真織由季が退めた時に、既にわかっていたことだ。有望な生徒がどんどん退めていく。トップの在位期間があまりにも短い。これらはすべて同根で、要するに悪しきトップ至上主義がはびこっているということだ。歌劇団にか、生徒にか。それは卵とにわとりのようなもので、歌劇団の使い方が生徒の意識を作っていくし、生徒の意識がそうなら歌劇団もそうせざるを得なくなっていく、というものなのだろうか。いや、やはり生徒の立場は弱い。多くの役に見せ場を作ることができない作品が続き、トップにしか見せ場がないという公演が多くなれば、トップ路線を外れてしまった生徒が肩叩きをされているように思っても、致しかたないところであっただろう。
現在の宝塚が、八十五年の歴史が蓄積してきた遺産の再利用を図って、その厚みを増そうとしているのは、悪いことではないと思う。名作の再演は、演目さえ間違わなければ歓迎すべきことだし、OGのいわゆる「ホームカミング」も人選さえ間違えなければ足が遠退いていた観客にとってもホームカミングできる、いい企画だと思う。
しかし、神話化された作品や人を再び見せることで、もし現在が哀れに見えるとしたら、逆効果も甚だしいということになる。今のところは、「芸術祭賞っていっても、たいしたことないじゃないか。それにアナクロだよね」とか、「さすがの名作ショー、生徒もがんばったね」とかいう程度で、現在を嘆くようなことにはなっていないと思うが、このことが現在のレベルを低下させるおそれもある。
一つには、演出家たちの作品発表の機会の減少という自明のこと。もう一つは、現在の組構成を反映していない作品を上演することで、配役に無理が出てきたり、当然もっと使われるはずの生徒にいい役が回らなくなったり、柄に合わない役を振られたりするおそれがあるということだ(もちろん「○○編」などと称して作品を改変するという手もないわけではないが、たいていは改悪という結果になるだろう)。
結果的にこのような遺産の再利用が現在に大きな無理を与えているとしたら、そのとばっちりは生徒と観客に跳ねかえり、最終的には観客数の減少という形で歌劇団に帰っていく。悪いことに、その前には舶来ミュージカルばかりやっていた時期があった。作品の質の面ではよかっただろうし、麻路さきのトートというあっと驚くような大当たりもあったとはいえ、下級生の役があまりに小さかったり、中には再演と同様に時代錯誤的な演目もあった。さらに悪いことに、そのような現在への皺寄せが、未来にはもっと大きなツケとなって溜まっていく。
座付作者の素晴らしいところは、役を与えながら役者を育てることができるということではないか。歌劇団発行の雑誌の座談会などを読んでいると、やはりいわゆる当て書きをしていることがよくわかるが、「彼女にこんなヒーローを演じさせたい」「彼女のこんな面も見てみたい」という思いの集積が、一つの劇を作っていくのではないか。それによって多くの生徒が自らの個性を豊かにし、技量を高め、魅力を倍加してきたのだ。
再演物や舶来物では必ずしもそれがうまく回転しない。もちろん、当て書きされたものではない役を得て、弾けるように殻を破る生徒もいるだろう。しかし、劇団のもっている力を全体に底上げできるのは、そのような「まぐれ当たり」ではないだろう。
初めの方で述べた、有望な生徒がどんどん退めていくということ、もちろんこれはいつの時代にもあったことかもしれない。しかし、ぼくが「悪しきトップ至上主義」といったのは、トップ、あるいはトップ筋の生徒にしか見せ場を与えていない、ということだ。名脇役と呼ばれるスターが生まれるためには、本人のある程度の思い切り(あきらめ、といってもいいかもしれない)と、その思い切りに応えるだけの見せ場を用意することが必要だ。「エリザベート」という作品が素晴らしかったのは、三人を軸にしながら、マックス、ゾフィー、ヴィンディッシュなど、見せ場のある脇役をきちんと用意していたことで、それによってぼくたちは泉つかさ、出雲綾、陵あきのらを堪能することができたわけだ。もちろん上演作品選定に当たっては、そのあたりはじゅうぶん配慮されていると思いたいのだが、「WEST SIDE STORY」がトップにとってさえ必ずしも適役ではなかったように、どうしても無理のある配役になってしまうことは避けられまい。
そこそこ有望な宝塚の男役にとって、一つの分水嶺となるのは、自分がトップに就けそうにないと予感する時だろう。何らかの形でそれを通告されることもあると聞いている。脇役として舞台を支えていくことを自らに課すか、去るか。前者を選ぼうとしても「そう言われても最近、脇役って、ろくなのないよねぇ」と考え込んでしまうようでは、頑張って残って引き立て役に甘んじようという気にもなるまい。それを責めるだけの、宝塚に我慢しながらでも残り続ける意味をぼくは彼女に説明できないだろうし、そうしたいと思わせるだけの総合的な魅力を今の宝塚が持ち得ていないということで、多くが次々と退めていくに至っているのだろう。
星野瞳の「寿退団」は、非常に残念だし驚きもしたが、全体的に見れば、寿命が短いといわれている女役の方にいい脇役がいるような気がしないでもない。ぼくの好みで挙げても、夏河ゆら、出雲綾、美原志帆、貴柳みどり、翔つかさ、五峰亜希、万里柚美、等々。入団から十五年前後を経た彼女たちが、芝居で、ダンスで、歌でと、それぞれの個性を輝かせて舞台を引き締めているのを見ると、とても頼もしく、安心していられるように思う。娘役は女役として存在するという道を見出せれば、案外長く大きな存在として、そこそこ華やかに続けることができるのかもしれない。
それに対して、男役はどうか。男役の場合、現在ではトップ、準トップに続き、三番手、四番手、などという序列が事実上存在していて、それはほぼ学年順に数えられるから、年数がかさんでいて、○番手と呼ばれていない男役は、自ずと脇の役どころに回らざるをえなくなっている。今、試しに各組で準トップより上級生か同期で、組長等の幹部になっていない生徒を挙げると、次のようになる。
花組=矢吹翔、大伴れいか
月組=光樹すばる、真山葉瑠
雪組=多彩しゅん、地矢晃
星組=にしき愛、千歳まなぶ
宙組=真中ひかる、越はるき
舞台をキッと引き締める、通好みでいぶし銀の名役者がそろっていて素晴らしいのだが、率直に言って、トップを争ったといえる生徒は、一人も残っていない。もちろん、年数と共に人数が減り、組替えによってトップ路線の者を各組に散らしてきたということもあるだろう。それにしても宝塚ではいつの時代でもそうなのだろうか、トップを目指してトップになれなかった男役は、宝塚を去ることしかできないのだ。
これでは宝塚の芝居は痩せてしまう。「スターの小部屋」のインタビューで鳳蘭が、トップは歌でもダンスでもなんでも飛びぬけてうまい必要はまったくないというようなことを言っていたが、たしかな実力のある生徒こそが脇に回って芝居を締めてほしい。海峡ひろきのことを思い出しているのだが、そのような実力も、そして人気もあって、バウ公演の主役を張るぐらいの生徒が、トップの脇で支えている、そういう組構成をめざした指導、作品づくり、形態がとれないものか。とりあえずは数年先に向けて、先に挙げたような各組に何人かいる脇役陣に、目一杯見せ場を作ってもらうことだ。それが下級生たちのためにもいい刺激となり、いい循環を生むだろう。そうすれば、たとえば真由華れおのようなチャーミングな生徒が退団しようなどとは思わないですむだろう。そのためには、ベテランの実力に負けないだけの厚みのある脚本づくりが求められるのだろうが、もう思い切って一時的にせよ外部の作家に当て書きしてもらうしかないのか、とも思ってしまう。
もちろん、現役の生徒は華が一番、名脇役を演じてもらうために専科があるとする意見もあるかもしれない。しかし、それでは若い脇役ができないわけだし、組の勢いという面から見てもどうか。たとえば宙組は組長も若く、全体的に若い組だが、それにしても「エリザベート」の星原美沙緒、高ひづるという専科のご登場はいただけなかった。星原のマックス公爵はまだ徐々にペースに乗れたとはいえ、高のルドヴィカはどうしてもあの劇のテンポについていけず、見ていて気の毒だった。ぼくが宝塚を見始めてからの数年、組長・副組長と専科との入れ替えはあったものの、現役の生徒が専科に入った例を知らない。つまり専科は高齢化の一途を辿っているわけで、現役の生徒にとって、専科に入ることがまったく魅力を持っていないということの証左でもあるだろう。
現役のベテラン生徒も専科も使いきれていないという状態では、ホームカミングだ、過去の名作だと並べるよりも、今の資産を有効に活用してくださいとしか言えない。まずは現役の生徒に見せ場を作って、舞台に立ち続けてよかったと思える環境を作っていくことが急務なのではないか。
さて、ぼくがもう一つ深刻に心配しているのが、次の娘役のことだ。なんの趣向もなく不出来だった今年のTCAスペシャルだが、各組の娘役のラインナップは、以下の通りだった。
花組=渚あき、鈴懸三由岐、舞風りら
月組=千紘れいか、花瀬みずか、西條三恵、叶千佳
雪組=貴咲美里、愛田芽久、紺野まひる
星組=羽純るい、秋園美緒、美椰エリカ、妃里梨江
宙組=陵あきの、南城ひかり
ここに出ていない若手娘役で、娘役カレンダーに載っていたり、今年のバウで重要な役を演じるようなめぼしい者を挙げると、宙組の久路あかり、遠野あすか、花組の沢樹くるみ、彩乃かなみといったところか。
話を端折るが、この中で抵抗なく「若手」と呼べる者についていうと、バウ公演や新人公演では主役級を演じた経験があるとはいうものの、多くはまだ本公演のトップ娘役を心配させるほどの迫力や伸びやかさを身につけているとは言いがたい。これにも男役の脇役と同根の問題があるのではないだろうか。
つまり、もう一人の娘役に適切な見せ場を与えられる作品が少ないということではないか。トップ娘役より若い娘役に与えられる役が少ないようだ。妹役など、恋の対象にならない役になってしまうと、結果的に人畜無害でしどころのない演技に終始することになってしまう。たとえばトップをめぐる三角関係の二番手か、準トップの恋人という役どころで、印象に残るものが意外に少ない。最近では「」のトゥールベル夫人(星奈)が光彩を放った程度だろうか。
また、「エクスカリバー」のケイトは、本当は陵あきのではなく南城ひかりがやるべきだったと思うのだが、ここではベテラン娘役との線引きが曖昧になっているようで、そのためにこれからトップに就くべき娘役が見せ場なく伸び悩んでいるように思えた。
宝塚に入団した以上、誰もがそれぞれの形で実力を遺憾なく発揮し、できれば十数年ぐらい、その在団期間を充実したものとしてまっとうしたいと思うだろう。ぼくたちだって、生徒の一人一人がここでしっかりと根を張り、養分を吸い上げ、それがどのような花であれ、可憐に開くことを願っている。それがそうならなければ、あまりにつらく、ぼくたちが宝塚を見に行く根拠というものがない。夢は、見させてほしい。
ホームへ戻る
Copyright:Shozo
Jonen,1997-2005 上念省三:jonen-shozo@nifty.com