「宝塚アカデミア」連載記事です
16 「歴史的事実にどう立ち向かうか」
「プラハの春」のように原作があって、それがかなり事実に基づいているとなるといっそう、演出家の趣味や力量や、いわゆる「すみれコード」が見えてくるように思う。今回の谷正純演出による星組公演でも、いくつか原作と異なる設定や、原作にはない登場人物やエピソードがあり、なかなか面白かった。
すみれコードかと思えて興味深かったのは、まずカテリーナ(渚あき)の姪・シルビア(千琴ひめか)が、原作ではカテリーナの娘だった、というところ。やはり宝塚ではというか、谷の倫理(?)では、夫と別居中の女の恋愛は許されても、子持ちの女の恋愛は許されないということか。まぁ、どうでもいいようなことだが、よくわからない。
だからもちろん、原作ではシルビアが堀江にどんどんひかれていき、将来はヘル・ホリエのお嫁さんになる、と胸をときめかせるところも、描かれない。原作者の春江一也がやや遠慮がちに慎重に描いた、堀江亮介(香寿たつき)が母子双方から思いを寄せられるという設定は、完全に排除された。まぁ、この大作を一時間四十分に切り詰めるためには当然の編集とはいえ、なるほどこういう設定は、真っ先に切り取られるのだな、と納得もさせられたのだが。
他に最も谷らしくて興味深かった(と言うと穏やかだが)のが、稲村(彩輝直)の恋人であるテレザ(秋園美緒)の母・ポジェナ(朝峰ひかり)という人物が創り出され、彼女が射殺されるくだりが挿入されていたことだろう。このことによって稲村は外務省を退めることを決定的に決意する。そもそも原作では稲村はこの時(と言っても、この事件そのものが創作だから、時を特定することはできないが)既に本国に召喚されており、彼を追うような形でテレザが国籍を捨てて日本へ渡り、結婚することになっている。180度違っていると言っていい。
谷は、稲村に外務省を退めさせたかったのだ。稲村のその行為によって、亮介の思いと行動にはずみをつけさせようとしたかったのだろう。ちょうど「うたかたの恋」でルドルフのいとこ、ジャン=サルバドル大公を立場や生き方の対照として置くことで、ルドルフの不遇を強調しえたような効果を狙ったのだろう。このこと自体は、ぼくはなかなかうまい処理だったと思う。彩輝に稲村を演じさせる以上、稲村をかなり魅力的な大きな存在にする必要があったし、登場人物おのおのが鋭い螺旋を描くように時代の渦に巻き込まれたことを描くには、悪いアレンジではなかったと思う。
それにしても、ポジェナの死である。これまでも再三指摘してきたが、谷個人にどのようなコンプレックスがあるのか知らないが、親の自己犠牲だとか、親を取るか子を取るかという究極の選択だとか、とにかく人を切羽詰まった状況に追い込んで、そこでドラマを創ろうという性癖がある。それはもうわかった。
しかし、ここでは、ポジェナが死のうが死ぬまいが、事態の切迫度は変わらない。母を失い悲しみに打ちひしがれるテレザを見るに忍びなくて、稲村が外務省を退める決意をした、というのでは、稲村をもこのドラマをもわい小化することにならないか。人間を肉親への情愛から来る衝動によって行動させたり、男は女を守らなければならないというような、旧弊に則った既成の規範によって動かしたりするようなステレオタイプから脱却することこそが、外務省や国家やナントカ主義というようなくびきから個人を立ち上がらせようとした「プラハの春」を生きた人々の思いではなかったか。
この公演のプログラムに寄せた「私は思わず叫び出したい衝動にかられました」という春江一也のコメントがひじょうに素晴らしいものだっただけに、谷の小さなエピソードの追加が、春江が体験し、改めて何十年かを経て描こうとした世界からの、途方もなく大きな逸脱であるようで、残念に思えた。
もう一つこの公演で残念に思ったのは、第十七場「秘密の礼拝堂」で、堀江がカテリーナの自首を納得した後、さあ、クライマックスだ、というところで流れる歌「愛のプラハ」が、あまりにも……なんというか、ずっこけてしまったことだ。改めて公文健の「あの日二人が出逢ったのは/まさに神のお導き……」という詞を見ると、その平板さに舌を巻く。作曲の吉崎憲治は、それでもなんとかこの詞をスメタナの「モルダウ」に結びつけるために、あえて三連符による畳みかけるようなメロディに仕立てるという趣向をこらそうとしたのだろうが、意地悪く解するわけではないのだけれども、歌う側が気恥ずかしくて急いでしまっているような畳みかけ方になってしまったのは、逆に聞いているほうが早く終われと念じていたせいか。
嫌味ないい方はさておき、このような厳しいシーンを三連符(譜面では八分の十二拍子)で飾るのは、たとえば数年前にベルリンの壁崩壊を題材にした「国境のない地図」(1995年、星組、麻路さき主演)で歌われた「風になりたい」も同様だし、同じ公演の「永遠よりも長く」も哀切漂ういいメロディだった。「プラハの春」は、「モルダウ」をはじめ、ヤナーチェクの「シンフォニエッタ」など東欧の名曲がちりばめられ、音楽的な格調は概して高かった。改めてメロディとは不思議なものだと思ったのだが、「モルダウ」冒頭など、短調の音階をラからファまで上がっていくだけなのに、なぜこんなに人の心を締めつけるような哀切と民族の誇りを鼓舞するような格調をもっているのだろうか。そんな名曲と伍して、間を埋めるように音をつなげていかなければならない音楽スタッフは大変だ。
なお、試しに「永遠よりも長く」に「モルダウ」のメロディを続けてみると、少なくとも「愛のプラハ」よりはすんなりつなげることができるように思う。問題は、歌がドラマの場面の中で占めるスケールという点で、この「愛のプラハ」は劇の空間を収縮させてしまうような逆効果しかもてていなかったことだ。もちろん「モルダウ」に比肩するのは無理としても、あの礼拝堂の舞台美術の品格を崩すことがない程度の格調というものは必要だった。たまたま引き合いに出した「国境のない地図」は植田紳爾によるものだったが、まず劇の緩急という点では谷よりも嗅覚にすぐれた点があったようだと改めて思い返し、また多少の俗っぽさを承知した上で言うのだが、やはり名曲を生ませるだけの何かしらの(ぼくにはよくわからない種類の)大きさがあったのだろうかと、思い直したりしたのだ。
さて、最近もう一つ、公文がらみで宝塚の底の浅さを突きつけられてしまったような苦い思いを味わったことがあった。雪組のショー「ON THE 5th」は、公文(小林公平)の原案を草野旦が作・演出したということなので、どこからどこまでが公文の着想によるものなのかは定め難いのだが、「パーク・オン・ザ・5th」で背景のビルに「SEPTEMBER 10」と出た時には、既に以て瞑すべきだったのだ。
これがたとえば、「フラワーロード」(神戸の市役所から阪急三宮駅を通って山手へ抜ける、南北のメインストリート)というタイトルで、「January 16」というサインが出ていたとしたら、あるいは広島を題材にして「August 5」というサインだったら、と考えてみれば、わかりやすいのではないか。よほどの神経がなければ、というと語弊があるが、相当の覚悟をもって、人間の尊厳を描ききるほどの覚悟がなければ、こういう題材は選ぶべきではなかった。
ここで覚悟というのは、宝塚も一つの芸能表現である以上、このようなシーンで最高のレベルの表現をなしうるかどうか、という一事に尽きる。「一生懸命誠実に作ったんだから」というような精神論とか、「復興への祈りを込めて」なんていう口先でどうにでもなるようなキャッチフレーズでは対応できない。「SEPTEMBER 11」と変わった途端に絵麻緒ゆうによって歌われる、恋人を喪失した悲しみの歌は、あの日君は電話をくれてどうこうという、はなはだ散文的なもので、メロディもぶつ切りで、聴く者のカタルシスとなるような力をまったく持っていなかった。それでなくとも、このような観る者皆が知っている惨劇を題材とする以上、題材の大きさに表現は負けてしまうおそれがあるのに、あまりに無邪気な取り扱いだったとしかいえまい。
はたして、ここで絵麻緒ゆうが歌わされた歌は、なんとも聴き心地の悪いものだった。絵麻緒は精一杯感情を込めて叫ぶように歌おうとしていたようだが、逆にそのパッションが空転して、気の毒にさえ見えてしまった。続くシーンでは、銀紙で工作した洗濯板のようなペラペラのものが天井からユラユラとぶら下がって来て、どうもそれが幻によみがえるツインタワーということだったらしいのだが、これは子供だましにもほどがあるというものだ。あまりにもひどかった。
死んだと思われた恋人シャイン(紺野まひる)は実は生きていたんだよ、よかったねと言って、何もなかったように次のシーンに移っていく。これはつまり、「9.11」エピソードとしてしか使っていないということに他ならない。そして、草野旦は、以前「聖夜物語」(1998年、星組、稔幸主演)でも、町を大地震が襲うという設定をとり、同じ愚を犯している。
草野の気持ちはわからないではない。震災についてでも9.11のことでも、何か宝塚からメッセージを送りたいという熱い気持ちのある、いい人なのだろう。しかし、去年の9月11日を大阪で迎えた「フォッシー」の出演者の面々が、惨劇のことなど微塵も感じさせないエンターテインメントを披露したように、ここはただニューヨークの素晴らしさを謳歌しさえすれば、まっとうな鎮魂となったのだ。ことさらに言われなくてはわからないほど、観客は馬鹿じゃない。プログラムに草野は「約一時間を何もかも全て忘れて楽しんでいただければ」と書く一方、「楽しむために劇場へ足を運んでくださるお客様を暗く重たい気分にさせてはいけないと思い、最大の注意を払ってツインタワー崩壊を扱ったつもりだが、表現が十分に尽くしきれていないとすれば、それは私の力不足ゆえお許し願いたい」と矛盾したことを書いている。最後に再び言うが、あのような惨劇は、エピソードとして部分的に挿入されるべきではなく、正面から全身全霊を込めて立ち向かうべきだった。そうしないのなら、まだ自分には扱えないとあきらめるべきだった。そういう覚悟がないままに中途半端に扱ったために、このような、音楽的にも美術的にもレベルの低い結果に終わってしまった。ショーのフィナーレをふだんとは違う趣向を凝らすような余裕があるのなら、人間にとって事実というものをどう受け止めるべきなのかというようなことを、少しでも考えたほうがよかった。