阪神大震災に関連して
夢
と 幻
に 見
た 街
−思い浮かぶこと/忘れていくこと−
震災を機に創刊された雑誌「Re・set
KOBE」第2号(1995年4月)に掲載された文章です。
その後、「想像力の敗北」という言葉の使い方が、なんだかステレオタイプだったなと反省もし、
訂正もしたいのですが、直後の思いの一つのありようとして、あえてこのまま掲載しておきます。
ぼくは神戸市東灘区の、最近は何だかすっかり有名になってしまった魚崎というところに住んでいる。震災から一時期、そう呼んでよいのかどうかあやふやだが、妙な既視感に襲われた。やっと無事残っている建物(家でもマンションでも)を見たときに、「これが潰れているのを見たことがある」という気になってしまったのだ。眼の中でそれが潰れていくというわけでもない、ただある建物を見たときにそれが潰れた姿をかつて眼にしていたことをはっきりと、「思い出して」いたようなのだ。過去を見ていたのでもなければ、未来を見通しているのでもない(はずだ)。それが壊れていても不思議ではなかったなどと思っているわけでもない。うまく説明できそうにないのが残念だが、その時を追うと、こうなるだろう――ある建物を見る、崩れずにいたことにホッとする、それが崩れた形を見たことがあるようで訝しくなる、ふとそれが本当は壊れていないことに気づき再びホッとすると同時に他の多くが崩れていることを再び悲しむ。
既視感=デジャビュ。手近な辞書によると「一度も経験したことのないことが、いつかどこかで既に経験したことであるかのように感じられること」。大概は視覚的な経験として現れる。劇的でも印象的でもない、何気ない日常の一齣が反復されることで、現在のありかが途端に不安定になってしまう。デジャビュの出現の瞬間とは奇妙なものだ。自身の存在の形がクラインの壷のように無限循環を起こしていそうで、やりきれなくなる。またぞろ同じ時間を繰り返さなければいけないのか、この大して取り柄のない些細な人生を。 家の周囲では、古い木造家屋のほとんどがペシャンコに潰れ、鉄筋のマンションやビルもいわゆる「座屈」を起こしている。不思議なもので、戸建ての家には、顔があるように見える。窓が眼のように、玄関が口のように、屋根が頭のように見え、それが横にあるいは前のめりに倒れているのは、家というまるで人格を持ってしまったそれが、一瞬の内に崩れ、しかもその内側に少なからぬ家主らを押し潰してしまったこと、さぞや無念であったろうと推し量ると、街がその無念に満ちているのが伝わり、歩くことが苦痛である。
そうして潰れたり斜めに傾いだりしているものばかりを見ていると、多くの人が言っていることでもあるが、平衡感覚がおかしくなってしまう。視界に入るもののどれかが傾いでいてどれかがまっすぐなのだろうが、性能の悪い魚眼レンズでもはめてしまったかのように、すべてがてんでな方向に歪んでいるように見える。やがては足の裏の地面自体が歪んでいるような感覚に襲われるのだが、じっさいアスファルトにはたくさんの亀裂が走って凸凹しているのだから、始末に負えない。
さて、ここまで幻視(イリュージョン、ヴィジョン)に類することは語ってきたが、本稿のテーマとして与えられたファンタジーには至らない。ファンタジー、幻想また夢。再び手近の、今度は英和辞典によると、取り留めもない想像、空想、幻想、白日夢、気まぐれ、酔狂、空想的作品、とある。しかし、ファンタジーといって、誰が悪夢を思おうか。ファンタスティックという言葉もあり、昔はファンタという清涼飲料のCMのコピーに使われたりもしていたのだが、「夢みたいにおいしい」ことを言いたかったわけで、そこに悪夢のニュアンスのはいる余地はなかったはずだ。
白日夢ならどうか? 起きたのが夜明け前だったとはいえ、これほどの現実に対しても多くの人が「夢だったんじゃないか、と今でも思うよ」などと、地震の直後から語っていたのを何度か耳にした。ぼく自身も何度か口にしたように思う。夢だったわけなどないことはみんな知っているのに、ふと目を開けると潰れていたはずの筋向かいの家が元通りに建っていて「なぁんだ、夢だったのか」と呟けるような気が、今でもする。
こう書くこと自体が一種の紛らしでしかないことも知っている。駅までいつも通っていたわずか数分の道を歩いて見えるのは、毎朝挨拶を交わしていたおばあちゃんや、小学校の同期の奴の奥さんと子ども、酒屋のおばあさん、小さな庭のような空き地を畑にして菜っぱやトマトを育てていたおじいさん……彼らのために供えられた花束やお菓子や小さな人形なのだ。いまぼくが目を閉じて、それらの人々の姿を思う。そしてふと目を開くと、その人たちがいない現実がある。そういうことだ。
大江健三郎氏は、知的な発達に障害のある息子の光さんが夢を見ないらしいことを気にかけていた。大江氏一流の愉快なエピソードを、ちょっと長くなるが引用しよう。
私どもは彼に夢というものを教えようともしたわけなのです。特に私は、一時期、それを熱心にやりました。光のことをプーちゃんと呼んでいるのですが、いろいろ話しか けたものです。「プーちゃん、夜のお薬を飲んでベッドに入るでしょ。それからFMを 聞いて、しばらくたつと眠るねえ。そして、気がついてみると、ベッドの横にカンガルーが坐っていてさ。そのカンガルーが前脚で、ベッドのこちら側の、君の右足をこんなふうに持って、匂いを嗅いだりしていないかい? それが夢ですよ」といったりもしました。
光は不機嫌になりまして、こう、極端に横を向いている。それでもやり始めたことですからね、「どう思う、どう思う?」と何度も聞きましたら、「このあたりには、カンガルーはいないと思います」(笑)。ほぼこのように、夢と光は相容れないのでした。 」(昨年10月の講演「新しい光の音楽と深まりについて」から。岩波新書『あいまいな日本の私』1995、所収)
いまぼくは、光さんの二枚目のCD『大江光ふたたび』に収められたヴァイオリン曲「夢」を聞いている。ピアノ曲ばかり書いてきた光さんが初めて手がけたヴァイオリン曲である。長調から短調に転じ再び長調に戻るソナタ形式の小品だ。和音の分散や音階を基調とした平凡な曲だと、意地の悪い人は言うかもしれない。不思議なもので、転調というのはありきたりの技法ではあろうが、同じメロディが短長を変えるとき、世界がひっくり返ったような眩暈を感じることがある。この曲がその眩暈を伴っていることについて、その由来を明確に説明するのは難しい。これについても健三郎氏の解説を引こう。
このタイトルのある楽譜を見せられた時、私と家内は喜びました。ところが録音のための演奏を聴いた際には、ヴァイオリンとピアノの曲ですけれども、新しい思いに捉えられたように思います。それがどういう音楽かと言葉にするなら、魂が泣き叫んでいるような音楽だという気持がします。暗い魂があって、それが泣き叫んでいる。その声が聞こえるといった方が、もっと正確かもしれません。(中略)この暗い魂が泣き叫ぶ声と聞こえるものは、どこから来たか? それは、やはり光の内面から来ているにちがいないのです。(前掲書から)
光さんが夢を思いめぐらすことで生まれた作品や、CDに収められたほかの作品から、ぼくたちは健三郎氏と同じように(とまでは行かないかもしれないが)暗い魂の叫びを聞く。夢はいつもぼくたちの魂を暗がりから地上に誘い出し、思いもかけない姿を露わにしてくれるということなのかもしれない。
地震から二ヶ月近くたったある夜、初めて夢に地震で壊れた街を見た。それまではおそらく、夢の中の街は地震の前の、壊れた家もひび割れた道も斜めに倒れた電柱もない、普通の風景だったはずだが、その夢ではアスファルトの道路のひび割れや家並みの歪みを見た。普通なら、家並みや道路は、夢で展開される出来事の背景として、気にとめない存在であるはずだ。いわゆる風景である。ところが、その夢ではそこでは何も起きはしなかった。ただそれらの風景が主題として次々に現れた。いわば最近新聞各社から出された震災の写真集のオートスライドショーみたいなものだ。
それを風景とは呼べない。ふだん電車に乗っていて、車窓に見える景色をぼーっと目にしていられるのは、それがニュートラルだからだ。いまぼくが阪神電車に乗っていて見える景色は、風景として後退していくものではなく、惨状として、悲劇として正面から迫ってくるものだ。そのたびにぼくはぼくの街がこのようになったことを悲しみ、その場所で生じた悲しみを思い、数々の不詳の悲劇に胸が塞がる。
不詳の悲劇、ぼくは一月十七日以降に展開された五千数百の死やその他の悲劇をすべて知っているわけではない。人が一人で受け止められる悲劇の上限は決まっているのだろうか。家族を喪い、家屋を失うことのなかったぼくでさえ、ただ街を歩いているだけで量として迫る悲劇の総体に押し潰されそうになる。まして身内や育った家を失った人ならどうだろう。感情をある地点からシャットアウトする以外に、生き延びる道はあるまい。
避難所で何人かのお年寄りに接した。一人は「次の福知山行きは何時ですか?」と何度も訊ね、もう一人は部屋で疳の虫を起こしている他人の赤ちゃんに「○○ちゃん、何をむずかっとるんかねぇ」と、おそらくは自分の孫の名を呼んであやそうとしていた。彼女たちは、この震災という外部からの刺激を、なかったことにして拒否あるいは無視することで乗り切ろうとし、結果的に痴呆が進んでしまったのだろう。やや話は逸れるが、もう一人の老婆はおむつがずれて気持ちが悪いと訴えていた。ぼくたちが様子を見ると、おむつカバーもなく、ただ成人用のおしめが当てられているだけだった。これではずれるのも当然で、おむつカバーもなかったのかと憤っていると、傍らの男性が「いいんです、しょうがないんです」と言うので、「身内の方ですか?」と訊くと息子だと言う。母親がそのように苦しみ、人間の最低の条件(尊厳という言葉を使うのがこわいほどに)を失わんかとするほどの窮状にあって、ただ手を拱いているしかないほどのショックを、この家族は受けてしまったのかと思い、共に泣くことすらできなかった。
歌の文句ではないが、泣いてもどうにもならない神戸である。いまは神戸という文字の並びを見るだけでせきあげてくるものがある。ぼくの神戸がこんなになってしまったことの切なさ。ぼく(たち)は神戸の街が好きだった。しかしそれは何によってだったろうか。たとえば「神戸っ子」という言葉がある。「ご出身は?」と訊かれて「神戸の方です」と自分を神戸にアイデンティファイできる三木市民、明石市民ら、すべてが神戸っ子であるが、決してそれは神戸「市民」である必要はなかった。神戸は行政区域に限定されない。そして自明のことだったわけだが、神戸は行政に多くを求められる街ではなかった。人々が、ぼくたちがその魅力をつくってきた神戸だった。閑話休題。
想像を超える現実があったことについては、ぼくたちは想像力の敗北を認めるしかない。震災の後、東京壱組という劇団の芝居を見た。それは巨大な隕石が近づいて地球があと何時間かで破滅するという設定だった。こんなことさえなければ、よくできた夢物語として楽しむこともできたろう。しかし、あの後で、世界の終わりの物語を見るのはむなしい。ぼくたちは世界が終わろうかとする光景を目の当たりにしてしまったわけで、そこからリュックを背負ってやってきたのだ。グリムやペローのおかげで、ぼくたちは想像しうる以上に残酷だったり悲しかったりする物語の存在を知っているが、自然の現象のように邪気のない、ただ破壊するだけの営みがすぐ近くに展開されるとは意外だった。やられた。
やさしいだけじゃないけど
1995年の4月末に書いて、Reset編集部の人に送ったのですが、何かの手違いで載らなかった文章です。ちょっとおセンチかもしれませんが、震災のあとの気分が出ていると思っています。
まもなくあの日から百日だそうですが、今ほど神戸の街がやさしく見えるときは、これまでなかったように思います。
先週末、ちょっと東京へ行って来ました。新神戸オリエンタル劇場で上演されるはずだったグローブ座シアターの「ハムレット」のチケットが、思わぬところから(ニフティのオンラインチケットで)入り、ちょうど妻もそろそろ実家に顔を見せに行かなくちゃなどと言っていたところだったので、思い切って、ぼくは一泊しかできないからもったいないけど、行って来たのでした。例の事件のせいで東京は電車に乗っても地下を歩いていても、人々がそれぞれ疑心暗鬼で、目が暗く、神戸とは違った形ながらやりきれない思いを持ちました。「神戸から東京へなんて、地獄めぐりやね」などと妻と笑っていたのですが。
そして今日、あぁ、もう昨日になってしまいましたが月曜の夜、短大図書館に勤務しているぼくは、学生用の就職関連の本を探しにジュンク堂へ寄ろうかと、三宮で途中下車したのでした。もう8時までやってるんじゃないかと思って。ところが、ご承知のように、センター街はまだほとんど7時までだったんですね。目的は果たせませんでした。
さんちかのコーベブックスのところから住友銀行の脇へ上がる階段を昇ってふと西の方を見ると、人通りも少なく、アーケードもないセンター街です。そこでぼくは、まるでこれは何かやさしい動物、そう、象のような動物がもう瀕死の状態で、でも最後の力をふりしぼってぼくたちに鼻を使って水をかけてくれているような、そんなやさしい光景を見たような気がしたのです。
前の週でしたか、いくたロードのドゥ・アシセという、ビルの8階にある店で妻と(強調せんでもええか)お酒を飲んでいました。眼下には崩れかけたさんプラザが見えました。それも、必死で崩落をこらえている姿のように見え、どうにも陽気な酒にはなりませんでした。その店はどうもまだ水もガスも通っていないようで、お通しに鰹のタタキが出てきたのは、一種の感激です。火を使ったものが出せないからと言って、別にピーナッツやジャイアントコーンでもいいものを、何か喜ばせようと思ってだろう、そんなものを出してくれるというのは、なかなか大したもんではないですか?
朝は時間の都合からやむなくJRを使いますが、帰りは阪神の一日も早い復旧を祈って、阪神の回数券を買って阪急−阪神を御影で乗り継いで帰ります。いつもは御影で阪急から阪神まで、下り坂だということもあって歩いているのですが、今日は東京での強行軍がたたったのかどうにも疲れていて、代替バスに乗りました。阪急御影からちょっと西へ出たバス乗り場で、アルバイトだか若い社員だか、かわいい女性やらかわいい男性やらが口々に「西宮北口行きです。ご利用ありがとうございます」などと言ってくれているのには、本当に申し訳ない思いがしました。何時間の担当だか知らないけれど、空気の悪いところで、ことさらに大きな声を出さなくてもいいのに、そんな風に一人一人の乗客に声をかけてくれて。JRの全面開通による私鉄離れがささやかれている中、確かに半ば意固地に私鉄を使い続けている乗客の一人一人は本当に大切だと感じることができるのでしょう。乗客一人一人の利用によって自分たちが支えられているということが実感できる、おそらくは稀なチャンスだったようです。
ぼくにとってもそうです。4月の入学式を終え、講義が開始されて学生が徐々に図書館へ顔を出すようになり、新入生がおずおずと検索用コンピュータに触れたり、ビデオを見たりするようになって、フロアでの案内に忙しくなったとき、ぼくはしみじみと、再びこうして図書館という自分の職場に学生を迎えることができるという喜びを感じ、茫然としてしまいそうになりました。こんなことは、今年が初めてでした。
代替バスを降りるとき、後ろから来た人にすっと先を譲ることができました。負けん気の強いぼくには珍しいことです。きっとやさしさは伝染します。「やさしい街」なんていう妙なコピーはまっぴら御免という気もしますが、一方でそんな言葉にも表わしきれないようなやさしさのありがたさを日々実感している今日この頃です。
死 蔵
パフォーマーのフルカワトシマサが<経営>しているクライン文庫という古書店の目録に寄せた文章です。いい本屋さんです。
神保町のN書店で、日本の近代詩に関するちょっと入手が難しいものを何冊か購入していた時期があって、店に入るとおやじが「こんなのが入ったんだけどね」と声をかけてくれたりしていた。そのころぼくはゆくゆくは大学院へ行き、「国文学の徒」になろうと思っていた。
ある日、角川の『日本近代詩論の研究』という本を、まあずいぶんな値段で買った時のことだ。おやじがふと改まって「将来、こういう研究を止すことがあったらね、まぁそんなことは考えてないだろうけどさ、この手の本はまた古本屋に売ってよね」と言ったのだ。次に来る研究者たちのために、このような本は引き継いでいかなければならない、「死蔵」してはならない、というわけだ。
いまぼくは近代詩研究から遥か遠く、詩を読むことからさえもかなり遠くに離れてしまった。それでも「新体詩抄」や蒲原有明やらに没頭していた日々が懐しく、それらの本はただ背を眺められるだけの存在として死蔵されている。しかし、自分勝手な言いぐさかもしれないが、背を眺めることで、その日々を思い出すことができるわけで、既に本はそこに書かれた内容に留まってはいない。
*
震災の翌日、御影浜のLPGタンクからガスが漏れ、引火、爆発の恐れがあるというので、徒歩で二時間近くの高校まで避難した。その帰路、ごみの回収場に紐で括られて本がたくさん捨てられているのを見た。参考書、漫画、雑誌、文庫本、絵本、さまざまな本があった。本はかさばる。足の踏み場のなくなった家の中で、とりあえずの生活のスペースを確保するために、当面不要の雑誌や本を処分するというのは、けっこう思いつきやすい方策だった。その週末の雨で、それらの本は濡れてしまったはずだ。
壊れた家の前に小さな本棚と子どものものらしき本が数冊並べられていたのも見た。誰か危険を冒して本棚と本を運び出した人がいたのだ。一画に花が供えられていたが、本の持ち主は再びページをめくることができたのだろうか。
*
避難している間、自宅が火に包まれている光景が何度もよぎった。棚にびっしりと詰まった本が火に包まれる時、それは蒸し焼きのように原型をきれいに留めて灰になるそうだ。
大学時代の恩師は泉鏡花の研究で名の知れた人だが、戦災で自宅を全焼した。火が収まって自宅の跡に急いだ彼は、そこに変わらずすくっと立った本棚を目にし、わが目を疑った。よくぞ残ってくれたと駆け寄った彼の手に触れた本は、ほろほろと、ただほろほろと崩れたという。鏡花や硯友社の人々の初版本がまさに灰となったわけだ。しかしこの時それらの本が灰となったことで、かえって彼の文学への思いに火がついたのではなかったか。紙や文字は火に巻かれて形を失い、そのことで記憶に強く残ることになった。脳裡で蘇るそれら本や活字の形、文章の香気は、形を失っただけに強く眩暈を促したかも知れない。
本はいつ死を迎えるのか。形を失っても、記憶に残っている限りその本は死んだとはいえまい。いま、燃えて持ち主の記憶にだけ残っている本もあるだろう。持ち主と共に形を失った本もある。その記憶もまたどこかに蔵され、いつかまた引き出されるはずだ。
記憶は、いつも。メモリアルウォークに参加して
ぼくが『阪神・淡路大震災6周年 1.17ひょうごメモリアルウォーク2001』に参加しようと思ったのは、震災の直後に魚崎から元町まで歩いたことがあって、それを追体験してみようと思ったからだ。思い返せば、その時は「元町あたりがずいぶん戻ってきたらしいから」という物見の心で行ったわけだが、今回だってさして変わりはない。10km歩くこと自体に興味があったし、県の公館で行われてきた式典が初めて市民参加の形式で行われるということにも興味があった。
芦屋の川西公園に定刻を少し遅れて入ると、もう1000人近い人でいっぱいで、用意しているはずの参加パスポートなども既になくなっていた。主催者側も、少々少なめに見積もっていたわけだ。確かに、平日、寒い、6年目という中途半端さ、大学生は試験前、と悪条件がそろっていた。それでも、公式発表にしたがえば1100人という芦屋からの参加者数は、ある意味では異様なほどに多かったというべきだろう。
はたして、自分たちも含め、道中は折からの寒風にもかかわらず、なんだかのんびりしたものだったように思う。参加者のいでたちがいわゆる被災者ルックだったのは、出かけるときに自分たちで可笑しがっていたので予想されたとはいえ、ある種の緊迫感を漂わせるのは、取材陣の多さと慌しさで、往時を偲ばせた最大のものはヘリコプターの爆音、これにはさすがにいやな思いがよみがえった。あとは交通整理等に当たってくださったボランティアの方のさわやかさで、これも往時の、たとえば代替バスや街角での炊き出しやら、いろいろなことが思い出された。
のんびりさを増幅させたのには、参加者の会話がほとんど過去形で語られているように聞こえたことが大きい。確かに、道中目に入る震災の爪痕といっても、更地がせいぜいで、更地ぐらいどの街でも見ることはできる。もちろん、とっくに、あの風景が更地になり、新築の住居になるだけの時間は、おおむね、過ぎているように見えていた。
妻が小声で「前のおじさん、数珠持ってるよ」と教えてくれたので、その人の手許に目をやった。他人が詮索する種類の物語ではないが、この歩みの一歩一歩がその人にとって、ぼくとは違う重みと痛みを持っているであろうことを、改めて気づいた。今日は多くの人にとって、ご命日に当たることを、忘れかけていた自分に、改めて気づいた。ひどい話だ。
12月末に見た、日本を代表するパフォーマンス・ユニットdumb typeの「メモランダム」という作品で印象的だったのは、女性3人、男性2人のダンサーが踊った美しいパートだった。男性が1人少ないという現われによって、ぼくたちは彼らが1人の重要なメンバーを失ったことを否応なく想起させられた。記憶は、いつも喪失をめぐっている。あの日に起きたことを記憶することよりも、あの日に失ったものを記憶し続けておくことのほうが、ぼくたちにとってはずっと大切だ。ゴール地点に建設されるメモリアルセンターと仮称されるその施設は、どのように喪失を抱え込むことができるのだろうか。ただ柔らかに、ともに踏みしめるための施設であってほしい。(2001年1月23日、「なまず」のために)
© Shozo Jonen 1997-2001, 上念省三