「宝塚アカデミア」連載記事です
3 「優雅さはどこからくるのだろうか?」
■去ってゆく場面の美しさ
「ダル・レークの恋」でぼくが一番好きなシーンは、ホテルの舞踏会が終わって盆(回り舞台)が下手へ回り、灯りが消えた暗い中で、なおも舞踏会はシルエットのように麻路さきと星奈優里を中心として続いているという、あの場景だ。麻路の長い腕や星奈の鮮やかな曲線が連続したストップモーションのように見え、こじつけや理屈ではなく、ただ映像として美しいと思う。スローモーションかコマ落ちがかかっているかのように、ゆっくりと舞い踊っているように見えたりもする。暗くなると、光量が足りなくなる分、ものの動きの流れが緩やかに見えるのかもしれない、本当に。ここで舞台が回っていったことで、ダル・レークという避暑地のホテルでの夏の最後の舞踏会は、過去の一ページとして封印され、楽しかったわねと回想される時間に凍結されたわけだ。
ほとんどのことは、回想という時間の段階に移ると美しく見える。この一年間宝塚の舞台で執拗なほどに展開された「レビュー」とは、実はそのような謂いであったに違いない。歌謡曲にもいうではないか、過ぎてしまえば皆美しいと。
そのようにして時は出来事をいつか美に変える。あるいは、時がいつか美に変えてくれることを期待してやり過ごしたり常軌を逸したりしている現在というものもある。避暑地の恋などというものが成立するのは、そんな目算があるからに違いない。舞台が回って照明が落ち、観客の目の前からその場景がゆっくりと去っていくことで、それは〈現在〉から〈現在進行形の過去〉に移り、やがて〈過去〉へと安定することになる。このような一連の長く遠い時間と思いのうつりかわりを美しく見せた、鮮やかな舞台効果だったといえるだろう。
その淡闇に回り去っていく舞踏会のシーンは、一言でいえばとても優雅に見えた。冒頭にも述べたように、それは普通の動きがスローモーションのように見えるという、予期せぬだまし絵のようで、あえてやや大げさにいえば、二つの時間の流れを抱えた動きのように見えた。
前々号でぼくは、優雅さとは傍らに空間を抱えることではないかというようなことを書いた。それは一つには動きの形の問題であって、腕が弧を描いたり、背中が美しい弓形を作ることによって、身体の傍らに空間の広がりをもつということだ。
それは、たとえソロで踊っているときでも、傍らに相方が存在しているかのように振る舞うということなのではないかと、最近になって思いついた。優雅さとは、出発はデュエットにおいて相方を意識し、いわば求愛の中で自分をいかに美しく見せるかという工夫から発生したもので、そこで習得した動きようが一人になったときにも残っているというものではないかと。その時、優雅さは愛に満ちたという記憶であり、尊厳を持ち、過去を秘める。
再びぼくは思い至るのだが、優雅さとは、その動きの中に、たゆたう別の時間をもっているということではないだろうか。
■優雅のための痛み
たとえば風花舞が「Can-Can」やショーのジャズのシーンで見せる種類のダンスでは、現実に流れている音楽、その時そこに求められている動きよりも、彼女のほうがずっと速く流れていく。実際のところを言えば、この場合には優雅さよりも鋭い鮮やかさとして意識に残ることになる。もちろん風花も別の振付でなら緩やかな時間を身体に流すことのできる優れた踊り手だが、動きの時間の緩やかさによって優雅さを醸し出すことのできる娘役として、ここでは第一に星奈優里を挙げねばなるまい。
やや本質的ではないとは思うので、一種の図式的なエピソードとして読んでいただいてもいい、「ラ・シェルバン」での動きが印象に残っている。そこは多くの娘役が登場してひだの多いスカートの裾をもって左右にパタパタとひらめかせる、ひじょうに華やかな場面だった。あえて比べれば、「Can-Can」では腕も脚も垂直に振られたのに対し、ここでは水平気味に振られる。だから、身体の軸を中心に、ドレスの裾が円を描いて回転することになるのだが、これがなかなかそううまくはいかない。身体の軸を中心に、フワリと裾を翻すことができるのは、本当に数少ない優れたダンサーだけだということになってしまった。
ぼくは「踊らない人」だから、ダンスのテクニックについてはよくわからないし、ましてやスカートやドレスの裾の持ち方についてなど、なんの見識も持たない。しかしそれでも、たとえばある娘役が令嬢としてドレスの裾を持って歩く時に、どうしてあんなにヒョコヒョコしてしまうのだろうかと不思議に思い、きっとそれは精一杯腕を伸ばして、裾の遠くを持ってしまうせいで、だから「からくり人形」がお茶をもって歩いてるみたいに見えてしまうのかな、などと想像したりはする。
他にもきっと、手首の形、脚の開き方などなど、様々な要因が絡み合って、ある人は優雅にセクシーに見え、ある人は洗濯女が裾からげてるみたいに見えちゃったりするんだろう。それはそれで、ある場合には若さのほとばしりとして微笑ましくはあるのだが。もしも優雅であるためのただ一点のコツというようなものが存在するのなら、みんなそれに気をつければよいわけで、こんな……ひどいことにはならなかったはずだ。
同じようなことが、男役の黒燕尾の手の位置にも言えるように思う。さすがに香寿たつきは黒燕尾の衿のちょっと高いところを軽く持って肩を後ろに引いて胸を張り、手首の位置を中心に腕=肘の三角形が自在に動けるようにしている。この三角形を作るために、香寿は手首を返しているのではないか。順手ではなく逆手の形で衿を持っているために肘を高く上げることができるし、腕が外側に軽くひねられるような具合になり、痛かったりもするだろう。しかし、それがダンスというものだと思う。そして、これが黒燕尾のダンスを美しくダンディなものに見せるための、ただ一点のコツだと思われるのだが、残念ながらみんながみんな守れているわけではない。宝塚で伝承されるべき男役の美しい型の一つだと思うのだが、振付家が見落としているのか、言われてもできないのか、同根のことだとは思うが。
ぼくは、「細部に神は宿りたもう」という格言(?)を信じている。一つの舞台を評価しようとするとき、それは細部の集積として総合されている。ほんの一瞬で消えてしまう細かな動きの一つ一つに、ハッとさせられ、その堆積があとではじけることになるのだ。陳腐な人生訓めいたことは言いたくないが、優れたダンサーで振付家であるホセ・リモンが「[ダンス]とは《汗のにじみでた真実》という古い決まり文句を、文字どおり縮図で示した芸術である。筋肉は伸び切ったままではいられない。月曜日に心地よい痛みがあったストレッチも、火曜日にはそうではなくなるであろう。火曜日はもっと不快感を伴う要求をするであろう。水曜日も、木曜日も、それ以外の日も同じように……」と述べている(ベースボール・マガジン社『図解ホセ・リモンのダンス・テクニック』から)ように、踊り手の汗や痛みや不快感が、優雅さや華麗さや鮮やかさの源泉であるといっていいだろう。その結果として、ぼくたちは星奈ら優れたダンサーの裾さばきやちょっとしたしぐさに、それ自体が一つの作品であるように、見とれてしまうことになる。芸というものは、そのようなものなのだと思う。
もう一度ドレスの裾について考えよう。持ち位置に配慮すれば、肘や手首を自由に柔らかく使って、裾の流れをコントロールすることができるだろう。ピアノを弾くときのように手首を柔らかく自然な形にキープして指先で持っておけば、どんな方向にも動かすことができる。つまり、ダンスを美しく見せるためには、身体の動きの自由度を少しでも大きく保っておくことが必要だ。それはおおむね、痛みを伴うというわけだ。その上で常に動きと流れをクロスさせるように意識しておけば、裾がべったりと脚にまとわりつくようなことはないのではないか。
■流れのクロスが生み出すもの
素人考えでいくつかのポイントを挙げてみたが、優雅さを醸し出すためのただ一つのコツというものがあるとすれば、結局は「なぁーんだ」というようなことだが、クロスさせるということに尽きるのではないだろうか。
以前、万里柚美にかこつけて、斜め45度の視線と呼んだことがあったが、動きと視線をクロスさせることで空間に情感のふくらみが広がる。万里は「ダル・レークの恋」の「金の女」のインドの踊りで、凄まじいまでの視線の(眼球のと言ってもいいが)テクニックを見せてくれた。首の動きと眼球の動きを逆にすることで、動いてない方向にも動いているような、あちら側にも彼女の意識が存在しているような広がりを見せることができたのだ。これはもちろん彼女のテクニックではあるが、その姿を見ていると、そのような範疇を超えて、執念のような深ささえ感じる。いかにも、一連の技術を身につけるということは、結局は執着のような地点に行き着くのではないか。
腕の伸びと顔(視線)を逆に置く〈動きのクロス〉は、失意や屈折を感じさせ、その人物の正確や過去の深みを感じさせることになる。また、「すべて投げ捨ててこの人について行こう-でも行けない」というような〈思いのクロス〉は、たとえば去っていくラッチマンにすがるカマラの背中から腰への線となってあらわれる。避暑地の夏の最後の夜の舞踏会のシーンが去って溶暗し、娘の身分違いの恋を案ずる現実の大人たちのシーンが現れるというのは〈場面のクロス〉であり、〈時間のクロス〉とも呼べるだろう。交差する動きや思いや時間は、それぞれに別の由来を持っていて、舞台の上でしばしば哀しくすれ違う。それが劇というもので、それにぼくたちは溜め息をつく。