「宝塚アカデミア」連載記事です
6 「花總まりの涙」
宙組の「エリザベート」を観て、これは決定版だなと思った。公演評と重なることになるので詳述は避けなければならないが、初日直後は模索状態だったようで少々心配されたが、公演中盤以降はトップの姿月あさとを中心に、技術面での安定はもちろん、呼吸が合い、役づくりの読みや彫り込みが急速に深まり、ミュージカルでありながら硬質のストレート・プレイを観ているような劇的感動を与えてくれた。第一部が終わった幕間に、席を立てないほどの、声を出したくないほどの圧倒的な舞台だった。
ぼくはこの第五号の「娘役の誕生と再生」で、花總まりが宙組に移って初めて男役との関係性を見せられる優れた娘役に成長したことを喜び、「エリザベート」での彼女の再演について、「もし、関係性を踏まえたうえで苦悩するというような新しいエリザベート像が描けたとしたら、それは恐るべき舞台となるだろう」と、期待を込めた予想を書いた。結論からいうと、彼女はぼくの期待を半ば裏切り、孤高のエリザベートを確立させた。
今回のエリザベートで、花總が最も進歩したのは、「芝居の歌」が歌えるようになっていたことだ。わかりやすいのは、フランツ=ヨーゼフ(和央ようか)との出会いの後、銀橋での二人のデュエットだ。豪華なネックレスをプレゼントされ、「もったいない……とても重い」と歌うその歌い方は、楽譜に台詞をのせたのではなく、呟きがメロディにのったような、思いのこもったものだった。前稿でも述べたことだが、これまで優等生的な、楷書体の娘役だった彼女が、自在な草書体をもこなせるようになったように思えた。これを単なる小手先だけのテクニカルなレベルに留まるものだとみなすのは間違っている。そのように歌うことが逆に自分自身の中に流入して、自分の中の劇性を増幅させる。同時に、もちろんそれが観客の心の中に入り込む。このようにして劇は自律的に展開してゆく。それは役者をしばしば自分でも思い及ばなかったような地点へ連れてゆく。芝居の神様のしわざだ、としか言いようのない地点へ。
いくつでも挙げることができる。披露宴の後半でエリザベートが黒天使たちに囲まれ、トート(姿月)に腕を取られるときに、花總はブルッとふるえた。絶妙だった。トートが「最後のダンス」をシャウトすると、花總は耳をふさぎ、息を荒くして本当に切迫した様子をあらわにしている。名曲「私だけに」は、雪組当時から花總の真骨頂を示す熱唱だが、さらに今回を涙を流し、鼻をすすりながらの絶唱となった。ルドルフ(朝海ひかる)の柩へ歩み寄るシーンでは、袖から花總の鳴咽とも吐息ともつかぬ息が洩れていた。
このように宙組の花總は、一言でいえば感情をあらわにした激しいエリザベートを演じとおした。ぼくがこれを喜んでいるのは、つまり花總が舞台で自分を開放することができるようになったということだと思えたからだ。雪組の「エリザベート」から二年半余、相方のトップスターは一路、高嶺、轟、そして宙組誕生で姿月と、めまぐるしく変わった。それぞれからそれなりに学ぶところもあっただろう。そして星組時代の上級生の白城あやかがエリザベートを演じた星組公演からも多くの事柄を吸収できたのではなかったか。
今さらだが、白城のエリザベートと花總のエリザベートは、ずいぶん違った。図式的にいえば、白城はトート(麻路さき)を中心とした他者との関係性を丁寧に描き、雪組の花總は一人で立っていた。ぼくは概ねエリザベートに関しては白城より花總の方がふさわしかったと思っている。「エイヤン、ハンガリー」という宣言など、白城があくまで王妃としての闡明であったのに対して、花總のそれは女王としてのものだった。それがエリザベートらしさを際立たせていた。しかし、病院訪問の場面だけは、陵あきのの名演もあったが、白城のほうがヴィンディッシュ(陵)へのねぎらいを丁寧に描けた分、エリザベート自身の孤独を相互に反照させて、真に迫っていたように思う。花總は自分の孤独で精一杯に過ぎた。その結果として、ヴィンディッシュを拒否しているようにさえ見えた。それが宙組の花總は、もちろん陵を得たこともあろうが、はるかに人間味を増し、リアリティにあふれた人物造形に成功していた。この二つのこと……花總が舞台で自分を開放できたことと、人間味を増していたこと……は、おそらくは同じことだ。やや前稿からの牽強付会と思われるかもしれないが、やはり舞台の上で関係性を築けたことによって一回り大きくなったのだと思う。
本当に花總は宙組「エリザベート」でよく涙を浮かべ、流していた。ぼくたち観客が涙を流すという経験は、しばしばカタルシスという美的体験を表わす言葉で語られる。同化または代替行為による吐出である。ぼくたちが日常の生活の中で何らかの理由によって塞き止めている強い思いの揺れが、舞台の上の何らかの……台詞の端々やふとした表情や、もちろんストーリーや歌詞等によって……きっかけによって堰を切ったようにあふれ出て、大概は滂沱の涙となって現れる。告白すると、ぼくも二度、経験している。一度は阪神大震災の直後、星組名古屋公演「若き日の唄は忘れじ/ジャンプ・オリエント」で経験した。なぜというわけでもなく、ほとんど舞台の上の出来事とは関係なく、ただむせび泣いていた。言葉にすれば、また星組の皆さんと無事に会うことができたことがうれしかったのだと言えなくもない。しかし、だからといって、泣くか? もう一度は、退団後の安寿ミラのディナーショーで、プログラムが終わって、ああよかったね、と配偶者に言い終わったと思ったら、席を立てずに号泣していた。自分でも狐につままれたように思いながら泣いていたのだが、いまだによくわからない。なぜぼくはあの時泣いていたんだろう。
しかし、舞台上の彼女たちにとってはどうなのか。役と場面への没入……芝居の中での人物と演じている自分の境が定めがたくなるのだろうか。演技として涙を流すことも少なくないとは思われるが、ぼくは宝塚のような大劇場で役者が涙を流すのは、決して熱演を証しする必要条件ではないと思っている。小劇場や映画、テレビでならともかく、双眼鏡でしか見えないような部分で演技をアピールすべきではない。ぼくたちはしばしば双眼鏡のレンズの向こうで彼女たちが涙を流しているのを見て「わぁー、はいってるわぁ」と感心する間もなくもらい泣きをするが、そういう効果はあるにせよ、極力役者はアンコントローラブルな状態に自分を置くべきではないし、化粧が乱れるおそれもある。だから、花總が泣いていたからといって、彼女の役への読み込みが深まったとか、そういうことをいおうとしているのではない。
麻路さきを送る立場になった稔幸の、「ヘミングウェイ・レヴュー」フィナーレのソロは、まさに麻路を送るにふさわしい歌詞であった。稔は稽古場で号泣してしまって歌えないことがあったと、「スターの小部屋」か何かで告白していた。いい話だと思った。できることなら、その場に居合わせて、星組の面々と一緒に涙に暮れたかった。本番ではそのようなことはなかった。ここでの稔の仕事は、麻路を精一杯の歌で送り出すことであって、ぼくたちと一緒に涙に暮れることではない。
退団者が、ふとした拍子にスッと涙を流すのを、とても美しいものだと思っている。また「エリザベート」の千秋楽では、組替えになる朝海ひかるの目から二、三粒の涙が落ちた。それはルドルフが来し方を思い絶望した涙として、まことにふさわしく、ストレートに受け止めることができた。そして朝海が宙組に移ってからの一年のことが、それにオーバーラップした。観客に感情移入させる依り代のような道具として、涙はひじょうに効果的に機能する。役者の涙は、ふとした拍子に落ちるものだと思っている。花總は宙組の「エリザベート」で、いい意味でちょっと余裕が出たのではないか。舞台の上で自分を安心して開放してもいいと思えるような条件が整ったということがあったのではないか。
花總が走るのを見るのが好きだ。彼女は、あの清楚で高貴な立ち姿からはちょっと想像できないのだが、けっこうがむしゃらな走り方をする。「私だけに」の歌の中で走る場面でも思ったし、少女時代のシシィはいつも懸命に、ややドタドタと走っていた。これまではその懸命さが痛々しいような気がしていたが、今回はそれを微笑ましく感じた。それを、見ているぼくの感じ方だけのことだとは思えない。花總自身が、自分のそういう真っ直ぐさを、ちょっと相対化して一歩引いて楽しむ余裕ができているような気がする。
花總は雪組のトップ娘役として、新しい男役のトップスターを短期間に二人も迎えなければならなかった。おそらくそれはぼくたちには想像もつかない、神経をすり減らすようなことがあったりするのだろう。暗黙のうちに、自分が一人で舞台を背負っていかなければならないようなプレッシャーを、自分で感じていたとしても不思議ではないし、相次ぐタイトルロールなど、ある時期からそういうことを思わせるような扱いも目立っていたように思う。それが新組誕生ということで、責任は重大だとはいえ、姿月や和央と共同して事に当たることができたはずだ。肩の荷が下りた、ということではなかったか。そして関係性が築かれ、自分を開放できた花總は、思うままに「鳥のように自由に」……シシィそのものとなろうとしている。その自由さが、関係性の成立の末に獲得されたものだったという一種の逆説を、ぼくは十分楽しむことができている。
千ほさち、風花舞が相次いで去った。ぼくは痛恨にも観ることができなかったが、風花は「LAST STEPS」という貴重な前例を作ってくれている。流れは速い。しかし、花總がこれからどうなるのか、まだまだ見ていたい。そして大鳥れい、檀れいという二人のトップ娘役が誕生した。「夜明けの序曲」の大鳥は堂々と美しく、まずは平均点以上だったといっていい。風花の跡を継ぐ形になる檀には、インターネットなどで知る限りでは、相変わらずの理不尽な揚げ足取りのようなバッシングが続いていて不愉快ではあるが、そんな火の粉の振り払い方だって、バッシングの伝統と同様、宝塚八五年の歴史には脈々と流れているはずだ。徐々にではあるが、娘役のありようが変わってゆくようだ。時代が変わるためには、あとから振り返ってみるといくつかの重大な転換点があるものだ。白城あやかが膝上ブーツを履いていたとか、羽根の大きさがどうだったとか、そんなことを大騒ぎしたことも、きっとその一つになるだろう。花總もまた、その存在自身が宝塚にとって一つの転機となるような、重要なポジションを確立しつつある。そして、彼女はこれまでのがむしゃらさを自ら楽しむことができるほどの自由闊達ぶりを獲得しつつある。「エリザベート」東京公演がまたどんな伝説を生み出してくれるか、チケットが取れないのが残念だ。