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「宝塚アカデミア」連載記事です
23 「ちょっと不器用なフェアリー~『Bourbon Street Blues』の月船さららを惜しむ」
競演と呼んでよいのだろう、これはなかなか残酷なものだ。巷間どの程度ささやかれているのか、『Bourbon Street Blues』の競演で、月船さららは退団することになったのではないかと思われた。実際ぼくは月船のヴァージョンを観終わると、北翔海莉のほうを観たくなって、すぐにチケットセンターに向かった。月船と白華れみがノドを潰して、歌やセリフの声が満足に出ていなかったこともある。
しかし何というか、一言でいうと物足りなかったのだ。正塚晴彦の作品として、当たり前に感じられる深み、かげり、ペーソス、じれったさ……そのようなものの濃さや色合いが、ないとはいわないが、ちょっと違うように思えたのだ。正塚の芝居というものが、なぜぼくたちが思っているような正塚劇になるのか、その成り立ちのための必要条件のようなものが、役者を変えて見てみれば、何だか見えてくるのではないかと思ったのだ。
もちろん、不器用に思わせておいて、実はなかなか配慮の行き届いた作品づくりや演出をする正塚のことだから、ある程度は若い役者に演じやすい作品にしようと気をつかったのかもしれない。いくぶんかはいつもの正塚劇よりは陽性で、襞が一折り少ないようにも思われた。たとえば、刑事ジェラルド(嘉月絵理)は実に好演といえるが、ジェフへの説教がやや平板で、亡くした息子云々というジェフへのこだわりの意味づけも、ややストレートすぎたような気がしないでもない。もちろん、それもいくつかの言い淀みの後だったりするわけだから、正塚らしいといえばそうなのだが。また、『ブエノスアイレスの風』(1998年、月組)に比べれば、同じように拉致監禁される場面でも、そこに政治性がないぶん、悲劇性と緊迫感に乏しいようにも思われた。
月船らがノドを潰してしまっていたことについては、短く吐き出すようなセリフや、勢いをつけた相槌のようなセリフ、他人のセリフに割り込むような勢いの発声、ナマな声が多いために、若い(といっても新人公演は卒業した月船なわけだが)役者にはけっこう負担が大きいのではないかとも思った。
正塚の芝居をきっちり演じるためには、ある程度の余裕というか、大人らしさが必要である。技術的には、間合いがひじょうに重要だからということがあるだろう。何もセリフだけではない。しぐさや身のこなしでも、たとえば呼ばれて振り返るまでのちょっとした呼吸とか、後ろを向いて歩き出すまでの微妙なずれとか。そういった微妙な呼吸、息をのむとか、そういうもの。それが正塚の台本では「…」で表わされているわけだろう。台本のレベルでは、これが正塚劇の大きな特徴であり、個々の役者にゆだねられているこの「…」をどれほど工夫して的確に表わしうるかが、役者の力量のバロメーターとなるわけだ。
ぼくたちがこれまで正塚劇の「らしさ」として見てきたのは、「…」がちりばめられたセリフの短いやりとりによる一見乱暴なしゃべり方だったり、無口なキャラクターの中にふっと語尾を飲み込んでしまうようなさびしさがあったり、投げやりな言葉の中にやさしさを照れたり持て余したりする屈折だったり、そういう言葉の外ににじみ出る「かげり」のようなものではなかったか。それを若い役者に求めることは、なかなか難しいものであったことだろう。
さて、かげりは、どこからやってくるのだろう。ヤクザ者や反体制派、不良青年、過去にいわく因縁をもつ者。しかし、そういう者を扱いさえすればかげりが出るというわけではあるまい。ただのチンピラで終わってしまうことは多いだろう。いみじくもシンシア(白華れみ/夢咲ねね)のセリフに「ジェフは、ずっと私のヒーローだったんだよ、私の。その人がただの乱暴者になっちゃ…」というのがあったのだが、確かにそうなってはならない。
そうありたいのに様々な事情でそうあることができない者、また、そうありたくはないのに様々な事情でそうでしかありえない者の姿であれば、どうだろう。周囲が自分を見る目の厳しさ、自分が周囲を見るときの劣等感、実現しそうにない夢、妙に明るい同年代の者たち、それらの思いや存在に攪拌されて、いろいろとねじれてしまう。眼ざしや姿勢や、たばこのくわえ方や腰かけ方、すべてがどこかねじれてしまう。いったんねじれてしまえば、どこから光が当たろうとも、どこかは必ずかげってしまう。それがかげりである。
まず、出だしから、北翔のほうがずいぶん悪そうに見えた。すべてに勢い込んで世間に喧嘩を売っているようなやりきれなさが見えた。セリフや目つきにリアリティがあった。それに比べれば月船のジェフは、よく言えば、世界に対して戸惑っているようだった。月船のほうが、仁丹のようなタブレットを飲むかっこうは様になっているようだった。北翔のダンスは、身体全体でビートを効かせていて、全身で揺れるようなのがよかった。動きにおいても、やはり月船はためらっているようだった。
さて、正塚劇としては、この月船の戸惑いやためらいのように見えるものは、むしろ的確だったといえるのだろうか。
これまで月船に感心させられたことは、少なくとも二回ある。一度は新人公演『ベルサイユのばら2001~フェルゼンとアントワネット編』の主役フェルゼン。もう一度は『エリザベート』のハンガリーの革命家エルマーである。
新人公演初主役のフェルゼンがよかったのは、国境近くの村でマリー・アントワネット(村人には「カペー未亡人」などと呼ばれていた)の命脈が風前の灯であることを耳にして、パリの牢獄コンシュエルジュに向かって馬車を疾駆させる場面での怒りの激しさであった。それについてぼくはかつて「運命とか時間とか、自分の力ではどうにもならないものに対して、そしてそれに対してどうすることもできない自分に対して、ただただ怒っていた。その怒りは、牢獄でアントワネットに向かい、説得ならず彼女が断頭台の露と消えるのを見送った後の歌にも引き継がれた。このことによって、『ベルサイユのばら』という大味な大芝居が、一人の外国人青年伯爵の「自分で蒔いた種」とはいえ、運命への無力を認識し打ちひしがれた、悔恨と悲哀の物語に転じたように見えた」と書いていた。今でも、--というのは来年またベルばらが始まることもあって--、フェルゼンといわれると、この時の月船の般若の形相、鞭打つ激しさを思い出す。
また、エルマーがよかったのは、ある種の狂気を感じさせるほどの暗い情熱が、トートとの出会いによって増幅し、いっそう奇形化していく姿を魅力的に演技できていたからだ。青年から壮年までの成熟も的確に表わせていたし、何より革命へ、政府転覆へ突進する激しさがほとばしっていた。歴代の『エリザベート』のエルマーの中で、この無骨で不器用で愚直なほどの直線的激情において、月船が最もエルマーを生きていた。
また一方、ぼくは観ていないのだが、『なみだ橋えがお橋』(2003年。霧矢大夢休演にともない代役主演)について、薮下哲司は「日刊スポーツ」のホームページで「この手のお話は、セリフの口跡と演技の間がすべて。そういう意味ではせっかくの面白いネタが聞き取れず、空回りしたり、演技の微妙な間があわずシラケる場面があったりと、まだまだ課題は山積の舞台である。(改行)しかし、月船は感情の振幅の大きい徳三郎という役をテンション高く懸命に熱演。なんといっても青天のカツラがよく似合う美丈夫ぶりが映えた。霧矢とは違った持ち前のおおらかな個性を全面に打ち出したさわやかな演技に好感が持てた」と評している。ここで薮下が言及しているテンションの高さ、おおらかさというあたりが、ストレートが身上という月船の魅力であり、微妙な間合いの演技に苦労していたところは(急な代役公演だったことを差し引いても)、月船の一つのウィークポイントであり続けたのかもしれない。
そのように思い出してみると、やはり『Bourbon Street Blues』で何だかためらっているように見えた月船は、本来の魅力を存分に発揮した月船ではなかったように思えてしかたがなかった。彼女の魅力はまっすぐな激しさにこそあるのであって、かげりや屈折ではない。エルマーにはかげりがあるのではないかと思われるかもしれないが、あるとすれば影そのものであって、かげりではない。かげっている存在は、まっすぐに太く強く進むものではない。月船はこの芝居には、そして正塚劇には合わなかったということになるのかもしれない。
宙組時代の『エリザベート』新人公演(1998年)では、少年ルドルフを演じている。入団3年目での出世役だから、抜擢といっていいのかもしれない。この時ぼくは、彼女のフェアリーな愛らしさに、ただただ陶酔していた。それこそ入団直後のtap(タカラヅカ・エンジェル・プロジェクト。シャンプーのCMのために結成されたユニット。同期の華宮あいり、速水リキ、月丘七央、月船、が初期メンバー)に遡るまでもないが、上背があるわけでもなく、とにかくキュートな顔立ちで注目を浴びていた月船が宝塚の中で特徴を打ち出していくには、それこそ「エンジェル化プロジェクト」でも遂行していくべきだったのかもしれない。
実際、ショーでもたびたび女役を振られたりもしたが、案外それほど目立つものではなかった。彼女にとってちょっと不運だったのは、新人公演のフェルゼンの後、2001年に月組に組替えとなり、『ガイズ&ドールズ』『長い春の果てに』と紫吹淳本役の新人公演で主役に当たったことかもしれない。もちろん紫吹には紫吹のキュートさがあって、それをぼくは深く愛していたのだが、フェアリータイプの月船とは対極にあったように思う。これら二つの新人公演では、ずいぶん苦労していたようだった。
しかしこれは、月船の中の相矛盾する二つの方向性をはっきりとあぶり出すプロセスであったともいえる。フェアリータイプのキュートな容姿をもちながら、演技や歌は案外ストレートな直線タイプで、ダンスにしても柔らかさが持ち味というわけではない。役の上でも大人の男、影のある黒い役もふえている。将来トップに立つとしたらどんな色のトップになるのか、自分自身のアピールすべきポイントはどこなのか、それを歌劇団はどう見て、どう尊重してくれているのだろうか……ちょうどそういう模索の時期の『Bourbon Street Blues』だったのではなかったか。
そういう時期の正塚劇は、きつかっただろうなと思う。しかも競演。一方の若手は伸び盛りで、いってみれば恐れるもののない状態だ。正塚劇は「自分さがし」が大きなテーマの一つであるといわれるが、まさにそんな時期にそんな劇に当たってしまって、人知れぬ迷いやためらいがあったのが、あらわれてしまったのではなかったか。男役として宝塚で頂点を極めるためには、月船はちょっとキュート過ぎ、ちょっと不器用すぎたのかもしれない。本当はそういうアンバランスな部分があって、それに苦悩している者こそ、正塚劇にはふさわしかったはずだ。今後は女優として芸能活動を続けるという。いつか彼女を、どこかの舞台で見るだろうが、その時にはとびきりキュートで、しかも女性として、人間としての苦悩や迷いをたくさん経てきた、深みのある姿で出会えることだろう。そんな頃に、もう一度正塚劇のとびっきりのヒロインを演じてみる機会などはないだろうか? 今からそんなことを楽しみに思っている。