「宝塚アカデミア」連載記事です

4 「娘役の誕生と再生」

 せつない話になるが、組織の中で路線から外れるということは、あまり愉快なことではない。一般論だが、だいたいが見込まれてきっかけを与えられ、それを生かせなかった時には、その前よりも悪い状態に置かれることになる。理不尽な話だ。

 五組態勢になってよかったと思うのは、いわゆる脇役に見どころが増えたこともあるが、これまで路線ではないと思われていた生徒に、予想外に大きな役が振られたり、プログラム等を見ても扱いが大きくなっていたりすることで、たとえば星組でいえば新人公演で二番手の役も付いてなかった久城彬が、「ダル・レークの恋」のプログラムにカラーで載っているのを見て、多少の驚きと共に本当によかったなと喜ぶことができた。

 

 花組の大鳥れいは、一九九五年七月に研三で「エデンの東」新人公演のトップ娘役アブラ(本役=純名里沙)に抜擢された。日経の「若者はいま〜タカラヅカに舞う」に「大役精いっぱいこなし充実感」と題して紹介もされたが、「歌劇」九月号で「時期尚早……一から出直してほしい」と酷評されてしまう。翌年一月の「ハイペリオン」新人公演の純名のパートは、千紘れいか、鈴懸三由岐、大鳥が分け持つことになる。七月の「ハウ・トゥー・サクシード」で大鳥は千紘の役、またしても「的を外してしまった」との酷評を受ける。翌三月の「失われた楽園」のリア(本役=千ほさち)は舞風で、大鳥はヘレンという、詩乃優花の役だった。

 「歌劇」の新人公演評は、ぼくたちの実感とかけ離れた評価が多かった。とはいっても、歌劇団のオフィシャル・マガジンであることには違いなく、そこでの評価はある程度歌劇団の公式見解に近いと思われる。ぼく自身は「ハウ・トゥー……」は見逃したが、それ以外はすべて見ている。正直にいうと「エデンの東」も含めて、大鳥については「きれいな下級生」ぐらいのもので、あまりよく覚えていない。よい印象も残っていないが、悪い印象もない。なぜ彼女があんな酷評を受けたのかはわからない。しかしとにかくこのようにして、大鳥れいという一人の将来を嘱望された娘役は、路線を外れていったわけだ。千紘は持ち前のパワーで他を圧し(のち組替え)、下級生の千が組替えでトップ就任、舞風は舞台での柄が小さくさびしいが期待は大、沢樹も抜擢によく応えた。大鳥は「一度新公で主役もやったのにね」といわれる「実力派」になってしまうのか、もうスポットを浴びることはないのかと思われた。

 新人公演のトップ娘役が回ってこなくなったのは、実際の評価の他にも、たとえば舞風を売り出そうとする歌劇団の思惑やその思惑をふまえた評価があったりもしただろう。しかし普通、一度逸れた風を再び吹かせるのは難しい。しかしおそらく、詳説は避けるが、舞風に思ったほどの風が吹かなかったか、促成栽培的な超若手娘役の抜擢を歌劇団が避けたためか、再び大鳥にスポットが当たりかける。「失われた楽園」の翌月のバウ公演「君に恋してラビリンス」、男役が事実上初風緑と伊織直加のダブルトップ、それに合わせて娘役も舞風と大鳥のダブルという配役だった。ここで大鳥はダンサー志望のパワフルな女の子を好演する。絶賛というほどではなかったかも知れないが、少なくとも「使える」ことはわからせた。くどいようだが、これは稀なことではないだろうか。特に「寿命」が短い娘役では。

 そして八月の新人公演で再びトップが回ってくる。「ザッツ・レビュー」のお仙。千のために作られたというしかないおきゃんで蓮っ葉な女の子を、これは予想以上に体当たりで熱演する。本役が下級生というのはどんな気持ちなのか、年下の上司を持つことを想像すると、けっこう複雑な心持ちのはずだが、かえってそれでふっきれたのかもしれない。無難にこなすという消極的な姿勢がなく、のびのびとしていて、新人公演としては出色の舞台だったといえるだろう。

 そして今回のバウ公演「ヴェロニック」では、新人公演と同じく春野寿美礼(コクナール)の相手役、花屋のおかみアガートを艶っぽく、またユーモラスに演じきった。千とは方向性の異なった天性の美貌が存分に発揮されたことに加えて、鮮やかなベルカントの歌声には心底驚かされた。「エデンの東」から二年余、彼女がどのような歳月を過ごしたのかは知らない。こういって失礼ではないと思うが、娘役大鳥れいが再生し、復活するために必要な時間が流れたのだろう。

 

 「エクスカリバー/シトラスの風」を見ていて最もうれしく思ったのは、花總まりが一皮むけたことだ。花總は研二での伝説的なミーミルから順調に大きな役をこなし、雪組に移って一九九四年のバウ公演「二人だけの戦場」、大劇場公演「雪之丞変化/サジタリウス」でトップとなる。その後は今さら言うまでもないが額田女王、エリザベート、ナターシャなど、タイトルロールや事実上の主役といってもいいような役を続々と好演してきた。しかしぼくは花總にいくつかの点で物足りなさを感じていた。最初の相手役が小柄で歌が突出した人であったこと、高嶺ふぶきが短期間で辞めてしまったこと、轟悠とは公演途中での役替りが控えていたこと、そして組替えと、相手役と十分にコンビネーションを醸成するに至らなかったためだったのだろうと思いはしたが、「美しいお姫様かもしれないけど、なんだかなぁ」という感じで、舞台の上での求心性には欠けているように見えた。芝居もショーもトップ男役との絡みの少ないものが続き、花總には「一人で立っている娘役」という印象がついてまわるようになっていた。それはそれで新しい宝塚の娘役像として評価すべきなのかもしれないが、ぼくはいくらかさびしく感じていた。結果的に彼女には、相手役に添わせようとしない、演技やダンスが硬い、色気がない……そんな不満を持っていた。

 それが宙組ではどうだ。芝居でもショーでも、姿月あさととの間に強く魅かれ合う力が働いているではないか。相手が長身なために安心して身体の重心を任せられるようになったおかげだろう、後ろに背を反らすカーブが格段に美しくなっていた。姿月と見つめ合う時にパッと表情に光がさし、愛されることの喜びを全身で表現しているようだ。これまでややもすれば自分を見せることに終始していた花總が、男役との関係性を見せられる優れた娘役に成長した。

 だからこそ、「花占い」のようなコケティッシュでキュートな女の子をも、余裕の笑顔で踊りきることができたのだ。これまでもナターシャのようながらっぱちの女の子を意外に上手く演じてきた花總だが、それとはまた違って、コケットリーやキュートということが本当にどういうことなのかを踏まえた上で初めて表現できる少女性を発現できたように思う。ぼくが前号で思いついた「優雅さ」、つまり傍らに愛するものが存在しているような空間のふくらみや広がりを、一人で立っている時にも感じさせるような……色香を、やっと身につけたことができたのだ。

 そんな花總がこの冬再びエリザベートになるわけだ。前回のエリザベートで花總が成功をおさめたのは、いわば誰とも関係性を構築しないエリザベートの孤高性を描けたからであったが、次回はどのような変貌を見せるのか。もし、関係性を踏まえた上で苦悩するというような新しいエリザベート像が描けたとしたら、それは恐るべき舞台となるだろう。小池修一郎もまた試されるといっていい。

 

 どうしても男役が偏重される宝塚において、娘役の大きさは相手役との相性にかかってしまうといって過言ではなかろう。そしてその反照として、男役も生きた娘役があってこそ舞台の芯となる。その意味で、轟悠もまた月影瞳を得たことから、一回り大きさを増す可能性を持つことができている。劇評でも触れたが、月影が轟と組むことで柔らかい美しさを出すことができたのは、実に幸せなことだった。組替えによって、そして麻路さきによって救われた星奈優里は、トップになって二作品で相手役が変わってしまうことになるのが残念だが、新しいトップを迎えてあの激しく濃密な演技とダンスで舞台を染め上げてくれるに違いない。そのように、五組への改編と組替えは、娘役たちにとってもまた大きな飛躍につながりそうだ。

 そして次の娘役たちにもスポットが当たろうとしている。たとえば「エクスカリバー」で予想外にといっては悪いが、綾咲成美がケイト(本役=陵あきの)に抜擢された。あぁここに一人の娘役が誕生したのだな、と思わせるほどの華やかな姿で現れた。星組でも上級生だった陵から、学べるだけのことを学ぼうとしたに違いない。発声までが陵に似せているように聞こえたのは、もう微笑ましいぐらいだった。ロザライン(南城ひかり。本役=花總)に魅かれていくジェイムズ(夢輝のあ。本役=姿月)への嫉妬を、いくぶんかの幼さを滲ませて表現できているのには驚いた。ポール(華宮あいり。本役=朝海ひかる)との呼吸も文句なく、「お姉さん」らしさが淡い恋の思いに移っていく様子をよく出せていた。

 彼女は「誠の群像」新人公演で初めてシーンをもらったとはいえ、「夜明けの天使たち」(日本青年館)のエレインがほとんど初めてまともな台詞のある役だったと思うが、そこで眉月凰(ネルソン)とテンポのいいスリリングな恋路を楽しませてくれてから半年、綾咲は着実に一回り大きくなって姿を現してくれた。天性の華と立ち姿の美しさに加えて、舞台度胸や思い切りのよさが演技やダンスの動きの鮮やかなキレに現れていた。

 綾咲はやっとここでスタートラインに着いたといえるのだろう。彼女自身の資質が開花し、自ら獲得した美しさによってたどりついたスタートラインだ。このあと娘役は、男役との関係性を育む力、それに根差した空間の大きさをどのように身につけ、創り出せるかが問われるはずだ。それには、傍らへの眼ざしを持ち続けることが必要なのではないか。伸び盛りの者には難しい注文なのかもしれないが、劇もダンスも、それなくして続けることはできないものだと思っている。一人だけではスターになれないのが、集団表現である劇やダンスの宿命なのだ。これからも続々と、男役、娘役を問わず次のスターが生まれることだろう。そしてそのうちの何人かは本当のスターに育っていくだろう。ぼくたちはただ見守って、祈るだけだ。


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