「宝塚アカデミア」連載記事です
10 「もう『生徒』とは呼ばない」
宝塚歌劇団で女優たちのことを「生徒」と呼び習わすのは、「上の立場になっても学ぶ姿勢を忘れないため」だそうだ(清野由美「宝塚精神『清く、正しく、美しく』の教育現場」による。「プレジデント」2000年3月号所収)。高い倍率の入試を突破して宝塚音楽学校に入学した時点からタカラジェンヌとしての歩みが始まり、その後も節目ごとに試験があるという現在の制度からは、歌劇団自体が一つの学校として機能していることは確かだし、一般論としても悪いことではないように思える。
しかし、彼女たちが「生徒」である限り、誰かは「先生」であり、そこに庇護する/されるという上下関係が生じると思わざるをえない。一般的な劇団における演出家と役者よりも、おそらくは親密というよりは依存的な関係であるといってよいだろう。二年間の音楽学校の教育の中で、「生徒」たちは様々な技術を磨くことができる一方、宝塚歌劇に特化された技術を身につけさせられるようになっているはずで、極端ないい方をすれば、宝塚歌劇でしか通用しないような舞台人になることを求められ、それによって歌劇団は、優秀な人材を内部に囲い込むことができてきたわけだ。入団後何年かで歌劇団と「生徒」は契約関係を結ぶそうだが、その契約がどのようなものか、およその想像はつこうというものだ。
そしてそのようなシステムの中に、ぼくたち観客も絡め取られている。あるいは積極的にその中に組み込まれようとしている、といった方がいいのかもしれない。「先生」や「生徒」という呼称が、本来は歌劇団内部でしか通用しないはずのものであるにもかかわらず、ぼくたちも普段から「生徒たち」と言いならわし、何を習ったわけでもないのに「正塚先生」「谷先生」などと呼んでいる。他に先生と呼ばれる職業はいくつかあるが、たとえば普段、面と向かっているわけでもなく選挙区民でもないのに「小渕先生」「森先生」などとは呼ばない。
ぼくたちが歌劇団の演出担当や音楽担当を「先生」と呼ぶとき、無意識に「生徒」と同じ上下関係の傘の中に入っている。宝塚歌劇という舞台が成立する関係性の連なりの中で、結果的にあえて低い立場であることを選んでいるように思える。そのことで、隔離された共同体としての「タカラヅカ」の成立に拍車をかけている。
忘れてはいけないのだが、ぼくたちは「観客」であって、「生徒」の保護者や親戚などではない。似たものに、バレエ学校やダンススタジオの発表会レベルの公演が挙げられるかもしれない。主宰者や指導者は「生徒」からもその保護者からも「先生」と呼ばれる。出演者にはチケットのノルマがあり、たくさん売ったほうがなにかと都合がいいことは、いうまでもない。観客のほとんどは「生徒」かその保護者、その関係者だ。関係者以外の者が観に来ることはほとんどない。さらにいえば、その発表会ないしリサイタルに批評の視点が入ることなく、作品としての出来不出来より、自分が関係している「生徒」の位置、出番、出演時間等が最大の話題となる。
繰り返すが、ここで最も問題となるのは、あるいは問題にしなければならないことは、この時、観客は舞台が成立するためのプロセスの中で、不当に低い地位しか与えられていない、あるいはそこに自ら甘んじているということだ。観客が「生徒」の関係者である限り、そして「生徒」が劇団という組織の中で相対的に低い地位に置かれている限り、観客が劇団から不当に無視されたり横暴な振る舞いを受けたりするのは、当然のことだ。
即興性の高いダンス作品においては、観客の視線や息づかいなどのひそやかな反応でもダンサーは敏感に受け止めて次の動きのきっかけとしたりする。あらかじめ作り込まれた作品では、そこまでではなくとも、舞台は観客と共に作り上げていくものだということを、ほとんどの舞台人は知っているし、宝塚もその例外ではないはずだ。
やはりファンが悪いのだろうか。インターネットだかどこかで、お芝居を観て「あんまり笑ったら、一生懸命やっている生徒に失礼だ」というようなご意見に接して驚いたことがある。ちょうどぼく自身が雪組バウ公演「SAY IT AGAIN」の未沙のえるのボケをはじめとした間(ま)のみごとさに爆笑した後に接したご意見だったので、わがことを指摘されたようで、なおのこと驚き当惑させられた。確かに、笑いには微妙に上下関係が介在しているかもしれないが、舞台で役者が「一生懸命」やればやるほど、観客の喜怒哀楽が激しく深くなって当然なわけで、子どもの学芸会でうっかり転んでしまった娘の姿を大笑いされて怒り心頭……というのと同じレベルで考えてはいけない。こう書きながらも、なんてばかばかしいことを説明しているのかと、情けなくなってくるが。
歌劇団を運営している側が役者たちを「生徒」と規定することで歪んでしまっている関係性。ぼくたちファンが舞台の上の役者たちを、同様に「生徒」と呼び習わしながら、一方で彼女たちを不可侵な存在として崇敬しているという、やはり歪んだ関係性。宝塚をめぐる享受の関係には、一つとして対等なものがないように思える。
本来ぼくたちは、数千円という決して安くはない金額を支払って劇場に入場し、そこで展開される劇やショーを観るのだから、金額分の何ものかを正当に受け取る権利があり、その意味で対等であるはずだ(なお、読者の中には、ぼくが宝塚歌劇団から招待を受けていると思っている人もいるかもしれないが、そんなことは一度だってない)。ここで対等というのは、興行主や作者、舞台上の役者たちに対して何の遠慮もなく思ったことを言える、という程度に捉えておいていただいてかまわない。
熱心なファンにとって、宝塚は自らのアイデンティティーと深く重なり合ってしまっている。宝塚を、あるいはひいきの誰それを否定することは、自分を否定することのように思ってしまっているファンが多いのではないだろうか。これは、ある意味では宝塚をめぐる状況の素晴らしいところでもあるのだろう。そのような熱狂的なファンによって現在まで宝塚が支えられてきたことは、いうまでもない。
しかし、もうぼくはそのような関係性の中から一歩身を引こうと思っている。とりあえず、もう舞台の上の彼女たちを「生徒」と呼ぶことはやめよう。劇団員とか女優とか役者とか彼女とか、文章の流れに応じて適当に使い分けはしても、彼女たちを「生徒」と呼び、宝塚歌劇を一つの閉鎖的な関係性の中の閉じた舞台芸術であることを助長するような呼び方は、極力避けよう。その上で、舞台の出来の悪さを極力演出家の責任に片寄せして役者は被害者であるような論じ方も、意識して抑えていこう。
しばらく前から、演出家のことは意識的に敬称略で通してきた。彼らに対しては、極力先入観を排した上で、引き続き座付き作者としての責任と誇りを求めながら、作品が舞台芸術として、またエンターテインメントとして成立しているかどうか、厳しく批判していこう。
とにかく「生徒」と呼ばないことでぼくの文章に生じる居心地の悪さに、しばらくは自分で付き合ってみようと思う。申し訳ないが、読者の皆様にも、しばらくは見守っていただきたい。これは始まりとしては言葉だけの問題だが、おそらくはぼくの宝塚を語る文章に、大きな変化をもたらすことだろう。何よりも、ぼくと宝塚歌劇との距離を、大きく変えうるものだからだ。
さて、突然このようなマニフェストめいたものに貴重なページを割こうと思ったのは、勘の鋭い読者の方なら既にお察しのように、千紘れいかの一件のせいだ。在団中に他の劇団のオーディションを受けてそこへ移ることになったということ、そのことが公けになったということ、そういったこと自体の当否をここであえて論じようとは思わない。ヤクザの世界なら小指の一本ではすまないのかもしれないし、「がんばれよ」と送り出してくれる劇団があってもいい。ただぼくがこの一連の歌劇団の対応の中で最も残念だと思ったのは、千紘のファンの存在が、完全にないがしろにされたという一事に尽きる。
ぼくは別に千紘の熱心なファンではなかった。一時期不安定だった千紘のダンスに苦言を呈したこともあった。しかし、「黒い瞳」のエカテリーナには本当に感動した。「EL DORADO」のジプシー娘・ラウラは千紘ならではのいい演技、素晴らしい歌だったと思う。そのように、宝塚の観客の目の端には必ず入り、そして何がしか小さからぬ印象を与えてくれる存在であったことは確かだ。そういう意味で(もう少し大きな意味で)千紘れいかという役者を宝塚歌劇で見ることができたということに、ぼくは感謝している。
この一連の歌劇団の対応を知って、ぼくはこんな馬鹿げたことを思った……もしぼくの愛する女優、たとえば万里柚美さんが何らかの事情や行き違いや心境の変化によって、歌劇団にとっては不本意な辞め方をせざるをえなくなって、もし千紘のように大階段も降りず、紹介もされず、袴も着ず、花束ももらえずに大劇場を去ったとしたら(千紘自身の意思もあったのではないかという観測もあるが、つまびらかではない)、きっとぼくは悔しさとか怒りとか悲しみとか憤りとかで、二度と宝塚を観なくなるだろうし、そんな宝塚を観てきた歳月を深く後悔することになるだろう。
つまり、宝塚歌劇を長年支えてきているファンにとって、愛する女優の宝塚での歳月は、そのまま自分の歳月であり、舞台の上の彼女の言葉は自分の思いである。それを知った上でなお、歌劇団が一人の魅力的な女優を大人げない仕打ちで放逐したということは、歌劇団が劇団員をまともな人間扱いしておらず、ファンを金を払うカボチャ程度にしか考えていないということを自ら明らかにしているわけで、ぼくとしては、以て瞑すべし、だ。
でもこのように打ちひしがれていても、たとえば花組「あさきゆめみし」の新人公演で最後に彩吹真央が涙をこらえながら「何よりも、ファンの皆様の暖かい拍手が……」などと言ってくれたのを聞くと、ちょっと勇気づけられ、「やっぱりもうちょっと、君を観に来るよ」などと思ってしまうのだから、ファンなどというのは可愛いものだ。この上は、真琴つばさが最後の日にはなむけとして密やかに千紘に贈った言葉(ほんのちょっとした勇気を持って、そして、きれいごとではありますが、夢を追いかけてみたら、いくらでも新しい人生を歩むことができる……)を思い出し、遅ればせながら千紘の旅だちに改めて拍手を贈ろうと思う。この拍手が千紘の次の一歩を明るく照らしてくれますように。