「宝塚アカデミア」連載記事です
15 「口ごもることから〜紫吹淳の魅力」
「宝塚アカデミア」が十六冊目を迎えられたのは、在野できちんとした批評をしようとするメディアが数少ないから、一定の宝塚ファンに受け入れられているのだと思うが、ついでにこの連載も十五回目を迎えてしまった。申し訳ないというのも変だが、いつもお読みいただいている方には、もったいなくもありがたいとしか言いようがない。お楽しみいただけているのだろうか?
実は、ここだけの話だが、どうもぼくの目は、他の人とずれているようなのだ。それを痛感したのが、先日発表された朝日新聞社主催現代舞台芸術賞のコンテンポラリー・ダンス関係で、選に入った伊藤キムの「激しい庭」、勅使川原三郎の「ルミナス」、共にぼくにとっては楽しむには苦しい、評価しにくい作品だった。呆然、である。
そしてこの「宝塚アカデミア」では、一つの公演に対して数本の批評が載るが、毀誉褒貶様々である。自分の評価と他の評者の意見がものすごーくずれていたりする時には、余裕のある読者はそれを楽しんでおられるかもしれないし、他の評者の方には尋ねたこともないが、ぼくのような小心者は、自分は見る目がないのではないか、もう筆を折ったほうがいいのではないか、と鬱鬱とする日々が続くことになる。このあたりで、ぼくが宝塚歌劇に接するにあたって、どのような立場と姿勢を保とうとしているのかを、改めて確認しておこうと思う。
一つのどうしても崩したくない立場は、一ファンであるということだ。ならばファンであるとはどういうことかと考えてみると、それが好きだということ、無責任で自分勝手でありうるということ以外に、自らの日々をその舞台と重ね合せようとする傾向があるといっていい。楽しいこともつらいことも、宝塚と共にある。このことについて、ぼくは特に万里柚美さんへの思いをことあるごとに鏤々綴っている。
もう一つ、これはファンであることと本当は同質であると思っていて、重ねて言うまでもないのだが、宝塚歌劇団に対して対等であろうとしていることだ。以前ここでも「宣言」したように、劇団員を「生徒」と呼ばない、演出家を「先生」と呼ばないのは、その一つの現われである。
以上の二点は、ぼくが宝塚歌劇を観るにあたっての姿勢をいうのだが、それとは別に、ぼくが何かしらの表現に接するにあたっての姿勢というものがある。よく親しいダンサーからは「愛のある辛口批評」などといわれるのだが、目の前に展開される作品を判断するにあたって、何を基準として評価しようかということだ。
いろいろな批評家の文章を読んだり、周辺のライターに機会があって話してみたりすると、これが意外にバラバラだったりする。もちろん、こういうことを面と向かって「同業者」に話すのは照れ臭いから、多かれ少なかれ韜晦もあると思われるが、最後は好悪だと言う人や、どれだけ感動できたかだと言う人や、作品としての完成度を測るのだと言う人や、さすがにどれだけ社会変革に役立つかだと言う人はいないが、実に様々だ。もちろん、実は同じことを言っているのかもしれない。好きでなければ感動できないし、いくら完成度が高くても感動できなければしょうがない、とか。逆に、このような評価だけはすまい、という基準を尋ねたほうがよかったのかもしれない。
ぼくは、それが目指しているものをもって、目の前に現れているものを評価しよう、と思っている。だから、ぼくがその作品なり個人を評価する時の課題は、それが目指しているものを探すことにある。
さて、紫吹淳は、どんなトップになろうとしているのだろうか。トップ就任後は「大海賊」(全国ツアー)と「ガイズ&ドールズ」の二作品しか観ていない段階ではあるが、ここでこれまでの紫吹の役どころを振り返って、紫吹の魅力を確認し、紫吹が目指すものを探してみようか。
紫吹が男役の一つ姿として立ち上がってきたのは、やはり「ブエノスアイレスの風」だといっていいだろう。もちろんそれ以前にバウホールでも主演作品があるのだが、彼女が独特のスタイルを確立できたのは、ドラマシティのこの作品による。星組時代の「二人だけが悪」で正塚晴彦作品に出演し、ゲリラのカルロスという主要な役どころを務めたわけだが、ここで紫吹はおそらく正塚の「けど……」に込められた深さを体得し、そこから一つのスタイルを獲得したのだと思う。
既にたびたび語られていることだが、正塚の「けど……」は、言葉によって説明することを放棄しているのではなくて、言語化することを回避せざるをえない状況であることを、最も効果的に表わす間投詞である。けっして小説で成立しやすい表現ではないだろうが、劇では役者の身体が存在することによって、この言葉が発せられる時間の周辺は、いくらでも膨らませることができるし、これを膨らませることができない役者にかかっては、正塚劇は成立しない。
紫吹はまずはダンスの人であって、とりたてて芝居のうまい役者ではなかったような気がする。それが「二人だけが悪」「ブエノスアイレスの風」という二つの連続した正塚劇にどっぷりと浸ることによって、口ごもることを男役の一つのスタイルとして身につけることができた。ここで「口ごもる」というのは、直接的には「けど……」に代表される正塚独特の間合いのことで、いま「二人だけが悪」の台本を見ても、「…」がひじょうに多いのが特徴的だ。「ブエノスアイレスの風」のニコラスでは、さらにそれが強調され、単なる間合いであることを超えて、場合によってはセリフよりも多弁な沈黙として効果的に使用された。
正塚は「ブエノスアイレスの風」神戸・東京特別公演のプログラムで、「哀愁があって大人っぽい感覚を持つ紫吹が、決してギラギラして頑張っているというのではなく、静かで寡黙で、一見乾いた感じなんだけれども、本当は色の濃い血の濃いような役で物語を生きたら面白いのではないかというところから」この物語を着想したと振り返っているが、静かで寡黙というのも、本当は体内でたぎっている濃い血が出口を探しあぐねて言葉にならない、というようなところがあって、それが大きな魅力になったというものだったように思う。この口ごもりを自分のものにすることによって、紫吹は確実に物語を生きることのできる役者に成長した。
今回の「ガイズ&ドールズ」で驚いたのは、こんな楽天的なお芝居だし、特にスカイに影がある男だとも思えないのに、やっぱり紫吹にかかると後ろ姿の哀愁が漂っていることだった。スカイに数少ない翳りめいたものが見えたのが、サラに「オベリア」という名を初めて教えるというくだりだったか。これもまた観る者にとっては、カルロス、ニコラスときてオベリア……という偶然の符合の感慨があったのだが。それはともかく、ハバナから帰ってきた朝、救世軍詰め所前のシーンで、唇をかみしめるスカイの表情が、その後の街景をバックに舗石をクソッとばかりに蹴りつける後ろ姿につながって、この奇妙なギャンブラーの背中が強烈な哀愁を帯びたのだった。
この哀愁は、いったい何だったんだろうか? 第二部でもう一度、ぼくは紫吹の姿から哀愁とダンディズムを共に味わうシーンを見つけた。それは下水道でクラップをやっているところで、ダイスを振ろうとして一瞬ためらうようにし、「金以上のものがかかってるんだ」と言うところ。こんな時にためらうギャンブラーなんて、本当にいい。この一瞬のためらいによって、スカイはこれまでの自分にまつわるすべてのものを味方につけようとするかのようだ。
この時スカイが言った「金以上のもの」って何だったんだろう? サラとの「初めての恋」のことか? 確かにそう考えたくもなるのだが、この時スカイはしばらく旅に出ることを決意している。もうサラとのひとときの恋は終わったと覚悟している。スカイは、ただ一枚の借用証をホゴにしないため、ギャンブラーとしての自恃のために、ダイスを振ったと考える他はない。もちろん、それがサラへの愛の一つの形であったといえなくもないのだが、むしろハバナでサラにささやいたように「俺みたいな男はダメだ」と素面に戻っていたと考えたほうがいい。
「ガイズ&ドールズ」はユーモラスなハッピーエンドに終わっているから、あまり強調されないが、もしネイサンとアデレイドは一緒になったがスカイは戻ってこない、という結末になっていたら、去って行く男の後ろ姿を強調するダンディズムを描く芝居になっていたはずだ。借用証を守るために大バクチを打ったり、サラを傷つけないために「ハバナには連れて行けなかった」とネイサンに言ったりと、むしろサラと別れて旅に出ることを決意した後のほうが、ずっとサラにやさしいのが魅力的なところだ。断言していいが、普通の男はこうはできない。
さて、このように書いてくると、紫吹は何だか口ごもってばかりの男を演じているように見えるが、実は年下の女性に自らの来歴や物事の理を醇々と説明するシーンがひじょうに印象的でもある。たとえば「大海賊」では、初めて船の上でエレーヌ(映美)と出会い、自分が海賊となった理由や生き方に対する考え方を話すところ、これでエレーヌはエミリオ(紫吹)に参ってしまうわけだし、「ガイズ&ドールズ」のハヴァナのカフェの外でサラに説喩するのだって、こんなふうに言われちゃったら、なおのこと惚れるよなぁっていうような語り口だ。つまり、いざという時はきちんとしゃべるのだ。雄弁というのではないかもしれないが、言葉になっていることよりずっと多くのことが伝わっているようなしゃべり方だ。これがつまり、口ごもりの魅力であって、紫吹が獲得した「物語を生きる」ということの証しだ。
ここまで時間をかけて見てきたように、紫吹は後ろ姿で語れる背中と、言葉にできないことを表現できる語り口を手に入れている。そして映美くららという天使のような少女をも手に入れた。きっとこれからの紫吹の役どころには、相手役である映美を掌中の珠のように大切にしながら、それを大切にする余りに身を引いてしまう年上の男性、とかそういうような男の美学、ダンディズムを前面に押し出したものが求められるだろう。そしてそれを彼女は完璧に演じるだろう。この上はぼくたちが求めなければならないのは、どうぞそのような彼女の魅力を完璧に引き出せる脚本を用意してやってくれ、ということだけなのだ。
余談だが、正塚晴彦という男は、よくよく恵まれているともいえる(いろいろと恵まれていない部分もあるかもしれないが)。いつも誰かしら自分の世界をほぼ完璧に演じてくれる役者に恵まれている。できることなら、もう一作、紫吹のために心血を注いでくれないものか。