「宝塚アカデミア」連載記事です
22 「トップに立たなかったからこそ〜樹里咲穂の魅力」
いよいよ樹里咲穂の退団が発表され、宝塚大劇場では『マラケシュ・紅の墓標/エンター・ザ・レビュー』でお別れとなった。ぼくが最後に観たのは前楽だったが、特別な仕掛けもなく、さびしいものだなと思わされた。ショーで道化師の格好をして銀橋を渡るシーンでは、アドリブをきかせて笑いを誘っていただけに、何かあるかなと思ったが、「今日は母の日だから、お母さんに捧げる歌を歌います。『おふくろさんよー、おふくろさん』」と森進一風にやって、思い切り笑わせてくれた。明日でお別れということに何もふれないのが樹里らしいんだなと納得させられて、ぼくの大劇場のじゅりピョンは、それでおしまい。
翌日、千秋楽にはサヨナラショーがあったそうだ。新聞などによれば、「ランベス・ウォーク」で客席に降り、コンサート「JUBILEE−S」でも披露したという「ニューヨーク・ニューヨーク」で締めくくられた。最後の挨拶ではハァーッと大きくため息をついて、「宝塚生活16年で今日ほど楽しい日はありませんでした」と言ったという。
樹里には、そういう陽性のイメージがある。歯切れのいい大阪弁でガンガンしゃべりまくっているという印象が強い。天真爛漫とかコメディセンス抜群とか言われ、それは確かに一つの魅力ではあったが、『ファントム』のキャリエールに代表されるような情味あふれる丁寧な芝居、切れ味の鋭いダンス、声量と表現力豊かな歌と、三拍子も四拍子もそろった名優である。新人公演の主役経験も変則的なウルトラCもなかったのに、バウでの主演(『FREEDOM』)、専科入りの後は『エリザベート』ならフランツ・ヨーゼフというように、二番手格や別格の重要な役を与えられてきたのだから、恵まれていたほうだといえなくもない。『マラケシュ・愛の墓標』を観たとき、後ろに座っていた樹里ファン二人連れが「これは代表作やゆうてもええね」「『ERNEST…』はわからへんけど」「でも、コメディやゆうやん」「決まりやね」といってるのを聞いて、樹里はどの作品でも「これが代表作だ」と思われるような存在感を見せてきたし、そういう作品・役に恵まれてきたのだと、まだ早いけれど彼女のために喜ばなくてはな、と思った。
ファンの一人が暗に指摘していたように、実は樹里は芝居でコメディアンを多く演じているわけではない。『WEST SIDE STORY』のアニタはベルナルド(紫吹淳)を失い、その妹マリア(風花舞)の幸せを願いながらも、様々な思いに身も心も引き裂かれてしまう。『ブエノスアイレスの風』のリカルド、『Crossroad』のデュシャン、『FREEDOM』と見ていっても、一見冴えない男を演じることはあっても、意外にコメディ作品がなく、この樹里のイメージがオフやテレビや雑誌などのメディア、せいぜいショーの一場面で作られていたことに、改めて驚いてしまう。
「ウィズたからづか」(2005年4月号)の名取千里によるフェアリー・インタビューによると、まず1998年の『WEST SIDE STORY』のアニタで「もうこれでやめてもいいな」と思ったそうだ。たしかに、このアニタはすごかった。ダンスや歌の迫力はもちろんのこと、歌やダンスにやや苦闘気味なメンバーの中で、樹里だけが余裕をもって役を生きているようにさえ見えた。当時ぼくは「アニタだけがプエルトリコを体現している」とメモしている。名曲「アメリカ」がこの公演で名場面となりえたのは、アメリカを謳歌するアニタのすべてが、アメリカナイズされているのではなく、プエルトリカンそのままのように感じられたからだ。その中心に樹里がいた。
アニタはマリアと比べればずいぶん上背もあって大柄な分、不器用な包容力とでも呼びたくなるような歯がみするほどのいじらしさがあった。堪えることや失うことを知ってしまった女が、まだそれを知らないがもうすぐそれを知るであろう少女をたまらなく不憫に思って精一杯かばいながら、愛する人を殺した男たちになぶられ、「マリアは死んだわ」と叫んで事態を決定的に悪化させてしまう。そういうやりきれなさが、全身から熱く立ちのぼる名演だった。
「ウィズたからづか」のインタビューで樹里は、アニタという大きな役を得て、やめてもいいなと思った自分に、同期の一人が「でも、男役の代表作ってないよね」と言ったという逸話を披露している。ああ、なるほど、宝塚の同期というのはこういうことが言いあえる仲間なのか、と深くうらやましく思い、また宝塚に入った以上は誰もがこういうことを考えながら一つ一つの舞台を務めているのかと、しみじみと感動した。はたして、この後樹里は次々と代表作を創っていく。樹里を見ていると、代表作、はまり役とは、与えられるのではなく、自分で勝ち取り、創り上げていくものだということが、よくわかる。
同年の『ブエノスアイレスの風』については、いつも紫吹のことばかり語ってきたが、紫吹の「友だちが…死んだんだ。…せっかく、生き残ったのに」の名場面を用意する、その死んだ友だち、リカルドの的を間違えた鉄砲玉のような性急でゆがんだ情熱のほとばしりがなければ、このドラマは成立していなかった。明確な敵を失ってしまって、自分が生き続けていく行為の対象を探さなくてはならない彼の姿は、ニコラス(紫吹)の鮮やかな陰画として際だつものだった。
このリカルドは、ちょっと最新作『マラケシュ・愛の墓標』のレオンに似ている。リカルドたちがかつて相手にしていたのは軍事政権で、今はそれがなくなり一応の自由がある。しかし状況は変わっていない、相変わらず金と権力を握っているのは地主だけだ、とリカルドは苛立つ。もうそんな時代じゃないと諫めるニコラスに「こんなに簡単に終わっちまうのか?」と詰め寄るリカルド。過去の闘争する自分を捨てきれず、現在の自分に苛立ち、それが現在の社会の矛盾への批判と区別できなくなっているように見える。
一方のレオンに、明確に表明された正義はないかもしれないが、彼の言動の根底に人種という問題が横たわっているのを想像することは、困難ではない。彼はその憤懣を深いところに抱えながら、この街から出ようとしている。パリへ。そこへ行けば何かが変わる、何かが実現する、自分が変わる、と信じている。そのためには、今の仲間にも、女にも、母親にも、未練はない。現在の自分のありように激しく苛立っていて、どこかにもっと自分が輝ける場所があると妄想している。
樹里には、そういう苛立つ男がよく似合う。口の悪い人は、根拠のない過信、うぬぼれている、勘違いというかもしれないが、たいてい男なんてそんなもんだ。ちょっとクレバーではないところはあり、それを補完するように小ずるいところがあるかもしれないが、根は悪い奴ではなく憎めない。いつも何か焦っていて前のめりに生き急いでいる感じ。ほっとけない。いろんな意味で、かわいい。女にはもてる。ぼくは樹里のそういう役の姿が一番好きだったような気がする。
もちろん、『エリザベート』のフランツ・ヨーゼフのような苦悩する高貴もすばらしかったし、誰もが最高作と認める『ファントム』のキャリエールのようなぎりぎりのところでの情味を時にはクールに淡々と、時には血涙を流さんばかりに熱くあふれさせることができるのは、やはりこの人をおいてないと思わされた。今もなお伝説となっている、初日に拍手が鳴り止まず、芝居を止めたというファントム(和央ようか)との銀橋でのやりとり、父が子を抱擁する熱さ。演劇など舞台芸術では、その場に居合わせなかったことを後悔することが少なくないとはいえ、この初日の驚きと感動を味わい、共に手を叩き、芝居が止まるということを体験したかった、と心から思う。そのような瞬間を経験してしまったからには、退団という言葉が浮かぶのが、宝塚という世界のさだめなのだろう。
なぜ樹里(と和央)にこのようなことが可能だったのだろう。この二人はかつて『Crossroad』でも共演している。樹里演じるデュシャンは持病の結核が悪化し、喀血して入院している。「そろそろ死ぬよ。肚ん中のこと言っとかないとな。……悪かった」とデュシャンが、自分のせいでひどい事態になってしまったことを和央演じるアルフォンソに詫びるシーンがあった。ここでアルフォンソの「出会う理由があったんだよ。いつもすれ違ってばかりじゃ、やり切れないじゃないか」という名台詞が出る。そういう運命的で抜き差しならない出会いを、かつてもこの二人はがっぷりと実現できていたのだ。
あえて理由づければ、二人が共に大阪出身で、芝居の間合いや呼吸の点で感覚的に肌で理解し合うことができたのではないか、などということもできるかもしれない。しかし、他のどの芝居でも、『ブエノスアイレスの風』でも『マラケシュ』でもそのような運命を演じきることのできた樹里という役者の感応力の強さ、役への没入の深さ、技術の確かさを、やはり何よりも評価すべきなのだろうと思う。それによって樹里は、憎めない前のめりな小悪党だけではなく、非常に情味の深い大人の紳士を演じてもまた最高レベルの役者でありえたわけだ。フランツ・ヨーゼフもその流れの中に大きく位置づけることができる。両者を併せたように前のめりに生き急いだノーブルな存在としては、ルドルフを思い出すこともできる。
そのような姿勢は、芝居の中で自分の役を最高に演じるに留まらず、結果的にということだろうが、周囲の役者にも大きな影響を与えていたはずだ。たとえば『Crossroad』の久路あかり、『FREEDOM』の遠野あすか、『マラケシュ』の華城季帆と、若手娘役が樹里との舞台で画期的な輝きを見せるのを、いつも半ば不思議に思っていた。コンサート「JUBILEE−S」の評で薮下哲司が「研1生にいたるまで大きな役がつき、台詞、歌、ダンスなどこれほど勉強になる舞台もないだろう。全員が生き生きと楽しそうに舞台を務めており、たとえその技量が幼くても見ていてさわやかで好もしかった。もちろん、下級生にそんな貴重な体験を提供した樹里の人柄によるところも大きい」とコメントしているが、樹里にはそういう、周囲の者に場面や見どころを用意できる、稀有な才能があったのではないか。自分がトップに立ってまず光るのではなく、周囲を、相手を輝かせることで、自分が輝くことができる。そういう心の持ち主だったから、キャリエールの奇跡が生まれたのではなかったか。
紙幅が尽きて、ダンサー樹里の魅力について十分に語ることができなくなったが、『エンター・ザ・レビュー』でも直線の鋭さ、斜めに刺さる視線の色っぽさ、危うい調教師のきつめの美しさなど、様々に楽しむことができた。アニタがマリアに言うセリフに、ダンスというものは、何かを急いで発散させるのよ、というような意味のものがあった。十数年の在団期間を短いとはいえないだろうが、生き急いで前のめりになっているような男の似合う名ダンサー、彼女のダンスを観ることでぼくたち観客が何かを急いで発散することができるようだったとはいえまいか。こんな言い方をすると、ただの「いい人」と言っているみたいでわれながら照れくさいが、やっぱり彼女は、自分より周囲を楽しませたり目立たせたりするタイプの人だったみたいで、だから真ん中に立つ位置にならなかったことも彼女自身としては不思議ではなくて、これはこれでよかったのかな。
多くの大きく魅力的な役に恵まれたじゅりピョンだけど、ひとつだけ彼女の主演で観たかったと心残りに思う芝居がある。『心中・恋の大和路』。情味の強い絞るような大阪弁で、激しくシャウトもし囁きかけもする歌で、運命のように降り落ちる小判の中を柔らかく剛くしなう背で、徳兵衛を観たかった。もしあの白装束の道行きでサヨナラということになったら、もうその時は滂沱の涙で、誰もが何も見えなくなっただろう。彼女が止めるのは芝居だけじゃない。時を止め、運命の歯車を止め、ぼくたちの息の根だって止めかねない。そんなとんでもない魔力が、あの笑顔の内側にインストールされている。もう一度観たい。最後の日生劇場、チケット取り、がんばろう、っと。
(2005.6)