「宝塚アカデミア」連載記事です

13 「唇を合わせないキス――倒錯のないベルばら」

 宙組の「ベルサイユのばら」を、彩輝直のアンドレ、水夏希のオスカルの最終回に観た。フィナーレで再び幕が上がり、それぞれアンドレとして、オスカルとしての最後に当たっての感懐、また明後日からはそれぞれがオスカルをアンドレを演じるに当たっての抱負のような発言があって、観客は拍手をしたのだが、さぁ、再び音楽が流れてスターが銀橋に歩き始めた時には、客席から息を呑むような悲鳴が聞こえた。「やればできるやんか」とも思ったし、レストランのカレーライスが特別割引になっていたことも含めて、やはり連日満員ということで劇団はずいぶん気をよくしているのかなと思ったりもした。大入り袋が出ていたかもしれない。

何日か後、彩輝オスカル、水アンドレを観た。数日前までオスカルに捧げる愛に耐えていた彩輝が、みごとな金髪となって「女であること」に揺れている。なんとみごとな転換であろう。ここにはもちろん複数の性の入替えがあるわけだが、やはり宝塚の醍醐味は交換された性にあると、再認識した。両方の役を演じることで、二人とも役の彫り込みがずっと深くなったはずだし、この劇自体への理解と愛着が強まっただろう。

改めて言うまでもないが、女性が男性を演じる宝塚、男性が女性を演じる歌舞伎の面白みは、まずそのことによって男性はより男性らしく、女性はより女性らしくと、ステレオタイプまたは理想形としての「らしさ」を具現化しようとするところにある。ここには、疑似的にせよ恋愛感情に身を委ねることについての、同性であるゆえの一見の安心感もあるだろうか。一見のというのは、本当は同性によって演じられる性愛表現のほうが倒錯的であるに決まっているからだ。

さて、シアター・ドラマシティという劇場が奇妙なのは、都会の真ん中の商業劇場である割には、花組芝居、Studio Lifeと、どうも同性だけで演じられる劇団に意識的にか力を入れて上演しているらしいところだ。このような都市的で耽美的な、美意識のきつい劇団に、そこそこ(中劇場が満席近くなる程度)客が集まる、そういう状況ではあるのだろう。

六月に入ってStudio Lifeの「死の泉」(原作=皆川博子)を観たが、前公演の「トーマの心臓」と比べて魅力的だと思ったのは、一つには男優が演じた女性、具体的には岩崎大が演じたマルガレーテがひじょうによかったことだ。詳細は端折らざるをえないが、中でも観ていてこちらの体温が上がったのは、神経を病んでしまったマルガレーテが<現在または未来>と<過去>とに引き裂かれそうになり、その揚句ラストに死ぬために戻ってきて、養子フランツ(笠原浩夫)と抱擁、接吻を交わす場面だった。もちろん現実には男どうしである。花道を走ってくるマルガレーテの速さは、男性ならではと思われたし、その速さが劇の緊迫を物語って、素晴らしかった。

率直に言って、前公演「トーマの心臓」を観た時には、彼らが男だけで劇を上演する必然性がよくわからなかった。もちろんこの作品はギムナジウムを舞台とするものだから、登場人物のほとんどは男子学生で、女性はあまりあらわれないから、違和感はあまりない。しかしやはり何人かの女性をこの劇団の男優が「女装」して演じることについては、多少違和感というか、滑稽な感じさえしないでもなかった。

ところが、「死の泉」という、ナチス・ドイツ下の優生思想、それに類似するカストラート(去勢によって実現される男声ソプラノ)生成への歪んだ欲望、ナチスが優れた人種として認めたアーリアン以外の人々の悲哀と愛と裏切りの物語といった、常識や良識といったものが極端まで激しく曲がりくねってしまった世界や時代においては、かえって性の逆転や混交が、違和感を与えないばかりか、逆にその歪んだ世界の中で彼ないし彼女が屹立する存在であるためにはふさわしいありようであるようにさえ思えたのだった。彼らが男性だけであることを必要としたのは、歪み倒錯した時代における最後の真実を描き出すための必然であったのだと、深く感じ入ることができた。

もちろん、劇団としての彼らがあらかじめ片寄った性別構成をもっているということで、倒錯した世界を描きやすいということはある。花組芝居は、やはり泉鏡花等の絢爛たる美意識に満ちた世界を描くのを得意とする。そもそもの倒錯性によって、異界に入り込むための仕掛けが、小さくて済んでいるといってもいいだろうが、Studio Lifeや花組芝居が倒錯しているように思えるのは、彼らがある美意識に強く固執し、執拗に描き続けているからに他ならない。これらの劇を数多く上演するシアター・ドラマシティは、都市の中心にありながら、いや、それゆえに、かぶいた存在でもあることを巧妙にアピールしているようで、それ自身、奇妙な異界であるともいえるのかもしれない。

さて、宝塚歌劇が「清く正しく美しく」というテーゼに守られた存在であり続けるのは、本当はずいぶん無理のあることではないのか。たとえばStudio Lifeや花組芝居の役者たちは、接吻のシーンできちんと(というのも妙だが)唇を合わせている。「トーマの心臓」における男子学生どうしの接吻でも、もちろん同様である。それがいわば演劇的必然であるし、逆に彼らがそのシーンで、顔を近づけて傾けるだけで「回避」すれば、おそらく観る者は憮然を通り越して、こんな「おままごと」を観に来たのではないと怒るだろう。

しかしぼくたちは、宝塚歌劇に、唇の触れ合わない接吻というものを許している。それによってぼくたちも劇団も劇団員も、「大丈夫だから」と留保することができている。いくつものそのようなことが「すみれコード」と通称されて宝塚歌劇というものを作り上げているわけだ。そのため、宝塚歌劇は、一見の安心感に留まってしまうことになる。

宝塚歌劇に、花組芝居やStudio Lifeに拮抗するような美学があるか。もちろん作家によっても異なるし、作品によっても濃淡はある。しかしながら、美学というものが、それを守るために多くのものを犠牲にしなければいけないものであるとすれば、宝塚歌劇は貪欲すぎる。何といっても劇場が大きすぎる。あまりに強い美学を強調してしまえば、二千人の劇場は成立しないだろう。劇団員も多すぎるし、公演回数も多すぎる。そもそもが健全な娯楽をしか目指していなかった。宝塚歌劇は尖鋭的である必要はない。あらゆる意味で微温的であらざるをえない。

オスカルとアンドレに戻ろう。改めて確認するまでもなく、オスカルは女性であるが、王妃を守るために、軍服を着けている時は近衛士官として男であると自己規定している一方、女としてはフェルゼンに叶わぬ思いを寄せている。時代設定は、革命前夜である。オスカルの設定自体を、王政の頽廃と爛熟した宮廷の文化状況の所産と解釈するのが妥当だといえよう。そうなると、本来「ベルサイユのばら」の舞台化は、強い美意識によって歪み倒錯した世界を描くことであってよかった。革命前夜という緊迫した時代背景の下で、王宮に展開する複雑な恋愛関係。その中で大きな位置を占めているのは男装の麗人である……というのだから。

それが決して倒錯した美学に基づいた世界とならなかったのは、既に述べたような宝塚歌劇がそもそももっている健全さによる。それでも、そこからあふれるように零れ出てしまった倒錯性というものがあって、それがこの宙組公演では彩輝と水の役替わりであるように思えたのだった。

ベルばら初体験のぼくにとって、正直に言うとこの公演はいささか拍子抜けの感があった。いくつものドラマティックなシーンや人物がちりばめられているにもかかわらず、その多くがあっさりと流れてしまったこと、いくつもの重要なモチーフが、伏線もなく放り出されていること、モンゼット、シッシーナと名付けられた意味不明な存在、群衆処理の中途半端さ、何よりもフェルゼンの冷静沈着な薄さ……。家に帰って細君から星組/日向薫のフェルゼンのビデオを見せられ、刈り取られた多くのシーンやセリフに得心し、今回の公演は初見者にはあまり親切な演出ではなかったように思えた。かといって、リピーターには満足のいくものだったかどうか、それもはなはだ心許ないが。

その中で、数少ない背筋のゾクゾクする場面が、オスカルとアンドレが登場するシーンだった。新人公演の華宮あいりもそうだが、オスカルの美しさは、彼女が性を往還する存在であるということに集約されており、それは決して軽やかさであるとはいえないが、貴族という地位を捨て領地を捨てて民衆の側に転じる可換制につながっていったと思われた。このオスカルという存在を実現させたのは、池田理代子自身の、革命とそれに青春や命を捧げた人々を美しく描こうとする情熱であった。宝塚歌劇のありよう自身とのシンメトリーはほとんど奇跡のようなもので、まれに見る幸福な出会いだったといってよい。

にもかかわらず、少なくとも今回の宙組公演に関しては、何かに固執するというしつこさ、アクの強さといったことがほとんどなく、全体にひじょうに希薄な舞台となってしまったのが残念だった。このような改変が「2001」と銘打たれるのであれば、それは歌劇団のファンひいては大衆というものに対する認識が間違っていると思った。再々演がリピーターを前提とするものであれば、いっそ「ベルナールとロザリー編」といったような、外伝でもよかったのではないかと思った。綺羅星の如き専科のスターがたくさん使えるのだから、キャスティング上も何ら問題なかったはずだ。要は、そのようにしてでも自らの新しい解釈に基づいた世界を現出させたいという情熱が、池田理代子ほどではなくとも演出家にあったかどうか、またそれを歌劇団が許容したかどうかということであって、つまるところ現理事長の名を不朽のものにした(?)大作を、その在任期間中に上演するということ自体、いろいろとご苦労があっただろうという意味で、今回起用された演出家にしかできなかった、そういうことだろうと思った。

数年前、清水書院から出ている『白バラ』を読んだ時、これを小池修一郎が宝塚でやらないものか、手紙を出そうかとまで思った。白ばらとは、『死の泉』と同時代のドイツで、反ナチ運動を展開した学生組織の名である。最近なら荻田浩一にと思っただろう。時代の緊迫と女性を含む数名の学生たちの友情と愛と悲痛な結末は、かなり重い題材ではあるが、野心的な演出家なら宝塚でもきっとできると思ったのだ。彼らは宝塚以外の舞台で活躍する機会を得ているようだが、そのことでかえってフラストレーションが溜まってしまうような結果にならなければよいのだが。


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