「宝塚アカデミア」連載記事です

14「あえかな美意識」

小池修一郎が構成・演出を務めた「ジャン・コクトー 堕天使の恋」を観た(六月、シアター・ドラマシティ)。同性愛と阿片が全編を貫く、薄汚れた話だ、本当のところは。しかもその背後には、流行の(?)トラウマ(父の自殺)と来た。しかし小池は、この爛熟した物語からコクトーやラディゲらの精神の営みだけを蒸留して抽出したのか、みごとに透明感あふれる作品に仕上げることに成功した。もちろん西島千博(スターダンサーズバレエ団プリンシパル)、金森穣(ネザーダンド・ダンスシアターUに作品を提供)、吉本真悟(バレエ・サンホセ・シリコンバレーのプリンシパル)といった男性トップダンサーたちの技量によって、舞台上の身体の動きがひじょうにシャープで美しかったことが効を奏したのは言うまでもない。日本の男性バレエダンサーに、これほどの才能が揃っているということが知れただけでも、大きな収穫だった。

やっと一路真輝の「エリザベート」を観た(八月、梅田コマ劇場)。トートは内野聖陽だったが、前回に比べると歌に格段の進歩があったそうだ。これも小池修一郎の演出作品だが、宝塚のどの組の作品ともずいぶん違った色合いの作品に仕上がっていた。ウィーン版に近かっただろうことは当然予想できるが、最も深く感じたのは、エリザベートやフランツ・ヨーゼフの時代を包み込む闇(もちろんそれを支配しているのがトートであるわけだが)が前面に押し出され、強い印象を残したことだ。大島早記子(H・アール・カオス)の振付による、しばしば半裸で現れるトート・ダンサー(宝塚では黒天使と呼んでいた)の動きの鋭さもあって、時代の危機感が激しく立ち上がり、ある意味では暗鬱な舞台だった。しかしそのためにシリアスで宝塚より「本格的な」舞台であるように思えたかもしれない。

この舞台では随所に迫力を感じた。たとえばミルク缶を手にした男女が床を踏み鳴らすところ。その響きの大きさは、群衆たちの怒りをストレートに表現したもので、このような直球的な背筋にズンと来るような強さは、なかなか宝塚では味わえないなと思って見ていた。

宝塚歌劇の専属の演出家である小池による二つのユニークな舞台を見て、一つにはその引き出しの多様さに感嘆した。素材をどのような切り口で料理すれば、その力や美しさが最大限に発揮できるかを綿密に計算し、それをきっちりと舞台の上で形にすることのできる技量を小池が持っているということがわかった。「ジャン・コクトー」は、優れたダンサーばかり出ているとはいえ、出演者は一人を除いて男性ばかりで、まさかむさ苦しい舞台にはならないまでも、まずセリフは問題だと思っていたら、語り手の松橋登の朗読に進行を委ねたことで解決した。何よりもダンサーの動きによって、現世の塵芥を払拭できることは予想されたとはいえ、一種の天上感さえ現われたことは、予想以上の出来だったといえるのではないか。やはりダンスは詩だと、改めて思わせてくれた。それには、舞台の空間配置の使い分けも大いにあずかったと思われた。回想の父(=トラウマ)は、必ず一段高い装置の上に現れて、地平を同じくしない。そのようなちょっとした配置で彼岸と此岸を分けたことで、ストーリーの混交を避けるばかりか、世界の区分けを明確にした。また当然のことながら、朗読されるコクトーの言葉の美しさが、現実をおそらくは過度に、濾過してもいたと思われた。

「エリザベート」で改めて顕在化してひじょうに興味深かったのが、いわゆる「すみれコード」の処理だった。今さら言うまでもないが、フランツ・ヨーゼフの不貞が明らかになったのは、宝塚版では現場写真をトートが見せたからだが、東宝版ではフランス病と俗称される性病がもたらされたからだった。「本当はそうだったのか」という驚きと同時に、しかしどちらが史実かということではなく、舞台作品としての「エリザベート」にふさわしく、また劇の流れとして適当であるのかと考える気持ちにもなった。宝塚版では、ルキーニが写真機を担いでたびたび現れ、パパラッチさながらエリザベートを追いかける。その流れの中にこのエピソードは位置づけられる。東宝版では、マダム・ヴォルフの娼館のマデレーネが病気持ちであったことが歌の中であらかじめぼくたちには告げられていて、そのために少し違和感があった。それに何より、フランツ・ヨーゼフがマデレーネとの情交で性病を得、それがまたエリザベートにも感染しましたよ、というのはリアルを通り越してグロテスクで、観るものの興を殺ぐような気もした。その意味で、これが小池の翻案であれば、すばらしい着想であると感嘆した。

さらにもう一つ、香寿たつきが外部出演した「天翔ける風に」を思い出そうか(八月、新神戸オリエンタル劇場)。元タカラジェンヌで最近大劇場作品の演出でも鋭い冴えを見せている謝珠栄が野田秀樹のストレート・プレイ「贋作・罪と罰」を構成・演出し、ミュージカル化した作品だ。この作品と香寿の熱演と名演については、「歌劇」九月号で横尾忠則が十全にレビューしているので、今さら屋上屋を架すことはしないが、香寿が思ったよりのびのびと、リラックスしているように見えたのが、何より好ましかった。宝塚で見るよりずっと小柄で華奢な香寿の演じる三条英が、世直しという理想と、貧困と性差という現実の狭間でもがき傷つく様が、いたましくまたいとおしかった。男役として歌う時よりも、軽くというとやや語弊があるが、ストレートに歌っていたようだったのが、新鮮でもあった。そしてこの舞台では、彼女のまわりの男優たちのレベルの高さにもひじょうに満足した。

 何もぼくはここで宝塚の外のミュージカルや舞踊劇(「ジャン・コクトー」はドラマシティの「ダンス・アクト」シリーズと題されてもいたのだ)をほめ、返す刀で宝塚の現状を嘆こうとしているのではない。宝塚の現役の団員やOG、演出家たちが様々に外部で活躍することは、すばらしいことだ。ちょうどぼくが「天翔ける風に」を観に行った日、後ろのほうで湖月わたるらも観ていた。彼女たちはこのような舞台を観て、自分たちの、すなわち宝塚の可能性についてどのように思いを馳せただろうかと、ちょっと一緒に考えてみたいと思ったのだ。

 率直に言えば、女性だけの宝塚では、これだけのすばらしい舞台はできないんじゃないか、と思ってしまいはしないか。たしかに先にふれた「エリザベート」の「ウィーンの街頭」で民衆がミルクを求める場面の迫力は、宝塚にはなかったものだ。しかし、だからといって東宝版ではできたことが、宝塚ではできなかったからやらなかった、と結論づけるのはあまりに短絡的で宝塚を実際以上に貶めている。言うまでもあるまいが、現実がそうであるということは、一つの選択の結果である。振付が麻咲梨乃であったことからも想像されるが、宝塚ではあのようにしたほうがよかったし、東宝ではこのようにしたほうがよかったと、小池をはじめスタッフが選択した結果だったということだと思う。

 たとえば、宝塚でもよくショーの振付を担当する上島雪夫が構成・演出・振付を行なった「DECADANCE2001〜赤い天使」(十月、ドラマシティ)は、原田薫やJOEYらの優れたダンサーがよく動き、全体にはまずまずの作品だったが、フォッシーの翻案や宝塚のショーの一場面を少し長く伸ばしたようなピースがいくつも見られ、なかなか興味深かった。宝塚でなら数十人のダンサーがいるから、たとえばトップ格の二人が敵味方に分かれて乱闘する際に、背後にその一味が十名ほど控えているが、このような公演ではせいぜい二、三人。乱闘自体の性格も変容するし、舞台の厚みも変わってくる。もちろん、それだけに芯に立つダンサーの技量は一層高いものを要求されるとも言えるのだが、逆に宝塚のように大勢を率いる場合だって、その誰よりも目立ち引き立つ技量ないし見せ方を獲得しなければならないのだから、大変だ。ダンサーのダンスのレベル自体も、全般に「宝塚って大したものだなぁ」と思われた。

 大したものだと思われた一つの要素は、やはり数十名での群舞の美しさにある。多くのメンバーを集めながら平均的なレベルがひじょうに高いこと、そのメンバーの指向が一致していて舞台の求心力が強いことによると思うのだが、そこで力よりも美しさをめざすのが、宝塚の宝塚たるゆえんではないかと思う。

 さて、力強さと美しさが対峙したとき、人はどちらに心ひかれるか。これは決して二者択一ではなくて、共存するものでなければ、ぼくたちは面白くない。宝塚の中でさえ雪組、星組、宙組の「エリザベート」が人それぞれの好悪があって甲乙つけがたいように、宝塚には宝塚の美しさ、優雅さによって提示すべき世界というものが存在する。隣の芝生は青く見えるものだそうだが、女性だけの劇団であるという稀有な特性を忘れ、宝塚がその本来の魅力である美しさや優雅さを中心に置くことを捨てれば、おそらく宝塚に戻る場所はあるまい。

 「天翔ける風に」を観た湖月らは、専科の所属となって自分の所属先が明確にはないような、どこへ戻ればいいのかと戸惑うような宙ぶらりんな思いを抱えていないだろうか。そんな彼女たちにとって、香寿の外部出演は、今後の専科生のありようを占ううえで、貴重な先例となった。「天翔ける風に」は、たしかに歌、ダンス、演技の三拍子そろった香寿だったから、これだけの名作となり得たのかもしれない。しかし、一つの貴重な先例として確認しておきたいのだが、この香寿の成功は彼女が男役として培ってきた十数年の経験があって実現したもので、ただの女優や男優(って変な言い方だが)でなかったところから萌え出でたものだったことを銘記しておいてほしい。

 宝塚に特徴的なのは、女性が男役を演じるということであるが、それは決して倒錯性や奇抜さではない。「男を演じる」ということの中には、それによって必然的に生起し、両性に通底する理想形を求めるところから生まれてくる、あえかな祈りのような美意識がある。これこそ女性でしか、宝塚でしか経験することのできない、貴重な意識の持ちようではないか。ただ表面的な派手さや強さだけなら、演出家も振付家も簡単に付け焼き刃のように与えることができるだろう。しかし、そんなことのために「男役十年」と鍛練を積んできているわけではない。評論家の松岡正剛は、このようなあえかさのことをフラジャイルと呼んで重視したが、強くなく、だから簡単に傷ついたり壊れたりしてしまいそうな美意識を核にしているからこそ、ガラス細工のようでありながら、実は芯のしっかりした、したたかな舞台が九〇年近く続いているのだろう。

 「ベルサイユのばら」を思い出してみるがいい、まさに砂糖菓子のような小公子・小公女の歌と振りから、生ぐさいバスチーユ陥落とアンドレ、オスカルの戦死を経て、断頭台へと、実に骨太な直線を間に挟んでいるわけだ。だからこそもっと自由かつ奔放にその骨太を揺らして余計なものは振り落として、新しい宝塚像を見せてほしいとは、切望しているのだが。(200110)


  ホームへ戻る  宝塚のトップへ戻る
Copyright:Shozo Jonen,1997-2009 上念省三