「宝塚アカデミア」連載記事です
18 「宝塚が混濁している」
香寿たつきに続き、汐風幸、伊織直加も退団することになった。これでいわゆる新専科に残るのは彩輝直、樹里咲穂、初風緑と、別格扱いの轟悠だけとなる。もちろん彩輝も樹里も初風も一定の役割を果たして健闘しているとはいえ、匠ひびきや絵麻緒ゆうのハロー・グッバイ、それに途中で新専科に加わった成瀬こうきの早期退団を重ね合わせると、やはり新専科という構想そのものに相当の無理があったといわざるをえない。
改めて新専科制度をふりかえって、しいて何ほどかのプラス効果を探るとすれば、一つには彼女たちをさまざまな組に自由に出演させられたということがあった。なるほど、『エリザベート』で樹里をフランツに当てることができたのは意義深いことであったといえよう。しかしこのことによって、その組で本来準トップや三番手にあたる者が、きっちりとそれらしい役に恵まれないという、重大なマイナスが生じている。もし花組の『エリザベート』に樹里が出ていなかったら、瀬奈じゅんがフランツ、そしてルキーニは誰に回っただろう。かつて星組で絵麻緒がルドルフを演じたところからあてはめれば、彩吹真央に回っていたところで、これまたひじょうに楽しみなことではあった。
たとえば瀬奈は、それでも博多座公演やドラマシティ公演もあったし、春野寿美礼の下での準トップ役には恵まれているほうだといえるのかもしれないが、『エリザベート』では樹里に準トップの役が回され、次の大劇場公演ではこれまた専科の轟悠の特出(主役)によって、せいぜいダブルトップの下での準トップ、実質三番手ということになる。どのような役どころが振られるのかはわからないが、これもまた新専科制度の影響ではある。
もう一つ、新専科の発足によって、彼女たちを外部出演させることができるということも、劇団はメリットの一つに数えていたように記憶している。特に最近の公演については、「宝塚アカデミア18」掲載の溝口祥夫や林優香子による詳しいレビューにほぼ網羅されており、改めて付け加えることはしないが、以前の香寿の『天翔ける風』以外に、格別の成果を日本の演劇界にもたらしたとは聞かない。これまでなら退団後に本人の気持ちの切り替えや周到な準備−−女優や女性歌手として再出発するための基本的な訓練など−−を経て経験するはずだったことを、在団中に、つまり男役のままで女優として舞台に立たなければならないことに、本人もファンも消化しにくい感情や感覚をもったのではなかったか。結果的に、技術的にも心がまえのような面でも中途半端で、たとえは悪いが、退職勧奨を行った大企業がその対象者に対して一定期間、再就職のための技術訓練を無償で行っているのと同列のような印象さえもったのだった。
そして今度は安蘭けいと、宙組に異動となった大和悠河の星組日生劇場公演『雨に唄えば』出演によって、準トップのあり方、外部出演の位置づけ、新専科の存在意義というものが、ますます希薄化ないしは混乱する。安蘭や特に大和を新専科に移すことなくこういう公演に出演させるということは、もちろんスケジュール調整という意味合いはあるとしても、新専科の実質上の解消を意味しているのではないか。そして中途半端な現役中の外部出演だけを、おそらくは風通しまたはリストラだけを図って存続させるということになった。
その結果、トップ争いの混濁化という奇妙な面白さと不安だけがかけめぐることになる。星組に汐美真帆、立樹遥が移って、安蘭はどうなるのかと思っていたら、日生劇場で大和悠河と競演で、真飛聖も出演するとはいえ、星組としての求心力を増大させる配役になるとは思えない。新専科から返り咲いた星組新トップの湖月わたると檀れいは全国ツアーで、それに汐美は帯同するが、このことによって、新専科のメンバーがそうだといわれていたような、一公演ごとの緊張感は醸成・強化されるかもしれないが、そしてそれすらもケガ人の増加というマイナス面ばかり強調されてしまったが、組のピラミッドの求心力や組のカラーはますます失われることになるだろう。星組にとっては、星組出身の湖月のトップ就任は喜ぶべきことではあるが、その他のメンバーを見ると、ますます何組だかわからない状態が継続される。特にこの全国ツアーは、娘役は檀をトップに、叶千佳、琴まりえ、仙堂花歩と、やはり何組かわかりにくいとはいえ豪華な布陣だが、男役は汐美のほかは現在売り出し中の涼紫央、柚希礼音と、いささか物足りなく感じられる構成となっている。またここで、ずいぶん強引な配役が見られたりするのだろうか。新トップを迎える時には、できれば組全員が行動を共にできる公演からのほうがよいと思うのだが、よほどの事情でもあったのだろうか。
固定した組というピラミッドの中では、いったんいわゆる成績で順位が決まってしまうとなかなか競争は生まれない。音楽学校という制度に基づく成績という明確な順列を、それでも劇団はなんとかして流動的なものにしようと様々に活性化の試みを打ち出しているのだろうとは思う。五組にして頂点を増やすというのもその一つだっただろうし、おそらく入団後のテストの回数も増やされてきたのだろう。しかし、宝塚の頂点が各組のトップスターであるという一極集中的な意識を劇団も団員もファンも持ち続ける限り、トップ路線であるかどうかだけが男役の価値を判断する基準となり、そこから外れた者の意欲は著しく低下することになる。これは舞台の魅力の低下に直結する。いつも同じようなことを書いているが、トップ以外の者の存在意義を、劇団も本人もファンもじゅうぶんに承知できなければ、いっそう宝塚はやせ細ってしまう。
さて、ぼくは別に劇団の関係者でもないのだから、ただ今現在の舞台が豪華で面白ければいい、三年先、五年先の宝塚歌劇がどうなろうが、それは劇団の人たちが考えてくれればよい、という立場であっていっこうに差し支えないのだが、奇妙なことにこの宝塚アカデミアの筆者の皆さんをはじめ、ファンのほうは宝塚歌劇の将来のことを心配してかまびすしく議論を繰り返しているのに、劇団のほうがそれには無頓着のような今日このごろである。
このような傾向が明らかになってきたのは、やはり植田紳爾が理事長になってからではないかというのが、大方の一致する見方だと思うのだが、今年になって植田の作品を立て続けに見る機会に恵まれ、改めてその発想に一つの型のようなものがあることに気づかされた。言いふるされてきたことなので、今さらの感はあるが、やはり『春麗の淡き光に』で改めて思い知らされたのは、植田の作劇があまりにその場その場の盛り上がりだけを狙ったもので、劇全体を統一的に流れる一貫性にはまったく配慮されていないということだった。このような近視眼的な、ただ今さえよければいいという考え方が、彼の劇団運営の方針にも通じているようで、やんぬるかなと天を仰ぐほかはないと、痛感した。
この作品は、1973年に『花かげろう』というタイトルで上演されたものをリメイクしたと、プログラムに植田自身が書いている通り、ちょうど30年前の「壮大な歴史ロマン」(植田)であるそうだ。ぼくはまず2日目に見て、どうにも演出がきちんとされていないようだと、残念に思った。それでなくとも小柄で華奢だという先入観をもたれている朝海ひかるは、どうやって大きさを出すかということが大きな課題だったはずで、ぼく程度の一ファンでも、それは『凱旋門』役替り公演の時から不安に思っていた。プログラムで植田は朝海のことを「宙組発足時から、『この生徒は将来の宝塚を背負ってくれるだろう』と期待して見守っていました」と、はからずもかどうだか花組時代はまったく注目していなかったことを露呈してしまっているのだが、とにかく、現時点では花組トップの春野と共に、朝海が宝塚の現在と直近の未来を背負わなければならないと期待されていることには違いあるまい。そのお披露目公演であるのに、たとえば朝海が一人で銀橋を渡る場面でまったく振付がなされてなかったのは、残念を超えて、理解できなかった。なんとか朝海の魅力を全開させ、存在感を強調するためにどうすればよいかと、劇団挙げて力を尽くすべき時に、これはなんとナチュラル(?)な見せ方かと、唖然ともした。もし植田が理事長職や何やらで多忙であったとしても、何人も若手の気鋭であろう演出助手がいながら何を見ていたんだろうと思い、もし彼らが何も言えなかったのだとしたら、それはいっそうひどいことだとも思う。同じプログラムの中でショー「Joyful!!」担当の藤井大介が「何がなんでも朝海のために頑張りたい」と述べ、また準トップの貴城けいについても「一生懸命朝海と舞風を盛り立てようとしている意気ごみがとてもうれしく思います」とたたえているのとは鮮やかな対照を見せてしまった。
『春麗の淡き光に』は、場面だけを取り上げれば印象的なエピソードがちりばめられてはいるともいえるが、それらもぼくが谷正純を否定してきた、肉親の情愛に基づいた究極の選択を強いるものであったり、保守的な制度や心性を強化する側に立つもので、現代演劇はこのようなものを排除してきたのにと悔しく思うものである。このことは『春ふたたび』の母親の描き方でも同様であり、それが脈々と『国境のない地図』や谷の諸作にも受け継がれていることにも驚くほかはなかった。そればかりか、保輔の心の動き、また弟の保昌の心境の変化を追おうとすると、うまく脈絡がつかない。保昌が兄の志は立派だったとしても盗賊になったことは恥辱以外の何ものでもないといって家名を捨てるうんぬんという下りは、ご都合主義というほかはない。もちろん人間というものは一貫性がなく、変節もし豹変もする。しかし、文学や演劇という表現の世界では、それらをどのようにかして解釈し、正当性を与え、そうせざるをえなかったことを悲哀として共に嘆いてきたのであって、このようにそのままほうりだすようなことはなかったはずだ。
ぼくは宝塚歌劇を見続けるにあたって、宝塚が現在の日本の演劇やミュージカルの世界の中で一定の価値や意義があることを信じて、他の演劇とも比較に耐えうる質であることを願っているのだが、こと植田の作品については、少なくとも現代演劇との比肩はあきらめている。植田には植田なりの、大衆芸能としての独特の位置づけや作劇哲学のようなものがあるのかもしれないが、歌舞伎ですらその多くが幕や段単位での部分上演が大勢を占めるようになってしまったことからもわかるように、現代の観客は、登場人物の性格造型や劇全体のトーンに一貫性がないとついていけなくなっている。あるいはこれは逆に、演劇観としては偏った見方でしかないのかもしれないが、やはり観客の学歴一つとっても三十年間で相当の変化があり、家族をめぐる状況や意識も激変している。小劇場演劇の台頭やテレビドラマの深化もあり、観客の目は急激に肥えていると思ったほうがいい。植田の作劇法は、宝塚の一つの時代を形作った貴重なものとして、今はもう封印すべきものではないだろうか。
麻実れいや毬谷友子の出ていた『櫻の園』(演出=蜷川幸雄)の初日、客席に香寿がいた。オフの彼女は本当に見違えるほどキュートだ。香寿がこれから活躍しなければならないのは、もちろん現代の日本のトップクラスの劇作家や演出家、そして俳優、女優がしのぎを削る厳しい世界だ。香寿が宝塚で学んだことで、これから役に立つのは、いったいどのような経験なのだろう。彼女には、さすがは宝塚出身と思わせるだけの実力があり、やがてはタカラジェンヌだったことを忘れさせるだけの魅力をたたえることだろう。タカラジェンヌだって変化している。植田的な世界に、内部からノーが突きつけられることはないのだろうか。(2003.2)