「宝塚アカデミア」連載記事です
8「舞台という夢魔」
今夏の高校野球が、朝日放送の局アナ・赤江珠緒が実況中継をしたことで記憶されるように、花組の「ザ・レビュー'99」は、その出来が素晴らしかったことはもちろんだが、宝塚史上初めて女性がオーケストラの指揮を務めたことで記憶されることになる。御崎惠という芸名のような名と、男役スターのような容姿をもった指揮者を、ぼくは幕開きから三日目に見たが、なんだか劇場全体に勢いや活気といったようなものを与えていたように思う。指揮者がそんなふうに目立つのはおかしいじゃないかと難じる人もいるかもしれないが、オーケストラピットから上体をひねって銀橋のスターに目をやり、テンポを合わせながら指揮棒を振る姿は、じゅうぶん目を引いて魅力的だった。ある部分では彼女自らタテ乗りで音にからだを合わせ、もしかしたら舞台をリードしていたかもしれない。ぼくには指揮法の知識があるわけでもないので、単なる素人目の印象だが、彼女の指揮姿はアグレッシヴでドライヴ感があり、何より舞台上の生徒をよく見ていた。それらは初々しさとか、いくぶんかはまだ不慣れであることの証左であったかもしれないが、共に一つの世界を作り上げようとする情熱の勢いのように見えて、感動した。
FNNスーパーニュースや朝日新聞の記事によると、今春宝塚管弦楽団の指揮者のオーディションに九倍の難関を突破、八十五周年の宝塚史上、初の女性指揮者が誕生した。先輩指揮者の岡田良機から「慣れてくるともう少し楽に」といったコメントが寄せられていた。「頑張りすぎないように、とアドバイスしています」という歌劇団からのコメントも出ていた。一ヶ月半の間、水曜日しか休めず、一日二回公演の日も多いという過密スケジュールに置かれている以上、息抜き、手抜きをうまくとっていくことは、実に必要なことなのだろう。宝塚管弦楽団の指揮者は四人の交替制だという。一公演に必ず二人の指揮者が出るわけだから、二交替ということになる。なかなかにハードな勤務態勢のようだ。
音楽系の大学の作曲科出身で、彼女自身学生時代にかアマチュアでか舞台に立った経験もあるとテレビでは紹介されていたし、この秋にも劇団てんというミュージカルの劇団の公演の音楽(作曲)を担当しているようだし、来春尼崎のアルカイックホール・オクトで上演されるミュージカル「Lia Fail 運命の石」という北アイルランドのテロリストを主人公にした物語の制作を担当するそうだ。彼女が今後にどのような未来を志向しているのかは知らないが、クリエイティブな感覚もあわせ持った指揮者として、これまでの指揮者の枠を超え出るような新しい局面が開かれれば面白い。
そういえば、「ノバ・ボサ・ノバ」で指揮者の佐々田愛一郎がピンクのスパンコールのジャケットを着ていたのを、鮮やかに、そして少し微笑ましく記憶している。ショーでは時折、指揮者やオーケストラのアクションを見ることができたりする。日頃裏方として舞台を支えているオーケストラピットの人たちの姿を見るのは、けっこう楽しい。そしてそれ以上に、彼らがショーを一緒になって作り上げているのだということを改めて認識させてくれる。このステージを作っているのは、舞台上の数十名の生徒だけではなくて、数十名のオーケストラもだ、そして千数百名のぼくたちだって……と思いが及ばないでもない。
さて、息抜き、あるいは手抜きというと、なんだか悪いことのように聞こえてしまう。常に全力投球で向き合ってほしいと思ってしまうのだが、そんなことは不可能に近く、あるいはペース配分といえば聞こえもよく、現実に近いのだろうか。実際ぼくたちは、その日のステージの出来について、「今日はビデオ録りの日だから、気合入ってたね」といったように分け知り顔に言ったりする。「ビデオ録り」が「会の総見」とか「誰某さんが見に来てる」に変わったりする。逆に気合が入ってない、ノリが悪いと思える日もあって「今日は手ぇ抜いてたやん」なんて憤ることもあるわけだ。
手を抜く、気を抜くというのとは少し違うかもしれないが、メリハリや緩急をつけるということ、これはいいことだ。公演評でもふれたが、姿月あさとの歌が素晴らしいのは、引きを心得ているからだ。「エクスカリバー」の「ぁーロザライン」に続き、「激情」でも随所でメゾピアノの魅力を聞かせてくれたが、言うまでもなく声量、表現力、声質、確かな音程など、あらゆる面にわたっての力量が豊かな幅を持って自在であるからこそできたことだ。「ノバ・ボサ・ノバ」新人公演で霧矢大夢のソールに見たのは、同様の自在さであった。
このような自在さというものを感じさせる舞台が少ない。いささか旧聞に属するが、五月に観た瀬戸内美八らの宝塚ホームカミング「心中・恋の大和路」で痛感したのは、なんと自由で自在で、闊達な演技であることか、ということだった。台詞回し一つとっても、ゆっくり噛みしめるところと早く畳みかける部分との強いコントラストの鮮やかさ。伝統に根差したような様式美を思わせるしぐさや足の運びが見事だと思ったら、別の場面では規矩を失って乱れた様子となる。のどをきつく絞った声と呵々とした笑い声に通じるようなおおらかな声。おどける部分は思いっきりおどけて見せ、だからこそそこに悲哀が見える。男の前で少女のようにとことん可愛く振る舞い、やがてその幼さが運命をシンプルな一直線に収斂させてしまい、二人の運命を白い雪の中に消してしまうことになる。男が友人を救おうとして打った一芝居での悲しい酔態は凄絶なほどに残酷だ。それに怒った男の狂気に近い高い笑いが覗かせる運命という劇の深さ。自分以外のものに魅入られてしまった男が発するいくつもの声音のすさまじさ。死出の旅にありながら「不思議なほど、心ははずんでいるんです」と微笑む女はあくまでも愛らしく、かえって運命の残酷さを思わせる。そして最後に八右衛門を見る忠兵衛の目、口元、伸び上がる背が、万感の思いを形にしたものだったのだ。
……このように、瀬戸内美八、若葉ひろみ、峰さを理、朝香じゅんらが繰り広げたのは、人が自らの運命を正面から受け止め、その故に運命に翻弄され、そこから生じる心の動乱を余すところなく描ききった近松の劇を、正面から受け止めて咀嚼するために、苦しみもがいた末の「劇そのもの」だったように見えた。彼女たちの演じた劇は、ある意味ではとてもわかりやすいものとなった。繰り返しになるかもしれないが、悲しむべきところは徹底的に悲しみ、喜ぶべきところは徹底的に喜び、くだけるところは思いっきりくだけ、怒るべきところは徹底的に怒る。自在に、つまり好きなように思うがままに振る舞っているように見えたのは、たとえば瀬戸内は忠兵衛その人になりきっていたから、何をどうしようが忠兵衛だったわけだ。そんな演技の振幅の大きさによって、劇が「劇的」と呼ばれるようなものそのものとして立ち現われることができたのだ。とすると、自在さを感じさせる舞台が少ないとぼくが思っているということは、残念なことに演じる者が役そのものになりきっていないからではないかと思われる。
バウホールのシェイクスピアは、なかなか好調な滑り出しだった。「冬物語」のポスターを見て絶句した人も、春野寿美礼、瀬奈じゅんの迫真の熱演に驚きまた安心したのではないだろうか。「から騒ぎ」は初風緑・大空祐飛、星野瞳・叶千佳の絶妙なコンビに抱腹絶倒しながらも初風の濃さを堪能できた。「ロミオとジュリエット'99」は水夏希のシャープでクールな魅力と全編を通した透徹した美意識に酔うことができた。これらはいずれも、与えられたはずの役がいつしか演じる者に乗り移ったような、大げさにいえばシェイクスピアに憑かれたようなスリルがあった。
そんな中で「十二夜」が物足りなかったのは、オーシーノーの大和悠河が狂言回しの役どころに回ってしまったからだ。ここで運命によって自らの恋いの心に煩悶するのは、オーシーノーに恋い焦がれながら男装のゆえにその思いを成就できないヴァイオラ(花瀬みずか)であり、オーシーノーから言い寄られながらヴァイオラに魅かれ、しかし受け入れられないオリヴィア(夏河ゆら)だった。夏河はもちろん達者なものだったが、いささかコメディに流れすぎた。花瀬にいたっては、令嬢が男装しているという美的スリルがなく(宝塚という枠組みの中ではしかたなかったのかもしれないが、そうだとしたら、男役にさせるべきだったかもしれない)、なぜオーシーノーに見向きもしないオリヴィアがヴァイオラに狂ってしまうのかを納得させるに至らなかった。数年前に見た「女たちの十二夜」でヴァイオラを青山雪菜がひじょうにチャーミングに演じていたのを、懐かしく思い出したりした。
大和悠河に、こんな役をこんなふうに演じさせてはならない。この劇で大和はオリヴィアを恋慕し入れられず、男の外見をもったヴァイオラに異性として慕われているがそれを知らない、というちょっと滑稽な役どころだ。滑稽さについては、滑稽さが徹底していなかった。そして随所に男の真実を見せられる場面があったはずだ。オリヴィアに言い寄るのに受け入れられないというのは、確かにみっともない。しかし、「心中・恋の大和路」の瀬戸内が、情けない姿や滑稽な場面といった忠兵衛のみっともなさの中から、どれほど素晴らしい男の真情を見せ、「男」を上げたかを重ね合せれば、やはり大和自身が滑稽さを演じることに、そして演出家か誰かも大和に滑稽さを演じさせることに臆病だったといわざるを得ない。
結果的に、大和は公爵として初めて観客に現われた場面でさえも、何者でもなかった。その場面に至るまでに、オーシーノーの登場を待ち焦がれているという劇を誰も用意することができなかった以上、やむを得ないことでもあり、いくぶんかは気の毒であったのかもしれない。
この劇が面白くなかった大きな原因の一つに、誰がどのような位置で、どのような大きさを持っているのかという構図がはっきりしていなかったことが挙げられる。オーシーノーがなぜ主人公で、なぜそれを大和がやらなければいけなかったのかが見えなかった。ここではっきりしていたのは、紫城るいの可愛らしいアンポンタンぶり、穂波亜莉亜の愛らしさ、他はベテラン陣の奮闘ぐらいなもので、演出の木村信司はいったい外遊して何を見てきたのかと不思議に思うほかはなかった。シェイクスピア劇という骨格のしっかりした原作を元にしながら、劇の大枠となる構図を出演者に理解させることができず、つまり自分自身わかっていなかったということでは、演出家の看板を降ろしたほうがいい。
わかってほしいのだが、ぼくは大和悠河という逸材が、本当に実力を発揮して、徹底的に自らを絞り尽くした魂からの舞台が見たいのだ。どんなに演出や構成が悪くても、一人大和がのたうちまわって恋をし、苦しみ、悩む姿を見ることができれば、きっと満足できる。大和はそれだけの華と魅力をもっている。歌が弱いことなんか、何の問題でもない。もう大和も子供ではないのだから、自分でそんな徹底ぶりを選び取っていかなければいけない。
大和はおとなしい優等生であってはならない。与えられた殻を破り続けること、演出家の言うことを裏切り続けることができなければ、自分の殻を破ることもできないだろう。本当は、大和が現れれば空気が変わらなければいけない。大和が絶えず甘やかにぼくたちを裏切ってくれるようなスケールの大きなスターになるためには、こんな芝居をさせていてはならない。もっと鷹揚に、自在に、役を自分そのものとして、公演中はそれを生ききるような徹底的な没入をさせるほどの魅力的な芝居を用意しなければならない。
瀬戸内や若葉、峰らが徹底的に役を生き、われを忘れて劇に没入した舞台を見、御崎の懸命な指揮ぶりを見て、ぼくは宝塚がアマチュアだのお嬢さんのお稽古事だなどというような批判を鼻で笑う気になっている。芝居というのは、たとえお嬢さん芸のつもりで入っても、それだけでは許してくれないような魔力をもっている。宝塚の生徒たちにだって、その魔手は及んでいて、それに捉えられた者だけが、ぼくたちに芝居という夢……夢魔を見せてくれる。