「宝塚アカデミア」連載記事です
1 「星組の脇役たちが織りなす『エリザベート』」
「エリザベート」の主題は、エリザベートをめぐるトートとフランツ・ヨーゼフ(以下、プログラムの記載に従ってヨーゼフと略す)の三角関係である。この構図は雪組版より星組版の方が顕著だったように思われるが、それはヨーゼフ(星組=稔幸)の好演にあずかるところが大きかったと言えるだろう。全体に星組は再演で有利だったとは言え、随所で細かな演技の彫り込みによる完成度が高まり、この名作をさらに濃密で圧倒的な作品に練り上げていたように思える。本稿では星組「エリザベート」に焦点を絞り、ちょっとした動き、細かな演技にこめられた深い感情表現を読み解いていきたい。
たとえば第1幕第6場<バート・イシュル>でヨーゼフが初めてエリザベート(白城あやか)に出会った瞬間の一目惚れの演技は、短いシーンにこれからの運命的な展開を凝縮させたものだ。それ以後いくつかの曲折はあるものの、第2幕第13場B<ジュネーブ・レマン湖畔の散歩道>で「君が必要だよ、愛している」と切々と歌う晩年に至るまで、ヨーゼフがエリザベートへ変わらぬ愛を捧げる姿が胸を打つ。にもかかわらず、彼を取り巻く地位や立場、母ゾフィーの存在といったもろもろの状況は、その愛を素直に表わし、注ぐことを許さない。もし彼が、たとえば「うたかたの恋」(1993年夏)のジャン・サルヴァドル大公(稔幸)のような「自由なたましい」を持つ男だったら、レマン湖畔のベンチに座っている老夫婦(真中ひかる、貴柳みどり)のように、咳き込む妻の背中をさすり、手に手をたずさえて同じ港に入ることができたろうに。思えばその自由こそ、エリザベートが終生求め続けたものだった。乗馬もその象徴だっただろう。トート(麻路さき)がエリザベートを「今こそ自由になれる!」と黄泉の世界へ誘ったのに対して彼女が放った言葉は「生きてさえいれば自由になれる!」というものだった。「自由という名の神を!」という台詞もあった。しかし皇帝ヨーゼフには、それを求めるということすら想像もつかないものだったに違いない。
バート・イシュルでのヨーゼフのように、さりげない、しかし計算された演技や精緻に張りめぐらされた伏線は、主役・脇役を問わずどの公演でも見ることができる。しかし殊に「エリザベート」では、それらがジグソーパズルの一片のように随所にはめ込まれ、この壮大な世界を織りなしている。……黒天使たちの美しい姿・動き(彰かずきがこんなに美しく踊る人だとは知らなかったし、真飛聖を「発見」できたのもうれしかった)、エリザベートを歓呼で迎えるハンガリーの人々(小豆色のドレスの綾咲成美が喜びを満面に美しく手を振る姿は注視せずにおれない。のちの蜂起の失敗によって撃たれてしまったのか、男に抱きかかえられるようにして引っ込むことになる。ここにも一つの悲劇があるのだ!)、ミルクがないことを怒る市民たち(妃里梨江の怒りに打ち震えた表情を見るのが好きだった)……
★見る者の思いを引き出すスターレイ夫人
先ほどもふれた<レマン湖畔の散歩道>の場面は、ヨーゼフが旅先のエリザベートを訪ねるという、終盤の静かなクライマックスだ。ここでエリザベートに付き随っているのは女官のスターレイ夫人(万里柚美)一人。エリザベートがヨーゼフにゆっくりと歩み寄っていく姿を静かに送り出す形で、スターレイは深く腰を折って上手に下がる。この時、彼女は微笑を浮かべているように見える。その微笑は、エリザベートと共に歩き続けてきて、ようやく彼女をヨーゼフの許に送り届けることができそうだ、肩の荷が下りた……という安堵感ででもあるように思える。
そのように思うのは、実はぼくたちがそう思っているからなのかも知れない。シシィ、もうそろそろいいんじゃないか……と、マックス(父。雪組の古代みず希が絶品だった)の声色でも真似て、エリザベートに語りかけたくなる。せめて人生の最後だけは、穏やかに自分を愛してくれる人と過ごしたらどうか、と。そんな思いをぼくたちから引き出したのが、万里の目立たないが細かい表情や演技だった。
しかし、もちろん「計画通りうまく」ゆくわけはなくて、「永遠のすれ違い夫婦」である彼らは別々の港へ、エリザベートは「ずっと誰かが待っているような気が」する港へと歩いていくことになる。このヨーゼフとエリザベートの美しいデュエットは、率直で残酷で、やるせない。
その一部始終をスターレイはどんなふうにエリザベートから聞いたのか。あるいは何も聞かずに、エリザベートの姿から察し、最後のあの瞬間を迎えることになったのか……万里の物腰、表情の一つ一つから、ぼくたちはそのような想像をめぐらすことになる。ここでスターレイは、エリザベートの同伴者であると同時に、観客にとっても同伴者である。
このように、ぼくたちは脇役の小さな演技からも劇の組み立てを読み解いているのだが、そのために彼女たちはどのように動き、演技しているのだろう。そんな秘密をまず、万里柚美のダンスを中心とした身体の動きの中に探ってみよう。
★万里柚美の優雅さについて
「エリザベート」のフィナーレ(第2幕第16場C)で、万里柚美の踊る姿を見ていると、<優雅に踊るための身体>という言葉が口をつく。それは、簡単に印象だけを言葉にすれば、動きを溜め、ずらすことによって深い感情を舞台全体にひろげていくものだ。
たとえば斜め前方を見つめ、それを指さすとしよう。その時、視線と腕を同時に上げるのではなく、二つの間に若干の時間差を与える。まず視線を斜め前方に上げるとする(もちろん、視線を上げるためには、いったん視線を落として、振りかぶるように上げるという手順が必要なことは言うまでもない。まあこれは演技やダンスのお約束だ。最も単純な溜めだと言って差し支えない)。ややあって腕が柔らかい曲線を描きついてゆく。これが同時だと器械体操かロボットになってしまうが、二つの動きをずらすことでそこに時間の隙間ができることになり、見る者は待たされ、じらされることになる。
柔らかい曲線という点も重要だ。優雅さを生むためには、身体は等身大プラスなにがしかのアウラ(後光と言って大袈裟なら、雰囲気と言ってもよいが)を帯びなければならない。身体の傍らにある空間の一部を自分の色に染め、大きく見せると言うのではないが、豊かに見せる方法を編み出さなければならない。そのために、まず傍らの空間を抱きかかえる。抱きかかえるために腕の動きは柔らかい曲線でなければならない。器械体操でなくダンス、ロボットでなく人間であるためにはどうしても柔らかさでが必要だ。何なら逆に「Action!」(星組ドラマシティ公演、1995年12月)の千秋慎、湖月わたる、陵あきのらのみごとなロボット振りを思い出してもいい。
この柔らかい時間差によるずれはしばしば<流れ>と呼ばれるかもしれないが、流れることよりもむしろ、とどめる方に見る者の心は焼き付けられている。とどめておくことでできた動きの隙間に時間と思いが蓄積される。
このように、ただ動作を溜めるというだけのことが、結果的に表現として身体の動きに深い感情を与え、ドラマになるということを、万里は深く体得している。これが形だけで表現できることなのかどうかは知らないが、シェパード&メイヤーにしたがって<作為の自然さ>と呼んでもいいかも知れない(『美しいポーズ』1974年、ダヴィッド社)。
あるいは、動きの美しさを増幅させるものとして、彼女の視線に注目しよう。万里は、麻路がしばしば相手娘役を「目で殺す」ことになる強い<斜め下四五度の視線>を、誰にともなく見せる。彼女がその効果を自らじゅうぶんに意識しているらしいことは、「歌劇」十一月号のポートレイトからも窺われよう。麻路のそれが直接的には相手の娘役に注がれることで、ぼくたちは自分が当の娘役として見つめられている愉楽を味わうのに対し、万里のそれは対象を持たないから、恍惚を醸し出す空気として舞台を広く覆う。
このように、万里柚美の美しい姿を形づくっているのは、ほんのちょっとした動きの溜めやずらしなのだが、そんな微小な動きへの配慮によって、ぼくたちは舞台の上で流れ過ぎてしまうかなしみや喜びをしばし塞き止め、浸ることができる。塞き止められた思いは、しばらく残り、やがてやさしくぼくたちを包むだろう。ダンスの場面においてそれは、直接的には対象を持たない精神的な美しさとして舞台を覆うが、当然お芝居でもそれは絶妙なスパイスとなって舞台の味を引き締めている。そんな<作為の自然さ>を再び「エリザベート」の中で見ていこう。
★スターレイ夫人、永遠の同伴者
たとえば、病院訪問の場面(第2幕第7場)を見てみよう。ここは地味ではあるが、エリザベートの孤独を最もよく示すシーンとして記憶されているはずだ。エリザベートとスターレイ夫人という主従と、ヴィンディッシュ嬢(陵あきの)とその付き人(水原まどか)という二組の対照が、グロテスクなほどにエリザベートの「私の孤独」をあぶり出す。
総合病院の精神病棟(?)を慰問するエリザベートを、患者たちが歓迎している。そこに何かの手違いでか自身をエリザベートであると妄想しているヴィンディッシュと、その付き人になりきっている娘が乱入してくる。あわてた病院長(大夏しずき)が止めようとするが、エリザベートの表情から意を汲んだのかスターレイはそれを柔らかく押しとどめる。ヴィンディッシュが私こそ皇后だと興奮しているのに対し、エリザベートが静かにやや冷たく(この冷たさは相手に向かっているのではなく、内面に覚悟として向かっているのだと解釈するのが妥当だろう)「もし代われるなら……私の孤独に耐えられるなら……」と歌う間、スターレイは花束を手に下を向いてこらえきれないような姿勢をしている。それはただうつむいているというのではなく、力を込めながらやや下げた肩の線で、声も涙もなく泣いているのがよくわかるという、迫真の演技だ。これもまた万里の<作為の自然さ>と呼ぶべき、形の美しさによる感情表現の深さである。スターレイがエリザベートの人間として、女としての人生の歩み方、かなしみ、孤独を丸ごと共有して、人生の同伴者として付き随っていることがよくわかる。エリザベートが「あなたの方が自由」と歌い終えると、花束を渡し、こらえきれなくなったのかうつむき、肩を震わせる。
この場面でスターレイは誰にも表立ってかなしみを見せられない立場から、ひそかにかなしみをかみしめるため、客席に背中とうつむいた横顔を見せる<後ろ四分の三>の姿勢を多用する。客席にあまり顔を見せず、観客と同じ向きでエリザベートを見守る形になるため、ぼくたちはスターレイと同じ向き、同じ姿勢でエリザベートの孤独をかなしみ、いたむことになっていることを覚えておきたい。実際、ぼくはこのシーンではスターレイを見ているだけで目頭が熱くなる。かなしみはしばしば共にかなしむ者がいて初めて涙という形をとるものだが、スターレイはぼくたちの導き手として絶妙に機能している。
ルドルフ(絵麻緒ゆう)の葬儀の場面でもそうだ。エリザベートがよろめくように柩に駆け寄るところで、上手袖で腰を曲げてかなしみを必死にこらえる背中を見せている。いよいよエリザベートのかなしみが高まるところで一、二歩前に出て駆け寄るような姿勢を見せる。ぼくたちもエリザベートに駆け寄り、「あなたのせいじゃない」とか何か声をかけたくなるシーンだ。ヨーゼフの「皆、退出するように」の言葉を受けて引っ込むのだが、ここで万里はスポットが消えてからさらに一段深く腰を折り、おそらくぼくたちの見えないところで泣き崩れるのだろうと思わせる。
ぼくたちはいいお芝居を見ると、ほとんど無意識のうちに、幕が下りてから彼らはどうなるんだろうと思いをはせている。たとえば、エリザベートが横死した後、ヨーゼフがどのような思いに囚われるのかと考えると、あまりのつらさに声も出ない、というように。ここでの万里の引っ込み方は、舞台の向こう側の空間、舞台がはねた後の時間の流れが存在していることをはっきりと教えてくれる、目立たないが大きな演技だと言えよう。スターレイはそのように泣き崩れることができるが、エリザベートはまだ舞台でスポットを浴びている……たしかにこの孤独は深い。
ちなみにスターレイはただ「女官」とだけ記されており、第1幕には登場しない。万里は結婚式の場面で黄色いドレスを着て出ているが、ただの参列者としてであって、スターレイとしてではないと思われる。白昼夢のような幻視でトートと黒天使に翻弄されおびえたエリザベートがいきなりヨーゼフに抱きついた時、扇を口許に当てて「おやまぁ」という感じに唇の端で笑う表情からも、それが後のスターレイだとは思えない。
初めてスターレイがお目見えするのは、2幕第5場<王宮のエリザベートの運動の間>だ。その前のマダム・ヴォルフ(鈴奈沙也。新人公演で久路あかりが好演した)の舞踏会でヨーゼフがマデレーネ(眉月凰。雪組の星奈優里が絶品だったと言えよう)を「召し上がった」あとで、リヒテンシュタイン伯爵夫人(朋舞花。同じく新人公演で秋園美緒が好演した)から「スターレイ、(皇后様は)何か召し上がった?」と問われ、「いいえ、何も」と心配げに果物盆を手に答えるところで登場する。初めから女官たちの中に入っていたわけではないから、何かの理由でこのころ新たにお付きの者となったのだろうか。リヒテンシュタインがエリザベートの味方というより、ゾフィーの側につく監視役のように思われるのに対し、スターレイがエリザベートの忠実な僕であることは、この心配深げな短い台詞とそのあとの下手への引っ込み方で既によくわかっていた。このあと彼女がエリザベートの最期まで付き随っていたことは、今さら言うまでもなかろう。
★ヴィンディッシュ嬢、本当の鏡
さて、機能ということで、陵あきのが凄絶な演技を見せるヴィンディッシュについても考えてみよう。精神異常者が王や天皇を名乗るのは、珍しいことではなく、彼女もまたその一人であったというだけのことで、驚くには当たらない。大切なのは、それに対するエリザベート自身の反応にある。エリザベートは彼女を憐まない。羨むのだ。彼女は、本来エリザベート本人が備えているべき威厳や尊大さを、ボロボロになった扇を手に舞台いっぱいに振りまく。表情は硬く、目つきは鋭いが焦点を結ばない。ここまで本格的な精神異常者は、宝塚でも異例なのではないだろうか。
ご丁寧にお付きの者まで従えていて、彼女もまたスターレイのように花束を(枯れてはいるが)抱え、ヴィンディッシュに振って見せたり、腹ばいになってクロールの格好をしたりと大活躍だ。彼女が泳いで見せたのは、スターレイらが歌う「皇后様は一日に、八時間も歩き続ける」……「馬に乗り、船を使い、列車を乗り継ぎ、次はどこへ?」との対照で、ヴィンディッシュの精神のあてのない彷徨をそれなりにあらわしているのかも知れない。水原にとっては「黄色いハンカチ」のマリア(ヴィンゴ=真織由季の娘)以来の大きな役で、きっといい勉強になったことだろう。
エリザベートはヴィンディッシュに、私の孤独に耐えられるならあなたがエリザベートになるがいい、あなたのほうがよほど自由ではないかと、やや激しすぎるほどの反応を示す。これは本来独白されるべき言葉だ。自分を僭称しているヴィンディッシュと対等に人生の歩み方を議論しているようで、意外にさえ思える。孤独な彷徨を続けるエリザベートは彼女があらわれた瞬間、そこに自分自身を見てしまったのではないだろうか。
だいたいエリザベートには、物ごとを極端に進めすぎるきらいがある。ヨーゼフの拒み方、一日に玉子三個とオレンジ二個で「驚異のウエスト五〇センチ」という「倒れるほどのダイエット」、ゾフィー亡き後も続けられた憑かれたような旅行癖等々、宮廷内でのストレスが拍車をかけたのではあろうが、常軌を逸していると言っていい。いわば正常と異常の境界領域に立っていたような彼女が、ヴィンディッシュに出会い、彼女との親和性に激しく反応したと言ってよいだろう。
ヴィンデッシュを対置させたことで、エリザベートの人間像を強烈に描き出したのは作品の力だろうが、エリザベートに匹敵するほどの存在感を持った人物として立ち上げることができたのは、ひとえに陵あきのの力だった。ルドルフがエリザベートに「ママとぼくは鏡どうし」と差し伸べた思いは拒否されたが、もっとよく写し出す鏡としてヴィンデッシュが置かれていたというのは、あまりに残酷だった。陵は新人公演でもエリザベートの母・ルドヴィカ公爵夫人を好演するなど、脇役に置いておくにはもったいないほど幅広くどんな役でもこなせる力をつけている。これからが本当に楽しみな一人だ。
★スポットが消えたあとで
さて、ルドルフの葬儀の場面でスターレイがスポットライトが消えたあとも演じ続ける深い悲しみについて、既に述べた。「エリザベート」の中では他にもいくつかスポットが消えたあとで印象に残る場面がある。
一つは、フィナーレ(第2幕第16場E)の麻路さきと白城あやかのデュエットダンス。かすかな光の中を夜空に舞う白鳥のように両腕をあでやかに広げて引っ込む二人の姿が印象的な美しいシーンだ。
もう一つは、第1幕第13場「ハンガリー訪問」で、決起の計画がエリザベートの威厳ある美貌によって頓挫し、絶望に打ちひしがれる三人の革命家を、トートが「行け、ウィーンへ!」と煽動し、それを受けて三人が下手へ引っ込む場面。暗闇の中、シュテファン(久城彬)が決意を胸に前のめりになってひたすらに走り去る姿が美しい。
スポットが消えたあとで、舞台袖からかすかな明かりが洩れているのか、プロフィールがシルエットのように美しく浮かび上がることがある。きっとそのとき舞台の中央では次のシーンに入って違う場所、別の時間でのドラマが繰り広げられているだろう。しかし願わくは、ついさっきまでの感動の余韻にももう少し浸らせておいてほしい……そんな引きずった思いをうまく収めさせてくれる、ほんのちょっとした的確な演技に出会うと、本当に幸せな気分になり、また見に来ようと思ってしまう。
さあ、緞帳が降りたあとで、ぼくたちは花のみちを歩いて駅に向かう。その時、ぼくたちの胸の中には、本当に素晴らしかったいくつかのシーンが焼き付いていて、消えることがない。ビデオにも映らなかった、すみっこの方の誰かのちょっとした動き、それは記録に残りはしないだろうが、ぼくの記憶に残っている。いくつも、いつまでも。
(スポットが消えたあとで−1 『宝塚アカデミア』2掲載)