「宝塚アカデミア」連載記事です
17 「花の由来〜香寿たつきのために」
実はこの原稿は、締切を大幅に遅れて書いている。九割がたできたところで、香寿たつき退団の報が入ってしまった。今さら書き直すのは時間的に難しいし、何よりも悔しいので、そのままにしておく。公演のタイトルが変更になった時に、このことは決定的に予感しておかなければならなかったことなのかもしれない。しかし、希望的観測というものがその判断を狂わせた。ぼくのお願いは天には届かなかったようで、本当に悔しい。あんまりだ。
さよならは、次の機会に言うことにする。まだ心の整理ができていない。
もう決まってしまっているのかもしれないが、なんとか香寿たつきを長くトップでいさせることはできないか。ただ歌、演技、ダンスと三拍子そろっているからというのではなく、香寿の芝居には、ちょっと宝塚では類を見ないようなスケールの大きさがある。香寿で大きな物語を観たい。改めてそう思わせたのは、九月下旬にNHKで香寿の「忠臣蔵」新人公演の様子を部分的に放映(再放送)していたからだ。この番組は、当時の雪組トップ、杜けあきの退団が決まり、次期トップは一路真輝に決まったが、二番手がまだ決まらない、候補は高嶺ふぶき、轟悠、海峡ひろき、そして最も若手の香寿であるということで、香寿がトップを務める新人公演の模様をけっこう詳しく取り上げたものだった。新公の配役が決まって香寿が杜にあいさつに行くようす、新公開演前に香寿が両手をパタパタさせながら、みんなにかわいい声ではっぱをかける様子、公演が終わって杜の前で泣いている姿、など舞台裏も丁寧に押さえていて、なかなか興味深かった。
香寿の魅力はまず……と言いかけて、これがなかなか一つを別して挙げにくくて当惑する。初めに三拍子と言ったように、歌、ダンス、演技のいずれにも、他とはちょっと地平線を同じくしないような、独特な魅力を持っているからだ。その独特さをあえて最大公約数的にまとめてみれば、一種のざらつき感と言ってみてはどうだろう。
ぼくはいつか香寿のことをゆっくり書いてみたいと思っていた。同期の紫吹淳のことは何度か書いたことがあるが、なぜか香寿については機会に恵まれていない。だいたい、香寿のバウホール公演を、あまり観ていない。花組時代の『香港夜想曲』については、曖昧な記憶だが、紫吹も星組時代の『ドリアン・グレイの肖像』ではその魅力のほんの一部分しか開陳されていなかったように、なぜかこの作品でも香寿の魅力が完全に開花していたわけではなかったように思う。雪組の『凍てついた明日』はなかなかいい作品だったが、華やかさはなく、紫吹ほど印象に残る独自の人物造型ができるような役どころではなかったように思い返す。
やっと名古屋で観ることのできた『花の業平』は、まさに香寿が苦節十数年を経ても光や輝きを失わずにトップスターであることを証した、すばらしい公演だった。稔幸の大劇場公演では藤原基経という、業平と高子とキリキリと責めさいなむ役どころだったのが、一転してさらに陰影の深い主役を造形したのだから、さすがである。
大劇場でのおひろめとなった『プラハの春』は、これまた一転して現代もの。複雑でスケールの大きな政治劇に正面から挑み、役に誠実に取り組んだ結果、堀江という青年外交官の疾走ぶりを十全に描ききれたのがすごい。香寿ならではと思われたのは、聖堂で(渚あき)が自首するという決意を聞いた時のリアクション。身体の軸が斜めに揺れるのが、まさに感情が身体を反応させているようで、すごかった。
香寿というと、必ず「三拍子そろった」という形容が前につく。実際、部門別に採点表をつけてみれば、香寿がトップレベルに位置するのは間違いないだろう。しかし、かえってどうもそのために、彼女はいくぶんかワリを食ってきた。一時は、名脇役になってしまうのかとも思われた。雪組の『JFK』でフーバー長官といった渋い中年男性をみごとに演じていたころ、ぼくもそう思っていた。彼女は与えられた役柄を巧みに演じこなすが、その枠を外れて自分の色で塗り込めたり、自分の個性を押し出すことはしない。それが彼女の美点であったわけだ。本人の血のにじむような苦労の結果であっても、そのプロセスが見えてこない限り、彼女は結果としていつもどの分野でも九十点をそろえてくるので、それがあたりまえのことのように思われてしまっている。演出家の求めにせよ、原作から与えられたものにせよ、完璧にこなし、破綻がなかった。
逆に何かマイナスのある役者なら、どれか六十点のものがあったら、何かを百二十点にしようとする。それがその役者の強烈な個性、魅力となって観る者に強くアピールする。奇妙なことに、何かが突出してすばらしいということは、百二十点の役者であるように思えてしまう。しかし香寿はすべてが同列に高得点だ。もしかしたらすべてが百二十点だったかもしれない。でも何かが突出しているわけではないから、強烈な個性や魅力としてあらわれにくい。実に損だ。
伊織直加が中心となって、四人の七十五期生、嘉月絵里、美穂圭子、そして湖月わたるが出演した『Switch』を観た。もしかしたら三拍子、一番そろっていたのは嘉月だったんじゃないかと思った。もちろんスターになるには、嘉月は身長か、何かが足りなかったのだろう。しかし、背が高くて、ダンスがうまくて、歌がうまくて、芝居がうまい役者でも、主役を張れない者はたくさんいる。もちろん宝塚の中だけのことではない。運もあるだろうが、よくぼくたちは「花がある」とか「花がない」とかいう。それを分けるものは、いったい何なんだろう。
『風姿花伝』で「時分の花」とは、十二、三歳の童形の者を指していうようなので、それはまた当時の状況を踏まえているとはいえ極端だが、二十四、五歳の者を指して、「この頃には声も身なりも定まるので、よそ目にも大変な「上手」が出てきたといって人も目に止めるものだ。その者らが元々名人といわれた人よりも勝れて見えることがあるのは「当座の花」「見る人の、一旦の心の珍しき花」でしかなく、「誠の花」ではない」と、世阿弥は断じる。
香寿には、渋い魅力はあるが、いま一つ花がないといわれたりした。だからトップとしてセンターに立つのにはふさわしくなく、名脇役の道を歩んだほうがよいと思われた日々もあったわけだ。しかし、その主に雪組時代の香寿は、そういう渋い役を、実に的確に演じ続けた。そして殊に歌とダンスでは、他のスターの追随を許さぬほどの鮮やかな印象を与えていた。ぼくが「ざらつき感」と受けとめているのは、そんな香寿の歌でもダンスでも演技でも、必ず観る者の心の深いところにひっかかってあとに残るようなものがあるからだ。ただツルリときれいなだけではなく、えっ?と立ち止まってもう一度観たい、聴きたいと思わせる力がある。
さて、世阿弥は、「当座の花」から十年ほどたった頃を「盛りの極め」として、芸能の一つの頂点と位置づけている。香寿が基経を含めて『花の業平』に出会ったのも、ちょうどそんな頃ではなかったか。そういう意味で、彼女はいくぶん他人より長い時間待ったかもしれないが、最もよい時期に盛りの極めと天下の名望を迎えられたのかもしれない。だからこそ、もう少しこの盛りを共に味わいたいと思うのだ。
世阿弥は「盛りの極め」を過ぎた者に対しては、残酷な言葉を連ねる。「身の花も、外目(よそめ)の花も、失(う)するなり」、つまり、身体的な美も、観客の目に映る美も失ってしまう、と。そしてさらに年を経れば、「大方、せぬならでは、手立てあるまじ」、つまり、「何もしない」ということより他に方法はあるまい、と。「麒麟も老いては駑馬に劣る」とまで続けられては、なすすべもない。ではもう完全に消え去っていくほか、どうしようもないのだろうかと思うと、本当にたいした者であれば、「花は残るべし」という。
ここで引き合いに出すのは失礼を承知で、あえてぜひともとり上げたいのだが、専科生による「エンカレッジ・コンサート」を観た。しびれた。まず幕が上がって、全員の姿が見えた時に、とても華やかだと思った。邦なつきの柔らかく包むような高音がすばらしく、こんな名歌手だと知らなかったし、何よりも愛らしかった。一樹千尋は、いつからか力を抜いてすかしたような歌を歌えるようになっている。汝鳥伶の声の軽やかで若々しいことには驚いた。箙かおるの低音のふるえがすばらしく、表情もいい。矢代鴻のささやくような語り口は絶妙だったし、歌うことについて自由で自在であるように見えた。立ともみはエンターテイナーぶりをフルに発揮した上に、その歌からは歌詞がひじょうにダイレクトに伝わってきて、スケールの大きさに驚いた。萬あきらの高音がひじょうにチャーミングで、訴えかけてくる力の強さに魅せられた。京三紗が美しく、切々とした響きから、歌のリアリティとはこのようなものかと得心した。
本当に華やかだった。このようなものこそ散らずに残った「誠に得たりし花」に連なるものなのだろうと思った。幕間に岡田敬二が感に堪えないような口ぶりで「いやー、やっぱりともみちゃん、感動的やなぁ」と叫んでいたが、長年の宝塚生活でさまざまなものやことを見て培われ、開いた「誠の花」があるように思えた。立がマイクを持って、一曲の歌を最初から最後まで歌いきるのは初めてだと言っていたのには皆が驚き、そして心から喜んだ。箙も大好きな歌、歌いたかった歌を選んだと感慨深げに言った。一樹は大切な、初舞台の時の歌だと言った。汝鳥は月組に配属になった時にトップだった古城都さんに憧れて、「いつかはあんな歌を歌いたい」と思っていた歌をやっと歌える、ちょっと時間がかかりすぎたが……と笑わせた。
花が開くには時間がかかるが、その花を残すためには時間の流れだけではなくて、時間の重みが必要だ。そんな重みをたくさん抱えることのできたスターによる、すばらしいコンサートだった。
香寿たつきもそのような時間の重みによって本当の花を得ることのできる数少ないスターであるようだ。日本もの、現代もの2回、と続いて、次の次にはどんな引出しからどんな魅力を見せてくれるか、楽しみでならない。だから、もう少しいてほしい。お願いだ。