「宝塚アカデミア」連載記事です

5 「『華』はどこへいった?」

 宝塚はプロかアマかという、多くの人にはおそらく聞きあきただろう議論があって、ぼくも別にどっちでもいいと思ってはいる。逆に何をもってプロというのかと問い返せば、たとえばぼくは大学図書館員として金額の多寡は措いて給料をもらっているが、それだけで「図書館員として、プロです」と胸を張れるかと言われると、ちょっとねぇ。最近の多くの生徒のように、退団後芸能界入りしたことを以てプロ意識があったのだ、という人がいたら、紫苑ゆうや白城あやかはどうかと反論してもいい。

 言ってしまえばどんな組織でもそうなのだが、上昇志向を持っている人と持っていない人がいる。灘高のような超受験校では、ほとんどの生徒が東大または国立医学部という志向を持っている。たまに中島らものような人が現れるが。しかし、受験倍率も、いわゆる偏差値(難易度)も高いお嬢さん学校(阪急沿線でいえば神戸女学院とか)では、もちろん国公立や共学校めざして頑張る生徒も増えてはいるようだが、そのままエスカレーター式に上の大学に行ければいいからと、のんびり一貫教育を楽しむ生徒もまだ多くて、独特の校風を守ることができている。

 話は逸れていないつもりだ。宝塚は元来、小林一三が花嫁養成学校として位置づけていたような逸話もあるように、お嬢さん学校としての性格もまだ残っているはずだ。皆がトップ目指してしのぎを削っているのかというと、どうもそうではない生徒もいるのではないか。宝塚にいること自体が楽しい、宝塚歌劇団に所属していることだけで幸せ、という生徒がいて、不思議ではない。能力、資質、スター性、努力、さまざまな要因を別にしても、そんな大らかでのんびりとした気風がいくぶんか残っていることが、案外宝塚を宝塚らしくさせている重要なファクターなのではないかと、水原まどかや白鳥ゆりえの退団の報せを聞いて、そんなことを考えていた。

 一時の星組は、有望視されながら今一つ華やかさに欠けたり、どうにも伸び悩んだりしている若手娘役がごろごろしていた。万理沙ひとみ、羽純るい、久路あかり、秋園美緒、白鳥ゆりえ、美椰エリカ、そしてその予備軍格にあったのが水原まどかだった。

 水原まどかは、かわいい娘役だった。真織由季主演の「黄色いハンカチ」で真織のお嬢ちゃん、マリア役で満艦飾の黄色いハンカチを大木にはためかせる純真な少女を演じ、愛くるしかった。真織のサヨナラということもあって、感涙を禁じ得なかった。「エリザベート」では陵あきの演じるヴィンディッシュ嬢の、精神薄弱者(?)の付き人を熱演した。その後、「武蔵野の露と消ゆとも」でもちょっとおつむの足りない付き人、中山栄子を可笑しく演じた。三の線を走るには、ちょっともったいないような気がするし、どうするのかな、と思っていたら、退団ということになってしまった。

 実はぼくは水原まどかよりも、同期だが音楽学校卒業時の成績はずっと悪かったらしい綾咲成美を注目していた。ショーの群舞で二人は並ぶことが多かったが、シャキッと胸を張って喜びにあふれた表情の綾咲に比べると、水原はいくぶん、ちょっと言い方はきついが、くすんで見えた。「この子がもっと生き生きとやってたら、すごくいいだろうな」と、いつも少し残念に思っていた。綾咲には、どんな隅っこにいてもスポットライトを浴びているような華やかさがあったが、水原はスポットの隣で十分だと思っているように見えた。

 白鳥ゆりえは、「殉情」と「Elegy−哀歌」で大きな役を得た、美人系の有望な娘役だったように思う。「殉情」では湖月わたると共に語り手役のユリコを演じ、現代的で初々しかった。「Elegy」(バウ公演)ではトリスタンとイゾルデの悲劇を決定づける「黒い帆です」と叫ぶ<白い手のイゾルデ>を上手く演じた。それが最後の舞台姿となった。「二人だけが悪」の新人公演で叫び過ぎたのがマイナス点として記憶に残ってはいるが、特に難のない、美しい生徒だった。

 この「特に難のない」というのが、最も始末に負えないと思っている。新人公演などで「無難にこなした」というのは、けっして褒め言葉ではない。きっと舞台というものは、そのようなものではない。芸の神様を振り向かせ、微笑ませるのは、平均的に流してしまうタイプの演技ではなく、体当たりで砕け散らんばかりの心意気だと思う。一つにはそんな心意気が、身の動きの激しさや張りとなって、華に転じるのではないか。

 ぼくが千ほさちを認めていたのは、そんな心意気を最も露わに、はじける姿を見せてくれたからだ。「ザッツ・レビュー」での威勢のいい啖呵の数々はもちろん、彼女がカッと目も口も開いて頭を後ろに倒すポーズを決めるとき、劇場の空気もキンと音をたてた。そのパワーは周囲にも伝染し、勢いのある舞台になったが、しばしばそれが舞台の荒れに見えるのが心配でもあった。ともあれ彼女はそのようにして自分をさかんに燃焼させ、鮮烈な印象を残して去っていく。「おきゃん」という形容が最も似合い、キュートで大きな存在感を持っていたから、花總まりに続く大輪の花を咲かせるかと期待していたが、残念だ。せめて大劇場の大階段を降りる彼女にお別れを言いたかったが、詮ないことだ。

 さて、「お嬢さん学校」でもある宝塚では、そんな心意気を持たずにのんびりと育って巣立っていく生徒も多いのだろう。悪いことではない。しかしそれが、小ぎれいにまとまって無難な演技をよしとする態度や空気から作られた雰囲気だったとしたら、どうにも面白いことではない。

 「虹のナターシャ」でぼくは初めて紺野まひるに注目した。そう言うと正確ではないかも知れない。向こうからぼくの視界に入ってきた。紺野はとりたてて動きがシャープでエレガントなわけでもなく、どちらかというと小柄なほうだから、彼女が自然に目に入るというのは、なかなか説明しにくい。ただ、どんな隅っこにいても自分がセンターでスポットを浴びているような、堂々とした華やかさがあった。綾咲に目が止まったのも、たとえば「宝塚おとめ」を見ていて「きれいな子だな」と探したわけではない。妙に輝いている知らない生徒がいて、「宝塚おとめ」で調べたら、それが綾咲だったわけだ。

 妙に目を引く、ということ。それが一つの華ではないか。今さらだが、世阿弥は「風姿花伝」で「時分の花」「まことの花」という言葉を使って、芸の神髄は「まことの花」だとしているが、宝塚という場所は、時分の花をどれだけ大きく美しく開くことができるかということにすべてを賭けているところだといっていい。その意味では春日野八千代も松本悠里も、宝塚の本質には関係ないと思っている。

 榛名由梨という大きな存在だったらしい人がいて(こんな書き方は耐えられない、という人も多いと思うが、勘弁して下さい)、トップを経て専科に入り、退団後芸能界入りし、今般バウホールの「永遠物語」に特別出演したことが話題になった。彼女は、専科に入ったことで、自らの華を削ぎ落とそうとした時期があったのではなかったか。そんな、そして、宝塚の外の芸能界でも決して主役を張っていたわけではない彼女が、宝塚という華を必要とする舞台の上で、しかも決して華やかではないあのような芝居に主役で出るということは、どうしても華のない舞台にならざるを得なかった。たしかに榛名は上手かった。他の専科の面々(特に母親役の京三紗)も素晴らしかった。しかしその上手さは、しみじみと鎮静的な魅力ではあっても、めくるめく思いに観客を引き込むものだったかどうか。ぼくがこの公演で最も残念に思ったのは、松五郎(榛名)が雪の中で倒れ落命するラスト近くのシーンで、松五郎の全体像を収斂して劇的な悲しみに引き込んでいくスパイラル感を味わうことができなかったところだ。「OG特別出演」という先入観も邪魔をした。榛名の現役時代に見たかったと、しみじみ残念に思った。少なくとも時分の花は去っていた。

 華を自ら禁じるように仕向けた人もいた。現役でも脇役という立場を与えられ、そこでの存在感を求められた人。たとえば詩乃優花はそうだったかもしれない。もともと、華やかな人ではなかったのだろう。しみじみとした情感を湛えるいぶし銀のような演技を磨くことで、舞台の上に一定の地位を築き上げることができた人だ。一度いぶしてしまった銀を再びキラキラと輝かせるのは無理なことなのだ。だから「Speak Easy」のはなむけとしての華やかな大役はいささか彼女には荷が重く、新人公演の大鳥れいの方がはるかに適役だったように思えたのはやむを得ない。大鳥は今、銀から金になる錬金術の過程にあるのだ。そして榛名は、いぶし銀としての美を極めてしまった人だったのだ。

 しかし華というのは、そっと与えることもできるということを、麻路さきのサヨナラ公演となった今回の星組のステージで、しみじみと感じ入ることもできた。ぼくが見たのは残念ながら千秋楽の前日のマチネが最後だったのだが、鷺草かおるというベテラン娘役が大階段の上で、あと二回、三回とカウントダウンするしかない大劇場をしみじみと見やり、目を伏せ、そしてまた向き直って柔らかに微笑むのを見て、なんて幸せなんだろうと、心から喜び、うれしく思った。「皇帝」でネロに捧げた最後の忠節の心は、鷺草がずっと宝塚に、星組に、麻路に抱いていたのと同じ心だったのではなかったか。また「ヘミングウェイ・レビュー」ではダンサーとして稔幸と柔らかく絡みスッと去っていく、短いが美しい場面をもらっていた。あの彼女の一世一代で精一杯の華やかさは、誰か人に(つまりぼくたちに)見せるための華であるよりは、この場所で青春の十数年を過ごした彼女自身のために贈られた華だったように思えてならない。

 その華を目にすることで、ぼくたちもまた宝塚というこの不思議な場所に居合わせたことの喜びを分かち持つことができた。野にはさまざまな花が咲く。ユリやヒマワリやバラのように大きく香り高く開く花もあれば、サギソウのようにひそやかに咲く花もある。きっとそういうことだ。


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