嵐が丘 春櫻賦 Icarus
Kお茶会報告 心中・恋の大和路 浅茅が宿 凍てついた明日
バッカスと呼ばれた男/華麗なる千拍子'99 ささら笹舟
デパートメント・ストア/凱旋門 月夜歌聲 エンカレッジ・コンサート
猛き黄金の国/パッサージュ Over the Moon 追憶のバルセロナ
紺野まひるへのいいわけ アメリカン・パイ さすらいの果てに(音月)
睡れる月 霧のミラノ/ワンダーランド Daytime Hustler
銀の狼/ワンダーランド アルバトロス 堕天使の涙/タランテラ! 
さよなら舞風りら ベルサイユのばら ノン・ノン・シュガー!!


「ノン・ノン・シュガー!!

 ‘60年代アメリカのライブハウスを舞台に、世界一のロックンローラーになりたいという夢を持つ前座歌手兼ボーイのジョニー(音月桂)は、看板スターのキング・ビート(萬あきら。専科)の自分本位と思えるような女性関係と圧倒的な音楽に間近にふれ、憧れまた反発する。そんな彼の前にアクシデントのように現れたのは、バイオリンの世界的なコンクールに出場することになっているお嬢様シェイラ(大月さゆ)。1月の星組『Halellujah Go! Go!』がダンスだったのに対して歌、’70年代に対して’60年代とはいえ、謎めいたお嬢様的ヒロインの存在、芸能界でのアメリカンドリーム、現代の場面で本編を挟む額縁設定と、設定や趣向が似ているのがやや気になったが、主役コンビの個性の違いや脇役の充実で、見どころ満点のレベルの高い舞台になった。

 音月桂の持ち味である陽性の魅力に、暗い影を落としているのが、二人の女性の自殺という出来事だ。一人はジョニーの母マリア(美穂圭子)。男に捨てられて、沁み入るような静かな歌を歌った後の投身自殺。美穂の歌唱力が生み出した静謐さに、息子への思いと悲哀があふれ、切なくやりきれない名場面となった。

  母がそうやって死んでいったから、同じように自ら死を選んだキングの愛人・ザザ(舞咲りん)の出来事に、ジョニーは人一倍鋭く反応したに違いない。「俺たちはいい大人だ。このままカッコよく別れよう」と、あくまでクールに自分のスタイルこだわって別れを告げるキングにの前では、結局はそれを受け入れるように振る舞い、実は死を決意して睡眠薬をのむ。ドスをきかせてキングに迫ったり、わが身の不幸を嘆いたり、死を決意して微笑んだりと、舞咲が多彩な表情、振幅の大きな演技力を遺憾なく発揮し、ドラマの重要なポイントを際立たせ、劇の重要な筋を作り上げたといえよう。

 ザザの死の次の日もいつものようにステージに立つというキングに、ジョニーはせめて今日だけは中止にするよう詰め寄るが、キングは「自分の感情に流されることは許されない」と言い放ち、いつもに増して熱いステージを繰り広げる。この萬は迫力満点。それを目の当たりにしたことが大きな契機となったのか、ジョニーは音楽の道を諦め、後に小説家になった。舞台人としての義務に自我を殺すのではなく、個人の悲哀に目を向けたいという志向の当然の帰結であると思われ、説得力があった。

 ただ、この劇は現代(1995年に設定されている)から30年前を回想する構成となっており、現代のジョニーを沙央くらまが演じているのが、劇の大枠をわかりにくくしているように思う。なぜ現代のジョニーを音月にそのまま演じさせなかったか、よくわからない。音月が大人を演じられないわけはないし、沙央の扱いも、これがふさわしいとは思えなかった。沙央はエアギター風の音楽のノリもよく、登場人物の30年後の姿を紹介する役回りも器用にこなし、もう少し大きな役で見たかった。

 音月はもちろん歌も動きもよく、ちょっとやんちゃで夢多き青年を好演した。序盤の歌でちょっと行儀がよすぎるような気もしたが、徐々に自由闊達になり、動きや歌いぶりに大きさが出てきた。店のマスターのムース(奏乃はると)に叱られてブツブツこぼしている姿や、入りの遅れたキングに代って「You're My Distiny」を歌おうとしてボロボロですぐに引っ込むずっこけぶりなど、ちょっとユーモラスでチャーミングな姿と、夢や母への思いを語り、シェイラに夢をあきらめるなと諭すシリアスな姿と、いずれも若々しい好青年ぶりが新鮮だった。

 大月は気の強さを装っているお嬢様ぶりを好演。牧師役の朝風れいはちょっとやりすぎの感もあったが、面白いアクセント。絵に描いたようなお坊っちゃまK・BOY役の蓮城まこととその恋人ビビ(愛加あゆ)との組合せはコミカルで楽しかった。少年時代のジョニー(桃花ひな)も母との別れの場面での熱演が愛らしい姿で涙を誘った。 (20072月)

ベルサイユのばら

 フェルゼンはともかく、マリー・アントワネットの出てこない「ベルばら」なんて…と驚くが、既にぼくたちは「オスカルは死にました」を経験しているのだから、これで「おあいこ」というわけだ。少々のことでは驚かない。しかし、この「ベルばら」の奇妙さについては、おそらく他の筆者が丁寧にたどってくれているだろうから、ここではそういうことは措いて、まずはすばらしかった脇役たちを中心に思い返してみることにしよう。

 小公子では大湖せしるが、やはり愛らしさできわだった。女役、少年役という使われ方が続いているが、眼ざしの鋭さも群を抜いているので、きっちりした芝居をさせ、うまく育ててほしい逸材の一人。少年アンドレの愛原実花もアニメっぽい雰囲気もありかわいい。少女オスカルの早花まこは、剣を持っているときの表情がりりしく、いい役作りができていたようだ。

 壮一帆のジェローデルは、端正な姿はよいのだが、少々柄が小さいように見えたのが残念。育ちのよさから来る鷹揚さやものわかりのよさから、人柄の大きさが出てくればもっとよかった。音月桂、「どうせ俺等は面汚し」のジェロワールでは、やさぐれてドスがきいており、アランでは役の背景がよく見えてくるような暗めの鋭さがよく出ていて、見ごたえがあった。オーギュストの緒月遠麻のオスカルを慕い、瞳を輝かせる姿がりりしく美しかった。ダグー大佐の飛鳥裕もまた、朴訥な感じで芝居巧者ぶりを発揮した。ニコラスの悠なお輝も実直で、地味な役ではあるが印象を強く残す好演だった。

 シモーヌの美穂圭子は芝居の中の歌の力というものを余すところなく見せてくれた。エトワールもさすがとうならせる実力を見せた。ルイーズの天勢いづるは声の大きさが下町の女らしくて面白い。アランの妹ディアンヌ(山科愛)は、兄を思う気持ちのやさしさがしっとりと出ていて好演といってよいだろう。

 オスカルの姉オルタンスの愛耀子、第五場「ジャルジェ家の庭園」の花占いの歌などでは、少女時代とはいえさすがに少々無理があり、歯が浮きそうになったのはお気の毒。未来優希のベルナールはちょっと似合わなかったような印象。劇の流れからも、ロザリー(舞風りら)がオスカルの居間で「いよいよ明日はパリへの進駐。これだけはどうしても取り消すことは出来ないのですか」と言って、戻ってきた第二部第九場で「オスカルに連絡するのだ。パリに来るなと」と言ったのは、間が抜けているというか状況がよくわかっていない人のように見え、ずいぶん損をした。

 朝海ひかるは、星組でたった三日間の特出ながら、その美しさと凛々しさでまさにはまり役、この人にオスカルをさせるために宝塚歌劇は存在しているのか、と思わせるほどの鮮烈な印象を与えたオスカルで、満を持しての登場。衛兵隊に移ることをジェローデルに告げるところから第六場「我が名はオスカル」の名唱のあたりで、声音やセリフ回しがずいぶんと歌舞伎調というか、様式的であることに気づいた。笑い声をパーカションに合わすあたりなども、大きないい芝居である。新公評でもふれたように、この芝居はどうしても大時代的で様式的な演技が求められるようだ。それは、架空の男装の麗人であるオスカルという現実的な日常性を超えた存在が求めるスケールの大きさ、フランス革命という歴史的事実が求める大きさ、その両者によってドラマの枠組みが大変大きなものとなり、大ざっぱな展開や無理のある設定も含めて、ざくざくとした大きな演技が求められるということなのだろう。話題となったペガサスにまたがるシーンにしても、喜びと自信に満ちた表情に気押されてすべてを納得させてしまうような剛力である。

そう思ってみていると、水夏希もまた、セリフや動きの間の取り方が絶妙であった。アンドレにしてもアランにしても、貴族的な上品さとは対極の荒々しさの中に純真な情熱が見える役どころを、まことにふさわしく好演したといえるだろう。

 そんな中にあって、ロザリーの舞風が自然な挙措をとっていたのがまた好印象。逆にロザリーという存在が、このドラマの中では日常的で現実的であることを十分に咀嚼した上での演技、役作りであったといえるだろう。舞風は出番も少なく無理のある芝居を強いられた中でも、心の揺れや強さを可憐に表現しきったようだった。舞風がそういう演技ができただけに、第二部第七場でのオスカルに対する「好きです。好きなんです」うんぬんのセリフは余計。言わなくても既に十分に、少なくとも客席には伝わっているし、口に出すことで逆に劇の緊張感が薄れ、オスカルさえもちょっと鈍いおバカなようにみえてしまったのではないか。この二人なら、ただ二人で踊らせていれば作家が言葉で語らせる以上のことを余すことなく雄弁に物語ってくれただろうに、どうしても言葉で埋めてしまおうとする。やはり植田−谷は植田−谷であった。     (2006年)

優雅に、可憐に、もどかしく〜舞風りらを見つづけて

 エリザベートもしなかったし、『ベルサイユのばら』をやったのにマリー・アントワネットに当たらなかった。タイトルロールは一つもない。主演娘役4年余りというのは昨今では短くないし、朝海ひかると同時トップ就任、同時退団というのも、考えようによっては恵まれた娘役だ。なのに、いわゆる大役がない。それが舞風の舞風らしいところだったというべきなのだろう。

 音楽学校卒業時の成績がトップだったということで、入団当時からずいぶん注目されていたようで、初舞台の『国境のない地図』(1995)のダンスシーンでも蘭香レアと共に目立った位置をもらっていたのを覚えている。すぐに新人公演でも大きな役がついて、バウ公演『香港夜想曲』(1996。主演・香寿たつき)で主演、続いて新人公演『失われた楽園』(1997。主演・春野寿美礼、本役・千ほさち)で初ヒロイン、間を置かず19974月にはバウ公演『君に恋してラビリンス!』(主演・初風緑、伊織直加)で大鳥れいと娘役ダブル主演と、慌ただしいほどの急速な抜擢ぶりであった。

 それでも、もどかしさのようなものがなかったわけではない。そのペースで行けば、入団4年目ぐらいでトップになっていてもおかしくはなかった。しかし、そのころの舞風は、記憶をたどれば、ダンスはすばらしいが、歌はやや弱く、演技も発声がちょっと浮き気味なのが気になるが若いわりにはできているほうかな、という程度であったように思う。何より、はかなげで今一つ押しが弱いという印象がついて回った。ダンスでは鈴懸三由岐と対で使われることも多く、それはそれですばらしいものだったのだが、ダンスのエキスパートとして残っていく人なのかな、せっかくこれだけ愛らしい容姿があるのにトップには就かないのかな、と思うようなこともあった。

 当時の花組は、1994年入団の千ほさちが月組から1996年に替わってきてトップに就き、1998年に退団の後、1993年入団の大鳥れいが1999年から2003年までトップの座にあるという時期だった。いろいろな要因が舞風のトップ就任を遅らせたのだろうが、歌や演技でのもう一段の伸びが期待されていたというところだったのだろう。

 それはただ、技術面でのことだけではなかったように思う。先ほど「押しが弱い」と書いたが、男役に対してだけでなく、相手があると必ず引いてしまうような印象があった。控えめといえばそういうことだし、あくまで男役を立てるという娘役のあり方自体は、宝塚には当然ありうるものだと思われはした。

 しかし、あの千ほさちは一種の別格としても、1999年当時といえば、大鳥れい(『夜明けの序曲』『タンゴ・アルゼンチーノ』)、星奈優里(WEST SIDE STORY』『我が愛は山の彼方に』)、月影瞳(『再会』『バッカスと呼ばれた男』)、風花舞(『黒い瞳』)、檀れい(『螺旋のオルフェ』)、花總まり(『激情』『エリザベート』)がトップ娘役。濃淡はあるが、強烈な個性や美点をもち、添え物ではなくどちらかというと押し出しの強い娘役がトップに就いていたといっていいだろう。そんな中で舞風をあえて抜擢してトップに就かせるのは、ちょっと難しいことだったのかもしれない。

 雪組に移り朝海ひかるとトップコンビを組めたことは、朝海にとっても舞風にとっても好ましいことだと思われた。2人もダンスの名手だし、小柄で顔が小さく、何より並んだときのバランスがよいだろうと。実際その通りとなったのだが、コンビを組んだ10作品(大劇場の『春麗の淡き光に』『Romance de Paris』『スサノオ』『青い鳥を捜して』『霧のミラノ』『ベルサイユのばら』『堕天使の涙』、その他の『あの日みた夢に』『睡れる月』『銀の狼』)を振り返ると、このコンビが恋人同士として向き合うという作品が案外少ないことに気づくだろう。ほのかな思いとか、すれ違いとか、複雑な二役とか、陰から慕い続けるとか、男役トップと堂々と対等に渡り合うのではなく、それを伝統的な宝塚の娘役というのかどうかは別として、控えめで一歩も二歩も引いた陰の存在であり続けた。しかし、そのことによって、両性的な魅力ももった朝海が、そのすべての魅力を最大限に発揮できたのだから、舞風としては「本望」だったのかもしれない。

 振り返れば、彼女が一貫して大切にしてきた(のだろう)その控え目さ加減がぼくたちに与えるもどかしさが、結局のところ男と女の関係や、人の希望や理想や野心のゆくえそのもののもどかしさとなって、ドラマの温度を数度高めていたのではなかっただろうか。ロザリーの同性ゆえの悔しさ、ミレイユ(『銀の狼』)の裏切られた悔しさ、大君や二宮(『睡れる月』)の不遇と不運など、どれをとっても、舞風の一見のはかなさや線の細さが、ドラマ全体を引き絞るような哀れさとなり、人の運命というものがどうしても思い通りにならないもどかしさとして、劇の興奮につながっていたように思い起こされる。

 それにしても、『ベルサイユのばら』の次のショーのある二本立ての公演で退団を、と決意したというコメントは、ぼくたちを喜ばせた。『堕天使の涙』は出番こそ少なかったものの、集中力を高めたすばらしい演技はおそらく彼女の最高の役作りだったと納得させたし、幸福感あふれる「光のパ・ド・ドゥ」でこれ以上ないデュエット・ダンスの魅力を披露してくれた。『タランテラ!』では、「風のように舞うリラの精」のようにと名づけられたという彼女の、まさに踊っていることが楽しくて幸せでしょうがないというような舞い姿は、本当にいつまでも見ていたいと思わせるものだった。本当に最後が軽やかに、優美に、高貴に、踊りきって魅力を発揮できる作品でよかった。東京での千秋楽の前日が誕生日だそうだが、新しい年輪の刻みをこのように迎えられるのも、きっと彼女にとって大きな喜びであることだろう。それでも控え目に喜ぶ彼女であるのだろうか。もどかしくも愛おしい存在であった。(200612月退団)

堕天使の涙/タランテラ!

 久しぶりに、宝塚で世間に通用する一級品を観たという満足感でいっぱいだ。宝塚を観たことのない人にも、毛嫌いしている人にも、これなら勧めることができる。ダンスも歌もストーリーも舞台美術も、かなりレベルが高く、芝居とショーに、いい意味で通底する一貫性が感じられる。もちろん、朝海ひかる舞風りら水夏希という三人の稀代のダンス・アクトレスが揃い、しかも朝海と舞風はサヨナラ公演と舞台は整っていたわけだが、それ以上に重厚な濃密さを持ちえたのは、植田景子、荻田浩一の二人の演出家の力量によるところが大きかったといえるだろう。

 『堕天使の涙』で朝海のルシファー(堕天使)が魅力的なのは、ダンスのすばらしさはもちろんのことながら、地上に降りてきて人間をどんどん醜い状態に陥れていきながらも、本当は神や愛や光を焦がれるほど追い求めていて、その純粋さが痛いほど切ないところにある。しかも、不器用というか、世界に対して何らかの形で働きかけることに臆病だ。それは神を誰よりも愛していながら人間に嫉妬し神の愛が見えなくなってしまったという設定によるわけだが、そのようなやや複雑な設定の存在のありようを、朝海はおそらくはほとんど直感的に把握して的確に演じきったといえるだろう。

 俗物や野心家の人間たちを陥れていい気味とほくそ笑んでいたルシファーが、不幸の只中にある人間が必ずしも神を呪うわけではないということを知って混乱し、人間とは何か、幸福とは、愛とは、神とはと苦悩する姿は美しい。さらにリリスという、彼にとっては謎そのものであるような存在が彼の、そして観る者の心を射抜く。ここにはルシファーとリリスの対面する愛(恋愛)は描かれていないが、さらに大きな愛の発見へと昇華してゆく契機が提示されている。このルシファーの心理と認識の変化を朝海は、もはや自分ではコントロールできない大きな流れとして、傍観者のように受け入れているように見えるが、その解釈はまことに的確だ。それがつまり、彼こそが神に愛された堕天使だということであり、神の思し召しの下にあるということなのだ。だから、最後にリリスと「光のパ・ドゥ・ドゥ」を踊ることができ、これによってこそリリスは天に召されたといえる。つまり、はからずもかどうか、ルシファーはリリスの守護天使のような存在となっていたわけだ。

 振付家ジャン=ポールの、ショーも含めてだが、久しぶりに彼女のダンスを堪能できたような気がした。朝海とのダンスシーンで見せるスピード、キレのよさ、形のシャープさは、ちょっと宝塚の域を超えていたように思われた。母ジュスティーヌ(五峰亜季)への激しい呪詛、いわゆる芸術家らしいだらしなさなど、人間の負の面ばかりを演じながらも決して下品にならない。妹リリスの絶命の場面の迫真の演技、ルシファーへの別離の言葉は非常に美しく、次期トップとしての充実ぶりが表われたといえよう。

 また、サヨナラ公演なのに舞風の出番が少なく、扱いが小さかったという声もあるようで、実際舞台の上にいた時間そのものは短かったかもしれない。だが、役の重要性、場面のインパクトの強さは出色で、『ベルサイユのばら』のロザリーとはわけが違う。朝海とのデュエット・ダンス「光のパ・ドゥ・ドゥ」は、本来リリスの作品ということもあり、対等の存在感であったといっていい。彼女の技術としっとりした情感を存分に発揮して、退団公演にふさわしいすばらしい作品となった。さすがは石井潤(新国立劇場)の振付である。はかなげでありながら運命を呪うことを克服した強さと心の美しさをもったヒロインとして、舞風のサヨナラにふさわしい人物像だった。

 スランプの作曲家エドモン(壮一帆)やアントン(飛鳥裕)、アンリ(未来優希)ら俗物たちの存在が、愛を求めるルシファー、良かれ悪しかれ芸術に生きるジャン=ポールと鮮やかな対照を描くのも面白い。彼らを詰めて描くことで、やや芝居の脇筋が膨らんでしまったきらいはあるが、彼らがおたおたしたり空威張りしたりする姿は印象的だった。壮がやや役柄が固定しているようで心配だが、また花組に戻れば新境地を開くこともできるだろう。

 全体的に黒い役が多い中で、悲しい好青年を演じたのがピアニストのセバスチャン音月桂とエドモンの弟子マルセルの彩那音。共にルシファーの仕掛けにはまった恋人や師によって裏切られるのだが、セバスチャンの堪えた寛容、マルセルの直線的な悔しさと怒りは感動的だった。

 教会のシスターは専科の高ひづる、副組長の灯奈美ら。共に実にしっとりと落ち着いた佇まいで、ルシファーを感動させるに十分な好演だったといえよう。高の三十数年の宝塚生活を締めくくるにふさわしい役どころとなった。同期の矢代鴻がショーで魅力を発揮したのも、はなむけか。

 幕開きで大劇場の観客そのものが劇場に招待されているような二重の設定にしたところから、いかにも植田景子らしい手の込んだ趣向であると期待できたが、ブルーローズの配し方、ボードレールの借用、リリス(悪魔)という命名、そして何よりも他ならぬ堕天使自身が救いを希求するさまを描き、おざなりなハッピーエンドにせずに最後は朝海を一人で去らせ、自ら神に対面するであろう道を選んだのはさすが。最後まで期待を裏切らない、充実した作品だった。

 ショー『タランテラ!』もまた、幕開きに工夫が凝らされるなど、演出家の造形意識が存分に発揮された。作りとしては、スパニッシュあり、サンバあり、と総花的な構成に見えるかもしれないが、二人のトップコンビ、特に朝海の魅力を余すことなく発揮することに成功した。特にコントラバスをバックにしたフィナーレのソロは、ちょっと別の次元のもののようだった。ルシファーではないが、どこか別の世界へと観る者を連れ去ってしまう。アルバトロス(あほうどり)に続いてのルシファーでありタランテラ(毒蜘蛛)である。

 ここで朝海は、アルバトロスの時のようにがむしゃらに踊りまくるのではなく、一つひとつの動きをファンの目に焼き付けるように、自らの見せるに値する動きを厳選して丁寧に見せてくれているように思う。個々の動きに対して、宝塚の朝海という存在をきっちりと自ら確認して身体に刻み込むように動いているように見える。彼女一流のゆっくりとした動きにますます磨きがかかっている。毎日の公演がサヨナラショーのような味わいをもっているといってもいいだろう。

 フィナーレで舞風朝海と同じ振付で踊るのも見どころである。舞風は必ずしも強いダンサーであるとは思わなかったし、不得手なジャンルもあるダンサーだと思うが、ここでは大向こうを唸らせるすばらしい動きを見せた。

 矢代未来美穂圭子らの歌の名手の扱いも適切で、ロケットの趣向やフィナーレの大階段をから下りさせるというのも驚き。最初から最後まで、わくわくどきどきしながら観ることのできるショーであった。

アルバトロス、南へ

 『アルバトロス、南へ』はぜひ観たいと思っていたので、まずは宝塚友の会の会員先行予約に申し込むことにした。2公演までしか申し込めないというので、会員優先販売の日と、ダメもとで大楽を申し込んで、数日後結果の問い合わせをするつもりが忘れていて、1週間ほどしたら例のオレンジ色の封筒が届いた。まさかと思うより以前に、ありえないと思っていたので「なんだろう」と思いながら開けたら『アルバトロス、南へ』と書いてある。やったー!

 8511時。うん? 最終日であるが、11時ということは、前楽か、それにしてもよかった、と予約したときに大楽を頼んだことを忘れていた。だから午後公演が大楽だよね、などと暢気なものだ。一応ネットで調べるが、この日2時半公演はない。?。大楽だ……。この時点でちょっと手がふるえる。

 補助席1213番。補助席って後ろもあるし。ネットの座席表に補助席って出てたっけ…。出てた。わわっ、前補、しかもしかも、どセンターだ。。。。。。もう声がふるえている。

 さて。この公演は、朝海ひかるの最終公演ではないが、サヨナラ公演を控えたバウ公演、しかも先に東京公演があって、バウ千秋楽が実質上も大楽という珍しい公演形態である。その最前列センターが宝塚友の会の一般会員席として出ているというのが、まず驚きであった。これは朝海が持っていて、会の人とか、長年彼女を見つめてきた人こそ、ここに座るべきであると思った。

 しかし、ぼくもそれをそこで観たかった。どんな公演かはタイトルではわからないが、朝海が出る以上、その動きと表情を追っているだけでも至福そのものの時間となるはずだ。もちろん視線もらったりしちゃったりしちゃうかもしれない。他の出演者、そう、音月桂からも…。

 でも「この席じゃ、コムちゃん以外に視線やれないのよ! フィナーレで真っ正面にコムちゃんが微笑んでいるのに、隣のキム(音月)を見てニコニコなんかしてたら、ダメ。もう、コムちゃんが出てる場面では、視線はコムちゃん追尾で、固定」と、細君からも厳命された。ごもっとも。

 …そろそろ公演の内容に進まなければ。

   *

 アルバトロスは、アホウドリ。それを朝海の姿に仮託し、南へ向かわせるという設定。これはなかなか解釈が難しかったが、作・演出の荻田浩一は、出発点を思いきって南米のブエノスアイレスかどこかに持ってきたようで、南へ行くというのは寒い地方へ行くことだったようだ。北半球では南へ行くというとリゾートにでも行くような感覚で、解放感があるように思えるが、ここでは逆に南下することが流謫や自棄の結果の所業と解してよさそうだ。花組の『La Esperanza』でペンギンを見に南へ行くのと同じ方角でも、トーンは正反対に異なっている。

 たとえばACT2の始まりは、こうだ。せっかくの休みだからサーカスでも見に行こうと誘う女(舞咲りん)とのやりとりのうち、男は過去の断片に引き寄せられていく…。最も印象的なオリジナルな男は、内戦の消耗に先を見限ったのか、隊列や仲間を離れて一人彷徨う。倒れていたところを女(天勢いづる)に拾われる。女は男に期待するが、男は応えられるほどの未来への意志を自分の中に持ち合わせていない。それを見切った女は敵方に男を売る。女は悔いるが、男は南へ行く。女は追うと言う。その姿が『エリザベート』の皇太子ルドルフや『アンナ・カレーニナ』のアレクセイ、『凱旋門』のラリックに重なる。

 そのように、翳りをもった男の放浪の物語である。冒頭から『ハイペリオン』『ワン・タッチ・オブ・ヴィーナス』『ノバ・ボサ・ノバ』『ブラック・ジャック』と、主に花組、そして以前の雪組時代の芝居やショーのナンバーを織り交ぜて一つの物語を紡ぎあげ、場面ごとに相手となる娘役の魅力を引き出す荻田浩一の力量はさすが。

 ACT2は、宙組から雪組時代の『アンナ・カレーニナ』『エリザベート』『凱旋門』をフィーチャーして男の運命の悲劇や、周囲の女が不幸になっていく悲劇を紡ぎ出していくのだが、ACT1に比べると、芝居の比重や制約が大きくなり荻田のアレンジの自由度が低くなったのか、セリフや説明がくどくなったようで、少々構成に無理が見えたような気がする。ぼくはここで取り上げられたすべての公演を観ていたので、逆にまだるっこしい違和感があったのかもしれないが、しかしそれらの公演を観ていない人には、特に『アンナ・カレーニナ』の踏まえ方など、さっぱりわからなかったと思う。個々の芝居をわからせた上で、それらを翻案してつなげていくことで新しいアルバトロスの物語を創ろうという野望のなせる業で、いくつもの素材を盛り込み、しかもたっぷりと荻田流の味付けをしようとしたその壮やよし、というところか。

 そして、やや長いフィナーレ。「Holidays」のダンスのユニゾンは、全員のレベルの高さを見せ、未来優希の熱唱もすばらしかった。『風と共に去りぬ』など、そういうのもあったな、と思い出されたり、幻の『月夜歌聲』の名曲など、懐かしかったり、忘れていた場面と曲が次々と繰り広げられる。圧巻は音月との「闇が広がる」(『エリザベート』)。もちろん朝海がルドルフだから、音月はトート。身長差もなく若いトートで少し心配だったが、非常に濃密で拮抗した世界を作り上げていて、見応えがあった。

 同時退団となる同期の有沙が、本公演ではなかなか披露する機会がなかったダンス、歌、演技の実力を全開できたのは、本人にとっても非常に喜ばしく、素晴らしいことだった。麻樹ゆめみ舞咲りんと歌って踊れる魅力的な娘役が、しっかりと演技で魅力を発揮できたのもいい。裏声の柔らかい魅力や硬めの高音の力強い魅力と、様々な女声の魅力をバランスよく配していたのもよかった。舞咲の、どことなくはかなげで置いて行かれる女、その寂漠感が客席でも共有できて、強い印象を残した。天勢は、痩せ方が痛々しいが、演技、歌、ダンスともに一級品だし、朝海との絡みに、鋭く求心的で螺旋のようなドラマを生み出す力がある。そのレベルをずっと維持できるよう、体調には万全を期してほしい。

 朝海は、『ハウ・トゥー・サクシード』新人公演で演じたバドなどで知る人ぞ知るコメディエンヌぶりも序盤の「Birds on the Journey」をはじめ『デパートメント・ストア』などのシーンで存分に発揮して、様々の役を演じ、トップになるまでの曲折のある足跡をたっぷりと見せてくれた。冒頭の鳥の羽ばたきを模した腕の動きの美しさといい、ちょっとコミカルな硬い動きといい、ただ見とれるほかはない。衣裳や化粧のことを思うとやむをえないのだろうが、日本物と女役をきっちりと見たかったのが、ちょっと心残り。女役姿は本人が嫌がったのかもしれない。

 今さらながら、そのダンスの、というか身体の動きの説得力については、いうべき言葉がない。特にふわり、すっと柔らかく、反動をつけずに脚を真横や真上に高く上げたりされると、普通のダンスの名手が同じことをするのより何倍かの時間が長く込められているために、観ているほうもゆっくりとその動きの微分されたようなきらめきを味わい、記憶に焼き付けることになる。

 カーテンコールのコメントで、未来が「舞台の上では泣かないように」と言って涙をこぼしながら、涙を笑いでごまかすような何ともいえないいい表情をしていたのは、この舞台から出演者おのおのが、朝海の十数年かを凝縮したような濃密な充実を、つまりは自分たちの歳月もまた多かれ少なかれそのように濃密であったことを、深く味わえたからだろう。

 もちろん朝海自身、この公演で自身のトップになるまでの足跡を振り返りつつ、思う存分踊ることができて、大いに満足したのではなかったか。伝え聞くところによれば、日本青年館公演の千秋楽では嗚咽に近い感動にくれたようだったが、バウの大楽では少し涙ぐみ、少し声を詰まらせただけであったように見えた。真っ正面でその姿を見せてもらえて、ぼくもまた宝塚を、朝海を見てきた歳月を思っていい知れぬ思いにとらわれた。

 昔、花組の大劇場公演のときに、銀橋のとば口にカミ手が千波ゆう、シモ手に朝海が天使のような姿でブーケを手に左右に揺れていて、ぼくはその頃千波を気に入っていて千波ばかり見ていたのだけれど、ふと朝海を見ると眼光鋭く少年のような少女のような眼ざしであった。そこからぼくが朝海の本当の魅力がわかるまでに、さらに若干の歳月が必要なのだが、とにかく最終的にはその鋭い魅力で射抜いてくれることになって、本当によかった。そして『アルバトロス、南へ』で朝海は、宝塚生活前半の、どちらかというとがむしゃらで暗中模索の時期を、遮二無二踊りきってレビューしてくれた。髪を乱して踊る姿は、まさにセクシーとしか言いようがなかった。同じ演出家による大劇場公演では、自分の魅力を存分に見せ、振り返ることを意識なり計算なりして、いくぶんかの余裕をもって踊っているように見えた。宝塚にこのような男役が、ダンサーが存在したことを、誇りに思えるパフォーマーであったと、この二つの公演を続けて観ることができて、自信をもって断言できる。いろいろあったが朝海がトップになって、本当によかった。

銀の狼/ワンダーランド

 正塚晴彦の初期の、いわば伝説の作品だったのだ。正塚のメインテーマとされているらしい「自分さがし」の萌芽であるとも聞いていたし、涼風真世の暗い存在感が絶品であったとも聞いていた。そんな作品に全国ツアーというかたちでめぐり会えたのだから、劇団の中で正塚の存在がどれほど見直されているか、知れてこようというもの。

 まず、暗さの中に色彩が際立つ大人っぽい感覚のオープニングが美しかった。水夏希、音月桂、舞風りら、と次々にスターたちが光を得、未来優希が味のある存在感を出し、やがて朝海ひかるの「金髪」が光り輝く。闇と光の作り方が巧みで、そこに朝海の深淵を覗いてきたような低い声が入る。…もうこれだけでドラマのトーンは定まっていたと言えるようなものだった。オープニングだけではどんなドラマなのか予想もつかず、あるいは徐々に裏切られることになる作品が少なくない中で、冒頭からはっきりとした筋のとおった作品だといえる。

 全国ツアー作品としては、最後の「第十四場 別荘跡地」で唐突にレイ(水)が実はシルバ(朝海)を襲撃した実行犯だったということが明らかになり、死んだほうが「銀の狼」だ、と終息するのがあまりに急で、少々わかりづらいような気もするが、その急転回も観劇の一つの醍醐味ともいえよう。これによってレイのシルバへの複雑で屈折したかかわりが一気にフラッシュバックされ、幕が下りてもなお二人の運命の交錯を思って余韻が残ることになる。

 トランティニアン警部の凰稀かなめは、持ち味の端整なたたずまいに加えて、上品なユーモアセンスで好演。ジャンヌ(愛耀子)の押し出しの強さを巧みに柔らかく受けながら、ボケ役を品よく、人柄のよさをにじませながら演じられたのはすばらしい。愛は凄腕の新聞記者をシャキシャキとテンポよく演じ、存分に魅力を発揮した。これまでは同期の未来と対で使われることが多かったが、今回は若い相手役にストレートに突っ込み、双方にプラスの効果をもたらしたことは、これから頼もしく、ますます楽しみだ。

 『霧のミラノ』の酔っ払いに続いて、未来はここでもすばらしい演技を見せた。次期大統領候補、実はその替え玉に仕立てられた呑んべえの農夫。独白の演技のうまさ、演説もろくに読めずジャンルイに「頭は牛以下」と罵倒されておどおどしながらもしたたかな一面も見せるあたりなど、深い味わいがあった。音月は難役といわれていたジャンルイだが、セリフ回しといい表情といい、クールで的確な演技を見せた。頭のよさと野心の強さが表情からあふれ出て、それを受けるミレイユ(舞風)を有無を言わせず圧倒する気配がよく出ていた。

 朝海は、とにかくかっこよかった。「俺は自分を探すことすらできないんだ」「このままじゃ、生きている気がしないんだ」といった印象的ないくつものセリフが、深みのある強い声で次々と繰り出される。記憶がフラッシュバックする時の恐ろしさ、ミレイユに自分のことを知っているのかと迫る強さなど、暗い美しさが随所で存分に発揮された。

 ミレイユの舞風は、受けの演技が多かったが、上品に戸惑う女の悲しさを見せた。レイのも朝海との呼吸が合ってかっこよく、二人でスタイリッシュな世界を作り出せている。シルバへの無償の友情と思われていたものが、最後のどんでん返しでシルバへの贖罪のような思いから出ていたこと、事実が明らかになったからには対決しなければいけなかったことなど、幕が下りた後で様々に複雑な思いで解釈し直すことを観る者に求めるという、複雑な役柄を好演した。

 シモーヌの早花まこ、シルバへ淡い恋情を秘めながらのかまい方など、思いがこもった微妙なニュアンスをよく表現できていて、愛らしかった。ポトスの麻愛めぐる、出番は少なかったが、事実を握ってジャンルイに迫る場面の強さは印象的。レイの弟分バチスタの沙央くらま、どんどん立ち姿が美しくなってきている。ケガの直後に酒を飲まされて踊る「第四場 ソフィーの館」はひじょうにセンスのいいコミカルな場面だが、沙央の表情や動きの滑稽さがすばらしかった。

 この場面をはじめ、凰稀と愛のややコミカルな狂言回し的な存在が劇のアクセントとしてひじょうに効果的だったりと、シリアスな場面が続く中でコミカルな場面がスパイシーに効いている。このあたりの按配は正塚の天性のセンスとしか言いようがないものかもしれないが、他の演出家にも見習ってほしいものだ。

 『ワンダーランド』は、大劇場公演より人数が減った分、個々の技量が目立って、それがプラスに作用したのは喜ばしい。水のシャープな凛々しさ、音月の水際立った美しさ、未来や愛の歌の魅力などを堪能できたことはもちろん、山科愛森咲かぐやの愛らしさ、大湖せしるの男女両方の姿での美しさ、蓮城まことの存在感など、見どころが多く、今後の雪組が楽しみだと思わせるだけのラインアップとなった。

(梅田芸術劇場での所見)(20061)


Daytime Hustler

 貴城けいの宙組トップ就任を知って、『DAYTIME HUSTLER』の出来からすれば、なるほどと納得できるようなすばらしい演技であった。小池修一郎久々のバウ作品としても、よくまとまった佳品であったといえよう。

 問題を抱えた生徒の側に立つ高校教諭ローレンス(貴城)が、学校の移転問題のいざこざで退職の憂き目にあい、生徒のすすめで一転、女性をエスコートするサービス業「ハスラー」となって活躍、途中で殺人犯の疑惑をかけられたりするものの、学校移転にまつわる不正を暴き、ハッピーエンドとなる。…このややドタバタな本筋は、まず貴城の多彩な魅力を存分に見せるために有効だった。様々なコスチュームの美しい姿を見ることができた、というにとどまらない。

 脇筋には、さまざまな人物と物語が絡むが、その一つひとつになかなか味があり、熱演もあっていい芝居になった。ローレンスの高校の同級生で今は市会議員となって高校の移転計画に絡み、裏社会とのかかわりを余儀なくされ破滅の道をたどるヘイワード(壮一帆)。少々強引なところのある野心家ではあっても、決して悪人ではなかったはずの彼が、スキャンダルを恐れ、また麻薬を常習していることをマフィアに脅されて、愛人を殺害するなどどんどん破滅の道をたどる。壮は、ヘイワードを人間としての幅の狭いお坊っちゃまらしい神経質な性格をベースに、小心者ゆえのはったりの強さや鋭い螺旋を描いて破綻していく悲しみをうまく表現して好演。麻薬の禁断症状も含めて、自虐的な笑いなどの狂気じみた破綻の演技は鬼気迫るものがあり、役者としての殻を大きく破った感がある。動きにも柔らかさが見られるようになった。次の公演での飛躍が期待できる。

 かつてヘイワードのステディだったが、ローレンスに心を移して結婚するものの、当時のローレンスの破滅的な生き方に巻き込まれ、麻薬で死んでしまうメアリー・アン(大月さゆ)。青春時代の回想シーンのみの登場だが、それにふさわしくさわやかで若々しい存在感を見せた。ヘイワードの婚約者で移転計画を推進する社長の令嬢、シルヴィア(天勢いづる)は、いくつかの偶然からローレンスの魅力にひかれ、やがてヘイワードの破滅と軌を一にしてメアリー・アンとシンクロするような形でローレンスに心を移す。本当の愛というものに飢えていて、ローレンスにそれを求めるひたむきな激しさ、第一幕終盤のビーチの場面やラストの洒落た告白(NYへ行って詩人で立とうという彼に、生活はどうするのかと聞いたら「ハスラーでも」と。それに対して「私、NYで最初の予約を入れるわ…あなたの最後の客にしてほしいの」うんぬん)に続いて反らした背のラインの美しさなど、セリフも歌もしぐさも形も、ひじょうに深くドラマティックだった。男役出身の娘役ならではの激しさ、鋭さが、この役にはぴったりはまっていたし、何より演じる瞬間ごとの姿の美しさが強く印象に残る。

 マフィアの有力者ブルースの悠なお輝は、本当に悪そうで適役。ハスラーになったローレンスの客パトリシアの美穂圭子、久しぶりに彼女の劇的な歌を堪能できた。その少女時代を演じた夢華あやりも愛らしさを存分に振りまいた。ジョニーの柊巴、ちょっと悪っぽいが純粋でまっすぐな高校生が、まさにはまり役で好演。彼を筆頭に不良少年たちが聖歌隊のように見えてきたりするところが実によかった。ハスラーのクラブの経営者ロレンツォの緒月遠麻は濃さを全面に押し出し、コミカルなシーンも引き受け、いわば怪演。存在感を印象づけるにはおいしい役どころだったといえよう。

 ヘイワードの愛人で殺されるキャロルは涼花リサ。崩れた女のひたむきさも見せられたのは収穫。舞咲りん、短いシーンだったが歌で中音域の魅力をセクシーかつユーモラスにアピールできたのはよかった。専科の光あけみが演じた校長のシスター・サラは、ただ神に祈るだけで世俗的なことは何もできないというステレオタイプだが、きちんと雰囲気が出ているのはさすが。

 作劇で小池修一郎ならではと思ったのは、メアリー・アンを頂点としたトライアングルが、十数年を経て再びシルヴィアを頂点として再現されたところ。しかも歳月を経て同じ構図にも運命の苦みや無力感が混じっているから哀感は増幅する。「俺でいいのか」「あなたがいいの」「俺よりいいのか」「先に帰って」というセリフは苦くしゃれている。二回目はそこにヘイワードの狂ったような「ローリー、いいのか、俺の女で」という悲鳴のような自虐的な哄笑が重なるのだから、このあたりの劇の響き合いは観る者としてはたまらない。

 貴城の何がよかったのか、一言でいうのは難しいのだが、今回の役柄で考えれば、状況に心ならずも巻き込まれてしまって、やむを得ず行動するという受け身な二枚目のインテリを、戸惑いがちに、しかもいったん行動し始めたからにはまっすぐに引き受ける、という骨太な潔さをにじませながら美しく演じきれたことは、まことに頼もしい。詩人、生徒寄りの高校教諭、ハスラー、殺人事件の被疑者、という対照的な複数の役柄を演じ分けながら、一貫して恋と友情、社会的正義、といった正統性を保持する王子様であり続けるのが、この人らしくて見ていて安心できるトップの風格というものだ。あんなに愛したメアリー・アンを、自分の身勝手や狭量のせいで死なせてしまったという翳り、そのことから女性に対してだけでなく人生に対して少々投げやりになっていたのが、再びのトライアングルの果てに、次の一歩を踏み出していくのが、強さと危うさを同時に備えていて、一言でいうなら美しいと、ただそれだけである。

20061月)


霧のミラノ/ワンダーランド

 ぼくが寛容なファンだからか、ファン気質というものがそうさせるのか、それとも実際に改善されているためなのか、一度目は絶望的な気分で劇場を出た公演でも、二度目にはまあまあそれなりに楽しかったなと思えてしまうから、宝塚というのは、というかぼくという人はというか、困ったものだ。それでもこの『霧のミラノ』については、どうしてこんなことになってしまったんだろう、という思いが何重にもよぎってしまう。

 幕間に隣りの女性同士が「これでショーもひどかったら、怒るでー」と言っていたが、終演後は無言だった。本題の前に、石田昌也によるショー『ワンダーランド』で最も気の毒だったのは、とってつけたように挿入された「白鯨へのレクイエム」でエイハブ船長をさせられた水夏希、「ハーレム・イン・アラビア」の最後で観光地の記念写真を撮られた貴城けいだったことを指摘しておこう。めくるめく夢の国として次々と展開するショーのトップが、探検家の出立ちの朝海ひかるらで、次のシーンが小説『白鯨』をモチーフにし、西部開拓時代に続いてクラシック・メドレーで中詰めというのは、あまりに恣意的でランダムで、理解しにくい展開であった。朝海と舞風りらという名ダンサーがいて何とか場面を保ってくれるからよいとはいうものの、「ハーレム・イン・アラビア」のダンディな姿に、あまりにベタで失笑するほかない記念写真の落ちをつけられたのでは、さすがの貴城もやる気が失せないか心配だった。多くの男役は芝居でもショーでも軍服姿を見せてくれたが、せめて違う魅力を発揮するようには調整できなかったものか。隣りの女性たちが無言で席を立ったのも、わかるような気がする。

 さてさて。『霧のミラノ』で最も衝撃的だったのは、壮一帆演じるミラノのジャーナリスト、エルコレの「英語でポピー、ポッポー」だ。もう、本当に悲しい。どうリアクションしていいかわからない。これは一体何なのか、石田さん、きっちり説明してほしい。関西人ならオール阪神の「く〜るまにポピー」さえ思い出して、本当に絶望的になったはずだ。

 これは、第九場で観客にロレンツォ(朝海)がレジスタンスのリーダー格であることがわかり、祭りがあり、ロレンツォとフランチェスカ(舞風)の二人の思いもいよいよ高まり、一面のひなげし(これが「ポピー」だ)の草原でのランデブーでロレンツォがフランチェスカにレジスタンスであることを告げた、その後の場面で起きた事態である。劇がいよいよ盛り上がり、正統的な悲劇の様相を呈してきたところである。『ベルサイユのばら』の失神や悶絶とかより絶対にひどい。

 もちろんこの一言だけがひどかったわけではない。そもそも壮とその助手の山科愛(ジル)は、劇の中に片足をつっこみながら「MC役」として客席に向かって発言するという難しい立場なのだが、結果的には一本調子で、空気を壊すだけで終わってしまったようだ。

 だいたいこの劇は独立戦線という政治劇であり、ロマンスである。結末は多くの観客が「?」を出したとはいえ、唐突な悲劇で終わるのだから、どこから見てもシリアスだ。もちろん、シリアスな劇だからコミカルな狂言回しが効果的だという場合もあるだろうが、そのためにはコミカルさの中にペーソスやアイロニーといった何らかの屈折がなければならないのではないか。それが見られなかった以上、残念ながらこの存在は脳天気としか言いようがなく、劇にとっても壮のキャリアにとっても、マイナスだったと言わざるを得ない。

 他にも、「時は一八五八年」とか「ミラノはドゥオーモ大聖堂」といった公文健ばりの歌詞、ひなげしの草原にとってつけたように現れる少女のダンス、軽い音楽、『エリザベート』のカフェのシーンをそっくり移してきたような安易な群衆シーン、など、劇の感興をそぐ言葉やシーンが多く、これが柴田侑宏の作品だとはちょっと信じられない。柴田が衰えたのか、演出が悪かったのか、両方か、天を仰ぐ心地である。

 そんな中で、朝海は平凡で無気力な市職員としてのだらけた表情と、レジスタンスとしての凛々しく鋭い表情を巧みに演じ分け、演技の幅の広がりを見せられたのがよかった。特に肩を落として市役所でくすぶっている市職員の無気力さは、なかなか宝塚では見られない、特にトップスターとしては異例の役どころだったのではないか。そしてその腰の低さを保ったまま、いや保っているからこそ光る見事な腹芸。

 娘役に転向した天勢いづるはカジノのマダムでやはりレジスタンスの一員である、エンマ。姿の美しさ、歌のよさ、ダンスのキレ、何をとっても非常にレベルの高い娘役になっていた。第九場で抵抗運動を続けるかと問われて、続ける意志を表わす歌の強さ、その後の堂々とした気品、男役出身者ならではと思わせるスケールの大きさと豊かな表現力が目を引いた。

 珍しく新聞評でも「歌劇」誌上でも疑問が呈された幕切れであるが、ある種の友情に基づいてカールハインツ(貴城)がロレンツォらの計略をあえて見逃したのは、ドラマとしてよくできていると言っていい。そして命拾いをしたロレンツォが独立運動で瞠目の活躍をしたということについては、ロレンツォの裏切りでも不義理でも何でもない、当然の帰結である。それについて「私は責任をとらなければならない」というカールハインツの後悔の思いも、後先考えない貴族出の甘ちゃんの世迷い言でしかないとはいえ、まあその通りといえばその通りだ。だから、問題は責任の取り方にあるということになる。いくつかの選択肢が考えられる中で、できれば彼には、戦いのさなか、いよいよ敗色濃厚になった時点で、ピストル自殺しておいていただくのが、最も適切ではなかったか。それを一つの悲劇として一方に置き、その報せを聞いたロレンツォが情感のこもったここぞという演技を見せながら、ドラマはハッピーエンド、ということで、どこがいけなかったんだろうか。

 カールハインツをあの行動に向かわせたものが、ライブな劇の中ではただ一言「私は責任をとらなければならない」というセリフで説明されただけで、そこに至るかれの懊悩が描かれなかったことも、最後の唐突感を後味の悪さにさせたことの一因だ。このシーン、ロレンツォの登場があまりにも鮮やかで、「こうして君を抱くために闘ってきた…」というセリフもセクシーで絶妙だっただけに、作者としてはあえて招いたのであろう破綻が、惜しい。

 音月桂は最も厳格そうなクライス中尉だったが、恋人からの手紙でデレデレになる場面でチャーミングな魅力を発揮し、劇に一息つかせた。ロレンツォ救出作戦の田舎芝居調の愛すべき連中、中でも鍵職人ミケーレの貴船尚がナンバ歩きになっていたりして、微細な部分までたいそう面白かった。貴船は、以前エンカレッジ・コンサートで披露してくれた歌のすばらしさも含めて、本当にセンスのある逸材で、これからの宝塚にはなくてはならない存在であるだろうに、退団が発表されてしまった。何とか翻意してくれないかと思うのだが、どうにもしょうがないのなら、貴船がこれまで何度も笑わせてくれたシーンを思い出しながら、やっぱり笑って手をあげよう。「じゃ、また!」

 

睡れる月

 まずもって悲惨でやりきれない話である。しかも、時代背景にあまりなじみがなく、南朝だとか、赤松や日野といわれてもよく知らない。どれが善玉だとか悪玉かというイメージもわかない。主役が死んじゃう。わけのわからないダンスが挿入される。裏切り、陰謀、男色がらみの権力関係、もううんざりだ、いい加減にしてくれ、と言いたくなるようなストーリーだ。わざと複雑に幾層もの話の筋を重ねることで、箔がつくとでも思ったのだろうか。

 最もつらかったのは、プログラムにも書かれている「亡き人に再び会いたい」というこの劇の最大のテーマが、そうして絡み合わされた筋のせいで遥か後景に引いてしまったことだ。舞風りらがせっかく二役で姫君と弟君を演じたのに、そのメリハリも希薄なまま終わってしまった。そういう意味では非常に盛り上がりにくい作品なのだが、朝海ひかるの鋭角な悲劇性が強い魅力となって、かろうじてドラマを牽引していった。やや好意的に人物像を見ていこう。

 朝海の演じる浜松中納言は、自らが愛し信じるもののために命を失っていくまっすぐさを、たいそうすがすがしく演じた。最期に「きっとこれは、兄上のなされた数々のことに目をつぶってきた報いだったのです。兄上は間違っておられます。……心を殺したまま、生きてはいけません」と言うあたりの無念さ、そして死に際のすさまじさ、それはマイノリティの側に立つ高貴さが滅びを強いられることに必然的に伴う美しさであったに違いない。

 朝海をはじめ、殺陣が美しかったのはよかった。特に第二幕冒頭、中納言が二宮を装って囮になって襲われるところ、未来優希、麻樹ゆめみなど、皆がいい形を決めてスピーディに戦っていたのが美しい。刀の切っ先を左手に持って頭の上に構えていた朝海が、気配を感じて左手をパッと離した瞬間など、劇場の空気の色が変わるほどの美しさだった。

 貴城けいの式部卿宮もまた美しかった。中納言の最期の言葉に対して「私はおまえたちが穏やかに暮らせる場所を造ろうとしただけ…」と絶句する激しさ、それはただそのようにしてどこかで間違えてしまった者の悲惨を体現していた。彼は自分自身の心を殺して、ほとんどすべての場面で、自らそう欲しないが世俗的には成功するという方向にのみ動いてきた。桂の別邸で、大きな謀略の渦に巻き込まれてしまうのを知りながら「高うつきまつるぞ」と言いながら日野重子(花帆杏奈)と閨を共にするのも、そういうことだった。そうしてすべてを犠牲にすることが、中納言への最後の言葉につながるという、悲劇の人物である。さらに彼が悲劇的であるのは、なおも生きていかなければいけないところにある。

 舞風は、大君と二宮の二役。考えれば印象的な役なのに意外に目立たなかったのは、先にも述べたように必要以上に複雑化された筋の犠牲になったといわざるを得ない。特に大君として落命した後は、南朝方の新皇である一宮の弟君だが実は女君であったとか、「そこにおられますな、大君」と中納言に呼ばわれて既に死んだ大君の転生としてあらわれたりと、主要な登場人物であるにもかかわらず、今ここにいる舞風は誰なのかがわかりにくかったのがつらい。しかし彼女は、特に二宮で中性的な存在を背筋や歩き方でみごとに演じきり、恵まれない状況の中で魅力を発揮できたことは評価できる。

 有沙美帆の三条尹子と美穂圭子の日野宗子が敵対関係。エレベーターのような二人の浮沈のドラマが面白く、これだけでも二時間ドラマぐらいにはなりそう。二人の演技はさすがに達者で、後半、宗子が尹子に上からものを言う高圧的な態度に転じるところなど、尹子の歯がみが伝わってくるような現実味があった。二人がその寵愛をめぐって争っている六代将軍・足利義教の一樹千尋、こういういやらしい役をやらせると、ものすごくはまる。張りのある声をしているのに陰湿でぬめっとした印象を与えるのが不思議なほど。

 中納言の幼なじみという設定の衛門督の柊巴は役にも恵まれ、好演。伏見稲荷の境内で杖をついてようよう出てきて、幼い頃の思い出を話したり、大君のことなら亡くなったという気がしないと語りかけて転生の弓を引こうと導いたりするあたりの芝居がとても丁寧で、第一幕をみごとに閉める重要な役割を果たした。

 ウサギやキツネのもののけのダンスに、澄ました顔で朝海が華麗な動きを見せてくれたのはよしとしても、いったいこの「吉野の寺社の犬神人の一族」という設定の人々は、そういう設定であるということに、どれほどの必然性があったのか。ダンス自体は実際のところなかなかチャーミングでテンポもよく、ゆり香紫保の動きが目立ったりしたし、貴船尚のユーモラスな演技が光ったりはしたが、やや説明不足だったのではなかったか。説明といえば、プログラムの登場人物紹介が異様なほど丁寧だったのも、作者の自信のなさのあらわれのように思えてしまったのだが。

 シアター・ドラマシティの公演では、いつも照明が美しいことが印象に残る。冒頭の真上からのスポットに淡く輝く後ろ姿、ステージの色、そこへ抑え目の色合いの装束の者らがわらわらと入ってくる光の反射と影……スタッフワークの充実が光った。


さすらいの果てに(音月桂)

 ご都合主義的で無理な展開や設定に乗っかった作品だったにもかかわらず、見終わって満足感に包まれるのは、音月桂の力である。彼女の刹那ごとの魅力が劇場を覆う。だから、筋の流れの無理や無謀は忘れ去られる。個々のシーンは彼女のチャーミングさを際立たせるために存在していればよいのであって、他のシーンと辻褄があっていなくても、設定が倫理的・政治的に正しくなくても、観客は音月の魅力に酔いしれていればいい。

 そもそもスターがいさえすれば、劇はそのようなありようでよかったのだ。荒唐無稽という語には、波瀾万丈とも支離滅裂とも全く違って、ダイナミックな破天荒が感じられる。ただストーリーが滅茶苦茶なだけではなく、主人公が縦横無尽、八面六臂に大活躍してこその荒唐無稽ではないか。黙阿弥が愛されたのも、そのような刹那にドラマが表出されていたからだったろう。宝塚でも、きっとそういう事態がありうるのだ。スターが輝きさえするのなら、どんなことでも許されてドラマが成立する。

 たとえば劇の冒頭の歌というものは、当然まだ何も始まっていない段階で歌われるのだから、随所に微笑をたたえ、自身の魅力を満開させていればいい。まだ観客はこの劇が悲劇なのかどうか、彼が死ぬのか死なないのか、など知らない。「君をこの胸に抱いたあの日から」と歌うのを聞いて、甘やかなラブロマンスを想像していればいい。そこで音月はあふれるような笑顔で、きれいに上がった口角と表情豊かによく動く目で、ややヴィブラートを抑えてナチュラル気味に発声する……乱暴にいえば、劇がどのようなものであろうとも、はじまりにはそのようにして観客を一気につかんでしまえばよい。まずそうすれば主役としての魅力を全開させ、観客の目を釘付けにすることができる。その後のシーンでは、歌や演技の中での微笑は効果的に使われはするが、この冒頭のソロに比べればずっと影をひそめているのだから、絶妙にコントロールされた微笑だったといえる。

 劇の中での効果的な微笑とは、たとえばエドウィン中尉(沙央くらま)に父のことを話し、「こんな砂漠に追いやられて…」と言った後に見せるやりきれないような苦い表情と、一瞬の皮肉っぽい微笑。これは彼(ジェフリー少尉)が自らの状況を的確に把握した上で、客観的に見ていることをよく表わして、人間としてのスケールの大きさを見せている。また、戦場でエドウィンが息絶えた時、駆け寄った彼は、エドウィンを呼び、応答がないのを確かめ一瞬ニヤリとする。「中尉、冗談でしょ、早く目を開けてくださいよ」とでも言うような表情で。その直後の大きな嘆きの痛切さを深める、絶妙の演技であった。

 作・演出を担当した中村暁だが、今回はそのような刹那を作り出すことにだけ神経を使ったのか。クレイトン大尉(宙輝れいか)が息絶えるに至る場面などは、クレイトンの見せ場として中村がそれなりに力を込めたのだろうし、宙輝もエキセントリックな役どころを熱演したとはいえる。にもかかわらず、どうにも感情移入のできない、意義薄い場面のように思えてしまうのは、一つには、ジェフリーが父ルイス(汝鳥伶)の汚名を晴らすという大切な責務が、この一場面に集約されてしまったことで、主要人物の臨終という重要な場面が、説明的になってしまったからだ。刹那というには、長すぎた。

 そもそも、クレイトンが「ジェフりー、いたな」とカイロの病院に現れるという設定からして、どう考えても無理だった。思うに荒唐無稽というのは、無茶さで「あっ」と思わせ、その最大瞬間風速のような感情の揺れに、畳みかけるように心情あふれるドラマが展開するから絶大な効果をしめすのであって、ただ無茶なだけでは荒唐無稽とは呼べないのではないか。荒唐無稽をドラマの魅力として成立させるためには、筋をゆがめてでも描きたい運命の出会いや感動の再会が用意されていなければならない。そして、もっと大切なことだが、そう納得させるだけの魅力にあふれた役者が存在していなければならない。音月は、かろうじてそれを成立させることができた。

 若い出演者がほとんどだったので、全体に演技、特にセリフが単調で学芸会風だったのは残念。その中で、ジェフリーの上長、エドウィンの沙央は、線の太い男らしさをよく出せていた。部下のウィリアム軍曹の蓮城まことは愛らしくユーモラスでもある人物像をよく描き出せた。恋人のエレノア、晴華みどりは、透明な歌声と上品な存在感がいい。ナキアの舞咲りんは、舞台を締める力がある。リディアの沙月愛奈、歌も演技ものびのびして哀感をたたえていた。ゴッドレー警部の真波そらは姿は美しいが、もう少し演技に押し引きを見せてほしい。


アメリカン・パイ

 まずぼくが、とりたてて貴城けいのファンではないこと、萩尾望都はろくに読んだことがないこと、原作「アメリカン・パイ」も読んでないこと、ドン・マクリーンの「アメリカン・パイ」という曲はわりと以前から好きだったこと、ぐらいのことを前提として知っておいていただこう。その上で言うが、ぼくはこの作品をけっこう楽しんだ。特に後半では、劇がとことん盛り上がりそうになると、サッとはぐらかしてしまうのが(たとえばリューの臨終は見せないことなど)、いかにもスマートでよかった。

 しかしやはり一つずつ見ていくと、批判や文句が先にたってしまう。まずグラン・パ(貴城)は、見た目がいわゆる少女マンガ的で、よかったとは思う。ただし、それがここで与えられているグラン・パとしてふさわしかったかどうかとなると、やや保留せざるを得ない。また、歌は終始押し過ぎで、劇のスタイリッシュなトーンに合わなかったように思う。こういうトーンのようなものは、それこそ男役十年の蓄積の中で作られてしまったもので、貴城が男役である限りは拭い去ることのできないものなのだろうか。こういう歌い方でなければ、男役らしい音域が出ないとか、そのような半ば生理的なものならやむをえないのかもしれないが(というのも問題だが)、演出家(児玉明子)は、作品のトーンを形づくる上で重要な、主人公のルックスや声のトーンというものを、十分に指導できないものなのだろうか。

 その結果でもあるが、貴城演じるグラン・パは、軽快な人物なのか重厚な人物なのか、二枚目なのかそうでないのか、なかなかつかみにくく、劇を見るスタンスをなかなか明確にできなかったのがつらかった。見た目はライバルのジャクソン(壮一帆)よりも誰よりもカッコよく、彼より売れないようにも見えないし、穴ぐらみたいなライブハウスでくすぶっていなければならないようにも見えない。だから、十七歳で両親がいなくて読書好きで友達と話も合わないというジュリー(宙輝れいか)を弟分みたいにかわいがったり、リュー(山科愛)に鋭いシンパシーを抱くにいたる経過が、本当のところ今一つすとんと腑に落ちない。結果的に、そういう不満は残った。

 同様のことは、壮、凰稀かなめ(ネイズ)という二人の二枚目スター(候補?)にも見受けられた。きちんとした居場所が定まっていないような中途半端な感じである。ことに凰稀はせっかくの大きな役で、姿の美しさがよくアピールできただけに、惜しい。ウィースバード医師役の天勢いづるも、もう少し当たり前の服装で、生き生きとリアルに動いてもよかったのではないか。

 リューに抜擢された山科は、非存在感というか、この世のものではないような、どこからかいつともなく現れてきて、いつの間にか去っていく雰囲気を、うまく身にまとえていたのがよかった。いつも何か言いたそうで言わない微妙な感じとか、浮浪者のねぐらを荒らしたことをねじ込まれたあと、かばったグラン・パにスーッとついていくあたりの気配がよかった。初めて彼女が歌を歌ったときには、本当に背筋がビビンと音を立てそうなぐらい、ダイレクトに感動した。そこから彼女が倒れて「もう、声、出ない・・・おしまい」というところでドラマは迫真する。

 つまり、このドラマの盛り上がりは、破裂しそうな心身を溜めに溜めてきたリューが、山科がもたらすものであって、他の出演者はそれを準備する脇役であり、今回は児玉のこの原作に対する強い思い入れを受けて耐える立場に回ったのか、ということになる。逆に山科は、長い独白でも、慰めようのない強い思いを十全に表現し、ドラマを作る力を持っていることをきっちりと鮮明にした。彼女の悲劇がこのドラマの核であって、残念なことにその悲劇が明らかになるまでの短くない時間、この作品にドラマは成立していなかった。

 その一つの小さな原因を他に求めれば、暗転の多さにもあったかもしれない。なかなか魅力的な若手に振る役がなかったせいか、海辺で踊る若者たちという本筋とは関係のない後景が多く挿入されたが、その処理のための暗転が多すぎ、余韻を生まず、ただ劇をぶつ切りにしたのは残念で、劇の運びがどうしても鈍重になってしまった。

 ジャクソンのガールフレンドということでちょっと足りないフラッパーぶりを軽快に発揮し、ダンスでもリューの影のような重要なパートを踊った汐夏ゆりさ、他の公演でも思い切りとキレのいいダンスが素敵だった。退団が惜しい。

 ラスト、グラン・パがリューのブーケを手にする場面、淡い恋心(のようなもの)がはかなく描かれていて、印象に強く残る。ただ、そのあとリューの登場のシーンを思い出させるのだろうが、フライパンをつかむ手を見せるところは、ちょっと蛇足、興ざめ。


妹みたいに思ってたから〜紺野まひるへのいいわけ

初めて紺野まひるがぼくの目に飛び込んできたのは、『La Jeunesse!』の群舞の中で、彼女がひときわ輝いて見えた時のことだった。動きの勢いがよく、愛らしくもきりっと締まった口角が印象的で、何より舞台の中心に立っているような堂々としたたたずまい、というか、威勢がよかった。人の視線を一点自分に集めることのできるのような魅力を持った存在だなと思った。お茶会で買ったのだったか、この公演の写真が手許にあるが、トップスターのような貫禄で写っている。この時入団一年目だったというのだから、確かに末おそろしくあったわけだ。

同じく一年目の『アナジ』での大抜擢の時は、しかしぼくたちの目が悲劇の裏ヒロインであった星奈優里に集まったために、今ひとつ鮮やかな印象が残っていない。実際、改めてビデオを見ても、両手はいつも胸の前で組んでいてもてあましているようだし、セリフもどちらかといえば棒読みに近く、ただ存在感だけでもっていたような芝居だったといっていいだろう。

存在感だけでもっていた? 繰り返すがこの時彼女は入団一年目である。それが存在感だけでバウホールを満たしていたとしたら、それはほとんど生来のスター性と呼ぶほかはない。たとえ舞台の中央にいなくても、そこが中央であると思わせてしまうような光の集め方ができる存在であったということだ。

彼女は結局組替えもなく、早くから雪組の新人公演でトップを務め、そのあおりで彼女の前後の若手娘役はワリを食ったともいえるだろう。組替えがなかった結果とも言えるのだが、彼女が新人公演で主役を務めたのは、本役が花總まりと月影瞳の作品だけだったが、そのことは彼女にとって、自身の美点を存分に伸ばせるという意味では幸運だった一方、やや自身に合わない役どころに挑戦して芸域を広げることがあまりできなかったという意味では、物足りないまま終わってしまったといえなくもない。ただ、彼女は何を演じても「紺野まひる」であったという意味では、強烈な陽性の個性の持ち主であったわけだ。

しかし、前回『追憶のバルセロナ』公演評でもふれたが、紺野は本当には「紺野まひる」そのままを演じていたのだろうか。もちろん、お茶会やインタビューで見せる、マシンガンのようによくしゃべり、いつのまにかその場を仕切ってしまい、口を大きく開けてよく笑う、という明るく元気で気の強そうな姿は、『殉情』の高慢さや『追憶のバルセロナ』の天真爛漫が適役だったことを、容易に想像させる。しかし、演技というのはおそらく不思議なもので、本人の性格に近い役だから演じやすいというようなものではない。紺野がこうした役に適任だと思われたのは、もちろん本人の普段の言動のなせるわざだが、その滑舌やくるくるよく動く瞳やきりっと上がった口角とかが適していたということ以上に、本当の意味で演技というものにとって本質的なことではなかったはずだ。

『仮面のロマネスク』新公では、主役を愛田芽久に譲って星奈優里本役のトゥールベル夫人を演じたが、ずいぶん苦労していたように見えた。しかし、このような役への挑戦こそ、本当の意味で紺野が体当たりでき、演技を変えるきっかけとなったはずだった。一つの本公演を通して、彼女が一つの難役にじっくりと挑戦し、成長する姿を一度は見たかった。

しかし、『殉情』も『追憶のバルセロナ』も、これまでぼくたちが彼女の魅力だと思ってきたものを、ほとんどすべて余さず見せてくれたという意味では、彼女にとっても、ぼくたちにとっても、本当に素晴らしかった。もうそれでじゅうぶんだった。これまで書いたものを読み返していると、ぼくは彼女に苦言ばかり呈してきた。でもそれはもちろん、それに値すると思ったからであって、彼女はもっともっと芸の幅が広がる逸材だと思うからだ。その広がりを、宝塚の中で見守れないのは、つらい。

思い返せば、紺野まひるはぼくにとって、新人のころから見守って、トップに立って、退団するのを見送った、初めてのスターとなった。早くから何と六公演も新公の主役を務め、そのたびに新鮮な魅力と課題を見せ続けてくれた。いつも、「ここがこうなればもっとすごいのにな」と思わせ続けてくれたのだから、本当に期待させ続ける役者であるといえる。もう本当に初期のころ、彼女が時々演技の中で目が中に寄ってしまうのが、アングラじゃないんだからと気になって、鏡を見て視線の研究をしようね、と手紙を書いたら、きちんと「研究します」と返事が来たことがあった。それで劇的に彼女が変貌したとかそういうことではないのだが、ぼくにとってはずーっと、面倒の見がいのある妹のような存在で、だから口うるさくいろんなことを指摘して、というかぼやき続けてきたわけだ。でも、あえて言いたくもないが、もうただかわいくてかわいくてしょうがなくて、そのくるくるした、ちょっといたずらっぽい瞳を見つめているだけで、なんだかわくわく、どきどきした。宝塚にアイドルという言葉はあまり似合わないような気もするが、ぼくにとって、たしかに一人のアイドルだった。

さよなら。いつか、どこかで。


「追憶のバルセロナ」

戦いがあり、傷ついた男に出会いがあり、逆境の女の哀しみがあり、志を貫く男は死んでいった。復讐を誓った男に思いを寄せる女がいたが、素直に打ち明けられない性分だった。戦いに破れ、世の中を変えるために、一人の友はテロを選び、もう一人は体制内変革をめざした。そして……そんな、いわゆる正塚晴彦の物語である。そこに本作では、緊密な物語の展開をホッと一息つかせるような、ユーモアがちりばめられていたのがいい。未沙のえるの力もさることながら、風早優はもちろん、五峰亜希、麻愛めぐるの芝居巧者ぶりも目立ち、雪組らしいバランスのとれた公演だった。

ストーリーだけの問題ではない。オープニングから目を見張ったのだが、踊ることがドラマである人々を描いていることが、すぐに理解させられた。後景から走り込むように入ってくる踊り子たちの先頭を切っているのは、この公演で退団する夢奈さや(ずーっと見てきました。どうもありがとう)。ダンスと音楽によって舞台の空気を決定してしまえる、というのは正塚劇の一つの強みである。音楽も、歌うには難しかったろうが名曲ぞろいで、特にスネアドラムの乾いた連打が、人々のドラマを押し進めているようで、痛烈だった。

トップコンビの絵麻緒ゆう紺野まひるがこの公演限りとなり、次期トップと目されている者にも相応の存在感を与えなければならない、という公演である。お披露目=サヨナラということもあったし、有望視されていたのにタカラジェンヌとしての寿命をまっとうしたとは言いにくい成瀬こうきの退団公演でもあり、つらさや痛々しさを極力思わせないようにと願ってもいた。そういう微妙な配慮も必要とされた公演である。

もちろん、正塚作品で、バルセロナと聞けば、その完成度に相応の期待を持つのは当然で、問題は大劇場でのそういう特別な公演らしい配慮やバランスを、正塚がどの程度気づかうことができるかというあたりにあった。

まず絵麻緒については、りりしい青年貴族フランシスコの軍服姿、「黒い旋風」の悪役としての魅力、そして記憶を失っている間の酒場でのホアンとしての弱々しい姿、そして突然の覚醒後の剣さばきの鮮やかさ、と実にこれまで絵麻緒が演じてきた多くの役を思い出させる、強烈な公演だった。一公演なのに、これほど多くの絵麻緒の魅力を引き出せたというのは、見事としかいいようがない。

イザベルの紺野は最後に実に柄に合った適役に恵まれた。まず勢いのいいダンスで、五峰と並んで美しい姿を見せたし、歌も素晴らしかった。芝居のうまさも存分に見せた。ラストで、絵麻緒の肩に柔らかく手をつき、反動ですっと離れ、ダンスを始めるところの空気と間合いが素晴らしくチャーミングで、まさにダンスという空間と時間を開いたような感がある。口の形も、少しあごを出す形も、最後までとてもかわいかった。

紺野には、役柄が限られているのではないかという苦言を何度も呈してきたが、そのぶん彼女に合った役なら水を得たようにいきいきとする。それでも「歌劇」六月号の座談会で、正塚が「まひるはまだ、何か隠して演じてないか? ……照れてガチャガチャッと演ってる部分があるんじゃないかな。さっき『まひるそのまま』っていう話があったけど、本当に全部そのままでいける位になれば良くなってくると思う」と言っているのは、慧眼と呼ぶべきだろう。合っているからこそ、完全に同一化し、なりきってしまうのがこわくて、全身では飛び込めない、というようなちょっと屈折した躊躇が生まれてしまうのかもしれない。もちろん、大劇場という一ヵ月を超える公演では、毎日忘我していては身がもたないということもあろうが、これから宝塚の外でやっていくのなら、正塚が求めているような身の投げ方を体得しておいたほうがいい。東京公演の千秋楽近くでは、変身したまひるが見られるかもしれない。

アントニオの成瀬こうきが、正塚劇の中心軸となるような、複雑で哀しい人生を選んだ男として、際立って美しい姿も、間合いを心得た芝居も、今がまさに旬であることを見せつけるような素晴らしい仕上がりで、ここでの退団はまことに痛恨である。次期トップと目される朝海ひかるは、ジプシーのリーダー、ロベルト。いっそう痩せた姿が心配だが、声に太さが増し、ダンスや表情もいっそう鋭さを増し、大きな存在感を見せた。セシリアという大きな役で次期娘役トップかと思わせる白羽ゆりは、劇が進む上で特に問題のない存在であることはキープできたようだが、光り輝いてはじけるようなきらめきが出せていない。化粧の肌色に透明感が少ないのも気になるが、与えられた役柄の中でもっと自分を出してもいいのではないか。

音月桂は、フランシスコの従者のフェイホオ。戦闘シーンのダンスにキレと迫力があった上に、ちょっとユーモラスな役どころを魅力的に演じきったのが収穫。大きな存在感といい、チャーミングな外見といい、彼女が舞台に出ると、視線をすべて集めてしまうような力がある。

他には、天希かおりのダンス、未来優希の歌と演技、愛耀子の歌、など見どころが多かった。ショーで千咲毬愛のダンス、姿が切れがあってよく目立っていた。退団はひじょうに惜しい。美穂圭子の歌ももちろん、迫力があった。


Over the Moon

クロニクルと銘打った月影瞳のサヨナラであるから、彼女の魅力を存分に発揮させながら、若手の存在感もきっちりと押さえた、目配りの効いた公演だった。しかし、よくある手かもしれないが、せっかくのサヨナラに、落ちぶれた女優の回想という設定については、複雑というのを通り越して、やや不謹慎なようにも思えた(作・演出=荻田浩一)。とはいえ、「若干のオリジナル曲を除いて、その殆どが、彼女が何らかの形で携わった公演から」借りたものだと、荻田自身プログラムに書いているように、花組、星組時代の懐かしい曲から「デパートメント・ストア」までほぼ十年間の四十曲近くを、それなりにストーリー上にちりばめ、図書館員やら宮木やらと月影がこれまで演じてきた役の衣裳で娘役を立たせたりと、はなむけとしてもなかなか洒落た出来上がりだったといえよう。

立樹遥がキザに決めながらもストンと外したり、すごくイヤラシイ目つきをしたりと、堂々のコメディアンぶりを披露。鷹揚な明るさがうまい具合に発揮され、新境地開拓となったのではないか。歌は丁寧な低音がよく、愛田芽久とのお芝居も、心境や態度の変化を的確に表情や角度で見せることができていた。

退団が惜しまれるのは愛田も同じだが、盲目の花売り娘。バウ公演「Icarus」を思い出させる、おそらくはそれ以来のせつない名演であった。立樹が女を食い物にするジゴロとして月影の前に現れ、この花売り娘と出会い、目的は手段を正当化するとばかりに月影から巻き上げた金で愛田の眼の治療に旅立つという、見ようによってはクサイお芝居を、感じのいいエピソードに仕立てられたのは、この劇全体がカラッと洒落た色合いに出来上がっていたことと、愛田の無垢な好演のおかげといえよう。

若手でよかったのは、終始進行役として舞台を締めた神月茜。月影演じる女優に憧れてきた新聞記者を、ストレートに演じたさわやかさと共に、「ビギン・ザ・ビギン」などの歌でも大いに魅力を発揮した。バランスのいい男役に育ってきたようだ。また、「ベサメ・ムーチョ」を踊った神麗華、汐夏ゆりさの思い切りのいいダンスも、巧拙を超えた度胸のよさが感じられ、印象に残っている。

この公演で最も強調しようとしたのは、もちろん月影の美貌や妖艶さであろうが、印象に残ったのは、ヨッシャーとばかりにガッツポーズを決める、いつも元気なグンちゃん、という性格的な美質だった。彼女は歌声も表情も視線も口許も、美しくあでやかに見せながら、あくまで舞台は明るく楽しいものに仕上げていた。その空気にはっきりと形を与えようと、大げさ過ぎるほどのギャグやジョークで彩ったのが、月影の脇を固めた同期の風早優天希かおり。この二人の達者な笑いのおかげで、サヨナラの湿っぽさを感じる暇もなく、カラッと乾いた洒落たショーになったといっていいだろう。

第二幕で立樹をバックにした風早と月影のデュエットでは、二人の笑顔のコンタクトが素晴らしく、タカラジェンヌの別れの惜しみ方とは、このようにさわやかなものかと感じ入った。舞阪ゆき子ら、また後半では悠なお輝の歌をバックにした月影と天希のデュエットもひじょうに華麗で、天希の回転には目を見張った。天希はフィナーレでも群舞の芯に立ってダンスをリードするなど、シャープな魅力を存分に発揮して、やはり月影へのはなむけとしたわけだ。

ぼくが観たのは千秋楽だったのだが、月影の「Bye Bye Blackbird」はキュートでチャーミングな名唱で、どんどん涙があふれてくる月影の目許を、笑顔の天希がさりげなくそっと手袋で押さえてやったあたり、この公演のピークである。風早も天希も、もちろん他の者も懸命に涙をこらえて、舞台の空気を壊さぬように全力で支えている様子がうかがわれ、客席は涙に暮れた。ここで涙に流れなかったのが月影、風早、天希の美しいところで、この後の芝居でも月影は込み上げるものに絶句しながら続けていく。ほとんど嗚咽をこらえているような状態で作り出される間合いが絶妙で、改めて演技というもの、芝居というものの恐ろしさと、それを現実化することのできた彼女たちに感動した。月影は、顔じゅう涙で輝かせ、満ち足りた表情であるように見えた。

思えば、月影はそのキビキビ・サバサバした外見がとてもチャーミングである一方、いささか湿度や哀感に欠けるように思えることが多かった。それが「浅茅が宿」でこの世のものではない妖しさを身につけ、「凱旋門」で冷たい哀しさを身につけた。トップになってからのその成長ぶりは、いつも次の公演、次の役どころを楽しみに待たせるだけの魅力があった。

ラスト近く、テープで月影がこれまで演じてきた役の名セリフが流れた。その一つ一つの言葉を、その時々に演じぬいた姿を思い浮かべながら、そんな月影の数年間を思い出していた。「凱旋門」のセリフの後、客席はペンライトの波となった。舞台からその波を見る月影の瞳は、おそらくこれまで一度も見せたことのないような複雑な色を帯びていた。きっと彼女はペンライトの向こう側に、タカラジェンヌ十年間のすべてを見たに違いない。そしてひとたびは感激の涙に暮れながらも、「デパートメント・ストア」で見せたように「ぐぁんばりまっしょー!」とニコニコ笑ってガッツポーズで決めてくれるんだろうな、と思うと、また彼女との別れが惜しくなった。ホントに、そうやって去っていくんだろうな。このやろう!


「猛き黄金の国/パッサージュ」

「パッサージュ」はひじょうに難しいコンセプトに基づこうとした割には、なかなかいいショーだった。プログラムの中で荻田浩一自身がそのねらいと見せどころを的確に語っているが、現代的な劇場空間や大通り(ブールヴァール)の華やかさではなく、ややうらぶれた場末の感じを持ち込もうとしたのだから、面白い。結果的には流行りのヌーボー・シルク(新しいサーカス)よりもう少し頽廃の色が勝った香りが漂っていたのは、まずは正解といえるのではないだろうか。びわ湖ホールで観たドゥクフレの「トリトン」に似ているように思えたのは、そういう意味でよく勉強したことの所産であり、特にとがめるには当たるまい。水晶から波璃へという危うさ、波璃とパリという音の親しさなど、ずいぶんエスプリに満ちたものだったと思う。

 本当のことをいえば、宝塚歌劇とパッサージュは相容れないものだと思う。宝塚は大衆演劇につきまとう猥雑さを極力排除しようとしてきたのであり、パッサージュはその猥雑さをパリという近代都市の中で異様なほどに保持してきた。あえて荻田は、宝塚が排除してきた、演劇というジャンルそのものの存在意義である猥雑さとは対極の価値観を付与しようとしたのだと思う。これは半ば蛮勇であるが、実は快挙であったはずで、宝塚にも本当は闇の部分がある(少なくとも闇に通じる部分がある)ことをきちんと認識できていたのは、ひじょうにクレバーであるといわざるを得ない。その意味で、<第5区 波璃の街角・地獄>などは、傑作であったといえよう。ピエロの2人(音月桂、花純風香)が素晴らしかったし、絵麻緒ゆう、紺野まひるもよくそこに求められる美意識を体現しえていた。萬あきらの団長がいい渋味を出せていたのは、改めて言うまでもない。宝塚がこういう「しつこさ」を削ぎ落としてきたことでずいぶん多くのものを失ってきたことは、おそらく多くの人が近年痛感していることだろう。荻田という一人の演出家が、実は個人の趣味や嗜好に片寄っているだけでなく、宝塚のあるべき姿の一つを提示しているようで、ひじょうに頼もしく思えたショーだった。

「猛き黄金の国」については、企画に関しては様々な意味でなかなかみごとなお芝居であったという他はない。同じ雪組の「デパートメント・ストア」が百貨店業界へのエールであったと同様、直接的には三菱に代表された働くお父さんや苦しむ日本産業界へのオードとなったこと、少年マンガ誌に掲載された作品を原作としたこと、といった新味があり、客席に三菱の各地の支社や工場からの団体客を含め、男性の姿が多く見られたことも面白かった。

岩崎弥太郎の轟悠は、石田昌也の演出らしいちょっとコミカルな主人公を達者で的確に演じた。出番の少ない月影瞳(喜勢)も同様。芝居のしどころとしては、銀橋での妾・丸奴(紺野まひる)とのやりとりで、これは気の強い者どうしなかなか見ごたえがあったが、強いていえばもう少ししっとりした情感もほしかった。この二人に関する評言としてはこれがステレオタイプとなってしまうような気がするが、二人とも躊躇とか恥じらいとかいうような空気を作るのはあまり得意ではなさそうで、それが物足りなく思えることがある。逆にそれがいいという場合もあるのだから、まっいいか、といつも思うのだが。

絵麻緒ゆうに坂本竜馬はどうかと思ったが、意外によかった。未来に向かってきらきらと輝いているような、絵麻緒の純粋なりりしさが、いい方向でまっすぐに出たように思う。成瀬こうきの利佐衛門が着実な演技を見せてよかった。暗殺される吉田東洋の萬あきら、セリフ通りに芯のある死に際で、芝居を良く引き締めた。

美郷真也、朝海ひかる、愛耀子の現代三人組、古くは「殉情」を思い出させたが、やや地味でそう著名でもない人物を主人公にした芝居を円滑に進めていくためには、うまく機能したといえるのではないか。現代の価値観との差異を述べるあたりなど、ややコメントし過ぎのような気がしないでもなかったが、宝塚化のためには多少役立ったかもしれない。演技等は無難で、新人公演のほうが面白くはあったが、本公演であそこまでやったら、また石田の悪いクセとか言われて評判を落としただろう。

この公演で一番印象に残ったのは、実は三菱ダンサーだった。カラフルとはいえ三菱の社章の入った作業着を着て作業帽をかぶって、バックに大きな大きな社旗がバサッと降りてくる……ナショナリスティックな心性というものを考える上で意味深い設定だと思った。ギョッとしたと言ってもいいし、感動したと言ってもいいし、あきれたと言ってもいい。とにかく印象は強かった。


エンカレッジ・コンサート

 花組のエンカレッジ・コンサートに比べてやや今回の雪組版のほうが感激の度合いが低いように思えたのは、初めての企画という新鮮さと緊張感が減じてしまったためで、致し方なかったと思われる。ある種の「ゆるさ」を感じないわけではなかった。次々と出てくるほとんどが若手の熱唱を聴いていると、こういう原稿を書くのでなくても、採点盤が欲しくなりそうな気がしてくるのではないだろうか。歌に自信のある者が、ほぼセルフ・プロデュースの形で得意な、あるいは歌いたい歌を披露するというのだから、こう言ってしまえば身も蓋もないが、のど自慢大会のような「ゆるさ」である。

その中で、雪組版の目玉は、あらゆる意味で舞坂ゆき子の「見上げてごらん夜の星を」だった。周知のように舞坂の父君は故・坂本九、この曲は彼の歌った名曲だったわけで、だからこそ彼女はこの曲を失敗するわけにはいかなかった。坂本九のあまりに突然で不幸な最期に関しては、ほとんどの観客の記憶に新しく、また多くの者は、新人公演には必ず姿を見せる彼女のお母様の姿も、ある種の感慨をもって目にしているはずで、彼女がこの歌を歌うことを知った時から、一つの物語が始まったといってよい。はたして、これは記憶に残るすばらしい歌唱となった。

彼女が父の歌を歌うということには、事実と歳月の重い物語がある。一つの批評のあり方として、そのような物語を徹底的に排除して、純粋に歌だけをとって判断すべきだ、という立場もあるだろう。しかしおそらく歌とは、そのように歌い手から独立して自立した表現として存在するものではない。どんなジャンルの歌でも、歌い手の身体性、来歴、聴く側の思い出、その時の状況、大きくは時代、といった様々な環境要素に左右されるし、左右されるべきなのだ。もちろんその物語の重さに耐えかねて、歌や歌手がつぶれてしまうこともあるが、それはそれだけのものだったという他はない。

舞坂は、声の透明感といい、音の伸ばし方といい、ひじょうにセンスがよく、血脈というものを感じさせずにはおれないほど、みごとな歌唱だった。鈴の音のような愛らしい声なのに、微妙にヒスがあって、それが味わいになっている。人の耳をそこに留めさせる。そのためにいっそう彼女がここでこの歌を歌わなければならない必然のようなものが迫ってきたように思えた。数分間に過ぎない彼女の歌がとても長く濃密な時間に思えたのは、彼女の歌がこれらすべての物語を担うことに耐ええたからであって、彼女がこのような歌を歌えたことは、今後の彼女にとって大きな宝となるだろう。

多くの出演者がミュージカル・ナンバーや宝塚の過去の作品の挿入歌など、「芝居の歌」を歌ったが、それらの歌は独立して歌われることで、必ずしも成功を収めたとは言い難かった。その歌が歌われるために前と後ろに流れる時間を、たとえば「夢人」を歌った麻樹ゆめみは、じゅうぶんには抱え込めなかったように思った。麻樹はとてもうまいし、いい声の持ち主なのだが、歌に思いだけではなく時間を内包させる術においては、まだ物足りないように聞こえた。表面的なことだけを言えば、声にひっかかりがなく、耳を流れていってしまったように思えた。

「エリザベート」からのナンバーでは、美郷真也美穂圭子の「夜のボート」は、アンサンブルに関して明らかに稽古不足。美郷のかぶりがためらい過ぎで興を削いだ。紺野まひるの「私だけに」は、この曲を歌いたかったことはよくわかるが「よく歌えた」の域を超えるには至らなかった。

貴城けい、未来優希といったスターについては今さら何も付け加えることはない。美穂圭子の「I Dreamed a Dream」は名唱に数えられよう。愛耀子もすばらしかった。また若手で、ひじょうに歌心が豊かで、技術のしっかりした男役が発見できたのは、大きな収穫だった。「夜霧のモンマルトル」を歌った玲有希は、ビブラートをつけすぎているようなところが気にはなったが、低音がよく出ているし、何よりスタイルとムードがあった。細かい部分まできっちりとした歌唱指導がなされていれば、もっといいステージになったのではなかったか。天勢いづるは低音に色気があり、ドラマティック。貴船尚は「スター・ダスト」で、ちょっと放り投げたようないい加減そうな感じの歌い方を披露し、歌うということの勘どころを押さえられているようで、感心した。特筆すべきは安城志紀の「Time to say goodbye」で、この難曲をみごとなテクニックとまさに転がるような声でほぼ完璧にものにしていたのには驚かされた。新人公演を観るのがますます楽しくなりそうだ。


月夜歌聲

 結局ビデオが出ないのは、やはり噂どおり原作の小説「オペラ座の怪人」や映画「夜半歌聲」そのまま、または翻案のような作品であったのに著作権の処理ができていなかったからとかいう、作者の児玉明子やスタッフの失態のせいなのだろうか。ぼくなどは映画をほとんど全く観ないので、当の映画のことも全く知らず、ただただ観終えて、美しかったなぁ、せつないなぁと思っていただけだ。朝海ひかるはひたすら美しく、湖月わたるの歌の成長ぶりに舌を巻き、と舞台上の役者のできにはすこぶる満足していただけに、もう一度ビデオで観たいと思っていた。チケット入手も至難だったので、しょうがない、ビデオで観ようと思って諦めていた人だって多かったはずだ。

 評判のよかったチラシ、ポスターなどのビジュアル・デザインさえ、1994年に銀座セゾン劇場で坂東玉三郎が伊原剛士と宮沢りえを起用した「海神別荘」のものと酷似しているではないか。一体どうなっているんだろう? 湖月も朝海も本当にすばらしかったのに、どうにも公演全体が薄汚れてしまったような印象がぬぐえない。これはひとえに児玉明子を筆頭としたスタッフワークの責任だということを、まずぼくたちは記憶しておかなければならない。そういうわけだから、この作品に対して作品評はほとんど無意味であり、個々の役者たちの演技評にとどめざるを得ないのは、残念だ。

 湖月わたるは、まず歌声に張りとつやがあり、これまでのバウホール公演や大劇場公演とは見違えるほどの強さがあった。特に低音がよく出るようになっていて、男役としての重みが格段に増している。ことに音月桂がオーディションで詰まってしまったのを受けて歌い継ぐその歌は、背筋が凍りつくような迫力があった。後半では火傷の痕を隠して仮面を着けて出てくるのだが、これがちょっと惜しいように思えた。仮面美術=清水千華とクレジットまで入っているのだから、本格的な仮面だったのだろうが、主役であるはずの湖月の表情が半分しか見えなくなってしまうわけで、いかにももったいない。一方でシルエットが背景に映る絵面など光と影を使った照明は美しく(照明=笠原俊幸)、それらしい美意識を十分に堪能することはできたのだが。

 朝海については、とにかく美しかった……という以上、何も付け加える必要がないと思われるほどだ。第一幕終盤の湖月との淡くためらいがちなラブシーンは絶品だった。くちびるがふれあいそうになって3センチ手前でふと顔を逸らすしぐさと視線、「お前は私の覇王か」と問うて「明日の舞台では」と答えられるもどかしさ。そしてやや課題だった歌もしっとりとナチュラルで、じっくり聞かせたのがいい。悲劇的でありながら堂々としていた表情は、おそらくはまさに姫にふさわしいものであったのだろう。言うまでもないが、剣の舞の動きも形も、どこをとっても決まっていた。剣さばきの大きさは、やはり男役ならではかと思わせられた。京劇に詳しくないのでよくわからないが、普段のダンスの動きとは少なからず異なるものだったろうが、少なくとも素人目には新鮮な動きが破綻なく美しく、みごとなものだったように思えた。気が強く男勝りの短髪の娘姿、スーツに身をかためて「私の心はすでにここにはない」とつぶやくクールでニヒルな青年の姿、京劇の姿と、朝海の魅力をいく通りも余すところなく見せてくれた公演だったといえるだろう。

 立樹遥の京劇での劉邦の姿はあくまで厳しく、また全体に「もう一つの上海」との間を往還する揺れを好演したといえよう。歌も詩の心がよく伝わってくる熱いもので、特に二人の柩の前での熱唱は、大きな空間的広がりをもっており、飛躍的に成長したように思えた。

 けっこう難役だった音月も、よくドラマの表情が表現できていたし、少年役の天勢いづるがいきいきとしていてよかった。やはり美穂圭子の歌はすばらしく、もっと聞かせてほしい。蘭香レアがいい悪さを出していていたのが目立っていた。退団は惜しい。萬あきら、未沙のえるの専科の面々は、言うまでもなく、さすが。人の悲しみやためらいが十全に表現され、芝居を締める。

 愛田芽久がもう少しキュートで軽やかに立ち回れなかったものか。また、若手に目立つシーンが与えられなかったのも不満として残った。バウホールやドラマシティでは、「これは」と思うような若手を発見させてほしい。

以上、作品の筋に全く立ち入ることをしなかったので、わかりづらい劇評になってしまったことをお詫びする。ぼくとしても、悔しい。


デパートメント・ストア/凱旋門

 「デパートメント・ストア」に対しては、あまり好意的な評価が見られないようだが、ぼくはいいショーだったと思っている。バブルだのその崩壊だの、ストーリー・ショーとしての能書きはいろいろとあるだろうが、ぼくがこのショーで気に入っているのは、何よりも目くるめく思いがしてあっという間に終わってしまったということだ。四十五分という実際の時間の短さもあるが、宝塚のショーらしいグランドフィナーレもなく、スッと終わってしまったあっけなさ、少なからぬ物足りなさも含めて、楽しい時間というのはこんなふうに終わるものさ、というような心憎いばかりにスタイリッシュなショーだと思っているのだ。

 ただ、設定が比較的には複雑だったせいかもしれないが、たとえば「ノバ・ボサ・ノバ」に比べると、ストーリー展開を歌詞に負う部分が大きく、歌詞を聞いていないとたどりにくかったことは否めない。その割には曲が歌詞の聞き取りやすさを配慮して作られていたわけではなかったのも残念だ。

 順番を追って思い出すままにポイントを。冒頭の迷子(山科愛。かわいい)の扱いをはじめ、ウィットを感じさせる小洒落た構成にはワクワクさせられた。轟悠はもう少し軽めに歌ったほうがよかったかもしれない。矢代鴻の歌についてまったく文句はないが、ただぼくが観た日だけだったかもしれないが、香寿たつきとのデュエットとなると、バランスというか、沿い方に少し疑問が残る。月影瞳の「今日もまた、グァンバリましょ〜」からラジオ体操、そのまんまといえばそのまんまだが、それだけにおかしかった。汐風幸の轟への絡み方が粘っこくてよかった。安蘭けいの大阪弁ラップ、維新派を思わせる力があり、上手の女たちも含め、とてもいい黒い雰囲気が出ていた。白いコートでダンディな香寿の泣きがせつなく、そこへ轟と月影が明るいムードをもってくるコントラストが楽しい。そのまま香寿が「楽しそう…ぼくにそのわけを教えてよ」「デパートへ行こうよ」はこのショーの圧巻、鮮やかな切り返しが美しかった。このようなシーンが成功したからには、あとはそれこそオモチャ箱のようなもので、ヒューマンサービスをキーワードとしたリニューアルオープンへとなだれ込んでいけたわけだ。轟の「私たちはそれほどに、満たされていると、素晴らしいといえるのか」という歌は心がこもり力があった。全体に、曲が切れ目なくテンポの移りが自然で鮮やかだったのが、スピード感を倍増させたのだと思う。

 さて、「凱旋門」については、文句なく近年の宝塚の芝居の中で最高ランクに位置づけられる充実した作品となった。ストーリーの展開にてらいがなく、直線的であったのがよかったのだろう。たとえばパリの街並みのセットが回転することで時の流れや人の転変、時代の運命さえ描きえた舞台美術(装置=大橋泰弘)一つとっても、他の公演を圧する力があった。

 ストーリーを直線的に進めたのは、一つにジョアン(月影)の直線性によるところが大きい。以前から気になっていた、月影のこの世の者ではないような上ついた発声も、気にならなくなってきた。夢見る永遠の少女のような浮き世離れしたジョアンという役柄によく合っていたからだろうか。ラブシーンのとんでもないほどの熱さにも、ふさわしかったといえるだろう。

 この劇の密度の高さは、たとえばボリス(香寿)、ローゼンフェルト(朝海ひかる)、マルクス(成瀬こうき)の酒をほめるレベルの高い楽しい歌とそれに続く哄笑から一転、舞台中央でジョアンが「私、昨日も来たのよ」へ訴えるシーンに移る、心憎いばかりの場面転換に現れていたといえる。弛むところなく、劇には終始心地好い緊張感が流れていた。うっかりすると不快感を生じそうなロープを使った回想のシーンでも、「自由を信じて、人は生きる」という力強い歌が、ゲシュタポのシュナイダー(汝鳥伶)の登場で瞬時に暗転のような形で展開する、そのスピードによって支えられていた。

 科白や歌詞の言葉が美しく印象的だったのも、当然のこととはいえ、宝塚では珍しかったといわざるをえない。ジョアンが「カルバドス…」と呟いた後で「あなたが悪いの。あなたのせいです」と嘆くあたり、科白の余韻、キスの扱い、下手のベンチのハイメ(安蘭)とユリア(千咲毬愛。好演)とのコントラスト、すべてがしっくりとかみ合っていたといえるだろう。

 ラストの戦闘シーンの悲しい美しさは、この芝居を彩った人々のやりきれない悲しさを反映して、こらえきれないほどのものとなった。三色旗を振る香寿の動きの大きさ、彼女が優れたダンサーであることがこのようなシーンに素晴らしく的確に作用した。フィナーレの白い羽根扇さえ、ぼくは目の焦点をぼかしてただの残像のうつろいとして見ていた。エトワールの美穂圭子のドラマティックな歌、謝珠栄の演出ならではの空間構成の美しさと、いいフィナーレだった。

 他には、思いのこもったいいシーンだった病院でのケート(花彩ひとみ)とラビック(轟)の別れ、アンティーブでのアンリ(立樹遥)のダンスの視線の強さ、アーロン(風早優)の表情のさびしさ、ジョアンの死の場面でアンリを奥に退かせるあたりからジョアンが息を引き取った後のヴェーベル(汐風)の姿、「外科医、旅券なし」と宣言するように言うラビックの姿……と、印象に残ったシーンは数限りない。


ささら笹舟

 同じく谷正純の作品である「バッカスと呼ばれた男」評で、なぜかスケールの大きさが見られないと書いたが、「ささら笹舟」を観て、谷の作品には、仕掛けや趣向はあっても、時間の流れに鋭角に交叉して劇を躍動させるような構図がないのではないかと思った。光秀に影武者を設定したこと、光秀の生き延びた姿かと思わせる雲水を設定したこと、その三役を貴城けいに当てたことは、なるほど一つの趣向ではあるが、それによって劇の空間が広がることはなく、単線に装飾が施されているだけのように思える。なぜなら、この設定によって、光秀、幸四郎の人物像に厚みや深みが増したわけではなかったからだ。

 以前から繰り返しいわれていることだが、谷の作劇のポイントは、登場人物を「究極の選択」をせざるをえない極限状況に追い込み、そこで生じる、一方を捨てざるをえないという、悲痛で非人間的な場面からドラマティックな感動を与えようというところにある。この劇でも、幸四郎の影武者としての存続を図るか、母・登勢の命を救うかという究極の選択が設定され、母が自ら息子のために命を差し出すという「美学」の発露によって容認され、さらに幸四郎自ら母を斬るというオマケまで付いて何重にも美化される。確かにそれは美しく、哀しい。客席からは啜り泣きが聞こえた。しかし、大義のために私を棄てるとか、花は桜木・人は武士とか、そのような美辞麗句によっていかに多くのものが歴史上失われたかと思うとき、このような美学を無批判的に戴くことの危険さと、そのような状況に個人を追い込んでしまうものに対する批判が忘れられかねないことを、強く不満に思う。しかもこのような設定が「アナジ」や植田紳爾「国境のない地図」の同工では、興ざめを通り越して、怒りがこみ上げてくる。

 光秀の妻、煕子(紺野まひる)は、幸四郎が許嫁を失い、母を手にかけた後に、彼を影武者と知ってその悲しみの故に結ばれたようだ。幸四郎が光秀の影として生きる上は、光秀の悲しみと自らの悲しみ、二つの悲しみを背負わねばならぬとされたように、妻もまたその二人の悲しみを抱き込むという、理屈っぽいシンメトリーの帰結である。このような究極の状態に人を置きながら、それに親子や男女の情愛・性愛を巻き込んでいくという手法は、生理的に不愉快で、後味が悪い。その上、ここには微妙に女性に対する定型的で蔑視的な理想像の押しつけが見られるのだから、たまらない。

 もちろん、一方で谷は、そのようなことのない世の中をこそ明智光秀は実現しようとしていたのだというだろう。しかし、舞台の上で彼の美意識として強調されているのは、一方的な無私であり、強制された美しい滅びである。

 「アナジ」「EL DORADO」そしてこの「ささら笹舟」と、谷の劇でしばしば多くの人が悲壮な最期を遂げるのも、そこにその人の生きてきたドラマの美が集約されると考えられているからだ。谷の劇で滅びや死には、それが美であるとはされても、予定調和的な救済は用意されていない。それを谷は自らのドラマツルギーの真骨頂であると重視しているに違いない。しかし逆に、このような予定された深刻さこそ、ドラマを安易に放り投げているのではないか。どんなに状況が悲惨で絶望的でも、人々はかすかに救済を夢見る。谷の劇には、それを愚かなものだと見下しているような不快感が残る。宝塚というエンターテインメントの創作者としては、最後まで大衆と共に夢を信じる愚かさが必要なのではないか。

 にもかかわらず、貴城けい以下、役者陣は素晴らしかった。貴城は歩き方がちょっとピョコピョコするのが気になったことと刀遣いの腰の定めに問題があったこと以外は、歌の力、台詞の声、表情、姿が美しく、実に魅力的だった。紺野も光秀や幸四郎を舞台の奥から見つめる視線に、母らしく、妻らしい包容力さえ出ていたようで、格段の進歩が見られた。歌もよかった。

 家老の汝鳥伶の重い明晰さはもちろん、明智五人衆も美郷真也の太い剛さ、未来優希の瞳の熱さ、蘭香レアの凜々しさ、蒼海拓のまっすぐさ、音月桂の悲壮な美しさ、とそれぞれに柄の大きな魅力を出した。森蘭丸の天勢いづるの美しさ、一つの価値であった。

 光秀を討ち取った長兵衛という重要な役どころを身を震わせて演じきった風早優のみごとさについては、千言万句費やしてもよい。幸四郎の母、灯奈美にこういう芝居をされると悔しいが泣ける。信長の箙かおる、秀吉の未沙のえるの演技について、何を今さらいう必要があろうか(ただ、未沙の歌はやや不明)。それらに比べると、若手の娘役がやや見劣りしたのが残念。

 水色桔梗と呼ばれる明智の家紋の旗めきが美しく、その音楽も貴城の美しい鋭さと相まって空気を張り詰めさせた。竹薮のセットが美しかったが、真相はすべて薮の中であると直接的に解してはつまらない。むしろ、すべては夢である〜一期は夢よ、ただ狂え〜という世界観を象徴したものと見たい。 


「バッカスと呼ばれた男/華麗なる千拍子'99

 今の雪組の層の厚さからいって、ショーが充実しているであろうことはだいたい想像できる。問題は、芝居のほうで主だった生徒にしどころのある役が行きわたるかどうかであって、そこが座付き作者の腕の見せどころということになる。「バッカスと呼ばれた男」は、その意味でよくできた芝居だったといえる。同じ作者(谷正純)の「武蔵野の唄は忘れじ」と同工の恋の「美学」がやや鼻についたのと、終わり方がちょっとしつこいのが気になったが、見終えて、適当によくまとまっていた印象が残っている。スケールの大きいはずのお芝居なのに、小品らしさがあったのは、奇妙だが。

 元貴族で放浪のシャンソニエを主人公に、彼が元いた世界としての宮廷に王妃、宰相、元帥である若き英雄を配し、現在の世界である世俗に吟遊詩人と盗賊、そして戦争の危機に巻き込まれる小国のお姫様とその恋人である従僕、というふうに重要な役を多く作り、それぞれに一定の見せ場を作った。中で比較的見せ場のなかったのが成瀬こうき、おいしい役と思われたのが安蘭けいだったろうか。

 このように多くの人物に多くの見せ場を作った割には、あまり複雑に混乱することもなく小品としてまとまった印象があるのは、ジュリアン(轟悠)とアンヌ(月影瞳)の許されざる「耐える恋」を軸に、その対照的な相似形としてアルザス・リクヴィールの姫シャルロッテ(貴咲美里)とその従僕ラズロ(朝海ひかる)を置き、宰相マザラン枢機卿(汐風幸)のアンヌへのしのぶ思いを絡ませ、さらに盗賊マンドラン(安蘭けい)とその愛人アデル(五峰亜季)、吟遊詩人ミッシェル(香寿たつき)と彼を慕うポーレット(紺野まひる)というように、複数の恋を網の目のように張っていたからではなかったかと思う。その結果、一方にアルザスの小都市の存亡をかけた策謀や宮廷内の勢力争いという生臭い筋を持ちながら、どのシーンも恋の香りがしたわけだ。

 轟がある種の身軽さを出せたのは成功。香寿の可愛らしさもうまく印象に残った。汐風が難役だったが、よくこらえた。その他、主だった役どころにあまり問題はなかったが、ただ一人、月影瞳だけは、王妃になりきれてなかったようで残念。発声や台詞回しに、王妃の威厳をもたせようと工夫したことはわかったが、結果的に「浅茅が宿」の眞女児と同じ妖しいトーンになってしまったのは、解せない。

 他には、老三銃士の汝鳥伶、未沙のえる、箙かおるが道化ながらしっかりした演技で、轟の回りを固めた。また、美郷真也が主人公ジュリアンの古くからの従者として、ひじょうにいい味を出していた。意外においしかった役どころとしては、戦災孤児たちを挙げられるかもしれない。蘭香レア、鮎奈さえ、天勢いづる、澪うらら、山科愛らが、哀しく愛らしい姿を見せていた。

 さて、名作のショーの再演というのは本当に楽しいものだと、雪組の「ノバ・ボサ・ノバ」、花組の「ザ・レビュー'99」で実感していただけに、「華麗なる千拍子'99」にも大いに期待した。ところがどうもぼくは、このプロローグでつまづいてしまったようだ。セットの色調がどうにもダルく、空間を埋めきっていないように思えてしまい、「幸福を売る人」で全員が一列で下手に長い斜線を走らせ、銀橋から引っ込む場面にはそれなりの迫力があったというものの、今ひとつ乗りきれなかった。轟の「華麗なる千拍子」の早口は楽しかったが、轟ならもっと柄の大きな歌を聞かせられるとも思った。

 「ロンドン」では、香寿たつきの銀橋での動きが魅力的だったほか、成瀬こうきがいい雰囲気を出していたし、貴城けい、未来優希、立樹遥の動きが目立った。

 続く「スペイン」は全体にテンポのあるドライブ感があり、よかった。汐風がひじょうにダンディないい男っぷりを見せていた他、月影の歌がよくなっていたのにも満足。朝海がマントをさばく姿、身体がぶれず美しかった。黒い大小のお立ち台に男女のダンサーが上がって踊るのも、なんだかワクワクした。ぼくはどうもいつも目がいってしまうのだが、夢奈さや、珠希かほが美しい姿でよく踊っていたのがいい。轟と月影のデュエットも、いい官能性が出ていたように思う。

 「リオのカーニバル」で期待されていたのが、轟がダルマになるかどうかということだったが、代わって月影が脚線美を見せてくれた。月影が轟に送る視線も蠱惑的でよかった。パイナップルの女王の轟を見て、改めて顔も肩の辺りもずいぶん痩せているようなのが心配。

 朝海がアフリカでいい動きを見せたほか、「シャンソン・ド・パリ」でユーモアのある動きを見せられるようになっているのは、頼もしい。歌も聞かせるし、ずいぶん幅が広がってきた。


「凍てついた明日」

 何度か女たちが「バカ」と言う。

 ビリー(紺野まひる)はジェレミー(安蘭けい)に袖にされながら、ふと気紛れめかしたキスをされて喜んで、「私って、バカだー」とうれしそうにため息をつく。

 キャンディーをプレゼントするために強盗を働くクライド(香寿たつき)に、ボニー(月影瞳)は「あなたって、バカみたい」と呼びかける。クライドが「同感だ」と応じる。

 ボニーとクライドに「もうお前は一緒に行く必要がないんだ」と言われたジェレミーがビリーの店に戻って来て、「結局、いつもここにやってくる」と吐き出すように言うと、ビリーは「バッカねー、それでいいんじゃない」と受け入れる。……

 そんなバカな若者たちの生き急ぐ姿を描いて、ずいぶん成功した作品だ。もうバカでなくなったか、元からバカなことなど考えなかった大人たちの、それぞれの切実さも対照的によく描けていた。ネル(五峰亜希)は、かつてはバカだっただろう名残をとどめていたし、そんなバカなことなど一度だって考えたことのなさそうな母カミー(京三紗)の口説きも素晴らしかった。

 しけた窃盗犯程度だったクライドが急速に稀代の大悪党として民衆のヒーローにまでエスカレートしていったのは、たしかに姉ネルがかばって言うように「ちょっとした間違い」であるにせよ、本当は自らの寂寞を埋めようと、現実からの手ごたえ、生きているという感触がほしかったからに違いない。

 香寿たつきという人が、このような表面は無邪気なバカ者でありながら、奥では鬱屈し屈折した青年をひじょうにうまく演じることを改めて知ることができたのは、喜ばしい限りだ。香寿は一時、老け役や暗い敵役ばかりやっていたような気がするが、最近になってまた演技の幅や役柄が広がっているようで、うれしい。

 そんな屈折は、ことあるごとに記念写真を撮りまくって笑いを誘うレイモンド(汐美真帆)でも同様だ。滑稽な役作りだが、撮ることへの執拗なこだわりは、一種の不気味さにまで到達している。「一枚一枚が生きてきた証しだ」と最後に語るように、ただ流れていくだけの時間をどうにかして留めておくために、彼は写真を撮り続けたのだし、犯罪の旅を続けたのだ。汐美が特に後半で、脚本に込められたそのような執拗さ、不気味さを出せていたのが味わい深かった。歌がまた一段とうまくなったのも頼もしい。

 そんなクライドに驚きながら、彼の無邪気につられるように笑顔を取り戻したボニーの、運命を引き寄せるような螺旋も鋭い。第一幕の終盤で「それっていけないことよ」とクライドのやり方をたしなめていた彼女が、第二幕では運命への投げやりな諦めを身に帯び、戻れない道を戻らないことへの覚悟を見せている。クライドと共に旅することにしたのは、とにかくその場所を離れたかったからであって、相手は誰でもよかった、クライドである必要はなかった。それは半ばは本音であっても、半ばはそうとでも言わなければ収まらない、自分をわざと放り投げるような心のありようを写したものだったと見てよい。

 クライドにとってはどうか。「誰でもよかった、あなたじゃなくても」と言うボニーに「でも、君だったんだ」と言うのは、半ばは本音で、半ばはやさしさであったに違いない。姉がボニーにと渡してくれた花束を渡すクライド。そのやさしさを、ボニーは拒むふりをして徐々に受け入れていく。受け取った花束を後ろに放り投げ、ひしと抱き合うという演出は気が利いている。

 そんな小洒落た屈折がよく書き込まれていた割に、月影の演技は微妙な揺れを欠き、いささか平板であったという気がする。終盤までボニーを愛しているのかどうだかわからない曖昧さを湛えているのはいい。ある種の投げやりさをあらわにしているのもいい。しかし、「あなたの中に、いつも別の人が住んでる……愛したい。でも、心はあげられない」とクライドと自分を重ね合わせるような切実な吐露から、最後に白いスーツで「愛してる」と抱き合うまでの心の動きが、視線や表情で伝わってこなかったのが物足りない。

 同じ物足りなさは、クライドの中に住んでいたはずの別の人=アニス(貴咲美里)にも当てはまる。クライドが彼女をどの程度本気で愛していたのかが見えず、ボニーのやり切れなさを描き出すためにも残念だった。

 紙幅が尽きたが、舞台の回りを囲んで劇を見ている「ギャラリー」という視点の配置が素晴らしくいい効果を出していたこと。風早優が舞台上でサッと上着を羽織って振り向くと、別人になって歩き方まで変わっているカッコよさ。楓沙樹の大きさ。未来優希の存在感。森央かずみの滑稽さ……藤井大介がよく書き込んでいたせいだろう、一人一人がよく立ち上がっていい空気が出来上がっていた。


「浅茅が宿」「ラヴィール」

 学生時代にわりと丁寧に雨月物語を読んだことがあるのだが、宝塚で「浅茅が宿」は難しいのではないかと思っていた。上田秋成の魅力は、深い美学に基づいて人間の執念のようなもの、人と人との間に交わされる強い思いが、怪異的に形をとって現れることを緻密に鮮やかに描くところにあると思う。宝塚ではそれをおそらくは表面的になぞることしかできないだろうと思い、伝奇的な部分ばかりが強調されたらいやだなぁと、心配していた。しかし酒井澄夫は、雨月物語という短編集の中から「浅茅が宿」と「蛇性の婬」を組み合わせることで、女の思いの強さの二つの面を合わせ描くことに成功し、人物造形にふくらみを与えた。眞女児(月影瞳)らも何か仔細あってこの世に思いを残しているのだろうし、宮木(月影・二役)が勝四郎(轟悠)を待ちながら無念のうちに命を絶った後の思いの強さは涙を誘う。それに比べれば勝四郎たちの夢を夢で追う思いなど多寡が知れている。

 だからこの劇では、女のその思いをどれだけ強くあらわし、その真実を激しく切なく描けるかが焦点となった。それを月影がけなげに、また妖艶にみごとに演じ分けたのが、随一の収穫だった。宮木での可愛らしさと眞女児での視線の妖しさの対照は特筆に値する。眞女児のこの世のものではない雰囲気が絶妙で、第十四場の「燃ゆる想いに片便り」の歌も味わい深かった。最後の幻想の場面では、思いだけで残っている女の威風のようなものさえ見せていたように思う。

 妖しさで水際立っていたのが、りん弥の貴城けい。男とも女とも、人とも知れぬ役どころを、若衆の姿で横坐り、流し目で絶妙だった。また、眞女児のお付きのききょうと、宮木の少女時代の二役を演じた紺野まひるも、視線の使い方などをよく工夫していた。特にききょうの時には、幼さの中に妖しさを見せるという小悪魔的な魅力をよく出せていた。ショーでもダンスの表現力に格段の進歩を見せている。

 一方、あくまで此岸の者である勝四郎を演じた轟悠は、青雲の志に燃えて都を目指す青年。序盤では、若々しい一方で優柔不断でウジウジした感じが、轟の歌の声質と違和感があるように思ったが、そのような真っすぐな感じをもっとストレートに出せれば、さらに彼女の芸域が広がるだろう。日本物の踊りの美しさはさすがで、第七場「花の京の都」で初めて眞女児と出会い、通りすがりながら二人が強く絡む場面、第十四場「眞女児の御殿」での眞女児との舞い姿には見惚れた。また、立ち回りでの表情の厳しさも轟ならではのもので、彼女の魅力を幅広く引き出す演出になっていたように思う。

 勝四郎の少年時代を演じた天勢いづるは、歌も含めて好演。紺野との幼い二人の姿を見ていると、のちの悲劇の結末が思われて、いっそう悲しみを増した。宴席での美穂圭子の歌が素晴らしく、このような人をもう少し上手く使ってほしい。勝四郎の母役の飛鳥裕、法師の箙かおるが要所を上手く締めた。

 勝四郎の友人で彼を都に誘う曾次郎の香寿たつきは、勝四郎の兄貴分に当たるのか弟分に当たるのかが曖昧で、やや座りが悪いように思えたが、こちらの読み不足か。

 全体には、舞踊詩というだけあって、台詞を使わず踊りだけで劇を進行させる場面がみごとだった。また、辻村ジュサブローの衣装がそこはかとなく劇の情緒を醸し出していたこと、羽田健太郎のピアノの強さも印象に残っている。

 ショー「ラヴィール」は、全体の構成によってではなく、個々の場面の生徒の頑張りで、迫力あるものに仕上がっていた。「ナイト・カフェ」での香寿を中心とした男役の色気。「エジプト」の轟のパンチあふれる魅力、五峰亜希のダンス。「ジプシー・パッション」の汐美真帆、楓沙樹、風早優、月影、五峰、紺野らの悲愴ささえ感じさせる厳しい表情からは、彼女たちがタンゴというものの真髄に触れているような感動さえ覚えた。男役が頭の上でマントをはためかせるシーンは、二階で見ても一階で見ても美しさに酔った。轟の歌う「ベサメ・ムーチョ」にも力があった。

 「DANCE JAZZIN」のパートがこのショーの見せ場だといってよいだろう。轟、月影、香寿、汐風、安蘭が中心となったが、楓と五峰のペアが出色。シャープでアダルトな魅力を振りまき、しっかりと芯を作っていた。黒ずくめの衣装と、ちょっとコンテンポラリーでドライブ感のある振付(宮崎渥巳)がクール。

 フィナーレはロケットからで、男役がタンタンと現れ、列の中心になってテンポよく展開する。それは立樹遥で、生き生きと溌剌とした姿が目を引いた。香寿の歌う「ハウンド・ドッグ」はさすがの迫力だったが、バックの男役たちには、もっと頑張って上半身を倒して乗ってほしかった。ここでも立樹がよく目立っていた。轟と月影の「テンプテーション」は、月影があまりに表情を硬くし、肩をいからせて眉間に皺まで寄せているように見えたが、クールさを少し勘違いしているようで残念。

 心配なのが貴咲美里で、顔がずいぶん大きくなったように見えたのだが、この大切な時期に太っている場合ではあるまい。檀れいは美しいが、頭がからだの中心線より前に出ているようで、姿勢が悪く見えてしまうのが損をしている。美しさに自信をもって堂々と見せてほしい。

 芝居、ショーを通じて安蘭、汐美、彩吹といっ渥たあたりが見せ場がなく、ちょっと物足りない。本人のためにもファンのためにも、このあたりのバランスをしっかりと考えてほしい。


心中・恋の大和路 

 あの名場面「封印切」があって、これだけしっかりした話の筋をもった芝居が、悪くなるわけがない。しかも初演時から素晴らしい舞台美術と音楽が用意されている。その上、主役の忠兵衛が汐風幸なら、血統で本命もいいところ。悪かったらおかしい。そんな大変なプレッシャーのかかった公演を、予想を上回る名演として甦らせたのは、汐風本人の力に加えて、脇を固めた汐美真帆、未来優希、そして専科の未沙のえるらの好演だった。

 汐美は丹波屋八右衛門。直接的には封印を切らせるに至ってしまった男である。彼の思惑は、すべて裏目に出てしまった。間(ま)が悪かったとしかいいようがない。その「封印切」の場面、「やめろ、忠兵衛、やめてくれぇ」という悲痛な叫びの後で、八右衛門は壇上の下手に座り込み、さらに下手に目をやっている。一人、舞台の外側を見やって、膝を落として呆然としている。この汐美の美しい横顔は、友情ゆえによかれと思って打った一芝居が完璧に裏目に出て、友人を破滅に追い込むことになってしまったことを改めて知った八右衛門の、まだここでは悲哀とも落胆とも絶望とも言い分けられない、感情の喪失をあらわして、絶品である。

 それにしても、汐美がいい歌を歌うようになったのが収穫。第二幕の道頓堀の場、幻想シーンで、忠兵衛らが絡め取られて息絶え絶えに歌うのを受けての歌、いわゆる美声ではなく、かすれた通らない声だが、声が前に出てくるようになったし、何よりそういうかすれ声は歌う側も観る側も情感をのせやすく、聞かせる。ブルースを思わせる魂の歌だといって、褒め過ぎにはならないだろう。自分の歌い方をやっと発見できたようで頼もしい。他にも、視線の流し方、しゃべりながらフッと爪先立つようにして見せる動きのアクセントの色っぽさなど、色気のある男になった。ラストの「この大和路の雪の中に、閉じ込めてやってくれないか」に続くゆっくりとした美しい長台詞など、歌うように美しい上方言葉のイントネーションによく思いを乗せた名場面だった。丁寧な芝居で八右衛門を完璧に自分のものにしていたと言えよう。

 未来は手代の与平。忠兵衛に諫められ、そして恩義を受けた男である。かもん太夫(灯奈美。好演)への思いから、この銀一枚あればと、ふと小判の包みを見入ってしまっていたところを忠兵衛に見咎められ、封印を切ったらおしまいやとたしなめられる。続くお茶屋への計らいと合わせ、忠兵衛の意外なほどの度量の広さを見せ、また観客の思いと忠兵衛の間をつなぐ役割を担う重要な相方だ。そして彼は、忠兵衛のすべてを見てしまった男である。忠兵衛の遊びっぷりのよさ、封印切の狂態に間近に居合わせ、二人が大和に落ちるのを八右衛門と追うことになる。最後の雪の道往きにかぶせる未来の絶唱は、雪の中に消えた二人への、八右衛門と与平(そして孫右衛門)の思いを共に乗せ、観る者の哀しみを尖鋭化させて、すばらしい。

 そして言うまでもなくみごとな出来栄えだった汐風幸その人。洋物のショーではしばしば地味過ぎてか、どこにいるのかわからなくなることがあるが、日本物では顔の見せ方をよく知っているとでも言えばいいのだろうか、すっきりとして粋でありながら、やはりどこか頼りなげな風情が漂っていたのが深く心に刻みつけられている。上方言葉に苦労したというが、特に耳障りなところはなく、船場の商人(あきんど)らしい雰囲気を漂わせていた。台詞回しの達者さは他の公演でも披露済みだが、今回驚いたのがしぐさのみごとさ、中でも腰から膝にかけての下半身の折り方だ。情けなさそうに腰が抜けたような感じでスーッと坐り込む風情の醸し方や、殊に第二幕で、身請けを喜ぶ梅川に、あれは実は触れてはならない金だったと告げるところ、「男の面目を踏みにじられて……」と膝を折って腰から崩れる姿の美しさには目をみはった。第一幕ラスト、「この世はすべて金次第」と歌う封印切後の狂乱の場面も、パンチの効いた声と美しく迫力のある立ち姿で激しい悲しみを遺憾なく見せてくれた。

 ただ一点、八右衛門に金を催促され、姑も居合わせる手前、表で話をつけようと威勢よく飛び出したはいいが、とりあえず口裏を合わせてくれと秋嘆さらす場面で、キッと振り向いた直後に表情と姿勢を崩してから後が、おちゃらけに過ぎたように思えたところが惜しい。甘え、悲しみ、どうしようもなさ、一途さなどの多面性を一気に出してほしかったところ。客席も笑い過ぎ。

 梅川の貴咲美里も予想以上に美しく可憐。新口村での孫右衛門(未沙)とのシーンで、多くのことを学んだに違いない。飴屋の蒼海拓、節季候の穂高ゆう、堂々とした立ち姿で見事な歌を聞かせてくれた。穂高の退団は本当に惜しい。愛耀子は女中おまんの演技と後半の歌で目を引いた。飛鳥裕、森央かずみが達者な演技でラストに向かう芝居のアクセントをよく果たした。


喜びと悔しさといたたまれなさ−お茶会報告

 「お茶会」と呼ばれる催しがある。研三(けんさん。初舞台から三年目)ぐらいから行なってよいものらしく、要するにファンの集いである。トップ級になると宝塚ホテルの大広間を借り切って、何百人という規模になるし、若い娘役なら、あってもせいぜいソリオ(阪急宝塚駅前の集合ビル)の会議室で数十人、というこぢんまりしたものになる。公演のことや私生活(と言ってもごくありきたりな)についてのインタビュー、クイズ、ゲーム、記念撮影(+握手)など、贔屓の生徒の素顔にふれられる、究極のイベントだといっていい。ゲストとして同期や上級生・下級生が押しかけることもあるし、本人が歌ってくれることもある。テーブルの上には、ソフトドリンクとケーキ、というのが一般的。ホテルであればちゃんとした食器だが、会議室なら紙コップに紙皿だ。

 ある日、若手娘役Kのお茶会に出た。ソリオの中の某団体の会議室。六人掛けのテーブルが十卓、スタッフも入れて六十人強、うち男性が二十人足らず。娘役だけあって男性の比率がずいぶん高い。この会の中では顔なのか、テーブルの間を飛び回っている男性もいれば、カサブランカ(白百合。高価)の大きな花束を傍らに、腕組みして天井を見上げているこわもての男性もいる。夫婦で来ているのだが、必ずしも奥さんに連れられているのでもなさそうな男性もいた。女性たちも様々だが、男性陣に比べれば自然体で、肩に力が入っていないように見えたが、当然か。

 そして単身参加したぼくはといえば、いたたまれなさに身をよじっている。この場に来ているということは、正面切って「Kちゃん命!宣言」をしているということだ。それが恥ずかしい。いや、みんなそうなんだからどうってことないはずなのだが、だめだ。おそらくこれは、やや飛躍するが、本当はぼくはKを独占したいと思っているのだ。なのに六十人もいる、しかも男性が多い。敵だらけだ。なんとか彼らの間隙をぬって、ぼくだけKにアピールできるようなチャンスはないものだろうか。……という野心がぼくの身をよじらせていたのではないか。

 やがてKが入場する。黒いワンピースで短めの髪をちょっとざっくばらんな感じに束ねている。会場から「かわいい〜」という嘆声がもれる。無造作に席に着いた彼女は、思ったよりテキパキと司会者の質問に答える。「ふーん、こういう子なんだ」という発見、これがお茶会の醍醐味だ。ぼくはじーっとKを見つめている。時々Kが視線をくれる。うれしい。幸せだ。本望だ。

あっという間に会も終盤に近づき、テーブルごとに写真撮影。Kの隣に入れるかな、と窺っていたがタイミングを逸して後列に甘んじる。悔しい。お茶会とはつまり、手に届きそうな気を起こさせ、結局は悔しさを残す、そのようなイベントなのかもしれない。しかし懲りずに、きっとまた出ていくのだ。

HPだけの注=ここで言う「K」ですが、紺野まひるのことです。写真は、その次に出たお茶会で、この時はご覧のようにツーショットで写してもらえました。緊張してます。


Icarus

 モノトーンのステージに一点、赤いバラが紅をさしている。バラの香りが流れてくる。そこへ安蘭けいのバラの花びらのような歌声が流れてくる……植田景子の初演出作品「Icarus」は、始まる前からそんな甘やかなムードを漂わせて、ある明確な世界観を構築するのかと期待させたが、バラをめぐる甘い散文詩集のようで、ムードと触感を追うことに終始していたような気がする。それがとびきりのエスプリに彩られたものなら文句はないのだが、なかなか難しい。

 自分さがし、自分の原点の確認、人生の岐路における選択といった普遍的で重いテーマをいくつかの人間関係にちりばめ、コラージュしてみようという試みは面白く、星の王子さまとイカロス神話を合体させたような主人公の造形、舞台回しとして登場人物の十年後の姿を設定し、最後にその現在の姿をかいま見せる構成など、初作品らしい工夫が随所に見られた。

 だが、劇に芯がなかった。それは第一に、安蘭−愛田芽久、貴城けい−檀れい、彩吹真央−五峰亜希の恋の行方、そして語り手としての汐美真帆のそれぞれに見どころを作ったために、ドラマが拡散したということだろう。第二には、芯となるはずの安蘭と愛田の出会いから別れまでが希薄で、特に別れの理由が思索的過ぎて説得力に乏しかったことが挙げられる。第三には、「十年後のアーノルド」としての汐美、天空から墜ちてきて地球の人間たちを見ているイカロス(安蘭)、と主要人物の二人が劇の外側にいるように思えてしまったこともあるだろう。つまり、本来外側にいるべきではない安蘭が、劇の内側に入ってこなかったように思えたということだ。そして基本的には、いくつかのストーリーの流れを、短編形式ではなく入れ子構造で描くことで、複数の劇が互いに照射しあう重層化を図ったのが、逆に拡散してしまったからだ。結果的に、入り組んだストーリーがピチッと噛み合うことなく、断片にとどまったため、重い意味を込められた台詞の数々がアフォリズムのように散らばってしまったように思う。

 ゆるやかに淡々と流れていく劇の中で、激しさを見せたのは、彩吹−五峰−箙かおるが見せた熱い執着の劇だ。貧しい青年ルチアーノ(彩吹)が富豪ウォルター(箙)の愛人で元高級娼婦のニコル(五峰)に拾われ(アクトTシーン4)、やがて彼女を愛し(シーン8)、麻薬か何かで一儲けした金で<救い出そう>とするが(アクトUシーン3)、それを察知した箙の手の者によって殺される(シーン4)。ルチアーノが待っているはずの店に息を弾ませて入ってきた五峰を迎えた箙は、視線を泳がせる五峰に「あの坊やなら死んだよ」と言い放つ。微温的で平板な描写が続く中で、初めて命がけの恋に手に汗握ったシーンだった。この後の安蘭、彩吹の歌は、美しいが同じようなトーンの音楽に終始した感のあるこの作品の中で出色の、迫力のあるものだった。

 既に定評ある安蘭はもちろんのこと、貴城、彩吹の歌には力があった。彩吹は「嵐が丘」以来の実力発揮、貴城については台詞回しよりも歌のほうが表現力が豊かではないかと思えるほど、芝居の歌になっていた。さらに、歌や発声に問題があると指摘されている汐美が味のある歌を聞かせたのはうれしかった。ラストの歌の途中で、ふと笑って見せた上手さには、脱帽。安蘭は、とにかくたくさん歌っていたが、いいメロディなのにどれも同じようなトーンで、劇全体が平板になったのは、安蘭の歌唱力に頼った作編曲者の問題だろう。また、場面によってはもっと長く歌を聞きたいところもあり、構成上もメリハリを欠いたようで、気の毒だった。

 改めて、五峰の演技の深さには目をみはった。たとえば、ルチアーノと出会った直後、ルチアーノに煙草の火を着けさせ、ゆっくりとふかすところの口元の品のない艶っぽさ。ルチアーノに「一緒に逃げよう」と誘われ、「あんな男のおもちゃになって幸せか?」と聞かれて「ええ」と答える時の、ルチアーノを試すような複雑な顔つき。ルチアーノが死んだとウォルターから聞かされ、彼に「お前は何が欲しいんだ」と苛立つように聞かれ、ふと思いつめた表情の後に「ニューヨーク中の宝石と、エンパイアステートビルに積み上げた札束と、何でも思い通りにできる力」と言う、自嘲と自棄の入り交じったような台詞の放り投げ方、表情、身ぶり。「ダンスの五峰」が、いつの間に台詞の裏側や外側を十全に表現できる豊かな女優になっていたのかと、驚かされた。

 娘役で抜擢された愛田(ロージィ=「イカロスの夢」とプログラムに書かれている)と檀れい(クレア=アーノルドの恋人)は無難にこなしたとはいえ、それぞれに問題はある。発声、台詞回し、立ち姿、歩き方……どれをとっても五十歩百歩だが、この二人が姉妹として設定され、姉のクレアが女優、妹のロージィが花屋の店員である以上、ロージィにはイカロスの心を捉え、彼女の中にこそ真実はあるのだと思わせるような内面のきらめきを納得させなければいけなかったはずだが、残念ながらそこまでは至らなかったようだ。逆に檀は、台詞回しが平板でやや淋しげなところがあるものの、それを活かして、天賦の美しさにもかかわらず人生の選択をためらい、映画の主演という大輪の花を前にアーノルドの愛を選ぶ、という役柄につなげられたように思う。

 他にも美穂圭子の歌、二枚目としての風早優のかっこよさ、飛鳥裕の名演など、収穫が多かった。


春櫻賦

あまり評判のよくなかった「春櫻賦」、大げさなところとか、強引なところとか、相変わらず不必要な虐待シーンとか、もたもたしているところとか、あげつらえばきりがないが、ぼくは基本的には無邪気に楽しんだ。沖縄が好きとか、紺野まひるが好きとか、いろいろ個人的理由は挙げられるが、轟悠、香寿たつき等、劇の本筋を作るシリアスな役どころと、汐風幸、月影瞳等の達者で底が割れたようなあっけらかんとした明るさとのバランスがとれていたし、お国自慢桜めぐりという枠組みも、まるでそれ自体が「御喜楽座」の小屋芝居のようで微笑ましく思った。

 演出の谷正純は、バウの薩摩もの「アナジ」に続いて、轟悠に江戸時代初期の琉球のシリアスな青年をあてた。設定や役柄がどうこうというより、芝居の色調が同じで、轟の幅を狭める形で規定してしまうのではないかと心配だ。「アナジ」「EL DORADO」で滅びの美学に固執し、ステージに死屍累々と積み上げてあまりのことに顰蹙を買ったのを気にしたのか、今回は二人しか死なない。その代わり、謝名龍山(轟)が琉球から津軽へと流れていくのと同じように、劇の中心も琉球の主権問題というタイムリーなテーマから家族の情愛、龍山と小紫(月影瞳)の恋物語に流れていってしまった。このように大問題を冒頭にバーンと提示して観客の度肝を抜いて、最後は親子や男女の物語で涙を誘うというような「はぐらかし」は、他の作者にもしばしば見られるが、そのような処理を「大劇場向き」と捉えているのだとしたら、ぼくたちも見くびられたものだ。

 ……いけない、せっかく「微笑ましく」と調子よく始めたのに、やっぱりだんだん腹が立ってきてしまった。さて。

 全体に色調のバランスがよく、舞台空間の使い方にも鮮やかな工夫が見られた。全員が舞台奥両手から出てきて舞台中央でいったん集まり、また左右に分かれて銀橋に並ぶ第一場。第十五場「さんさ時雨」でのゆっくりとした斜めの線の美しさ。少なくなった人数で大きな広がりを見せるためのチャレンジとして、好ましく思った。しかし、やはりラスト第十八場「春櫻賦」では、あと十人位、もう一列あったらなと物足りなく思ってしまう。扇をパッと二枚にするところでも、全員がもっと引き絞るようなタメを作っておけば、さらに勢いのある鮮やかさが見せられたのではないだろうか。

 轟悠は伊万里焼を思わせる黒と朱の鮮やかな衣装をきりりと身につけ、求心力の強いみごとな人物造形を見せた。それが「美海美島」というスケールの大きな歌を大らかに歌い上げる力となったのだと思う。ただ、終始眉間に皺を寄せてうつむいている憂国の士ではあるが、せめて最後の小紫(月影瞳)の口説きを受ける場面では、甘い微笑みを見せてほしかった。龍山がフッと息を抜いたときにどんな表情を見せるのか、琉球の地で多くの人々に慕われていた、人間としての懐ろの深さはどのようなものか、少しだけでも見せてくれれば、轟の大きさをもっと見せることができただろうに。

 香寿は、秋月数馬というよくわからない役を、せめて舞台に出ている時はそれらしい狂気を見せることで何とか料理していたようだが、最後の「ここの山の刈干しゃ……」の歌に至ってもなお、よくわからないままだったのが気の毒。「万朶の桜」の歌はみごとだった。月影について様々に言われているようだが、少なくとも星組時代に比べればのびのびとチャーミングに演じきれていた。おきゃんで気の強い、一座の芯としてつとめ上げてきた剛さと、肝心なときには思いを言えないいじらしさを同居させたかわいらしさを発揮できていたと思う。歌にもやっと味わいが出てきた。喜楽坊遊三の汐風幸、第七場の長台詞はもちろん、芝居の流れを作る力がある。貴城けいは龍山の弟、阿満丸。背筋の立ち方が劇的で美しく、前作に続いて死に際の演技に迫真の力があった。第一場で琉球の歌手を務めた貴咲美里の歌には聞き惚れた。汐美真帆は美濃と呼ばれる傀儡師で、ニヒルなおいしい役どころ。いつも低い声で歌っているのはいいのだが、阿斗(紺野)から思いを告げられたときぐらい、歌ではぐらかさなくたっていいじゃないか。それじゃ、ただの照れ屋さんだよ。阿斗の第八場の「てぃんさぐの花」、短いアカペラだが、強く舞台を引き締めた。「さんさ時雨」の列からフッと抜け出た美濃と阿斗、恋のシーンの表現としては破格に淡いが、そう思って見ると実に味わい深い。

Let's Jazz〜踊る五線譜」については、雪組がいつからジャズ組になったんだろう……という疑問はさておき、覚えやすいメロディと華やかな色彩、ジャズの現在からルーツへというテーマによって、まとまりのあるショーになった。

 「シカゴ」の轟が哀切を漂わせて、絶品。月影ともかなり息が合っているように思うが、次作をさらに期待したい。月影の動きが硬く見えたのは、ほとんど相手との呼吸によるものだと思うので、これからコンビとして熟していけば、二人の色気が発揮できるはず。歌いまくった香寿。彼女の歌がいいのは言うまでもないが、ダンスをもっと見たかった。「ティグリングナ・アフリカ」や「マルディグラ」などで、穂高ゆうや夢奈さやらが、いい表情でいきいきと動いていたのが印象的。人数が減ったことでこのような下級生をじっくり見ることができるようになったのは、本当にうれしい。


春櫻賦

 1月4日に雪組大劇場「春櫻賦/Let's JAZZ」見てきました。客席の入りが悪いと聞いていたので、もう一つなのかなと思っていたら、なんのなんの、かなりよくできた作品です。ショーも、テレビで見るよりもずっとテンポがあって華やかで、大変満足でした。年に一度の親孝行とばかり、70歳過ぎの母と観たのですが、轟・月影コンビをずいぶん気に入ったようです。谷作品が苦手な人も、今回は正月作品ということもあってか、二人しか死なないし(笑)、ユーモラスなところもあるし、視覚的にもきれいですから、おすすめできます。

 お芝居はご承知の通り、琉球もの。島津が主には明(中国)との交易権の奪取を目的に、琉球を籠絡、併合に至る始まりの辺りを描いています。前半は史実と憂国の思い、後半はどちらかと言うとその中での登場人物たちの心の動き(親子とか男女とか)に重点が置かれているように思いました。

 端々に、薩摩=日本の、琉球に対する暴虐ぶりや無茶が指摘され、なかなかタイムリーに時事的な意味でもきわどい芝居だったように思えます。今の沖縄をめぐる問題のルーツのお勉強もできます。

 見せ方として印象に残っているのが、汐風幸、月影瞳がそれぞれユーモラスで長い場面を持ち、芝居巧者ぶりを遺憾なく発揮していたところ。芝居の筋からいくと傍系の、娘歌舞伎一座の座主と看板役者ですから、無理矢理に見せ所を作ったという感もないことはないですが、汐風のせりふ回しの見事さにまず脱帽。月影のラストの心情の吐露も「本当は可愛い」の「本当は」の部分をうまく見せられたと思います。月影って、本当はお芝居うまかったんだ、と見直しました。これからは、本当にうまいんだ、になってね。

 月影についてもう一つ安心したのは、轟とのペアがかなりうまく行っていたと思えるところ。星組ではあまりに遠慮してか、引き過ぎてしまって魅力をあまり出すことができていなかったようですが、かなりリラックスできているのではないでしょうか。

 轟は、前のゴーストでも、今回でも、トップ娘役との絡みがあまりに少ない、孤独なトップを強いられてきているので、次作あたりでは、たっぷりと濃い絡みが見たいものです。

 若手では、汐美真帆が間隙を縫うような形で、すごくかっこよかったのが収穫です。紺野まひるは歌の力を見せたのと、演技に進歩が見られたように思います。新人公演が楽しみです。 


バウホール公演「嵐が丘」

バウホールで和央ようか主演の「嵐が丘」。作・演出=太田哲則というのは安寿ミラ主演の「冬の嵐」以来だろうか。あの救いのない世界が、今度は嵐が丘を舞台に展開されるのかと思うと、楽しみな半面、気が重くなってしまった。

 そして予想どおりというべきか、フィナーレさえ設けられなかったほどの救いのない世界の中で、和央のヒースクリフは性格のゆがみと復讐への執念を満身に込めて、まさしく救いようのない人物として圧倒的にそびえ立った。とにもかくにも、見終わった後の深い満足感。大作を見た、一つの確立された色濃い世界を見終えたという充実感が残ったことをまず言っておかなければならない。それは主に太田の妥協のない徹底した作劇にあっただろう。

 この劇の主題は、おそらくは人物ではなく彼の執念である。拾われたジプシーとして、少年時代に多少は楽しい日々もあったものの、キャシー(貴咲美里)がエドガー(安蘭けい)と出会ってヒースクリフの粗野な乱暴さを発見してからは、コンプレックスと虐待から本当にひんまがった根性の持ち主になり、自分をそうさせた人々に復讐することだけをひたすら思い描く男になっている。最後の最後になって、復讐だけの人生の空しさに思い到って、使用人に言葉をかけたり、自分でも「少し変わってきたような気がする」と救いを暗示させるが、けっきょくキャシーの影を見て錯乱のうちに死んでいく。

 このような結末で、たとえば「冬の嵐」を思い出せば、それでもフィナーレでは安寿ミラと森奈みはるの美しいデュエット・ダンスで、あの世で二人が結ばれたことをぼくたちは喜ぶことができたが、この劇のフィナーレは最後は音楽さえなく生徒たちがただ次々と礼をするのを拍手で送っただけだった。太田はこの劇に、あくまで救いを設けなかった。

 そのために、やや人物が一面的になりがちだった点は否めない。特にリントン家の人々(リントン判事=箙かおる、夫人メアリー=小乙女幸、息子エドガー=安蘭)がヒースクリフを忌み嫌う姿は、わかりやすいとはいえ一面的で物足りなかった。また、キャシーの性格の作り方も難しい。たしかに一種の分裂的傾向であることに違いはないのだろうが、それを単純に時間軸の上で分裂させてしまったために、わけのわからない人物でしかなくなってしまう。同時に二つの思いの相克を滲み出すような厚みがほしかったところだ。貴咲美里は特にこれといって欠点のない娘役だが、演技の幅、ふくらみ、厚みがなく、結果的に花がない。台本を読み込んで役の多面性をよく理解することと共に、表情やしぐさを大きくすること、動きを柔らかく大きく丸くすることを心がけることが必要ではないだろうか。失礼だが、花聰まりをお手本にするタイプの生徒ではないように思う。

 さてこの劇を、和央がどう演じ、それをどう評価すべきか。そのような救いのなさを最後まで堪えきって劇に圧倒的な重みを与えたのは和央の力であるとしか言いようがない。立派な姿になって嵐が丘に戻ってきたヒースクリフの、しかし変わらない底意地の悪さやひんまがった性質を遺漏なくよく表現していたと言えるだろう。帰ってきてリントンの屋敷に入り、挨拶を終えるや否や、エドガーの妹であるイザベラ(花彩ひとみ)に言い寄るシーンなど、一瞬何が起きたのかわからないようなめまいさえ与える。

 しかし、にもかかわらずもっと和央に求めたいのは、それでも救いを感じさせるような美学を持った人間像の確立だ。屈折も退廃も堕落も、劇においては美学でしかない。こういう役柄を作っていく上で、和央が笑わないことを自分に課したことはよいとして、ややヒースクリフという人間の全体性の中の少なからぬ部分を削いでしまったような気がする。劇の醍醐味は、「にもかかわらず」にあると思う。いじめられ虐げられても復讐を誓わない人間だって世の中には大勢いる。なぜこの劇では彼がそうなってしまったのか、そうでなければならないのかを、周囲の人々の悪意にのみよるのではなく、彼の中の弱く柔らかい部分を強調したり、嵐のような運命に翻弄される戸惑いを描いたりすることででも表現すべきではなかったかと思う。こだわるが、安寿ミラにはそのような柔らかさがあったような気がするので、和央にそれを求めている。

 他には、狂言回し、語り手の役割でありながら的確なせりふ回しと素晴らしい歌唱力で客席を引きつけたゲイル(彩吹真央)、抜群の歌唱力と丁寧な演技で、特に少年時代のヒースクリフを作り上げるのに重要な役割を果たした家政婦ネリー(美々杏里)が素晴らしかった。(1997.6.10)


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 上念省三