「宝塚アカデミア」連載記事です
7「祭りのさなかに起きること――ノバ・ボサ・ノバとCrossroad」
あえて祝祭などと、文化人類学めいた言い方はするまい。祭りのさなかには、様々なことが起きる。それらの出来事を招き寄せるために、祭りというものはあるのかもしれない。神も来れば悪魔も来る。舞踏会も闘牛も祭りだといえば、「うたかたの恋」も「仮面のロマネスク」も「哀しみのコルドバ」も祭りが運命を決定づけた。「若き日の唄は忘れじ」の祭りの美しさは、誰もが記憶にとどめているだろう。
伝説の名作「ノバ・ボサ・ノバ」は、改めて言うまでもないが三日間のカルナバルとその前後の出来事を描いている。一人の女が一人の男に引かれてしまい、怒った許嫁に誤って刺されて命を落とす。それだけのことが起きてしまう。カリオカたちはどこからともなくやって来て、どこへともなく去っていく。もし祭りのさなかに時間は止まっているとしても、人々はとどまってはいない。「祝祭日は移動し、見世物も移動し、それを楽しむ人々も移動する。移動の風景がいくえにも交錯し、すぎゆく過去と、受け入れる現在と、夢とともに迎える未来とで構成された移動する「人生」の諸相を、人々はそこに感知するのだ」(今福龍太『移動溶液』新書館)、と書き記した旅人がいるように、祭りは人生の時間の流れを濃縮している。
実際、「ノバ・ボサ・ノバ」で中心となっているのはカリオカ(リオデジャネイロっ子)たちだ。八百屋舞台を左右に、斜めに横切り、流れ来ては去って行く。カリオカたちが現われ去ることで、時間が夢のように過ぎてしまったことを知る。三日間が劇場では三時間に凝縮されているが、さなかに踊る者たちにとっては、実際に数時間に感じられる三日間ではないか。それはドラマを生きる主役たちとは別の流れを持っているように見えるが、実のところ主役たちを包み、溶かし込んでうねる大きな本流であって、そこで誰かが他の誰かを好きになったり、恋を失ったりすることは、水面に跳ねる滴のようなものだ。カリオカたちが大きな群れとして過ぎ去ることで、個人のドラマは吸い取られ、押し流され、遠景に霞んでいく。起きてしまった事柄の結果……たとえばブリーザ(朝海、安蘭)がもういないということだけが残るのだが、それすら傷がやがてかさぶたとなり消えていくように、かすかな跡しか残さないだろう。オーロ(香寿)がラービオス(貴咲)に慰められる後ろ姿を見ていると、この翌日にカルナバルが終わったからには、何もなかったようにというわけではないにせよ、ちょっとかすり傷を追った程度の痛みだけを抱えて日常を生きていくのだな、と思う。それがまた群衆というものの強さであるのだし、そうでなければ三六〇日余の日常などを、生きていけるわけもない。
カリオカと呼ばれる群衆をこれほどまでに美しく描いたというのは、一種の祈りと哀惜が込められていると思わざるを得ない。1971年という初演の時代を考えている。時代の興奮は去り、学生を中心とした青年たちに幻滅が広がっていった時代ではなかったか。群衆の力、何人かのヒーローたち、それらの消滅……。時代そのものが祭り(といっては割り切れないだろうが)の後のような空漠を抱えていたといえるのかもしれない。実際、それから数年後に大学に入ったぼくたちは、三無とか六無とかやさしさとか、とにかく欠如していることで一からげにされる世代となる。
香寿たつきは、何をあんなに激しく嘆き歌っていたのか。それは一人の女を失ったという悲しみを超えて、人が時間の中で生き死にするという、どうにもしようがないことそのものを嘆いていたというほかはない。鴨川という男にどのような思いがあったかは知らないが、時代への悔恨を交えた哀惜がこめられていたに違いない。香寿がそれを感じさせた。そうでなければ、このように群衆を決定的に美しく描けない。主役たちが結果的にあまり目立たず、群衆に溶解していくのも、スターの交換可能性を意識した、一つの哲学に発したものだったのではなかったか。
その鴨川も時間という限られた螺旋の中で、カリオカの一人のように凄烈なスピードで人生という舞台を駈け過ぎていった。もし鴨川が早逝せず、あるいはこれを継ぐ者がいたなら、たとえば一つに現在の宝塚の奇妙なスター偏重傾向は、かなり異なる形になっていたと、惜しまれてならない。誰もが数瞬はスターになれることと、誰もがどこにいてもスターでありうることを、同時に実現する、夢幻郷のようなショーだった。
正塚晴彦のタンゴ・マオという存在が気になっていた。「そんな(抽象的な)<風景>のなかを歩む人は、だれもが群衆のなかの一人にすぎず、孤立した匿名・無名の存在、比喩的ないい方をすれば顔のない存在にすぎない」と、既に川崎賢子が指摘していた通り(本誌三号所収「<風景>の時代のスペクタクル、群衆の時代のエロティシズム」)、「二人だけが悪」でシルエットとしてほとんど姿を現わにせず、背景に溶け入るような存在だったのが、「ブエノスアイレスの風」ではやや姿を明確にした。展開するドラマの後ろでただ踊る男と女は、「エリザベート」の黒天使を換骨奪胎して、民衆の強さと美しさを見せている。「Crossroad」で踊り続ける、城華阿月を中心としたロマ(ジプシーの自称。「人間」の意)たちは、サンバやタンゴを踊り続けている人々に比べて、差別されている民族であるということで表現に哀愁の濃さが増している。この劇でクライマックスを彩る事件は、ロマの祭りのさなかに起きる。
いくつかの軽率さとアクシデントによって、ということは運命によってということだが、アルフォンソ(和央ようか)、デュシャン(樹里咲穂)、ヘレナ(遠野あすか)は海沿いの街で身を潜めて暮らしている。以前はデュシャンが好きだったヘレナだが、今はアルフォンソに思いを寄せている。アルフォンソはその思いに答えられない。祭りの日、街角に花売りの屋台が出ている。ヘレナが駈け寄り、一本の花を「きれいよ」とアルフォンソに差し出す。ためらいがちにおずおずと「きれいだ」と答える。追い込まれた暮らしの中で、生まれて初めて花というものを見たような言い方である。もちろん初めてヘレナの姿が見えたということである。
この少し前に「今も私のこと、嫌い?」と聞かれて、「いや、……どう答えていいか、わからない。……ジプシーの女しか、知らないから」とアルフォンソは言っていた。聖者の像をかついで海まで送るというジプシーの祭りのさなかに、一人の男が花を美しいと言い、そして次には「おまえが、嫌いじゃないよ」と言う。そして女は、彼らを追い詰めてきた男たちに撃たれる。彼女が持っていた花を手に、女を抱えて片膝ついて「嫌いじゃない」と繰り返す和央の、複雑で幼い美しさ。
それは、祭りの昂揚が言わせたものだったのだろうか。長い逃避行ののち、デュシャンは持病の結核が悪化し、喀血して入院している。この少し前に「そろそろ死ぬよ。肚ん中のこと言っとかないとな。……悪かった」とデュシャンが自分のせいでこんなことになってしまったことを詫びるシーンがあった。ここでアルフォンソの「出会う理由があったんだよ。いつもすれ違ってばかりじゃ、やり切れないじゃないか」という名台詞が出る。このあと劇には、やっとやって来た古い恋人シモーン(久路あかり)にデュシャンが「シモーン、よく来たな」と全身で語りかける名シーンがあるが、アルフォンソはヘレナともう部屋を出ていて、過去を清算するために警察に自首すると告げている。
死とか自首とか親許に帰るとか、要するに旅は終わったのだ。ロマたちもいつか放浪から定住へと暮らしを変えたように、アルフォンソの彷徨も終わる。そんな終わりをやさしく迎えてくれるような、ロマの祭りである。終わりを迎え、過去を清算しようとする思いが、男に思いを吐露させる昂揚につながったのだろう。後悔してばかりの歳月だ。逃げ続けてはいられない。すれ違うばかりじゃやりきれない。いつか運命というものを引き受けなければならないとすれば、それが旅の終わりということだ。
ところが、正塚は簡単には旅を終わらせない。あるいは、アルフォンソが本質的に旅する者でしかないことを再確認させようとする。街に捨てられていたのをロマに拾われ、育てられたというその出自、ロマの村を出て街に出ようとする劇の幕開き、逃亡、投獄……と、アルフォンソはさすらう者、どこにも属せない者としてしか描かれていない。最後に仮出所した彼をヘレナが待ってくれていたのを見て、やっとぼくたちは彼の長い旅も本当に終わるのだろうと、安堵したのだ。
旅という時間が祝祭的なものであることは、いうまでもない。旅も祭りも、凡庸な日常から突出する。そこで起きることは非日常の時間の中の出来事として、日常には持って帰らないものなのかもしれない。「ノバ・ボサ・ノバ」のカルナバルで展開された時間は、日常とは切れたものとして完結しており、ぼくたちはそれを持って帰る必要がないように思えた。鴨川は祭りのあとを描くことはしなかった。しかし「Crossroad」には旅の終わりが最後に提示されていたために、ぼくたちはそこから続く、旅ではないものの始まりを持って帰らなければならない。「二人だけが悪」でアリシア(白城あやか)が「その次も、その次も」と繰り返して、劇の後に続く時間が余韻されたように、アルフォンソとヘレナのこれからの幸せで凡庸な日々について、ぼくたちは少し心配になる。
祭りのさなかに起きたことが、祭りの後の時間をどのように決定づけるのか。ぼくたちは本当には聖なる時間など持てないから、祭りの後にさなかの出来事を必ずずるずるとひきずってしまう。現代という時代は、ハレとケの境界が不分明で、祭りが拡散しているといえるのだろうが、自分の中に決定的な特別な時間を持ってしまった者だけが、本当の意味での祭りのあとを生きることになる。祭りのあとを生きていることを自らに刻印している男を、どうも正塚は好んで描くようだ。これはなかなか一筋縄ではいかない美学だ。祭りのさなかを全開で踊り続けるカリオカを、特有の哀惜に浸して描いたショーと併せて、同時期にこのような二つの素晴らしい作品に接することができたことは、大きな喜びだった。この二つの作品には、堅固で明確な美学が流れていた。そしてやむを得ないことだろうが、美学を保つためには、失わなければならないものも多い。そのような断念が劇に濃い暮色を与えた。真昼の太陽の下のカルナバルやロマの祭りにさえ漂う暮色に、深く深く陶酔した。