「宝塚アカデミア」連載記事です

9「レビューする心」

 1999年を締めくくる「レビュースペシャル'99」は、楽しかった。雪組が中心になって毎日出演し、日替りで月、星、宙の各組が登場する。東京公演中の花組はビデオでご登場となった。TCAスペシャル「ハロー!ワンダフル・タイム」が宝塚−東京同時衛星中継という話題を作っただけで、しかも宝塚のS席一万円とファンをほとほと呆れさせたことからすれば、よく見直して(レビュー)、レビューの本筋に戻ったというべきだろう。

 そもそも「レビュー」とは何かということについては、「ザッツ・レビュー」で愛華みれ演じる大河原が気の毒なほどの長台詞で「歳末清算劇」と説明してくれたが、一言でいえば「総集編」ということにでもなるのだろう。

 ぼくが観たのは宙組出演の日で、雪組の「華麗なる千拍子'99」に続き、「TEMPEST」「Crossroad」「SAY IT AGAIN」などバウやドラマシティの作品のダイジェストから始まった。歌だけではなく前後の芝居まで、たっぷりと本衣装でレビューするのを堪能した。ついに第一部のシメ「シナーマン」(「ノバ・ボサ・ノバ」)では八百屋舞台まで引っ張り出し、あのエンディングの興奮がそっくりそのまま再現された。舞台上の生徒ももちろんだが、裏方さんも大変だったことだろう。第二部ではクリスマス・ソングのメドレーに続き、宙組が「エリザベート」を、レマン湖畔でルキーニ(湖月)がエリザベート(花總)を刺し、トート(姿月)とエリザベートが純白の衣装で昇天するというダイジェストで堪能させてくれた。

 幕間に客席の会話が耳に入ってきたのだが、「また『ノバ・ボサ』が観れるとは思わへんかったわ」と目を真っ赤にしている女性がいたかと思えば、「まさか『エリザベート』は、衣装着けへんわね……時間かかるもんねぇ」と諦めた口ぶりの女性もいた。数十分後、姿月があのトート閣下の髪型、衣装で現れた時、きっと彼女はめまいのような喜びを感じたことだろう。

 このレビューを本当にレビューとして成立させたのは、もしかしたら多彩しゅんの退団発表だったかもしれない。轟悠と同期の彼女は、前公演を病気で全休演したが、やはり同期の地矢晃がほんの数日前に最後の大階段を降りるのを、一緒に降りる気分で見ていたという。せつない。十数年の宝塚生活を、彼女がどのような心でレビューしていたのか。端正な横顔は最後まで崩れなかったが、胸にコサージュをつけてダンディに微笑む彼女の胸中を思うと、涙を禁じ得なかった。

 客席を埋めたファンの中には、彼女の姿があと数ヵ月に迫った姿月あさとの退団にダブって見えてしまった人もいたかもしれない。実際、この日の姿月のトート姿は、きっと多くのファンにとって、最後の機会となったはずだ(サヨナラ・ショーで演じられるかもしれないが)。多彩のレビューする思いが、年の終わりという節目と相乗して、多くの人のレビューする心をかきたてたように思い、たまらなくなった。

 過ぎ去ってしまったものは、その渦中にある時よりも甘美に思えるものだし、ましてやダイジェスト版ともなれば、選り抜きの名場面だけが引っ張り出されることになる。こうやって時の節目に振り返るのは楽しいことである場合が多く、「レビュースペシャル'99」を観た限りでは、一九九九年の宝塚がひじょうに素晴らしく充実していたように思えた。

 

 12月になって、玉井浜子『宝塚に咲いた青春』(青弓社)という本を読んだ。昭和18年に宝塚音楽舞踊学校(当時の名称。19464月に宝塚音楽学校と改称)に入学し、昭和32年に退団した「星宮眞沙美」さんの宝塚での十数年間を綴った、いわば壮大なレビューである。

 まず、戦争中の宝塚の様子を生徒の立場から綴ったものとして、資料的価値があることは当然のこととして指摘しておかなければならない。ぼくは『文藝別冊タカラヅカ』(河出書房新社、1998)の「タカラヅカ略年譜」の編集を担当したが、中でわかりにくかったのが1946年に「カルメン」で「勤労動員に出ていた三学年の生徒69人が揃って初舞台」というところだったし、聞いたこともなかったのが1948年に「東京・江東劇場でも公演を開始」という事柄だった。よく腑に落ちぬまま、後者については江東劇場ってどこなんだろうと思いながら『夢を描いて華やかに 宝塚歌劇80年史』(宝塚歌劇団、1994)の記述をそのまま写したものだった。

 玉井によると、江東劇場は錦糸町駅前の「江東楽天地と呼ばれるアミューズメントセンターの一画」にあり、「上京のたびの交通事情、宿舎、食料の確保など、とてもきびしい状況でしたから、私たち月組も昭和23年(1948年)7月に日劇公演をしたあと、続いて江東劇場へと移っていきました」という次第だったという。その前の雪組も日劇の千秋楽のあと、3日をおいて江東劇場で14日間公演しているというから、東京滞在の期間に少しでも多くの公演を打とうという苦肉の策だったようだ。

 前者の「三学年揃って初舞台」というくだりについては、橋本雅夫『すみれの花は嵐を越えて−宝塚歌劇の昭和史』(読売新聞社、1993)の「第14場 華麗な舞台よみがえる」に少しふれられているし、『80年史』の「創立以来の全生徒連名」を仔細に辿れば、1941年入学の明石照子から1943年入学の若浦朝生までの70人が「昭和20年入団」となっていることからもうかがい知ることができる。これについて玉井は「私たち同期生は、昭和16年(1941年)から18年(1943年)にかけての3学年をひとつにまとめて、21年初舞台組になっています。厳密にいえば第31期、32期、そして私たちの第33期となるのですが、一緒に卒業式を行いともに初舞台を踏んだことから、三期そろって同期生という意識でつながっています」と簡潔に説明してくれている。しかし、三期揃ってとはいうものの、1943年に入学した者のうち玉井たちのように遠方から寄宿していた者は、翌年三月末に「生徒の安全を確保できない」という理由で郷里に帰されてしまっている。在阪の者は宝塚音楽舞踊学校挺身隊として川西航空機仁川工場へ動員。つまり、玉井たちは予科生のまま初舞台に立ったということだったのだ。玉井が「初舞台が一年遅れた本科二年を卒業した生徒は三年間みっちり勉強しており、すでに十分の実力を持っていましたが、私たち予科生だった連中ときたら、まだほんの少し敷居をまたいだくらいのところでしたから、同列に並ばされるのは恐ろしいくらいでした」と書いているのが、実感だったろう。

 この初舞台は、玉井たちにとっての初舞台だったと同時に、戦争で接収されていた宝塚大劇場にとっても戦後の初舞台だった。宝塚の生徒にとっても観客にとっても、どれほどの出来事だったかは、橋本の著書に詳しい。

 なお、この1946年の初舞台生の人数について、ぼくは『文藝別冊』で何に拠ったのか69人と書いたが、現在ぼくがふれられる資料で確定しているのは、同年422日の大劇場再開の公演で初舞台を踏めた生徒の人数で、59人である。この場を借りて訂正しておきたい。ただし、入団を認められていたのは『80年史』昭和20年入団生を数えると70名、橋本の著書に転載されている昭和213月現在の生徒一覧表では68名と、一致しない。その上、両者を付け合せると、名前が一致しない生徒が10名前後もいる。中には、都小路という貴族を連想させる姓、葉隠という戦時精神を思わせる姓を付けたため、初舞台の直後に改名した者もあったと思われる。

 さらに、玉井は1943年の音楽舞踊学校の合格者は五一人、第三十三期生の入学者、つまり三期合わせての入学者は百二十人と書いているのが、六八または七〇人に減っているのは、在学中に「出校するに及ばず」ということで中途退学した者もあった以上に、卒業しながら舞台に立てなかった生徒がたくさんいたことをうかがわせる。橋本の著書には花房やよい、立花一美、藤蔭八千代が紹介されており、玉井は「何日をキリときめて第三十三期生としての復帰が締め切られたのかよくわかっていませんが、すでにほかの仕事についていた、家庭の事情で戻ってこれなかった、そして亡くなってしまったといった理由があったのでしょう」と淡々と綴っているが、万感の思いがあるに違いない。これに続く生徒たちの空腹、病気や生活難の挿話を読むにつれ、嵐を越えられた花もあれば、咲かずに終わってしまった宝塚の青春もあったことを思い、いたたまれない。

 もちろん玉井の著書は、戦後の混乱期ならではの秘話や裏話もあり、楽しく読める本だから、つらく悲しいことばかりをクローズアップすべきではないだろう。彼女自身、中堅どころの娘役として、当時のトップスターである春日野八千代、淡島千景、久慈あさみ、越路吹雪らへの憧れの思いや、娘役で同期の新珠三千代や下級生の八千草薫の素顔が綴られているのも微笑ましいし、現在の宝塚とその周辺についての穏やかな戸惑いのような苦言にも、一つ一つ深くうなずくことができる。

 何よりこの本がぼくを勇気づけるのは、年表ではほんの一行に約められる出来事が、その現場を生きた個人にとってどれほどの重み――喜びとしても悲しみとしても――をもっていたかを実感できたことだ。ぼくは今このように宝塚の各公演をおおむね楽しみながら見続けている。何年かのうちには、一人の生徒が成長し、花開く姿にもふれられたし、何人かは去っていった。一年をレビューすればいい一年だったなと思い、心の中で生徒たちに「ありがとう。来年もがんばってね」と呟く。そのようなことを何年か繰り返してきた。この繰り返しが宝塚をつくり上げてきたのかなと、ちょっとうれしく誇らしく思うことができた。

 この本からは、宝塚を平凡に生きようとした生徒が、時代の荒波にもまれ、意に反して劇的に生きた姿が生き生きと立ち現れている。しかも、なんだか楽しそうなのだ。それってやっぱり、宝塚だったからかな、と思ってしまう。

 過ぎてしまっても、皆が美しいわけではない。でも、ぼくが一年をレビューするとき、また玉井や多彩が在団した何年かを振り返るとき、やはりそれは甘美な歳月である。玉井の著書の中に、初舞台のラインダンスで、自分の上をスッとスポットライトが流れた時のときめきを書いた一節があった。多彩の最後の舞台でも、柔らかなスポットライトが彼女をひときわ明るく照らし出した。そのように、ぼくたちは歳月を明るく照らし出すことができる。彼女たちに浴びせられるスポットライトが、ぼくの上にも当たっているようなめまいにおそわれる数瞬がある。


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