋までたどり着いて見た公演です。この時ぼくは、もうただひたすら泣いてたんですね。このお芝居は藤沢周平の「蝉しぐれ」を原作としていて、運命に巻き込まれる人生の悲しさや、思いを秘めたり残したりしたまま去っていく人の悲しみが、美しく描かれているんです。それが震災というものを経た自分たちへの癒しのように感じられたということもあったんだと思います。とにかく何だかこの時、宝塚を見れてよかった、という以上に、ぼくの人生に宝塚があってよかった、っていうか、宝塚とめぐりあえたことの幸せを痛感したんです。ギリシャ悲劇でいわれるカタルシスってこういうものだったんだと、本当に感じたんです。震災後、涙もろくなったと多くの人が言いますが、ぼくもよく劇場で泣くようになりました。
それからぼくは、小劇場演劇もダンスも宝塚も、それがジャンルとして高級であるとか実験的であるとか、いやもちろん、くだらない小劇場演劇もあれば、実験的な宝塚もあるわけですが、とにかくそういうことよりも、それがぼくにとってどのような癒しであるか、カタルシスであるか、ということを考えることができるようになったように思います。
劇場というのは、非日常の空間です。その中で、役者や照明や音響、オケが、ぼくたちにどれだけの夢を見せ、日常を離れさせ、別の時空に連れていってくれるか、それがぼくたちが劇場に足を運ぶ最大の理由ではないでしょうか。
宝塚がいいのは、あまり難しいことを考える必要がなく、ただただ美しいとか、悲しいとか、どっぷり感情に浸っていられるところです。そういう意味で、宝塚歌劇には、あまり批評は成立しないというか、不要なのかもしれません。作者の世界観とか、表現の質とかそういうことを宝塚ではあまり問題にする必要がありませんし、真剣に考えると頭が痛くなるようなわけのわからない作品があるのも事実です。基本的には、宝塚はスターの魅力を最大限に発揮することを目的として作られている舞台ですから、宝塚を見るコツは、まずぼくが万里柚美を発見して、そこから浸っていったように、まず誰か一人のスターを見つめることではないかと思います。もちろん、演目によっては、全体を見る、ストーリーを楽しむものもありますが、宝塚はまず一人のスターの身体性−美しさ、ダンスのキレ、歌声の素晴らしさ、しぐさの華麗さ、に注目していいと思います。それを中心軸として、他のスターを見、芝居やショーの全体を見ることができると思います。
今大劇場でやっている雪組のショー「ノバボサノバ」は、次に月組で続演されます。同じショーを違う役者で見ることができる、という珍しい、面白い機会です。たとえば今、香寿たつきがやっているのを、次に紫吹淳がどんなふうにやるのか、そういうスターの異なる魅力を見分けていくという楽しみを味わえたら、もうどっぷりへまっしぐらだといえるのではないでしょうか。
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