ぼくが宝塚を見始めた頃、トップ娘役は森奈みはる、花總まり、麻乃佳世、白城あやか、の四人だった。それから花組は森奈が安寿ミラと一緒に退団して、真矢みきと同時にトップに就いたのが純名里沙、次いで就任した千ほさちが真矢と同時に電撃退団して、大鳥れいが愛華みれと同時にトップ就任。雪組は花總が一路真輝、高嶺ふぶき、轟悠とコンビを組んだのち宙組に組替えして、かわって星組でトップ娘役だった月影瞳。月組は麻乃が天海祐希、久世星佳とコンビを組んだのち退団して、風花舞が続いて真琴つばさとコンビを組み、風花の退団後、檀れい。星組は白城が退団の後、月影瞳が引き続き麻路さきとトップを組んだ後、星奈優里が月影と交替でトップに就き、麻路の退団の後、稔幸を迎える、と代替わりしてきた。ぼくより少し年下だったトップ娘役も、いつの間にかすごく年が離れてしまい、それだけでなんだか小粒になったような気がしてしまったりもするものだが、それを考慮してもしなくても、今のトップ娘役のラインナップが物足りないとか、見劣りするというようには、必ずしも思わない。促成栽培が危惧されながらも、一九九三年の時点で森奈、白城、麻乃が研6、花總に至っては研4だったことを重ね合せれば、今は月影、星奈が研10、花總が研9、檀が研8、最下級生の大鳥でも研7と、皆それなりの年数を経てきている。純名や風花が星奈、月影と同期だったことを思えば、その頃の早さが、一種異様なものに見えてくる。
ダンスなら星奈がいる。大鳥は歌がいい。芝居のセンスなら月影。花總には清楚な美しさに貫禄さえ出てきた。檀には美貌に加え、芝居好きという美点がある。それぞれ苦手な分野がないわけではないようだが、それが作品の出来に決定的なダメージを与えるほどではないといっていいのではないか。
娘役は、やはりどうしてもトップスター(男役)との関係性、相性によって左右されてしまう部分が大きい。花總が宙組に移って生まれ変わったことについて、述べたことがある(『宝塚アカデミア5』所収「娘役の誕生と再生」)。宙組異動後の彼女は、「エクスカリバー」「エリザベート」「激情」の三作で、三様の女性をみごとに演じきった。楚々としたお嬢様的な外見をもちながら、堂々とした威厳あふれる演技も、蠱惑的なジプシー女のそそるような表情も自在に繰り出すことができる。雪組時代には「真夜中のゴースト」や「晴れた日には永遠が見える」で現代の女性もあたりまえのように軽くこなしているし、女王も王女も娼婦も演じ分けられ、等身大の演技も不自然ではない、オールマイティの魅力を獲得している。
彼女の、ドタドタしたと言っては悪いが、がむしゃらな走り方が好きだ、とも書いたことがある。その走り方や、時折見せる思いつめたような目つきからは、やや先入観も混じっているが、深窓の令嬢が何かに夢中になって、周囲のことが何も見えなくなって突っ走っているような危うさがあって、それが彼女の魅力を増幅している。
とはいえ、ダンスはあまり得意ではないようだし、歌は悪くないが時々アレッと思うことがある。「エリザベート」の歌唱から期待して、ショーのワンシーンの歌を同じレベルで期待して聞くと、がっかりすることがないわけではない。彼女はおそらく感情が入らないと歌えない、まさに宝塚の舞台のための歌い手なのだろう。これはけっして弱点ではない。
「娘役の誕生と再生」では、月影が星組から雪組に移って、水を得た魚のように芝居巧者ぶりを発揮できたことにもふれた。最近作の「再会」で彼女のコメディエンヌとしての魅力が爆発した。これは喜ばしいことだし、観客としては笑っていればいいのだから取り立てて問題とするには当たらないのだが、やや心配な点がないでもない。月影のこれまで名場面とされているシーンを思い出してみると、「春櫻賦」ラスト近くの銀橋での独白をはじめ、彼女一人が立ち上がった独演の場面が多いような気がする。「再会」で受けたのも、図書館での直角歩きなど一人のしぐさのおかしさが主であって、掛け合いによる相手との間(ま)のおかしさではなかったように思う。実際には掛け合いのシーンも悪くはないのだろうが、一人のシーンが突出する印象があるのはなぜだろう。彼女自身が演技面で努力し工夫を重ねているのはよくわかるのだが、相手役との関係性を築いて場面を作らなければならないところでは、やや気が急いてバタバタしてしまう傾向があるようだ。特にラブシーンになると次の展開を急いでかバタバタしているように見える傾向にあるように思う。「再会」のいいシーンでポリポリと足を掻いてしまうところなど、秀逸とはいえ、それが彼女の持ち味に直接つながってしまうだけに、洒落にならないところがあった。ラブシーンでの居心地の悪さというのは、役によってはとてもいい味になると思うし、ある種の親近感を覚えることもできる、現代的ないいキャラクターだとは思うが、いかんせんそのような役ばかりでは物足りない。特にショーでのデュエットダンスを初めとした絡みが心配だ。
と思っていたら、エストレーラ(「ノバ・ボサ・ノバ」)は彼女にとってずいぶんいい勉強にもなり、そしてその成果を存分に見せられたようだ。台詞がなく、表情だけで見せる演技ができるようになっていた。以前からきつめの表情や、可愛らしくくるくるとした瞳がチャーミングな表情は得意としていたが、今回は恋に落ちた恍惚の表情ができていたのがよかった。もうここから先は、脚本にお願いするほかはない。一度しっとりした恋する女を、月影に振ってやってほしい。
雪組では難しい位置にあったが、月影との組替えで古巣の星組のトップ娘役に座った星奈優里。好評の博多座公演「我が愛は山の彼方に」を未見の段階でいうと、現時点での彼女の代表作は、いまだに雪組時代の「仮面のロマネスク」のトゥールベル夫人であるように思える。もちろん「ダル・レークの恋」「皇帝」「WEST SIDE STORY」と星組でトップに就いてからの作品も、それぞれに彼女の魅力をよく出してきたが、高貴な女性の煩悶する姿を演じさせればうってつけの彼女の、苦悶する美しい姿を最も印象的に出せたのがトゥールベル夫人だったように思う。
星奈はダンスの人といわれ、ショーでその魅力をぞんぶんに振りまいているのはもちろん、熟達したダンサーならではの品のある身のこなしで舞台を引き締めている。そんな品格のある姿と、陰影のつきやすい表情があいまって、高貴な煩悶がまことにふさわしい娘役になったわけだが、雪組時代の彼女を見ていると、そこに渋味が加わり、うまい女役として脇に回ってしまいそうで、心配だった。
その意味で「WEST SIDE STORY」のマリアは大きなチャレンジであったわけだ。たとえば一九九四年の「ある日夢のとばりの中で」で発揮していた少女らしさを、再びどのように出すことができるか。雪組時代に脇の位置で獲得した落ち着きをいっとき忘れてでも、弾けるような華やかさを再び獲得する必要があったわけだから。実際、星奈のマリアは東京公演で大劇場公演よりかなりよくなったと聞いているが、それをステップにすれば、博多座では新しい万姫像ができあがってたはずで、いよいよ大劇場公演が楽しみだ。
やはりダンサーであった風花に比べると、星奈は名ダンサーではあっても、中心になって踊りきるタイプではないように思う。どちらかというと、デュエットダンスの中で美しさを発揮する、宝塚の正統的な娘役であるように思える。その意味では、同じようにバレエをベースとする稔とのコンビで、ますます見せ場をつくっていくことだろう。その見せ場とは、実にぼくたちが待望していたものだが、やはり大人っぽいしっとりした色香ともいうべき香気を放つような場面のことだと思っている。
大鳥れいが注目を集めたのは、「ヴェロニック」のアガートという花屋の女主人だったといえるだろう。堂々としていたし、何よりみごとな歌声に聞き惚れた。しかしながら、あくまでここのヒロインは千ほさちであり、大鳥は脇を固める色っぽいオバサン役。星奈と同様、大鳥も脇に回るのかと思ったこともあった。さて、ではトップお披露目の「夜明けの序曲」で、彼女のトップ娘役としてどのような美点を見せることができただろうか。
新しいトップ娘役には、どうしたって初々しさを求めたい。ところが、このお貞という役で、彼女はなかなか可愛らしさを出すことができなかった。柳橋の置き屋で一番の芸妓だった貞奴が、おかみさんの反対を押しきって男について洋行するところから始まり、曲折の内にフランスで社交界の寵児となり、夫と対立、日本に戻って病に倒れた夫を看取り、最後に自分たちの来し方を肯定する独白を堂々と演じきるという役どころでは、彼女の貫禄は出せても、他の要素はなかなか表われず、トップ娘役としての彼女の評価については保留せざるを得なかったというのが、正直なところだった。
「タンゴ・アルゼンチーノ」で、彼女はまたしても人妻である。トップスターの愛華みれが画学生役と、ぐっと若くなったことで、大鳥の落ち着いた雰囲気がかえって目立つ格好になった。高級娼婦だったのが貴族の愛人になって、死別し、伯爵の養女になって落ち着いてまた結婚をしたわけだから、どうしたって幼な妻とは言えない。どうせ元になった映画を随分潤色しているそうだから、人妻というのをせめて許嫁に変えることぐらいは簡単にできただろうに、小池修一郎がそうしなかったということは、やはり大鳥には人妻が似合うと思われているということか。
それは一つの当て書きとして悪いことだとは言えまい。彼女の特徴をよく生かしているということだ。しかし、宝塚のトップ娘役として、なんとか彼女から可憐な美しさ、愛らしさを引き出すことができないものか。星奈にマリアをさせたことは、おそらく大きな成功となって彼女の役の幅を広げることだろう。そのようなチャレンジを、早く大鳥に与えてほしい。そうしないと、愛華の役も広がらないということになってしまう。
その意味で、檀れいのトップ娘役としてのスタートが、全国ツアーだが「うたかたの恋」だったことは、恵まれたことであった。雪組「浅茅が宿」で新公最終学年になって主役に抜擢されたわけだから、多くのファンにとってはあまり印象に残る役のない、つまり先入観をもたれていない生徒だった。「銀ちゃんの恋」の玉美が大胆な化粧、三枚目ぶりで改めて話題になっているのは、彼女がトップになったからだ。
「浅茅が宿」新公、「螺旋のオルフェ」と二役を演じなければならない役が続いているが、そのわりには彼女の役柄の幅が広いという印象にはつながっていない。懸命さ、けなげさが表に出て、いわば美貌ゆえの悲愴感が先に立ってしまうせいかもしれないが、彼女の一途な芝居に対する誠実さがもうすぐ実を結ぶのだと信じてはいる。
「歌劇」のポートレイトなどを見ても、改めてその美しさを好ましく思うが、彼女の最大の欠点は(今はまだ愛すべき可愛らしさともいえるかもしれないが)、見られること、見せることに慣れていないという点だといえるだろう。それは彼女がスター路線を走ってこなかったためだろうが、ぼくも再三指摘している首の位置の悪さについてもそういうことだろうし、化粧についてももっと洗練されなければならない。衣装の着方についてももうちょっと何とかならないかと歯がゆく思うことがある。せっかくの美貌なのに時折表情が無防備になることで崩れてしまうのも、原因は同じだ。こればかりは、本人の自覚と研究も必要だと思うが、何より必要なのは、ぼくたち観客の視線であり、それを正面から彼女が受け止めてくれることだ。そのためには、もう少し、時間と経験が必要なのかもしれない。
初めにぼくは、数年前の娘役トップが研6以下であり、今の彼女たちに比べればはるかに「若かった」ことを指摘した。これを成熟であると見たとして、それはたとえば男役との関係性や作品に占める位置に、なんらかの効果をもたらしているはずだが、いったいそれは何だろうか。たとえば、トップ娘役の地位は上がっただろうか? 残念なことに、これがはなはだ微妙に答えづらい設問になってしまうのだ。花總はナターシャ、エリザベートというようにタイトル・ロールを多く演じている。実力と役がうまく回転してここに至っているといえるだろう。風花がバウで「Last Steps」を公演したことは、宝塚の歴史に残ることだったに違いない。ダンスだけが卓越していると思われた彼女が、演技での表現力が急伸、歌唱力も相当なレベルまで達した道筋は、本当にみごとだった。星奈だってエスプリホールで、貴城けいと合同の形でだったがディナーショーをやった。しかしそれらは、トップに長くいることへで勝ち得たものだったり、卓越した技量に敬意を表わし退団を惜しむものだったり、トップに準じる地位に甘んじていることへの一種のお詫びに近い配慮のようなもののように思えた。白城と麻乃が二人でディナーショー「So long」をもてたのも、麻乃の退団を惜しむのと、白城が娘役としての大きさを増していることを喜ぶという両方であり、あるいはやや斜に見ればどちらをも目立たなくさせるためのジョイントだったように思える。
つまり、相対的にこの数年間に娘役の地位が上がってきたというのではなく、たまたま力のあるトップ娘役が続けて出てきたということに過ぎないようだ。彼女たちの個々の力量や在位の長さによって、徐々に地位が積み上げられてきただけで、それは個々人の中にしか蓄積されていないということかもしれない。実際のところ大鳥も檀も、トップ娘役としての茨の道のステップを第一段から踏み分けているように思える。最も保守的なのは、ファンなのかもしれない。たとえば、娘役が出てきた時、娘役の歌が終わった時に拍手をすることに、客席はひどく臆病なように思える。また、ヒソヒソ話やインターネットの一部サイトで交わされる、新たに就いたトップ娘役に対する悪意に満ちた中傷の数々が、彼女たちのひたむきで懸命な熱意を削ぐことにならねばいいがと願うばかりだ。
さて、トップとトップ娘役は、宝塚では恋に陥ることになっている。しかしながら、鶴岡英理子さんが月組全国ツアー「うたかたの恋」について、「上手と下手から二人が登場してくれば、もうこの二人は恋に落ちてあたりまえ」であるはずなのに「真琴&檀にはその格がない」と断じておられるように(「美しい世界への近道」、『宝塚アカデミア』8所収)、劇の空気をア・プリオリに決定づける濃密さを、すべてのトップ娘役が現時点で獲得しているわけではないことは、やはり物足りないといわざるを得ない。この濃密さとは、技術的には視線の熱さと共に、相手役と相対した時の立ち位置、それによって自動的に決定される身体の角度、背の反りなどから生み出されるものだと思う。そのようにテクニカルに解決できる弱点であれば、すぐに改善されるはず/べきであって、さほど深刻ではない。
しかしぼくが本当に危惧しているのは、「夢・シェイクスピア」の公演評でもやや中途半端な形でふれたが、これが宝塚全般のナチュラル化によるものではないかということだ。ヒーローとヒロインが出会って視線が交差した途端、甘やかな音楽と共にスポットライトが二人に当たり、二人の瞳に光るハートマーク……そのような光景が本当に目の前で展開されてしまえば、ぼくたちは「ケッ」と唾棄するかもしれないが、実は「WEST SIDE STORY」の体育館のダンスシーンでの出会いが大ざっぱにいえばそうだったように、ぼくたちはこのようなステレオタイプをこそ待望しているのではなかったか。
確かに月組「うたかたの恋」では、まだトップ披露だったということでそんな濃密さを期待するのは酷だったかもしれないが、また冒頭の指摘に戻れば、八年間も何をやってきたんだろう、また相手のトップスターもどうしてなんだろう、と首を傾げたくなってしまう。檀も大鳥も、月影でさえも、男役の胸に飛び込み、すべてを委ねることに、ちょっと臆病なのかもしれない。もちろん、受け止める男役の方の問題も指摘しなければ不公平になるだろう。刹那の激情に身を委ね、何も考えずに飛び込んでしまった後で、おそらくは悲劇に終わるドラマが始まる。そんなどうにもしようがない運命を綴っていくのが、宝塚のトップコンビに寄せられた期待ではないかと思うのだが。それをさらりと流していくような、日常性に立脚した作劇が増え、それが持ち味であるような生徒が増えてしまうと、芝居の方はまだしも、ショーのしっとりしたデュエットダンスなどはどうなってしまうのかと、心配になる。
時折微笑ましく思うのが、新人公演で若手の娘役が本役の上級生(下級生であったりすることもあるが)の発声、口調、抑揚、表情……すべてをそっくりに真似ているような時だ。紺野まひるが月影、綾咲成美が陵あきの、南城ひかりが風花にそっくりだったことなどを、今すぐ思い出すことができる。さまざまな形で宝塚の娘役らしさというものが継承され、あるいは否定されたり追い越されたりするのだろう。率直にいって、他の筆者も言及されるだろうが、次の娘役がなかなか育っていないように思える今、現在のトップ娘役は、次回作の出来と共に、次代の娘役たちにどんな背中を見せていられるかが、大きな課題となっていると思う。
宝塚のファンも少しずつ変わっている。「夜明けの序曲」を喜ぶファンが少なかったのは、生徒のせいというよりは、女性の意識が十数年の内に変わっていたことと、作品の中に流れている錯誤を演出や演技という装置によって隠蔽できなかったことによるといえよう。概して宝塚歌劇の女性観は、おそらく女性観客を意識した制作側の、そして観客自らの牽制または自制によって、けっこう保守的だといえよう。それでも今後は女性をタイトルロールとした作品が増えたり、娘役がひじょうに大きな役割を果たす作品が増えたりするだろう。既にその萌芽はある。今がその過渡期であるとしたら、それに立ち合うことのできる生徒もぼくたちも、ひじょうに幸せだ。その幸せを、上手に育てて、次の時代に渡していこう。
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