宝塚歌劇全般に関するエッセイと、専科のメンバーへのオマージュです


専科エンカレッジコンサート◆ノンストップな熱気と美しさ〜ハロー!ダンシング◆Young Bloods!
いくつもの代表作に恵まれて〜さよなら初風緑◆凛とした空気をつくれた名優〜汐風幸に出会えた幸福
「泣き」の魅力〜伊織直加の旅立ちに新制度のスタートに伴う夢想と、予想される幻滅
大人の味わい、翳りの魅力−別格スターの存在価値◆ドラマティック・タンゴ!
娘役特集「今を楽しむための若干の苦言」◆特集「宝塚に望むもの」〜人が宝―宝塚はこうあってね
毎日放送「新見聞録−近畿は美しく 歌と緑の街、宝塚」◆男がタカラヅカにはまる理由(わけ)
宝塚に於ける天使と悪魔−美は善悪の共棲にあり


専科エンカレッジコンサート

 

 待ちに待った専科エンカレッジコンサート、ようやく二回目が実現した。メンバーは七名と少なめで、各人がおよそ四曲ずつ歌うというたっぷりとした構成となった。中でも今回の話題は、花組大劇場公演「アデュー・マルセイユ」での退団を控えた立ともみである。出色だったのは「マイ・ラスト・ダンス」。一九六〇年のミルバのデビュー曲で、音楽学校時代リサイタルを聴きに行ったこと、但馬久美が退団の時に植田紳爾が作詞をしたものであること、自分も大切にしてきたダンスとは一生どんな形であれ関わっていきたいと思っている、この歌を現在の自分自身と重ね合わせて心を込めて歌いたい、というようなことを明るく淡々と語ってくれた。エンカレッジコンサートでも何度も取り上げられてきた名曲を、あえてここで彼女が取り上げるということについて、様々な方面への思いをこめて、行き届いたあたたかい語りだった。

 専科生によるこのコンサートの魅力の一つに、このような曲の間のお話の重み、面白みということがある。深緑夏代先生がよく歌ってらして、こんな歌が歌える年代になったら歌いたいと思っていたとか(萬あきら「ジプシーの恋歌」)、ジャズボーカルの水島早苗先生のレッスンに通っていて、当時のことだからLPレコードに「歌と共に生きるシビちゃんへ」とサインしてもらったおかげでこんな賞味期限ぎりぎりまで歌わせてもらっているだとか(矢代鴻All of Me)、歩んできた道のりの重みをさりげなくユーモアに包み込んで披露してくれる。専科生ならではの存在の重みと自在さである。

 その語りの魅力は、そのまま曲の中に生かされている。の「貴婦人」はチェーホフの戯曲を思わせるような品のあるドラマを張りと艶のある高音で聞かせてくれるものだったし、一樹千尋が『レ・ミゼラブル』から「Bring Him Home」を英詞で歌う前に日本語で語ってくれた部分や、『モーツァルト!』からの「星から降る金」のおとぎ話は、一つ一つの言葉が直接的に届いてくるようで、まさにモノローグ・ドラマと呼びうるレベルの高いものだった。前回に続いて矢代はまた「想い出のサントロペ」を歌ったが、なるほど確かにこの短くも恐ろしい小品を、これほどまでにスケールの大きな曲として聞かせるのは矢代の表現力の強さによるものだと納得させられた。

 また、間奏などでの短い振付のキレや、バックダンサーとしての存在感の大きさ(矢代曰く「濃さ」)も、目を見張るものだった。の艶のあるヴィブラートが印象的だった「フラメンコ・ロック」のバックで踊る磯野千尋、一樹、萬の動きは何とも自在で、スケールの大きさが存分に出ていたし、磯野の熱唱「ジタン・デ・ジタン」のバックののセクシーな腰の動きにはゾクゾクさせられた。萬といえば、「ジプシーの恋歌」での膝の揺らし方、「Little Boy Blue」の吐息のせつなさ、ターンのダイナミックさにもスケールの大きさが感じられ、まさに「キング」(『ノン・ノン・シュガー!!』での役名)をほうふつとさせた。

 驚いたのが、京三紗の選曲の妙と歌に込める思いの重さ、切実さ。第一部では中村中の「風になる」「友達の詩」を、第二部ではアンジェラ・アキの「サクラ色」を歌った。声量やテクニックがどうこうというのではなく、声が涙そのものであるような劇的な生々しさを帯びて、しかし静かに優しく歌いかけてくれた。特に「友達の詩」の「手をつなぐぐらいでいい」という歌詞を歌いながら、すっと手を伸ばして見せた時には、そこに存在していない、「友達」と呼ぶ他はない相手を希求する思いの強さと哀しさが形となって現れたようで、戦慄を覚えるような衝撃があった。ぼくは作者の中村のことは知らなかったのだが、京がやはり淡々と、「友達の詩」は中村の十五歳の時の作品であること、性同一性障害を公表した人であることを教えてくれた。宝塚では少々きわどい選曲かなと思わないでもなかったが、そんな邪念を吹き飛ばすような絶唱であった。第二部の「サクラ色」では、スキップでもしているかのようにさわやかに出てきて、うまいとか、かわいいとか、表現力とかいうような批評的な言葉が追いつかなくて馬鹿馬鹿しくなるほど、チャーミングで表情豊かな歌心をあふれさせた。こういう人を、公演の中でもっと上手に使ってほしいものだと、しみじみと思われた。

  歳月でしか醸すことのできない重みや味わいというものがあるのだろう。轟悠のコンサートを取り上げた時にも述べたが、円熟の魅力を使いこなせる演出家、味わえる観客、その双方が必要であることは間違いない。客席の熱気と興奮から判断するに、観客のほうは準備万端だと思うのだが。(20079月) 

 

ノンストップな熱気と美しさ〜「ハロー!ダンシング」

 

 ダンスの得意な若手に見せ場を与えようという趣旨で企画された、いわばダンス版「エンカレッジ・コンサート」。まずは出演者の熱気と懸命さに心打たれ、宝塚のダンスのレベルというのはなかなか大したものだと再認識させられた。千秋楽に観に行ったことが多かったためでもあるだろうが、出演者の踊りきったという満足感がひしひしと伝わる、熱のこもった公演だったことは確かだ。エンカレッジ・コンサートと同様、ここで活躍した者が、大劇場やバウの公演でいい場面をもらっているのを見ると、この企画がいいステップになったのだなと思ってうれしくなる。そういう機能を果たせた公演だったわけだ。

 各公演が、一部分を除いて同じ演目となっているので、比べられ競わされる結果となったことは、当初から想定されており、興味深いとも残酷ともいえる。特に「ハロー!タンゴ」(振付=羽山紀代美)の「我が懐しのブエノスアイレス」「タンゲーラ」では、身体のキレや角度はもちろん、タンゴというものに対する理解、パートナーとの関係の取り方など、表現力や様々な点での長短、巧拙やキャリアの差が如実に明らかになってしまうことになったように思う。

 また、このシリーズは、結果的に宝塚のダンスがどのような要素から成っているかを腑分けしてみせるような構成となったとも言えるだろう。モダン、モダンバレエ、ラテン、タップ、タンゴ、ジャズと、基本的なショーの組成とほぼ同じで、その偉大なるマンネリズムについても改めて認識させられた。宝塚の柔軟性は、様々なジャンルの外部の振付家を取り入れてきたが、KAZUMI-BOYを除いてはなかなか成功し定着しているようには思えない。そんな中で、近年タップダンスに力を入れて取り組んでいるのは、そこに何らかの成算があってのことなのだろう。

 この公演の企画と、近年宝塚OGのダンスを前面に押し出した公演が増えていることは、おそらく遠く近くシンクロしていると考えていいだろう。ぼくたちが、踊る身体を目にして強い感動を受けるのは、よく錬磨された身体が汗を飛び散らせて、その瞬間に命を燃やしていることに居合わせることが、得がたく貴い体験だからだ。その感動は、理屈や言葉でなく、直接的に伝わるものだ。そのことを、宝塚でなら(OGも含めて)エンターテインメントとして味わうことができる。その稀少性と観客にとっての喜びを、宝塚はこれからも大切にしてほしい。「ハロー!ダンシング」の手拍子やカーテンコールの拍手は、出演者の汗の量に比例してか、他の公演より熱く激しいように思えた。またしても、出演者をエンカレッジする公演でもあったのかもしれない。

【星組】 この企画の第一弾ということで、手探りのようなスタートだったといえよう。冒頭では、振付けられた動きをなぞっているようなぎこちなさが見られた。身体の開き方が不ぞろいで、脚の運びにももう一段の粘りが足りないように思われ、星組伝統の濃厚さに欠けるように見えた。また、この公演の芯となることが期待された彩海早矢は、残念ながらタンゴの持つメランコリーや泣きを表現するには至っていなかったようで、健康的な若さが出過ぎたように思われた。そんな中で目立ったのは、夢乃聖夏。第一場からシャープな動きと表情で目立ってはいたのだが、「タップワゴンB」で次景を紹介するテンポの取り方が鮮やかで、ここからメンバー全体がやっと乗りをつかんだような気がする。鶴美舞夕稀鳥まりやの「二人だけのダンス〜心はいつも」も、バランスのいいデュエットで、鶴美に片リフトされたまま稀鳥が脚をスムーズに上げるタイミング、フォルム、バランスがすばらしかった。

【雪組】 冒頭から全体に腕を大きく使い、粘りのある動きを意識しているようだった。タメのある、いい意味でアクの強い動きができているのがよかった。リーダー格の麻樹ゆめみ以下、身体の軸がぶれず、鋭さとスピードがよく出ていた。大湖せしるは腰の沈め方や背の反りに、身体のバネを意識的に使ってダイナミックさを出そうとしているようだったし、麻樹とのアイコンタクトや身体の軸の絡みや吐息の使い方が美しかった。祐輝千寿沙月愛奈のデュエット「二人だけのダンス〜コーイヌール」(振付=名倉加代子)は激しさを全面に押し出して情感あふれるもので、沙月の美しさが強く印象に残った。祐輝はどのジャンルのダンスもうまくこなし、美しさや愛らしさなど様々な魅力の引き出しをたくさん持っているようだ。

【宙組】 珠洲春希が音楽のつかみ方のセンスのよさ、脚を上げる時の二段ロケットのような微妙なタイミングの取り方、腰の入れ方や回し方の美しさなどの動きのキレはもちろん、歌でも力強さを見せた。タンゴの場面では珠洲や鳳翔大をはじめとして、タンゴのスピリットを心得た、いい翳りが出せていた。鳳翔の鮮やかなステップの後、群舞からソロに移って一人ステージに残った珠洲の表情のドラマティックな変化は、観る者が様々な思いや場面をそこに仮託することができるような、凝縮された時間となった。花音舞が「パッショネイト・ダンス」でいきいきといい動きを見せたり、朋夏朱里がスタイリッシュなナイスガイぶりを披露したり、見どころ満点。長身の娘役、天咲千華が、タップでタメを作る間合いの取り方のよさや、何もない時の表情のつけ方に驚くような輝きがあり、客席へのアピールのしかたにも華があった。「二人だけのダンス〜奇蹟」(振付=名倉)では、綾瀬あきなが豊かな表情と愛らしい容姿で、ドラマの盛り上がりを増幅させた。

【月組】 冒頭の「BENNY RIDES AGAIN」(原振付=リンダ・ヘーバーマン、振付アドバイザー=大浦みずき)で印象に残る動きを見せていたのが、麻月れんか。まず彼女は、他のダンサーとは異なる速度と広がりを持っている。一見、鷹揚にゆったりと動いているように見え、動きが遅いのかと思うと、リズム感も的確で、遅れているわけではない。身体の軸はしっかりしていて、ブレなく足を上げることもできている。決して悪目立ちしているのではなく、タメやブレーキが人一倍強く、余裕を持って動いているようだ。こういう特徴あるダンサーを発見できるのが、この公演の醍醐味であると実感させられた。また、タンゴの場面で柄の大きさを出せた流輝一斗、みごとな歌声を聞かせた涼城まりな、羽咲まな、「パタパタ」でいきいきとした表情と動きを見せた舞乃ゆかが目立った。「WEST SIDE STORY」を思わせる第十一場「Over The Rainbow(振付=伊賀裕子)は、全体にシャープさとスピード感にあふれていて、皆の懸命な走り方が強い気持ちをよく表わしていた。特に夏月都が吹っ切れたようないい表情をしていた。「二人だけのダンス〜タランテラ−悲哀」(振付=羽山)は、激しさを追求したようなデュエットダンス。麗百愛は、最初はバレエテクニックに秀でたダンサーと思われたが、徐々に感情の乱れや揺れを身体に直接的に表現する大胆さが見え、鬼気迫るようなシーンとなった。宇月颯とのコンタクトもぶつかりあうように激しく、羽咲のカゲソロも激しさを増幅させ、熱い舞台だった。

【花組】 宝塚屈指のダンサー舞城のどかが、一歩引いて若手に場面を譲りながら、歌の魅力も堂々と発揮しつつ、さすがに艶と粘りのある動き、的確なタイミングで客席を魅了した。多くの場面をもらった野々すみ花が抜擢に応えて実力を開花させた。特に手首の動きや腕の返しが美しく、丁寧に身体の外側を意識して押すことができていた。おそらくそのためだろうが、独特の浮遊感がある。『舞姫』から悲劇のヒロインが続いているが、陽性の華やかさも見たい。貴怜良がよかったのは、まず踊ること、歌うことの喜びがダイレクトに伝わってきたこと。動きに広がりがあり、懸命さは涙ぐましいほどだった。華月由舞の動きもダイナミックで、歌も強く前に出せていたのがいい。タンゴで白鳥かすがのステップが非常に美しかった。日向燦が、コメディセンスのすばらしさだけでなく、大ぶりな動きのシャープさを存分に見せていたのがよかった。(2007年)

Young Bloods!!

月組 Sparkling MOON

 新企画「Young Bloods!!」の第一弾は月組の『Sparkling MOON』。主演は新人公演でも主役経験のない龍真咲、構成・演出の藤井大介によれば「平均研3.2」の15人しか出演しないというから、冒険といえばこんな冒険もあるまい。率直に言って、見終わって第一の感想は、これで4500円は、あまりに高すぎる、というコストパフォーマンスに対してのもの。カラー/2色の6ページのプログラムが無料配布されたとはいえ、組の準トップが主演して二十数名が出るバウ公演と同じ値段というのは、ちょっと納得しにくい。

 構成・演出は藤井大介だったが、前半の芝居「ハーフムーン狂想曲」は、劇の大部分を占めるゲームのしくみがわかりにくく、しかも設定上RYU(龍真咲)とREMI(白華れみ)の若い恋人たちのわがままぶりが目に余るようなところもあって、ちょっと流れに入り込みにくかった。ゲームへの入り方も唐突で、観客にとってはやや置いてけぼりを食ってしまったような疎外感があったように思う。自分の恋人が本当に区別できるかという問いかけから、自分を信じろとか目に見えるものだけじゃないとか、人生はゲーム、といった教訓めいた結論も後味が悪い。

 は歌もダンスも演技も達者でテンポがよく、ルックスもあくまでキュート、どんどんファンが増えていくだろうと思われる。普通のしぐさからダンスに入っていくときの、ふとしたきっかけの動きがひじょうに魅力的なのが目を引いた。ショー「Hot Blooded Moon」でも、強いシャウトやクールな表情で男らしさを強調しながら、ダンスのセンスのよさを見せた。

 目立ったのがマリマリ(美夢ひまり)とプッチ(光月るう)の二人。美夢は量感のある声で場面を締めたし、光月はセリフ回しがきっちりしていて劇のテンポを作れている。ミスメリイ(美鳳あや)、ミスタープレイ(白鳥かすが)というのが、このゲームの仕掛人。白鳥はショーも含めてなかなか渋い声で魅力を発揮していた。美鳳は動きの少ない、貫禄のような存在感を見せなければいけない役だったのだろうが、ちょっと役をつかまえるきっかけを失ってしまったようで、平板に上滑りしたような感がある。ショーでの聴かせどころ「Blackbird」も、たとえばもっとキュート&セクシーにしてみるとか、見せ方・聴かせ方をきっちり定めた方がよかったように思う。ダンスのキレがよく、歌も地声の魅力を発揮できていたので、もう一工夫で魅力が倍増するのではないか。

 理想の男・理想の女、とすごい役名をもらった流輝一斗萌花ゆりあ、そういう見せ方に徹することができたということもあったのだろうが、鮮やかな立ち姿で、RYUとREMIを幻惑するにふさわしかった。特に萌花は上品な顔立ちとバランスのよいスタイルが持ち味。演技ではもちろんダンスの細部での表情が豊かで、バレエのシーンでの空中姿勢が美しく、ひときわ目を引いた。

 ショーのバレエのシーンは、娘役が皆よく踊れていたが、リフトに今一つ軽快感や浮遊感がなかったのは、男役とのタイミングのせいか。「イーストインディアンダンス」(オリジナル振付=ジャック・コール、振付=ケンジ中尾)は、足につけた鈴がかろやかな音を立てるのが楽しい作品。クールな表情、首の細かな動き、バク転を含めた大きな上下の動きなど、龍を中心に難しい動きをよくまとめた。続くフォッシーの「スチームヒート」は、白鳥美鳳が中心となった力演、萌花のアピールがチャーミングで目立った。客席から登場したによるソロ「オールザットジャズ」は、龍のスケールの大きさを出せていたのが何より。cobaの曲による「ヴィーナス誕生」は、cobaの軽やかさがひじょうに新鮮で、その後の「ラ・クンパルシータ」との対照が出せたのが好演出。美鳳が厳しい表情でタンゴの名曲をよく踊りきった。ケンジ中尾の最後のピース「FACADE」は、黒衣の中に一人がエンジで立つコントラストが美しく、クールでミステリアスなドラマが始まるような昂揚が感じられた。龍のシャウトに力があり、流輝美鳳の歌が光った。

 公演全体のバランスとしては、人数が少ないのはしかたないが、もう少しコーラスを厚くするとか、のラストのソロ「Young Bloods」ではバックダンサーをつけて舞台に遠近をつけるなどしたほうがよかったように思う。それでも、これまで観てきた三組の中で、ケンジ中尾のフォッシー作品の雰囲気を一番つかんでいたのではないかと思う。おそらく一番若いメンバーによる公演だろうが、厚みが感じられなかったのは残念とはいえ、勢いやスピードは大いに伝わってきた。若いメンバーにはいい経験になったことだろう、今後の飛躍を期待したい。

花組

 この『Yong Bloods!!』というシリーズ企画は、単独のチラシやポスターもないので、どんな内容の公演なのかという情報は、積極的に収集しないと入ってこない。ぼくがただ怠惰なだけかもしれないが、今回も桐生園加が主役だから楽しみだなとだけ思って席に着き、座席に置いてあるプログラムを見て、宮本武蔵ということは、日本物?と気づくことになった。

 しかし構成・演出の齋藤吉正は、ただの日本物にはせず、宮本武蔵が本当は臆病な計略家で、佐々木小次郎との決戦を前に逡巡していたところ小舟が嵐に巻き込まれ、落雷と共に現代の高校、しかも剣道部にタイムスリップしてくる、という学園コメディに仕立てた。なお、落雷でタイムスリップする歴史上の有名人物(しかも剣豪)という設定は、浅倉卓弥の小説『君の名残を』を逆さまに借用したといっても差し支えないだろう。

 一種の怪演ぶりで目を引いたのが、小次郎(現代のシーンではコジロー)の日向燦。武蔵がスリップしてきた園加学園剣道部の宿敵、日向学院剣道部のエースで、帰国子女だか金持ちの息子だか、とにかくイケ好かない奴という設定の役を、実にいやらしく演じきったのは、なかなかのものだった。

 桐生は、剣の腕前は本当のところ多少心もとない武蔵という人物を、ありふれて情けなく、しかし決して憎めない好人物として演じ通した。剣豪としてのカッコイイ表情ももちろん、実は…というイケテないトホホな姿も、それでもひたむきに試合に臨む姿、ふと人の道のような言葉を洩らす表情、スー子(澪乃せいら)に言い寄るコジローに腹を立てて諫める正義漢ぶり、などいくつもの面を楽しめたのはよかった。どんな面を見せても、観客の耳目を引き寄せる陽性の魅力をもっているのがすばらしい。芝居、歌、ダンス、何をとっても技術的には何の問題もないし、芝居では主にコミカルな面を、ショーではダンディな部分を遺憾なく発揮できたのは、よかった。

 学園コメディということで、お決まりの女子高生たちの登場。まず剣道部キャプテンのスー子(澪乃)だが、優等生タイプの演技はそつなく、透明感あふれる歌には強い説得力がある。セーラー服姿はちょっとアニメのヒロインやフィギュアっぽいバーチャルな魅力があり、宝塚の中に閉じこめておくのはちょっともったいない気がしたほど。清楚なセーラー服、りりしい剣道着、とビジュアルでも萌え系といわれるであろうようなツボを押さえていて、演出家のご趣味でしょうか、と思えなくもないが、フィクショナルな設定の物語の中でのリアリティという意味で、すわりがよかったともいえるだろう。演技では、武蔵がやはり元の時代に戻るという場面での切実さは光った。

 そういう清楚なヒロインがいると、もう一人は裏ヒロインとして、ダーティな役どころを受け持つことになる。茶髪でスカートが長くて不登校でスケ番でヨーヨーまであやつる、不良女子高生のステレオタイプを一身に集めたような役が必要になって、それがジュリ(花野じゅりあ)。実は、気弱になる武蔵を勇気づけたりハッパをかけたり、それをきっかけに雄々しく状況に立ち向かう武蔵の姿に逆に勇気づけられて更正し、最後は清楚でキュートな姿で現れる、という振幅の大きな役どころ。花野は突っ張った演技もしみじみとさせる演技もかわいい姿も無理なく落ち着いてこなせていて、安心して見ていられる。ショーでは、以前から注目していたダンスはもちろん、歌でもフェミニンな魅力を存分に発揮し、これまた澪乃とは少し種類の異なるアイドル性を振りまいた。

 この二人に対して、桐生と同期の舞城のどかが、オールドミスの教師役で、コミカルにバタバタした演技を通し、笑いを誘ったのには驚かされた。もちろんショーでは一転してキレと優雅さを合わせ持ったダンスを堪能させてくれたわけで、組替えとなる桐生とペアのダンスがもうなかなか見れなくなるのがひじょうに残念に思われた。

 他には、愛純もえり(萌子)がちょっと脳天気な女子高生を好演。余談だが、『Young Bloods!!』は、芝居の役名が芸名や愛称をもじったものになっており、観客が覚えやすいようにできていて助かる。

 このように、これまで三組見てきた『Young Bloods!!』の中では、アイドル性も含めた娘役のレベルの高さを大いに楽しめた作品となったが、もう一つメンバー全体にダンスのレベルが非常に高かったことも観ていて楽しかった。桐生、舞城というダンスリーダーに率いられて、存分に動き回ることができたということもあったのだろうが、アップテンポなストリート系の動きが実にピッタリとはまっていたのは、さすがに若い世代の公演であることを感じさせた。また、特に夕霧らいをはじめ若手男役の歌もレベルが高く、花組の層の厚さを知ることができた。

星組 Twinkle Twinkle STAR

 『Young Bloods!!』も三組目になると、その狙いや勘どころが何となくわかってくるように思える。こう言ってしまっていいのかどうかわからないが、否定的にとらえれば、主演の一人を無理にでもスターであるというふうにまつりあげて、あとの十数名にとってはお稽古の機会というような位置づけ。クールに言えば、宝塚がどのようにスターという存在を造り上げることができるのかというシステムそのものをはっきりと見せてくれるような仕掛けのワークショップでもある。

 しかし星組の『Twinkle Twinkle STAR』は、既に大きな役や主役を務めるのに何の不安もない柚希礼音が主演のチェリンカを務めただけに、柚希の魅力と存在感に関しては、特に不安や疑問を持つ必要はなかった。むしろ、柚希がいないシーンで他の者たちが舞台にどれだけ緊張感をもたせることができるか、相手役の娘役の中に、どれだけ有望な者を見つけられるか、をテーマとしてバウホールに足を運ぶことになる。やはりショーでは、柚希の出ないシーンで、ちょっと場がもたないような印象を受けてしまった。

 柚希の魅力は圧倒的だった。ダンス、歌、演技、存在感、すべてにわたって、一人で二時間余の舞台に観客を引きつけていた。豊かな表現力に一層の磨きがかかっている。今回はあえてこう述べるだけにとどめてしまおう。早く大きな舞台で、もっと大きな役で見たい。

 娘役で最も大きな役どころを得たのは、世紀の大女優・ミーシャの華美ゆうか。おそらく及第点ではあるのだろうが、柚希に比較すれば、ショーの世界でその先輩格に当たる大女優という設定には、いささか無理があったと言わざるを得ない。結果的にダンスにも余裕がないように見えてしまったのは気の毒。ただ、化粧やショーの髪型などを見ていると、せっかくこのような大きなチャンスを得たのだから、もっと自分を美しく魅力的に見せるための工夫や努力をする余地はあったのではないかと思われる部分があったのは残念だ。

 音花ゆりは、芸能事務所の社長役で、ユーモラスな演技も含めてなかなかの芝居巧者ぶりを見せたが、ちょっと硬さがとれないようだったのが惜しい。歌も十分うまいのはわかるのだが、硬さが窮屈さになって、ムラとして聞こえてしまうところがあるように思えた。スペインから来た三人の若いダンサーをからかっている時にはふっくらと余裕のあるいい演技を見せただけに、残念だった。

 重要な役ではあったが出番も見せ場も少なかったのが妻・ノノーシャの花ののみ。病弱で、いつもペラペラのワンピースを着ているという役で、影の薄さを見せなければいけないということもあり、これも気の毒な役どころ。逆に案外目立ったのがダンサーの卵と言えばいいか、ナルキアの成花まりん。派手ではないが、ひたむきさのようなものが出ていた。

 この公演で娘役の発見といえば、柚希とバレエ「ドン・キホーテ」を踊ったマリヤ役の稀鳥まりや。まだ入団二年目というから、大抜擢と言えよう。「ドン・キホーテ」のヒロイン役であるキトリという芸名をもつぐらいだから、バレエに長じているのはなるほどと納得できたが、ショーで隅の方にいても明るい表情で人の目を引きつける華やかさをもっている。セリフの間合いなどまだまだ勉強すべき点はあるだろうが、久しぶりに華やかさをもった娘役を見つけた。

 男役で二番手格となったのは、彩海早矢。狂言回し的な役どころで出番も見せ場も多く、いい経験になったことだろう。彼女の一声で芝居が始まり、ダンサーとは、という印象的な説明セリフに入り、歌い始めるという、まさに芝居を転がす役どころで、美しさや歌の上達ぶりを見せることができた。動きの大きさを見せるのはまだまだか。身体を動かしたときに四肢がぐっと伸びるようなダイナミックさを身につけてほしいところ。

 男役の発見といえば、やはり入団二年目の天寿光希。芝居ではチェリンカの息子・ミクロフとあって、子役らしいあどけなさやけなげさをうまく発揮したという程度だったが、ショーでは二年目と思えないほど、男役の声、堂々と華やかなしぐさで強い魅力を振りまいていたのには、驚いた。特に張りと艶のある声がいい。表情も豊かで視線を引きつけるものがあるようだし、動きでさらにキレを見せられたら、あまり早くから過度の期待を寄せるのはよくないかもしれないが、何拍子もそろうスターになるのではないか。

 舞台監督のアズ(壱城あずさ)やプロデューサーのカーマン(七風宇海)が、手堅い演技を見せた。特に壱城は、芝居のラストで母に遺されたミクロフを連れて来るという見せ場もあり、厳しく優しく、情のある演技ができたのは、大きな収穫だっただろう。

いくつもの代表作に恵まれて〜さよなら初風緑

 とうとう初風緑がやめる。このことについて感慨を深くする人は多いだろう。一つは新・専科のあり方(あるいはなくなり方)についての思いで、これについては他の人が様々な角度から考察、分析してくれるだろうから、あえて言わないでおこう。

 初風については、歌やダンスや演技の魅力ももちろんだが、人柄のよさ、あくまでいい意味でのクレバーさについて語られることが多い。大劇場でのサヨナラの挨拶も、ひじょうによく整理され意を尽くしたもので、しかも中からあふれてくるものをこらえながらの、素晴らしいものだった。個人的にたまたま知り合った、小さなホールでダンス公演のボランティアスタッフをしていた元男役の女性は、退団後も初風の出る舞台だけはすべて観ているようだったが、初風には「とにかく、やさしくて親切でかっこよくて親身で頭がよくて」……と言葉がいくつあっても足りないぐらいの心酔ぶりだった。

 「人柄のよさ」が舞台人にとってプラスかマイナスか、などという問い自体、何だか妙な先入観にとらわれているように思えるが、初風の場合、それが頭のよさと相まって、与えられた役への感応力が深まることで、舞台に大きくプラスになったのではないか。それが彼女の役づくりの幅の広さであり、どんな役でも当たり役と思わせる懐ろの深さだった。 

 思えば、ケガから復帰した後の伊織直加とのダブル主演作『君に恋してラビリンス』(一九九七年)のルディーは明るく正直者の好青年、この時脇役で朝海ひかるが妙ちきりんな存在感を出していたのも、隔世の感がある。月組に移って『El Dorado』では、抑えた演技で複雑な心理を表現する難しい役・ガルシアを好演。この頃から、彼女の低音の魅力、ニヒルな表情、顔半分の笑いに徐々にひかれるようになったことを思い出す。

 翌年の『WEST SIDE STORY』は、樹里咲穂のアニタが強烈だった公演だが、初風のリフもジェット団の現リーダーとして、決して大柄ではないのにしっかりとしたリーダーシップを見せたり、トニー(真琴つばさ)の前では弟分らしいやんちゃな姿を見せたり、多彩な魅力を発揮した。名曲「Cool」の始まりのかすれたような小声の魅力も含め、熱演だった。『黒い瞳』のシヴァーブリンで憎まれ役としての要素が出揃ったといえるかもしれない。人を小馬鹿にして鼻で笑うような表情、視線の冷たさ、ドスの効いた低い声、ずる賢さを含めた計算高い役どころ、横恋慕などなど。

 そして、単独主役は意外に遅かったが、ここまでの路線とはうって変わったような徹底的な喜劇、『から騒ぎ』(一九九九年)。これはもう歌いまくり、喋りまくりのジェットコースターのような喜劇で、その速度を座長として作り上げることができたのだから、芸達者ぶり、リーダーシップも大したものだと思わせた。叶千佳、大空祐飛、霧矢大夢、星野瞳らの好演を導き、一ヶ所でも崩れたらすべてが無に帰してしまいそうなアンサンブルを、よくまとめ上げたといえるだろう。同年末の『プロヴァンスの碧い空』でもフィリップという難役を好演する。

 既にこのあたりで、既に白い役も黒い役もこなせるオールラウンドプレイヤーとして重要な地位を確立していた初風だが、初風はトップ路線なのかどうかという点では、微妙なところに立たされていたのかもしれない。どんな役でも手堅くこなし、重要な脇役が増えてきていた。真琴をトップに置き、紫吹に続く三番手格だが、下には大和悠河、霧矢大夢、大空祐飛と人気も実力もそれぞれ特色をもった有望株が控えている。そんな中で初風は、徐々に三拍子そろった芝居巧者という位置に定まっていくような方向になっていたのだろうか。

 そして専科への異動。組からは紫吹と二人。星組『花の業平』(二〇〇一年)の安倍清行は、稔幸の業平をサポートする立場で実直な白さを存分に発揮した。『ガラスの風景』『白昼の稲妻』(二〇〇三年)を経て、おそらく『スサノオ』(二〇〇四年)のアマテラスオオミカミも、また代表作の一つといえるだろう。何より初風のスケールの大きさがドラマの芯をつくることができることを証明した公演となった。同年の『エリザベート』のフランツ・ヨーゼフは、初風の細やかに情を尽くしたノーブルさがあらわれた、一つの極点であり、サヨナラ公演となった『炎に口づけを』のルーナ伯爵は、黒い役の極点だった。結果的には最後の三作品でまさに代表作と呼ぶにふさわしい様々な役柄を演じられたのは、本人にとってもぼくたちにとっても本当に幸せなことだった。

 できれば最後にバウ公演ででも、初風のスケールの大きな白い役を見てみたかったが、トップにならなかった男役の最後としては、宝塚や東宝の大階段こそがふさわしく、その姿だけを瞼にとどめておけばいいのかもしれない。黒い紋付で大階段を下りてくる姿に、白い衣裳に身を包み階段の上で手を広げるアマテラスオオミカミの姿が重なったりすれば、初風の白い姿も黒い姿も、すべてがそこに集約されたことになる。

 本稿ではあえて初風がケガから復帰した後からの足跡をたどってみた。実はウェブをさまよっていて、最も印象に残っているのが、「サンケイスポーツ」のサイトで読んだ、箱崎宏子が紹介しているエピソードだ。一九九七年二月、セリの故障で転落、肋骨骨折などの重傷を負った初風は、一ヶ月も入院する。「入院中、車イスで先頭を切る初風の後に他の患者が続く“カルガモ倶楽部”ができた。……「皆さん公演を見に来てくださるんです。中でも一番長くお付き合いしているおじさまは、私の舞台を見た日だけ『元気になったよ』って杖なしで歩くんですね。その姿を見ると、私ここで頑張っている意味があるなって思えるんです」」と、止まらないぐらいの勢いで話していたという。なんだかぼくも退団後の初風の活躍を追いかけて、カルガモみたいに愛らしくはないにせよ、ニコニコしながら劇場に向かうことになりそうだ。(2005年退団)


凛とした空気をつくれた名優〜汐風幸に出会えた幸福

汐風幸がすごかったのは、片岡仁左衛門の娘だからということから、日本物はさすがにうまいよねという先入観をもたれながら、それはきちんと満足させつつ、それ以上の存在感の強さを見せて舞台を作る力をもっていたことだ。

あまり語られることはなかったかもしれないが、彼女の動きは細部まで配慮が行き届いている上に、自由で柔らかな曲線を描くことができていた。一見器用な役者とは見えないところもあったかもしれないが、いったんはまれば、動きは自在で魅力的だった。改めて言うまでもないだろうが、特に日本物では、腰の入り方一つとっても、共演者とはちょっと次元が違っていた。たとえば「花の風土記」で改めて気づいたのだが、一人彼女は身体の芯としての腰の位置が定まっていた。だからそれを軸として足の運びも上体の動きも自在に取ることができ、優雅で美しく、淀みのないバランスを獲得することができていた。一言でいえば「決まる」ということになる。近年ことに日本物ではこのように「決まった」と思わせる動きのできる役者は少なく、ひじょうに貴重な存在だった。

「心中・恋の大和路」(一九九八年)が素晴らしかったのは、そういう彼女が歌舞伎に材をとった日本物で主演するのだから、その血脈からいっても特質からいっても、当然名演となるだろうという期待を上回るだけのドラマの深さを表現しきれていたからだ。特に今でも記憶に残っているのは、封印切の場面。この場面はこの劇の中でも突出して「伝統芸能的」ではないところだとも言える。照明や音楽の扱いからいっても、かなりケレン的な要素の強い場面だったが、ここで彼女は一種の浮遊感とも呼べるような強い酩酊を表現し、何ものかに翻弄されてしまう存在の弱さと、その裏腹の魅力を遺憾なく発揮した。

彼女のすごかったのは、忠兵衛という男のどうしようもなさをきっちりと表現できて、ひじょうに魅力的であったという、近松がもくろんだであろう通りの人間像を表出しえていたところにある。「見た目」ボロボロでも心はちゃんと「二枚目」とは、石田昌也が「銀ちゃんの恋」(一九九六年)のヤスについて語った的確で簡潔な評言だが(「歌劇」七月号)、それは忠兵衛へと直結する像でもあった。近松にしてもつかにしても、屈折しているがゆえの人間の美点を余すところなく描かせたら時代を超越する実力を持った劇作家だが、脚色されているとはいえ、宝塚在団中にこのような異色作に複数恵まれたのは、運と実力の双方を兼ね備えていなければ、ありえなかったはずだ。

いつも「サヨナラ」原稿を書くたびに、このような過去形で語ることにやるせない思いをするのだが、心残りがいくつかある。一つは、彼女の主演作がこの「心中・恋の大和路」で最後になってしまったことで、それが今となっては不思議でもあり、残念でもある。確かに彼女は敵役や渋い脇役をみごとに演じきる名脇役という位置どりで、その魅力を発揮する存在ではあった。しかし、せっかく専科という自由な所属になったのだから、彼女が宝塚にいる間にしかできないような、破天荒な作品を(銀ちゃんの再演でもいいから)企画してほしかった。

ついでに、新・専科にかこつけていうが、新・専科生のバウホール作品出演が極端に少ないように思えるのだが、これは残念なことだ。汐風はそれまでは「たとえばそれは瞳の中の嵐のように」(一九九一年)、「ボンジュール・シャックスパー!」(一九九二年)、「たけくらべ」(一九九四年)、「銀ちゃんの恋」と、一、二年おきにはバウ公演に出ていたのに、「心中…」以後はバウ出演がない。彼女のように丁寧できめの細かい演技のできる人の姿は、バウでならなおのこと観客を引き込むはずで、そこで落ち着いた名演を披露してくれてもよかった。新・専科生が大劇場や東京宝塚公演での「ヘルプ」に忙しくしていたり、外部出演をしている間、バウ公演は新・専科以下の若手トップ候補や超若手(?)のワークショップ(と銘うって、金を取るなよ!)なるものに終始し、実験性にも乏しく、著しくレベルを下げたのは、ひじょうに残念でならない。

閑話休題。外部出演の「私生活」は観ていないのでふれられないが、近年の汐風で特筆に値するのは、星組「花の業平」の藤原基経(東京宝塚劇場のみ)、月組「シニョール・ドン・ファン」のロドルフォ、そして同じく「宝塚花の風土記」の「素踊りの男」だった。あえて共通項を探れば、どの役も厳しく凛とした姿が強烈に印象に残っている。汐風は、宝塚生活最後の二年半で、そういう姿をぼくたちに焼きつけてくれた。

このように振り返ると、やはり汐風という役者は、日本物で大きな魅力を発揮したことには違いない。しかし、「歌劇」七月号で谷正純が披露しているが、彼女自身は「日本物が得意と思われるのが辛い」と言っていたというから、わからないものだ。おそらく彼女にとって日本物を演じることは、他の役者たちとは比べものにならないほど大きなプレッシャーのかかる一大事だったに違いない。彼女の中での日本物に対する及第点、平均的レベルというのは、他の劇団員とも演出家とも違って、異様に高いものだったはずだし、それをクリアするために家族や縁者がどのような厳しい人生を送ってきたかも熟知している以上、生半可に「日本物でございます」といい加減なものを出すわけにはいかなかったはずだ。彼女にとっては、他の劇団員に比べて日本物がうまいとかどうとか、そういうレベルではないフィールドで(自分の中で、ということも含め)戦っていたわけだから、それはまことに辛いことであったろう。

一転「長い春の果てに」で汐風は女役に回った。新・専科生を女役に配することについて、ぼくはリストラ候補の社員の再就職斡旋のための研修などという、あまり上品ではない言い方で苦言を呈したことがあったが、汐風についても率直に言うと、よくやったとは思うものの、彼女の、何と言えばいいのか、生真面目さとか不器用さがあらわになってしまったように思えた。今でも一般的に言ってこのような配役は、せっかく築き上げてきた男役としての存在感やスキルを、一朝にして崩しかねない愚挙だと思っている。

しかしそれでも、やはりぼくたちは彼女が宝塚歌劇団に所属して、同じ時代に彼女の日本物の名演をいくつも観れたことを、奇遇として幸せに思う。そして彼女が日本物に対する姿勢と同じ厳しさで、正面から率直に日本物以外の演技にも立ち向かい、最後のロドルフォのような厳しい役づくりに結実したことを喜びたいと思う。

最後の公演となった「宝塚花の風土記」で何よりもうれしかったのは、「素踊りの男」という姿を観れたことだった。東儀秀樹の音楽ももちろん冷麗と格調の高いものだった。汐風の動きについては、冒頭にも言葉足らずとはいえ少し述べたが、何よりもその動きや姿勢によって劇場の空気を凛冽としたものに変えることができていた。彼女自身の生きてきた何十年か、彼女を生み出した伝統の何百年か、男役としての彼女の十数年か、すべての歳月を結晶させたような美しい姿であった。改めてこのように彼女の来し方を振り返ると、彼女自身もけっこう恵まれた宝塚生活だったと思う以上に、彼女がいてくれたことで、ぼくたちがずいぶん恵まれたことであったと、感謝したい気持ちでいっぱいになる。(20038月退団。現在の芸名は片岡サチ)


「泣き」の魅力〜伊織直加の旅立ちに

刷り込まれたというのか、伊織直加というと「エデンの東」新人公演(一九九五年)でのキャル・トラスクがあまりに強く印象に残ってしまっていて、以後のほとんどの役にその面影を追いかけるような見方しかできなくなってしまっていた。屈折した思いを胸に秘め、どうすることもできなくて自棄に走る繊細な青年。そういう役でなければ伊織に面白みはなく、伊織の「泣き」が見れないと何だか物足りなくて、彼女にふさわしい役ではないようにさえ思われた。

それほどに、「エデンの東」がすごかったということだ。父に疎まれた次男坊の悲哀が全編を通じてあふれるように表現され、ことに父の病床で札束を乱舞させて泣くとも笑うともつかぬ感情の昂ぶりには、ホールを凍らせるような迫力があったと記憶している。

一九九七年の「君に恋してラビリンス」は、初風緑とダブル主役で、事業家の子息オービット。全体にテンポのいいライト・コメディだったと思うが、実はこの時ぼくは、舞風りら、大鳥れいの二人の娘役しか印象に残っていない。コメディ・タッチの伊織はどこか居心地が悪く、無理しているような気さえしてたが、それがキャルを引きずった先入観だったのかどうか。同年、匠ひびき主演の「白い朝」では、さぶ。これはまさに伊織に適役と思われた。やっぱり伊織は「泣き」が入らないとね、と思う一方、逆にそれが彼女の芸域の狭さを意識させられるようでもあり、今後彼女はどうなっていくんだろうと心配にも思えた。

そしていよいよ翌一九九八年、インドを舞台にした「Endless Love」でバウ初の単独主演。伊織、大鳥れいと、取り立ててダンスが得意なトップを配したわけでもなかったのに、振付にコンテンポラリー・ダンスの大島早紀子(H・アール・カオス)が初参加したことで話題になった。このころ、ぼくは伊織に対して、歌やダンスや演技や、何か特に注目すべきスキルがあるわけでもなく、総合的な存在感、そして何よりもはまり役を得た時のすばらしさを見るべき役者であると認識していた。だから、このバウ初主演となるこの公演で、彼女がどのような新しい面を見せるのかどうか、強い興味をもっていた。

彼女はけっこうよかった。これまでそれほど魅力的だとは思っていなかった歌もダンスも、劇の流れに沿って、劇をきっちりと高めることのできるものになっており、彼女の勘のよさ、神経の鋭さがうかがわれた。何より芝居が好きなんだろうなと好感をもつこともできた。

この劇は輪廻転生をテーマに、伊織が第一幕では大鳥演じるイギリス人少女ジューンと運命的な恋に落ちるインド独立運動の闘士バシーム、第二幕では生まれ変わってジューンの息子マークとして登場するというものである。「エデンの東」とは違って、母に子どもとしては愛されず、かつて愛した男の生まれ変わりとして疎まれ拒まれながらも、母を純粋に愛している息子という、母子間の倒錯した愛憎がマークを苦しめ苛むのが見どころなのだが、肩を少し上げて歩く姿、射すくめるような視線、歌のシャウト、腕の振りなど、随所にやり場のない感情の強い噴出や、その感情を抑えた煩悶が見られ、伊織の魅力を見せてもらったと、納得はできた。演出の児玉明子も、バウ初主演の伊織に対して、これまで蓄積してきた魅力をきっちりと見せることに意を注いだのだな、とも思った。

しかし、全体的なスケールアップは見られたが、この後も彼女はなかなかその枠を超えられないようだったし、役柄もその枠の中にとどまったように思う。難しいものだと思う。彼女はとにかく激しい感情に翻弄されるように「泣き」の入る役は本当にうってつけで、他の誰がやるよりもふさわしかったと思うし、その状態へ感情を盛り上げていく演技もすばらしかった。素の顔まで、泣き顔のように見えてきた。「泣き」がすばらしければすばらしいほど、「あさきゆめみし」(二〇〇〇年)の柏木のように、演出家たちも彼女にそのような「はまり役」しか与えなくなったように思えたし、さらには彼女にはそんな芝居しか向いてないようにさえ思えた。

伊織の役柄が変わったように思えたのは、やはり専科に移ってからだ。「ルートヴィヒU世」(二〇〇〇年)のデュルクハイム伯爵もよかったし、何といっても「カステル・ミラージュ」(二〇〇一年)のアントニオで、敵役にまわって黒い魅力を出せたのがよかった。少年が大人の男になったように思えた。その「成長」が、専科配属ということでの心がまえのようなものによるのか、男役十二年での成果なのか、外部出演「キス・ミー、ケイト」で女役(ロイス、ビアンカ)を演じた反映なのかはわからないが、男役の迫力のような強さを感じられるようになって、大いに驚いた。

さて、彼女は宝塚音楽学校を首席で卒業し、早くから将来を嘱望されていたわけだが、「エデンの東」での新公初主役は入団七年目と滑り込みに近い状態だった。もちろん前後のバランスや組内の事情があったにせよ、音楽学校での成績からすると、ややパッとしない入団後である。実際、同期生四人が集まった「Switch」を観ていると、伊織の優等生らしさは伝わるものの、存在感という点では、さすがはトップ公演だけあって他の三人と格段の違いがあるとは思えなかった。この公演はあくまで伊織が主演で、湖月わたるは特別出演、そして嘉月絵里と美穂圭子というラインアップだったが、率直にいって伊織以外の三人のほうに目が行きがちだった。

殺人鬼の伊織がよかったのは、湖月演じるウォルターに「あの世でおまえの息子に、悪い遊びを山ほど教えてやるさ」と言い放つような狂いぶりであった。湖月との乱闘の場面も迫真の力があり、その後の伊織の静から動へと移る歌もドラマティックで迫力があった。しかし、全体には、湖月以下三人の芝居巧者に支えられて実現した、伊織の花道のように思えてしかたなかった。第二幕でも、客席に降りたからといって客をいじるでもなく、むりやりクライマックスに持っていくでもなく、誠実といえばそうかもしれないが、平板なステージになりかねないのを救ったのは、嘉月ら他の三人の力が大きかった。

首席やトップということが、どういうプレッシャーになってしまうものなのか、その経験がないのでわからないが、「トップだから」は容易に「トップなのに」になるだろう。どのジャンルもそこそこできるということで、面白みに欠けがちになることは、本人が一番知っていたのではなかったか。もともと彼女は娘役を志望していたという。「キス・ミー、ケイト」に続き、謝珠恵作品への紅一点での出演が決まっているようだ。芝居好きで勘がよくて、男から見た女の魅力を知っている女で、ちょっと不器用なほど誠実……成功の条件はそろっている。水を得た魚となることを期待している。 (2003年退団、現在の芸名は伊央里直加)


新制度のスタートに伴う夢想と、予想される幻滅

 ぼくはもう、公演評以外はあまり書きたくないと思っている。詳細は省略するが、宝塚をめぐる状況論は、不毛だ。だから、この新・専科制度のスタートによって、ぼくが興味を引かれるのは、ただ一点、どんな作品でどんな組み合わせが見られるのか、ということに尽きている。

 この制度の発表は、星組「黄金のファラオ」大劇場公演の最中だったから、ぼくたちは結構心配した。絵麻緒や彩輝は、くさらずにきちんと舞台を務めているだろうか、とか。次にこの制度を実感したのは、宙組バウホール公演「FREEDOM」で樹里咲穂の肩書きが「専科」となっていたことだったが、作品の出来はよかったし、当然のことだが違和感はなかった。続く大劇場公演の雪組「凱旋門」、宙組「望郷は海を越えて」でもその組出身者以外の新・専科所属者の出演はなく、稽古や準備の日程上やむをえないとしても、せっかく発表した制度が実質的に機能していないのが物足りなく思われた。宙組のショー「ミレニアム・チャレンジャー」で上衣を肩脱ぎにすると全員の背に「宙」というゼッケンが現れたと思ったら、湖月のものだけ「専」に変わったという、素直には笑えない石田演出らしい寒いネタがあったが、そういうことをサラリと演じているとすれば、劇団員も観客もさほど屈託なく受け止めているということなのだろう。

 新しい制度の発表に当たって、プロデュースする側は戦略的に、それがいかにうまく機能し、素晴らしい結果を残すかを、すぐにでも目に見える形で明らかにし、ファンや劇団員に起こりうる不安や不満を押さえ込む必要があった。しかし、やはり宝塚歌劇団はそのような手を打てず、部外者には、この制度の発足が十分に検討されていない、思い付きのものであるように見えてしまった。

 多くのことが明らかにされていない中で、気になることは、まず新・専科に移った十人の中から、トップに就任する者がいるのかどうか、そしてこの制度が今後も継続するのかということだ。つまり具体的にいえば、月組次期トップは誰なのか、それが新・専科から選ばれた場合、月組の新準トップ、三番手は専科に移るのか、ということだ。これが明らかになれば、今後この制度がどのように展開するのか、おおよそわかることになる。

 現時点ではこの制度が実質的に機能する(といっても、紫吹の休演を受けて香寿が入ったというだけだが)月組大劇場公演「ゼンダ城の虜」が始まっていないので、この制度がいかに素晴らしいものかとかを、経験的に語れないのが残念だ。当面の配役は制度発足と同時に発表されるべきだったが、その中で興味を引いたのが、ショーだけに参加するというケースがあったことだ。そういう自由さが許されているのなら、期待はかなり広がっていく。

 さらには、組の枠の中に専科の者を振り分けていくのではなく、専科の者たちがその公演の中心となって、自由に全組からオーディション方式で出演者を募集し、一本の公演を打つことはできないだろうか。たとえば正塚作品を紫吹、香寿、樹里、初風、そして少数の娘役をセレクトして加えて上演するとか。山本周五郎ものを汐風、絵麻緒、湖月を中心にしてやるとか。専科の十人だけで、誰かは女役にもなって一本の洒落たミュージカルをやるとか。娘役も再編しなくちゃ。このように考えていくと、想像は夢想となり希望となって……はかなく消えていくのだろうか。

 ただ、そのような企画もあっていいとは思うものの、それが主流となるようなことでもあれば、各組に一人のトップスターが存在することを前提としたピラミッド制度は崩れていくだろう。フィナーレで大階段を降りてくる順番、羽根の大小をどうするのか、という現実的な問題もある。トップスターが出てきさえすれば、劇場の空気が二、三度上がるような緊張感、昂揚感もなくなるかもしれない。このようなことはナンセンスであるように見えながら、これまでの宝塚歌劇の「水戸黄門的」な安心感を支えてきたものであり、大衆文化としての宝塚歌劇を保証していたものだった。宝塚の作劇はこのようなトップスター制度に依存して初めて成立する部分が大きく、それを脱して現在の演出家陣がまともな戯曲を創造し続けられるかどうか、これもはなはだ心許ない。

 そしてさらにいろいろのことを考えたり心配したりするのだが、どこかでは、新・専科制度なんて集客力の低下に危機を感じている歌劇団が打った、一時的な起爆剤に過ぎないさ、とも思っている。新劇場のオープニングや、いまだに噂の絶えないベルばら再々演を乗り切るためのその場しのぎであるとも。結局翻弄されるのは、劇団員とファンだけ、お疲れさん。……だから、公演評以外のことは、あまり書きたくないと思っているのだ。おわかりいただけただろうか。


大人の味わい、翳りの魅力−別格スターの存在価値

 映画界、演劇界で「助演男優賞」「助演女優賞」というのは、役者にとって最高の勲章なのではあるまいか。昨年度の「第1回宝塚アカデミア・アカデミー賞」では、それぞれ樹里咲穂、陵あきの・千紘れいか・久路あかりとなった。もちろん、彼女たちのその演技が舞台を引き締め、味わいを深めたことはいうまでもない。一方、なんとなくトップ路線には乗っていないような翳りが、魅力となって吸引力を増幅していることも見逃せない。

 近年の宝塚の傾向として、準トップは脇役やトップの対抗としてよりも、次期トップとして予行する役どころに収まってしまうことが多く、悪役の美学、渋味を出せる役をふられていることが少ないのではないか。最近では「LUNA」の紫吹淳(ブライアン)、「タンゴ・アルゼンチーノ」の匠ひびき(カール)がトップに対立する役として設定されていたが、共に小池修一郎の作品で、彼の作劇の一つの特徴といってもいいのかもしれない。

 少々さかのぼれば、同じく小池の「カサノヴァ・夢のかたみ」の麻路さき(サンジェルマン伯爵)、舶来ものだが「ハウ・トゥ・サクシード」の海峡ひろき(ギャッチ)などの、策略をめぐらしたり、色濃くトップと対立したりする役が、最近では専科や組長・副組長らのベテラン陣に当てられているのを、少なからず物足りなく思っている。おそらくこういうことが宝塚のアイドル化といわれていることなのではないだろうか。トップ路線と呼ばれる序列が三番手、四番手、あるいは組によっては五人目、六人目と数えられてしまうようになって、どうもそのアイドルたちに憎まれ役や色濃い悪役を振り当てにくくなっているように思われる。そのことで劇も役者も薄っぺらになり、作品の深み、演技の深みが欠けてしまっているのではないか。

 たとえば香寿たつきが最近は愛らしい白い魅力を出しているのは、彼女の人気のためにはよいことであろうが、「JFK」(またしても小池作品だが)のフーバー長官のようにキリキリさせるほどの憎らしさをもった濃い役も、どうしても見たいのだ。確かに一時期香寿は苦み走った中年男性の香気や悪役の美学をふりまく役が続き、脇役路線だとか、トップ就任は難しいのか、などと噂されたが、まず宝塚にそのような色濃いトップをいただく芝居があっていいし、ぼくたちもそういううまみを楽しめる鑑賞眼を持ったほうが、楽しいはずだ。

 さて、「別格スター」などといわれると、真っ先に海峡ひろきを思い浮かべてしまったのだが、つまりトップや準トップに勝るとも劣らぬ実力があり、彼女たちに対抗するほどの存在感がある。娘役においては、洲悠花がそうだったように、若いトップ娘役をフォローするだけでなく、やや蠱惑的な魅力をもった悪女、情婦、運命の女、または母性的ないし姉的な魅力でトップを包みこむといった役どころとなるだろう。

 もちろん、男役なら何番手というように序列が定まっているようだから、別格扱いされるのは、どちらかというと娘役(女役)のほうが多いのかもしれない。具体的に言えば、以下のような者が挙げられる。例外もあり、いろいろとご異論はあるかと思うが、ご容赦いただきたい。

  花組 楓沙樹、渚あき

  月組 夏河ゆら、美原志帆、汐美真帆

  雪組 五峰亜季、汐風幸

  星組 朋舞花、久城彬

  宙組 陵あきの、樹里咲穂

 この中には、現時点で別格扱いしてしまうことに抵抗があって、実際これからトップになるかもしれないスターもいる。個々に見るとダンスのスペシャリストもいるが、多くは芝居巧者として記憶に残っている。演技ならいわゆる名脇役として、あるいは歌でもダンスでも、観客の記憶に残るワンシーンを印象づけてくれる存在だといっていいだろう。

 この中で、悪役として印象に残っているのが、「Love Insurance」でロベルトを好演した久城 悪役ではないが樹里の「Crossroad」のデュシャンは、しょうがない男の役で、これもまた名脇役の一つの役どころとして樹里の魅力を存分に見せた。この二つの作品は、共に正塚晴彦によるもので、「SAY IT AGAIN」の成瀬こうき朝海ひかるが、やはりしょうがない結婚詐欺師だったように、今後も正塚作品にこの手の脇役が生きる作劇を期待したい。

 名脇役として生きるには、ひとつにコメディアンとして客席を沸かせるという道があるはずだ。専科の未沙のえるをはじめとして、退団する真山葉瑠に連なる路線である。泣かせることより笑わせるほうが難しいというが、このタイプの役者が本当に芝居巧者であることは、未沙の「心中・恋の大和路」における孫右衛門が証明している。現役では、上記の役者にちょっとそのような役が思い浮かばないのが残念だ。真矢みき真琴つばさのように、トップが遊びで笑わせるのとは違って、伸び盛りのトップ候補に笑われ役のイメージがついてしまうことは、おそらく本人にもそのファンにも少なからぬ抵抗があるに違いない。多くの作品で専科の者が笑われ役に当てられているのも、芝居の巧さと共に、そういう部分に対する一種の割り切りができているからだろうか。

 そういう意味で、現役では風早優が貴重な存在である。時にやり過ぎてしまって滑ることもあるだろうが、松竹新喜劇的な(といって関西以外の方にはわかりづらいだろうが、藤山寛美とか)笑いと涙のなかに劇の、そして人間というものの真実を明らかにしてくれる役どころであることが多いはずで、このようなタイプの役者が増えないことには、宝塚歌劇の舞台に膨らみは出るまい。

 ぼくたちの観劇の姿勢として、笑うべき場面では思いっきり笑ってコメディアンたちの努力に報いてやらなくては、彼女たちも笑われがいがないというものだ。繰り返すが、正塚作品の中には、芝居のタイミングで笑わせる上質なライト・コメディがある。甲斐性はないけどカッコよくて、どこかトボケていて憎めない、というような魅力的な男を、もっと大劇場の舞台の上で躍動させてくれないだろうか。

 笑われ役といえば、意外にも翔つかさ、幸美杏奈、夏河ゆら、愛耀子など、娘役にいいコメディエンヌが多いことは、もしかしたら宝塚歌劇の一つの特徴として強調していいかもしれない。本当はゆっくり考えたいのだが、宝塚において男役が完璧な虚構として、危うい地点で成立しているとしたら、たしかに女役のほうが笑わせることには近いのだと思われる。地で好きなように爆発できるのは、本当にはむしろ女役のほうではないかと、ここではそんな予感だけを指摘しておきたい。

 もちろん娘役には、魔性の女、運命の女という魅力的な役どころがある。朋、五峰、美原のように、ベテランの域に達しようという娘役には、そのような情婦の味わいで主役の人生を歪めてしまう魅力をうまく表現できる機会があり、役の上でうまく年を重ねることができるようになっている。<ダンスの五峰>の最近の演技面での充実は、著しい。「聖者の横顔」で朋が演じたイレーネの最期の場面の凄絶さったらなかったし、「プロヴァンスの碧い空」の美原のジェルメーヌについて改めていうまでもなかろう。彼女たちに共通しているのは、いうまでもないことだが、しっとりと美しいということだ。夏河はここのところ魔女的な役が多くて、ちょっと損をしているように思う。キンキン、バタバタさせず、落ち着いた大人の女の夏河も見たい。

 「あさきゆめみし」で朧月夜を演じたについても、やはり光源氏の人生を一度は大きくたわめたことで、役としても、役者としても劇に鋭く屹立した。「タンゴ・アルゼンチーノ」では元高級娼婦。独特な気品と色気をうまく出していた。どちらかというとかわいいタイプなのに、いくぶん人生を諦めたアンニュイな雰囲気が出せているのが、大きな魅力になっている。

 渚、そしては、共にトップ娘役になってもよかったかもしれないが、やや淋しさが漂ってしまって、その期を逸してしまったという点で共通している。しかしそれは必ずしも悪いことではなくて、そのような観る者の思い込みが、彼女たちの存在に味わいを深める香辛料にもなっている。陵については、「エリザベート」で狂女ヴィンデッシュ嬢を、何といえばいいか、好演し過ぎた。ヒロインはトランスしない。しかし名脇役は髪を振り乱しても憑依してでも、人間の一面を確実に見せてくれなければならない。その意味で、陵のヴィンデッシュは宝塚にとって貴重な財産であり続けるだろう。

 ちょっと変わったところでは、「プロヴァンスの碧い空」で本来男役である北嶋麻実が演じたエディットも、また素晴らしい破調であった。彼女たちのような役者には、きっと台本には書かれていない、自分の思惑やら意図やら能力を超えた何ものかが、舞い降りてくる瞬間があるのだろう。そんな予想以上の面白みというものは、トップよりもそのそばにいる脇役たちに多く見られるものだ。

 このように見てくると、かえって楓、汐美のような男役のほうが独自の魅力を押し出すことに苦労をしているような気がしてならない。「あさきゆめみし」で楓は朱雀帝という難役を与えられた。汐美もバウの「心中・恋の大和路」で八右衛門、昨年の「うたかたの恋」でジャン・サルヴァドル大公と難役が続いている。どれもただ立って喋っているだけではどうにも収まりのつかない、腹芸、ニンの必要な役どころだ。

 今の宝塚では、このような役どころには汐風幸が最もふさわしい。おそらく彼女は、動きをこらえること、何もしないことによって見せられる深みを身につけている。汐風にそのような役を書きたいと演出家に思わせるだけの魅力がある。そんな好循環の相乗作用が、舞台の魅力を格段に高めていく。残酷なことかもしれないが、どこかで自分を別格であると位置づけた上は、与えられた一つ一つの機会を、レベルアップのための正念場として乗り切っていかなければならないだろう。                      「宝塚アカデミア11


ドラマティック・タンゴ!

 奇妙なブームは去ったとはいえ、みんなタンゴが好きみたいだ。一流のクラシックの音楽家たち―ヨーヨー・マやクレメルもピアソラにトリビュートした、いいアルバムを出している。

 京都を中心に活動しているアストロリコの面々、特にバンドネオンの門奈紀生を聴き、その演奏する姿を見ていると、まずそのカッコよさに言葉を失う。ダンディということ、流儀(スタイル)を持っていること、その上で男が女を、女が男を蕩し込むための手練手管が交錯している。音楽はその掛け引きを円滑にまたはいっそう悲劇的に進めるための潤滑油の役割を遺憾なく発揮する。

 アストロリコを知ったのは、元宝塚歌劇団花組のトップスター、大浦みずきの「Che Tango '99」(711日、宝塚バウホール。構成・演出=酒井澄夫)でだった。大浦は宝塚歌劇団の現役時代、リンダ・ヘーバーマンの振付作品を主としたニューヨーク系のシャープなダンスを特に得意とし、「ダンスの花組」を形成していた。そのダンスは確かに素晴らしいものだったが、どちらかというとキレが先に立って、艶っぽさの面でいくぶん欠けるように思えていた。だから、少し前から彼女が(女性ダンサーとして)タンゴに没頭していると聞いて、やや意外に思っていた。

 大浦のタンゴは、初々しさに満ちていた。タンゴを始めて何年もたっていないというだけに、ステップはあまり複雑にせず、どこかしら注意深い、いい意味での臆病さ―大きく困難なものに向かうのだという敬けんさのようなものが仄見えていたのがよかった。それが、出会ったばかりの男と女の初々しいかけひきのような微笑ましさをたたえていたのが、何よりよかった。ペアを組んだフリオ・アルテスの好リードも見逃せない。

 さて、この公演は何人かの振付家による競作でもあったのだが、「パリのカナロ」や「ラ・クンパルシータ」でシャープな構成を見せたケンジ中尾は、いささか旧聞に属するが、「AtmosphereU」と題するそのカンパニーを中心とした公演で、紫ともという宝塚歌劇団元トップ娘役とタンゴ「ASHITA」を踊った(530日)。これは大浦のともまた違った空気で、一種のスリルに満ちた、いいステージだった。退団して数年たつ紫はますます匂い立つように美しく、ここから男と女の新しい人生が始まってしまいそうな予感に満ちたドラマチックなタンゴだった。中尾の動きのスピードとキレ、他の作品で見せたジャンプの力強さも改めて特記しておきたい。

 最後まで宝塚でいってしまおう。シアター・ドラマシティ初演で、神戸こくさいホールに所を変えて再演された月組「ブエノスアイレスの風」(718日。作・演出=正塚晴彦)は、主演の紫吹淳のタンゴのステップが男と女の明日への夢と不安をシャープに描いて痛切だった。かつて反政府運動のゲリラだった男が特赦を得て店で踊っている。相方と一緒に有名な楽団のオーディションを受けることになったその日に、昔の仲間のアクシデントに巻き込まれる……。タンゴがドラマそのものであり、タンゴが時を盛り上げ、尖鋭化させていく。背を反らした肩越しに地面を見つめる斜めの姿、視線、表情、影……紫吹のすべてが、この大きなドラマのエッセンスとなった。(P.A.N.Press掲載)


「宝塚アカデミア」娘役特集「今を楽しむための若干の苦言」

 ぼくが宝塚を見始めた頃、トップ娘役は森奈みはる、花總まり、麻乃佳世、白城あやか、の四人だった。それから花組は森奈が安寿ミラと一緒に退団して、真矢みきと同時にトップに就いたのが純名里沙、次いで就任した千ほさちが真矢と同時に電撃退団して、大鳥れいが愛華みれと同時にトップ就任。雪組は花總が一路真輝、高嶺ふぶき、轟悠とコンビを組んだのち宙組に組替えして、かわって星組でトップ娘役だった月影瞳。月組は麻乃が天海祐希、久世星佳とコンビを組んだのち退団して、風花舞が続いて真琴つばさとコンビを組み、風花の退団後、檀れい。星組は白城が退団の後、月影瞳が引き続き麻路さきとトップを組んだ後、星奈優里が月影と交替でトップに就き、麻路の退団の後、稔幸を迎える、と代替わりしてきた。ぼくより少し年下だったトップ娘役も、いつの間にかすごく年が離れてしまい、それだけでなんだか小粒になったような気がしてしまったりもするものだが、それを考慮してもしなくても、今のトップ娘役のラインナップが物足りないとか、見劣りするというようには、必ずしも思わない。促成栽培が危惧されながらも、一九九三年の時点で森奈、白城、麻乃が研6、花總に至っては研4だったことを重ね合せれば、今は月影、星奈が研10、花總が研9、檀が研8、最下級生の大鳥でも研7と、皆それなりの年数を経てきている。純名や風花が星奈、月影と同期だったことを思えば、その頃の早さが、一種異様なものに見えてくる。

 ダンスなら星奈がいる。大鳥は歌がいい。芝居のセンスなら月影。花總には清楚な美しさに貫禄さえ出てきた。檀には美貌に加え、芝居好きという美点がある。それぞれ苦手な分野がないわけではないようだが、それが作品の出来に決定的なダメージを与えるほどではないといっていいのではないか。

 

 娘役は、やはりどうしてもトップスター(男役)との関係性、相性によって左右されてしまう部分が大きい。花總が宙組に移って生まれ変わったことについて、述べたことがある(『宝塚アカデミア5』所収「娘役の誕生と再生」)。宙組異動後の彼女は、「エクスカリバー」「エリザベート」「激情」の三作で、三様の女性をみごとに演じきった。楚々としたお嬢様的な外見をもちながら、堂々とした威厳あふれる演技も、蠱惑的なジプシー女のそそるような表情も自在に繰り出すことができる。雪組時代には「真夜中のゴースト」や「晴れた日には永遠が見える」で現代の女性もあたりまえのように軽くこなしているし、女王も王女も娼婦も演じ分けられ、等身大の演技も不自然ではない、オールマイティの魅力を獲得している。

 彼女の、ドタドタしたと言っては悪いが、がむしゃらな走り方が好きだ、とも書いたことがある。その走り方や、時折見せる思いつめたような目つきからは、やや先入観も混じっているが、深窓の令嬢が何かに夢中になって、周囲のことが何も見えなくなって突っ走っているような危うさがあって、それが彼女の魅力を増幅している。

 とはいえ、ダンスはあまり得意ではないようだし、歌は悪くないが時々アレッと思うことがある。「エリザベート」の歌唱から期待して、ショーのワンシーンの歌を同じレベルで期待して聞くと、がっかりすることがないわけではない。彼女はおそらく感情が入らないと歌えない、まさに宝塚の舞台のための歌い手なのだろう。これはけっして弱点ではない。

 

 「娘役の誕生と再生」では、月影が星組から雪組に移って、水を得た魚のように芝居巧者ぶりを発揮できたことにもふれた。最近作の「再会」で彼女のコメディエンヌとしての魅力が爆発した。これは喜ばしいことだし、観客としては笑っていればいいのだから取り立てて問題とするには当たらないのだが、やや心配な点がないでもない。月影のこれまで名場面とされているシーンを思い出してみると、「春櫻賦」ラスト近くの銀橋での独白をはじめ、彼女一人が立ち上がった独演の場面が多いような気がする。「再会」で受けたのも、図書館での直角歩きなど一人のしぐさのおかしさが主であって、掛け合いによる相手との間(ま)のおかしさではなかったように思う。実際には掛け合いのシーンも悪くはないのだろうが、一人のシーンが突出する印象があるのはなぜだろう。彼女自身が演技面で努力し工夫を重ねているのはよくわかるのだが、相手役との関係性を築いて場面を作らなければならないところでは、やや気が急いてバタバタしてしまう傾向があるようだ。特にラブシーンになると次の展開を急いでかバタバタしているように見える傾向にあるように思う。「再会」のいいシーンでポリポリと足を掻いてしまうところなど、秀逸とはいえ、それが彼女の持ち味に直接つながってしまうだけに、洒落にならないところがあった。ラブシーンでの居心地の悪さというのは、役によってはとてもいい味になると思うし、ある種の親近感を覚えることもできる、現代的ないいキャラクターだとは思うが、いかんせんそのような役ばかりでは物足りない。特にショーでのデュエットダンスを初めとした絡みが心配だ。

 と思っていたら、エストレーラ(「ノバ・ボサ・ノバ」)は彼女にとってずいぶんいい勉強にもなり、そしてその成果を存分に見せられたようだ。台詞がなく、表情だけで見せる演技ができるようになっていた。以前からきつめの表情や、可愛らしくくるくるとした瞳がチャーミングな表情は得意としていたが、今回は恋に落ちた恍惚の表情ができていたのがよかった。もうここから先は、脚本にお願いするほかはない。一度しっとりした恋する女を、月影に振ってやってほしい。

 

 雪組では難しい位置にあったが、月影との組替えで古巣の星組のトップ娘役に座った星奈優里。好評の博多座公演「我が愛は山の彼方に」を未見の段階でいうと、現時点での彼女の代表作は、いまだに雪組時代の「仮面のロマネスク」のトゥールベル夫人であるように思える。もちろん「ダル・レークの恋」「皇帝」「WEST SIDE STORY」と星組でトップに就いてからの作品も、それぞれに彼女の魅力をよく出してきたが、高貴な女性の煩悶する姿を演じさせればうってつけの彼女の、苦悶する美しい姿を最も印象的に出せたのがトゥールベル夫人だったように思う。

 星奈はダンスの人といわれ、ショーでその魅力をぞんぶんに振りまいているのはもちろん、熟達したダンサーならではの品のある身のこなしで舞台を引き締めている。そんな品格のある姿と、陰影のつきやすい表情があいまって、高貴な煩悶がまことにふさわしい娘役になったわけだが、雪組時代の彼女を見ていると、そこに渋味が加わり、うまい女役として脇に回ってしまいそうで、心配だった。

 その意味で「WEST SIDE STORY」のマリアは大きなチャレンジであったわけだ。たとえば一九九四年の「ある日夢のとばりの中で」で発揮していた少女らしさを、再びどのように出すことができるか。雪組時代に脇の位置で獲得した落ち着きをいっとき忘れてでも、弾けるような華やかさを再び獲得する必要があったわけだから。実際、星奈のマリアは東京公演で大劇場公演よりかなりよくなったと聞いているが、それをステップにすれば、博多座では新しい万姫像ができあがってたはずで、いよいよ大劇場公演が楽しみだ。

 やはりダンサーであった風花に比べると、星奈は名ダンサーではあっても、中心になって踊りきるタイプではないように思う。どちらかというと、デュエットダンスの中で美しさを発揮する、宝塚の正統的な娘役であるように思える。その意味では、同じようにバレエをベースとする稔とのコンビで、ますます見せ場をつくっていくことだろう。その見せ場とは、実にぼくたちが待望していたものだが、やはり大人っぽいしっとりした色香ともいうべき香気を放つような場面のことだと思っている。

 

 大鳥れいが注目を集めたのは、「ヴェロニック」のアガートという花屋の女主人だったといえるだろう。堂々としていたし、何よりみごとな歌声に聞き惚れた。しかしながら、あくまでここのヒロインは千ほさちであり、大鳥は脇を固める色っぽいオバサン役。星奈と同様、大鳥も脇に回るのかと思ったこともあった。さて、ではトップお披露目の「夜明けの序曲」で、彼女のトップ娘役としてどのような美点を見せることができただろうか。

 新しいトップ娘役には、どうしたって初々しさを求めたい。ところが、このお貞という役で、彼女はなかなか可愛らしさを出すことができなかった。柳橋の置き屋で一番の芸妓だった貞奴が、おかみさんの反対を押しきって男について洋行するところから始まり、曲折の内にフランスで社交界の寵児となり、夫と対立、日本に戻って病に倒れた夫を看取り、最後に自分たちの来し方を肯定する独白を堂々と演じきるという役どころでは、彼女の貫禄は出せても、他の要素はなかなか表われず、トップ娘役としての彼女の評価については保留せざるを得なかったというのが、正直なところだった。

 「タンゴ・アルゼンチーノ」で、彼女はまたしても人妻である。トップスターの愛華みれが画学生役と、ぐっと若くなったことで、大鳥の落ち着いた雰囲気がかえって目立つ格好になった。高級娼婦だったのが貴族の愛人になって、死別し、伯爵の養女になって落ち着いてまた結婚をしたわけだから、どうしたって幼な妻とは言えない。どうせ元になった映画を随分潤色しているそうだから、人妻というのをせめて許嫁に変えることぐらいは簡単にできただろうに、小池修一郎がそうしなかったということは、やはり大鳥には人妻が似合うと思われているということか。

 それは一つの当て書きとして悪いことだとは言えまい。彼女の特徴をよく生かしているということだ。しかし、宝塚のトップ娘役として、なんとか彼女から可憐な美しさ、愛らしさを引き出すことができないものか。星奈にマリアをさせたことは、おそらく大きな成功となって彼女の役の幅を広げることだろう。そのようなチャレンジを、早く大鳥に与えてほしい。そうしないと、愛華の役も広がらないということになってしまう。

 

 その意味で、檀れいのトップ娘役としてのスタートが、全国ツアーだが「うたかたの恋」だったことは、恵まれたことであった。雪組「浅茅が宿」で新公最終学年になって主役に抜擢されたわけだから、多くのファンにとってはあまり印象に残る役のない、つまり先入観をもたれていない生徒だった。「銀ちゃんの恋」の玉美が大胆な化粧、三枚目ぶりで改めて話題になっているのは、彼女がトップになったからだ。

 「浅茅が宿」新公、「螺旋のオルフェ」と二役を演じなければならない役が続いているが、そのわりには彼女の役柄の幅が広いという印象にはつながっていない。懸命さ、けなげさが表に出て、いわば美貌ゆえの悲愴感が先に立ってしまうせいかもしれないが、彼女の一途な芝居に対する誠実さがもうすぐ実を結ぶのだと信じてはいる。

 「歌劇」のポートレイトなどを見ても、改めてその美しさを好ましく思うが、彼女の最大の欠点は(今はまだ愛すべき可愛らしさともいえるかもしれないが)、見られること、見せることに慣れていないという点だといえるだろう。それは彼女がスター路線を走ってこなかったためだろうが、ぼくも再三指摘している首の位置の悪さについてもそういうことだろうし、化粧についてももっと洗練されなければならない。衣装の着方についてももうちょっと何とかならないかと歯がゆく思うことがある。せっかくの美貌なのに時折表情が無防備になることで崩れてしまうのも、原因は同じだ。こればかりは、本人の自覚と研究も必要だと思うが、何より必要なのは、ぼくたち観客の視線であり、それを正面から彼女が受け止めてくれることだ。そのためには、もう少し、時間と経験が必要なのかもしれない。

 

 初めにぼくは、数年前の娘役トップが研6以下であり、今の彼女たちに比べればはるかに「若かった」ことを指摘した。これを成熟であると見たとして、それはたとえば男役との関係性や作品に占める位置に、なんらかの効果をもたらしているはずだが、いったいそれは何だろうか。たとえば、トップ娘役の地位は上がっただろうか? 残念なことに、これがはなはだ微妙に答えづらい設問になってしまうのだ。花總はナターシャ、エリザベートというようにタイトル・ロールを多く演じている。実力と役がうまく回転してここに至っているといえるだろう。風花がバウで「Last Steps」を公演したことは、宝塚の歴史に残ることだったに違いない。ダンスだけが卓越していると思われた彼女が、演技での表現力が急伸、歌唱力も相当なレベルまで達した道筋は、本当にみごとだった。星奈だってエスプリホールで、貴城けいと合同の形でだったがディナーショーをやった。しかしそれらは、トップに長くいることへで勝ち得たものだったり、卓越した技量に敬意を表わし退団を惜しむものだったり、トップに準じる地位に甘んじていることへの一種のお詫びに近い配慮のようなもののように思えた。白城と麻乃が二人でディナーショー「So long」をもてたのも、麻乃の退団を惜しむのと、白城が娘役としての大きさを増していることを喜ぶという両方であり、あるいはやや斜に見ればどちらをも目立たなくさせるためのジョイントだったように思える。

 つまり、相対的にこの数年間に娘役の地位が上がってきたというのではなく、たまたま力のあるトップ娘役が続けて出てきたということに過ぎないようだ。彼女たちの個々の力量や在位の長さによって、徐々に地位が積み上げられてきただけで、それは個々人の中にしか蓄積されていないということかもしれない。実際のところ大鳥も檀も、トップ娘役としての茨の道のステップを第一段から踏み分けているように思える。最も保守的なのは、ファンなのかもしれない。たとえば、娘役が出てきた時、娘役の歌が終わった時に拍手をすることに、客席はひどく臆病なように思える。また、ヒソヒソ話やインターネットの一部サイトで交わされる、新たに就いたトップ娘役に対する悪意に満ちた中傷の数々が、彼女たちのひたむきで懸命な熱意を削ぐことにならねばいいがと願うばかりだ。

 

 さて、トップとトップ娘役は、宝塚では恋に陥ることになっている。しかしながら、鶴岡英理子さんが月組全国ツアー「うたかたの恋」について、「上手と下手から二人が登場してくれば、もうこの二人は恋に落ちてあたりまえ」であるはずなのに「真琴&檀にはその格がない」と断じておられるように(「美しい世界への近道」、『宝塚アカデミア』8所収)、劇の空気をア・プリオリに決定づける濃密さを、すべてのトップ娘役が現時点で獲得しているわけではないことは、やはり物足りないといわざるを得ない。この濃密さとは、技術的には視線の熱さと共に、相手役と相対した時の立ち位置、それによって自動的に決定される身体の角度、背の反りなどから生み出されるものだと思う。そのようにテクニカルに解決できる弱点であれば、すぐに改善されるはず/べきであって、さほど深刻ではない。

 しかしぼくが本当に危惧しているのは、「夢・シェイクスピア」の公演評でもやや中途半端な形でふれたが、これが宝塚全般のナチュラル化によるものではないかということだ。ヒーローとヒロインが出会って視線が交差した途端、甘やかな音楽と共にスポットライトが二人に当たり、二人の瞳に光るハートマーク……そのような光景が本当に目の前で展開されてしまえば、ぼくたちは「ケッ」と唾棄するかもしれないが、実は「WEST SIDE STORY」の体育館のダンスシーンでの出会いが大ざっぱにいえばそうだったように、ぼくたちはこのようなステレオタイプをこそ待望しているのではなかったか。

 確かに月組「うたかたの恋」では、まだトップ披露だったということでそんな濃密さを期待するのは酷だったかもしれないが、また冒頭の指摘に戻れば、八年間も何をやってきたんだろう、また相手のトップスターもどうしてなんだろう、と首を傾げたくなってしまう。檀も大鳥も、月影でさえも、男役の胸に飛び込み、すべてを委ねることに、ちょっと臆病なのかもしれない。もちろん、受け止める男役の方の問題も指摘しなければ不公平になるだろう。刹那の激情に身を委ね、何も考えずに飛び込んでしまった後で、おそらくは悲劇に終わるドラマが始まる。そんなどうにもしようがない運命を綴っていくのが、宝塚のトップコンビに寄せられた期待ではないかと思うのだが。それをさらりと流していくような、日常性に立脚した作劇が増え、それが持ち味であるような生徒が増えてしまうと、芝居の方はまだしも、ショーのしっとりしたデュエットダンスなどはどうなってしまうのかと、心配になる。

 時折微笑ましく思うのが、新人公演で若手の娘役が本役の上級生(下級生であったりすることもあるが)の発声、口調、抑揚、表情……すべてをそっくりに真似ているような時だ。紺野まひるが月影、綾咲成美が陵あきの、南城ひかりが風花にそっくりだったことなどを、今すぐ思い出すことができる。さまざまな形で宝塚の娘役らしさというものが継承され、あるいは否定されたり追い越されたりするのだろう。率直にいって、他の筆者も言及されるだろうが、次の娘役がなかなか育っていないように思える今、現在のトップ娘役は、次回作の出来と共に、次代の娘役たちにどんな背中を見せていられるかが、大きな課題となっていると思う。

 宝塚のファンも少しずつ変わっている。「夜明けの序曲」を喜ぶファンが少なかったのは、生徒のせいというよりは、女性の意識が十数年の内に変わっていたことと、作品の中に流れている錯誤を演出や演技という装置によって隠蔽できなかったことによるといえよう。概して宝塚歌劇の女性観は、おそらく女性観客を意識した制作側の、そして観客自らの牽制または自制によって、けっこう保守的だといえよう。それでも今後は女性をタイトルロールとした作品が増えたり、娘役がひじょうに大きな役割を果たす作品が増えたりするだろう。既にその萌芽はある。今がその過渡期であるとしたら、それに立ち合うことのできる生徒もぼくたちも、ひじょうに幸せだ。その幸せを、上手に育てて、次の時代に渡していこう。


特集「宝塚に望むもの」〜人が宝―宝塚はこうあってね

 真織由季が退めた時に、既にわかっていたことだ。有望な生徒がどんどん退めていく。トップの在位期間があまりにも短い。これらはすべて同根で、要するに悪しきトップ至上主義がはびこっているということだ。歌劇団にか、生徒にか。それは卵とにわとりのようなもので、歌劇団の使い方が生徒の意識を作っていくし、生徒の意識がそうなら歌劇団もそうせざるを得なくなっていく、というものなのだろうか。いや、やはり生徒の立場は弱い。多くの役に見せ場を作ることができない作品が続き、トップにしか見せ場がないという公演が多くなれば、トップ路線を外れてしまった生徒が肩叩きをされているように思っても、致しかたないところであっただろう。

 現在の宝塚が、八十五年の歴史が蓄積してきた遺産の再利用を図って、その厚みを増そうとしているのは、悪いことではないと思う。名作の再演は、演目さえ間違わなければ歓迎すべきことだし、OGのいわゆる「ホームカミング」も人選さえ間違えなければ足が遠退いていた観客にとってもホームカミングできる、いい企画だと思う。

 しかし、神話化された作品や人を再び見せることで、もし現在が哀れに見えるとしたら、逆効果も甚だしいということになる。今のところは、「芸術祭賞っていっても、たいしたことないじゃないか。それにアナクロだよね」とか、「さすがの名作ショー、生徒もがんばったね」とかいう程度で、現在を嘆くようなことにはなっていないと思うが、このことが現在のレベルを低下させるおそれもある。

 一つには、演出家たちの作品発表の機会の減少という自明のこと。もう一つは、現在の組構成を反映していない作品を上演することで、配役に無理が出てきたり、当然もっと使われるはずの生徒にいい役が回らなくなったり、柄に合わない役を振られたりするおそれがあるということだ(もちろん「○○編」などと称して作品を改変するという手もないわけではないが、たいていは改悪という結果になるだろう)。

 結果的にこのような遺産の再利用が現在に大きな無理を与えているとしたら、そのとばっちりは生徒と観客に跳ねかえり、最終的には観客数の減少という形で歌劇団に帰っていく。悪いことに、その前には舶来ミュージカルばかりやっていた時期があった。作品の質の面ではよかっただろうし、麻路さきのトートというあっと驚くような大当たりもあったとはいえ、下級生の役があまりに小さかったり、中には再演と同様に時代錯誤的な演目もあった。さらに悪いことに、そのような現在への皺寄せが、未来にはもっと大きなツケとなって溜まっていく。

 座付作者の素晴らしいところは、役を与えながら役者を育てることができるということではないか。歌劇団発行の雑誌の座談会などを読んでいると、やはりいわゆる当て書きをしていることがよくわかるが、「彼女にこんなヒーローを演じさせたい」「彼女のこんな面も見てみたい」という思いの集積が、一つの劇を作っていくのではないか。それによって多くの生徒が自らの個性を豊かにし、技量を高め、魅力を倍加してきたのだ。

 再演物や舶来物では必ずしもそれがうまく回転しない。もちろん、当て書きされたものではない役を得て、弾けるように殻を破る生徒もいるだろう。しかし、劇団のもっている力を全体に底上げできるのは、そのような「まぐれ当たり」ではないだろう。

 初めの方で述べた、有望な生徒がどんどん退めていくということ、もちろんこれはいつの時代にもあったことかもしれない。しかし、ぼくが「悪しきトップ至上主義」といったのは、トップ、あるいはトップ筋の生徒にしか見せ場を与えていない、ということだ。名脇役と呼ばれるスターが生まれるためには、本人のある程度の思い切り(あきらめ、といってもいいかもしれない)と、その思い切りに応えるだけの見せ場を用意することが必要だ。「エリザベート」という作品が素晴らしかったのは、三人を軸にしながら、マックス、ゾフィー、ヴィンディッシュなど、見せ場のある脇役をきちんと用意していたことで、それによってぼくたちは泉つかさ、出雲綾、陵あきのらを堪能することができたわけだ。もちろん上演作品選定に当たっては、そのあたりはじゅうぶん配慮されていると思いたいのだが、「WEST SIDE STORY」がトップにとってさえ必ずしも適役ではなかったように、どうしても無理のある配役になってしまうことは避けられまい。

 そこそこ有望な宝塚の男役にとって、一つの分水嶺となるのは、自分がトップに就けそうにないと予感する時だろう。何らかの形でそれを通告されることもあると聞いている。脇役として舞台を支えていくことを自らに課すか、去るか。前者を選ぼうとしても「そう言われても最近、脇役って、ろくなのないよねぇ」と考え込んでしまうようでは、頑張って残って引き立て役に甘んじようという気にもなるまい。それを責めるだけの、宝塚に我慢しながらでも残り続ける意味をぼくは彼女に説明できないだろうし、そうしたいと思わせるだけの総合的な魅力を今の宝塚が持ち得ていないということで、多くが次々と退めていくに至っているのだろう。

 星野瞳の「寿退団」は、非常に残念だし驚きもしたが、全体的に見れば、寿命が短いといわれている女役の方にいい脇役がいるような気がしないでもない。ぼくの好みで挙げても、夏河ゆら、出雲綾、美原志帆、貴柳みどり、翔つかさ、五峰亜希、万里柚美、等々。入団から十五年前後を経た彼女たちが、芝居で、ダンスで、歌でと、それぞれの個性を輝かせて舞台を引き締めているのを見ると、とても頼もしく、安心していられるように思う。娘役は女役として存在するという道を見出せれば、案外長く大きな存在として、そこそこ華やかに続けることができるのかもしれない。

 それに対して、男役はどうか。男役の場合、現在ではトップ、準トップに続き、三番手、四番手、などという序列が事実上存在していて、それはほぼ学年順に数えられるから、年数がかさんでいて、○番手と呼ばれていない男役は、自ずと脇の役どころに回らざるをえなくなっている。今、試しに各組で準トップより上級生か同期で、組長等の幹部になっていない生徒を挙げると、次のようになる。

  花組=矢吹翔、大伴れいか

  月組=光樹すばる、真山葉瑠

  雪組=多彩しゅん、地矢晃

  星組=にしき愛、千歳まなぶ

  宙組=真中ひかる、越はるき

 舞台をキッと引き締める、通好みでいぶし銀の名役者がそろっていて素晴らしいのだが、率直に言って、トップを争ったといえる生徒は、一人も残っていない。もちろん、年数と共に人数が減り、組替えによってトップ路線の者を各組に散らしてきたということもあるだろう。それにしても宝塚ではいつの時代でもそうなのだろうか、トップを目指してトップになれなかった男役は、宝塚を去ることしかできないのだ。

 これでは宝塚の芝居は痩せてしまう。「スターの小部屋」のインタビューで鳳蘭が、トップは歌でもダンスでもなんでも飛びぬけてうまい必要はまったくないというようなことを言っていたが、たしかな実力のある生徒こそが脇に回って芝居を締めてほしい。海峡ひろきのことを思い出しているのだが、そのような実力も、そして人気もあって、バウ公演の主役を張るぐらいの生徒が、トップの脇で支えている、そういう組構成をめざした指導、作品づくり、形態がとれないものか。とりあえずは数年先に向けて、先に挙げたような各組に何人かいる脇役陣に、目一杯見せ場を作ってもらうことだ。それが下級生たちのためにもいい刺激となり、いい循環を生むだろう。そうすれば、たとえば真由華れおのようなチャーミングな生徒が退団しようなどとは思わないですむだろう。そのためには、ベテランの実力に負けないだけの厚みのある脚本づくりが求められるのだろうが、もう思い切って一時的にせよ外部の作家に当て書きしてもらうしかないのか、とも思ってしまう。

 もちろん、現役の生徒は華が一番、名脇役を演じてもらうために専科があるとする意見もあるかもしれない。しかし、それでは若い脇役ができないわけだし、組の勢いという面から見てもどうか。たとえば宙組は組長も若く、全体的に若い組だが、それにしても「エリザベート」の星原美沙緒、高ひづるという専科のご登場はいただけなかった。星原のマックス公爵はまだ徐々にペースに乗れたとはいえ、高のルドヴィカはどうしてもあの劇のテンポについていけず、見ていて気の毒だった。ぼくが宝塚を見始めてからの数年、組長・副組長と専科との入れ替えはあったものの、現役の生徒が専科に入った例を知らない。つまり専科は高齢化の一途を辿っているわけで、現役の生徒にとって、専科に入ることがまったく魅力を持っていないということの証左でもあるだろう。

 現役のベテラン生徒も専科も使いきれていないという状態では、ホームカミングだ、過去の名作だと並べるよりも、今の資産を有効に活用してくださいとしか言えない。まずは現役の生徒に見せ場を作って、舞台に立ち続けてよかったと思える環境を作っていくことが急務なのではないか。

 さて、ぼくがもう一つ深刻に心配しているのが、次の娘役のことだ。なんの趣向もなく不出来だった今年のTCAスペシャルだが、各組の娘役のラインナップは、以下の通りだった。

  花組=渚あき、鈴懸三由岐、舞風りら

  月組=千紘れいか、花瀬みずか、西條三恵、叶千佳

  雪組=貴咲美里、愛田芽久、紺野まひる

  星組=羽純るい、秋園美緒、美椰エリカ、妃里梨江

  宙組=陵あきの、南城ひかり

 ここに出ていない若手娘役で、娘役カレンダーに載っていたり、今年のバウで重要な役を演じるようなめぼしい者を挙げると、宙組の久路あかり、遠野あすか、花組の沢樹くるみ、彩乃かなみといったところか。

 話を端折るが、この中で抵抗なく「若手」と呼べる者についていうと、バウ公演や新人公演では主役級を演じた経験があるとはいうものの、多くはまだ本公演のトップ娘役を心配させるほどの迫力や伸びやかさを身につけているとは言いがたい。これにも男役の脇役と同根の問題があるのではないだろうか。

 つまり、もう一人の娘役に適切な見せ場を与えられる作品が少ないということではないか。トップ娘役より若い娘役に与えられる役が少ないようだ。妹役など、恋の対象にならない役になってしまうと、結果的に人畜無害でしどころのない演技に終始することになってしまう。たとえばトップをめぐる三角関係の二番手か、準トップの恋人という役どころで、印象に残るものが意外に少ない。最近では「」のトゥールベル夫人(星奈)が光彩を放った程度だろうか。

 また、「エクスカリバー」のケイトは、本当は陵あきのではなく南城ひかりがやるべきだったと思うのだが、ここではベテラン娘役との線引きが曖昧になっているようで、そのためにこれからトップに就くべき娘役が見せ場なく伸び悩んでいるように思えた。

 宝塚に入団した以上、誰もがそれぞれの形で実力を遺憾なく発揮し、できれば十数年ぐらい、その在団期間を充実したものとしてまっとうしたいと思うだろう。ぼくたちだって、生徒の一人一人がここでしっかりと根を張り、養分を吸い上げ、それがどのような花であれ、可憐に開くことを願っている。それがそうならなければ、あまりにつらく、ぼくたちが宝塚を見に行く根拠というものがない。夢は、見させてほしい。 


毎日放送「新見聞録−近畿は美しく 歌と緑の街、宝塚」199951日放送分 取材のためのメモ

 ぼく自身は、いわゆる小劇場演劇とか、モダンダンスとかはずーっと見て、それについて批評めいた文章を書いたりはしていたんです。で、女房が友達に誘われて宝塚をかなり熱心にみるようになりまして、何度か誘われたんですが、拒否してたんですね。「君が見るのはかまわないけど、ぼくを巻き込まないでくれ」って。よき理解者ではあっても、同伴者にはなれないっていう感じでした。ぼくの中では、やはり宝塚歌劇というものは「大衆芸能」であるとして、一段低く見る意識があったのかも知れません。

 何度か誘いを断わっていたんですが、とうとう「今度のは絶対いいから」って誘われて、じゃあまあ行くか、って見たのが星組の「うたかたの恋」で、これがけっこう面白かったんですよ。ストーリーも構成も音楽も演技も、悪くない、と思ったんですね。「じゃあ、これからも時々見る?」「いいよ」って、次に見たのがシアタードラマシティで同じ星組の「ライト&シャドウ」っていう他愛ないお芝居だったんですが、ここでぼくは万里柚美という娘役に惚れ込んでしまったんです。思えば、今のぼくを作っているのは、この瞬間ですね。

 それから、その万里柚美にファンレターを出したり、それに返事がきたり、っていうようなことがあって、どんどんミーハーファンの道をまっしぐら進んでいくんですね。でも、この頃は、ぼくが本格的に論ずべきフィールドはやはり小劇場演劇やダンス、現代美術であって、宝塚は息抜き、次元が違う、と思っていたように思います。

 それがちょっと変わったのは、震災のあと初めて見た、「若き日の歌は忘れじ」という公演だったかもしれません。震災から2週間余、水道もガスも止まったままの神戸を抜け出して、いわゆる被災地ルックで名古屋までたどり着いて見た公演です。この時ぼくは、もうただひたすら泣いてたんですね。このお芝居は藤沢周平の「蝉しぐれ」を原作としていて、運命に巻き込まれる人生の悲しさや、思いを秘めたり残したりしたまま去っていく人の悲しみが、美しく描かれているんです。それが震災というものを経た自分たちへの癒しのように感じられたということもあったんだと思います。とにかく何だかこの時、宝塚を見れてよかった、という以上に、ぼくの人生に宝塚があってよかった、っていうか、宝塚とめぐりあえたことの幸せを痛感したんです。ギリシャ悲劇でいわれるカタルシスってこういうものだったんだと、本当に感じたんです。震災後、涙もろくなったと多くの人が言いますが、ぼくもよく劇場で泣くようになりました。

 それからぼくは、小劇場演劇もダンスも宝塚も、それがジャンルとして高級であるとか実験的であるとか、いやもちろん、くだらない小劇場演劇もあれば、実験的な宝塚もあるわけですが、とにかくそういうことよりも、それがぼくにとってどのような癒しであるか、カタルシスであるか、ということを考えることができるようになったように思います。

 劇場というのは、非日常の空間です。その中で、役者や照明や音響、オケが、ぼくたちにどれだけの夢を見せ、日常を離れさせ、別の時空に連れていってくれるか、それがぼくたちが劇場に足を運ぶ最大の理由ではないでしょうか。

 宝塚がいいのは、あまり難しいことを考える必要がなく、ただただ美しいとか、悲しいとか、どっぷり感情に浸っていられるところです。そういう意味で、宝塚歌劇には、あまり批評は成立しないというか、不要なのかもしれません。作者の世界観とか、表現の質とかそういうことを宝塚ではあまり問題にする必要がありませんし、真剣に考えると頭が痛くなるようなわけのわからない作品があるのも事実です。基本的には、宝塚はスターの魅力を最大限に発揮することを目的として作られている舞台ですから、宝塚を見るコツは、まずぼくが万里柚美を発見して、そこから浸っていったように、まず誰か一人のスターを見つめることではないかと思います。もちろん、演目によっては、全体を見る、ストーリーを楽しむものもありますが、宝塚はまず一人のスターの身体性−美しさ、ダンスのキレ、歌声の素晴らしさ、しぐさの華麗さ、に注目していいと思います。それを中心軸として、他のスターを見、芝居やショーの全体を見ることができると思います。

 今大劇場でやっている雪組のショー「ノバ・ボサ・ノバ」は、次に月組で続演されます。同じショーを違う役者で見ることができる、という珍しい、面白い機会です。たとえば今、香寿たつきがやっているのを、次に紫吹淳がどんなふうにやるのか、そういうスターの異なる魅力を見分けていくという楽しみを味わえたら、もうどっぷりへまっしぐらだといえるのではないでしょうか。


男がタカラヅカにはまる理由(わけ)

 たとえば阪神間に住んでいて「巨人ファン」だと広言することは、ある程度のリスクを伴うことを覚悟しなければならないだろう。そのようにまたはそれ以上に、阪神間に住んでいても「宝塚ファン」であることを男性が広言するということには、少からぬ勇気が必要だ。「実は私、宝塚好きなんですけどね」と言うと、必ず「えっ? また、どうして」というような反応にあうことがほとんどだ。実はぼくも数年前までは「えっ?」と聞き返す側だった。配偶者に口説かれて星組公演「うたかたの恋」(原作=、脚色・演出=柴田郁宏。主演=麻路さき)を見るまでは。

 神戸に移ってから、配偶者は友人に誘われて宝塚をかなり熱心に見るようになった。ぼくはいわゆる小劇場演劇は見ていたが、宝塚には興味を示さなかった。一度彼女が「今度の公演はいいから、見てみない?」と水を向けたが、ぼくは「君が宝塚に熱中するのはかまわないけど、ぼくを巻き込まないでほしい」とクールな断り方をしている。それは花組公演「心の旅路」(脚本・演出=。主演=安寿ミラ)だったわけで、今になって地団駄踏んで悔しがっているのだが。それでも諦めなかった彼女は、「今度のを見てつまらないと思われたら、もう一生誘わない」と言って遂にぼくを口説き落とした。それが、紫苑ゆうのケガによって麻路さきが代役で主演を務めた「うたかたの恋」だったわけだ。

 さて、ぼくはなぜ宝塚を避けていたのだろう。もちろん見たことがなかったわけだから、食わず嫌いに違いなく、つまりは一般的な先入観に基づいたものだったわけだ。小劇場演劇を見るのに割く暇と金はあっても、宝塚を見ることはない、と。小劇場演劇は見て、考え、論ずるに足るが、宝塚はそうではない、と。それはおそらく、大げさに言えば、文学論と身体論、戯曲論と俳優論の分裂によるのではないか。

 小劇場演劇の公演では、劇作家の名前と、戯曲の質の占める割合が非常に大きい。「野田秀樹の新作だぞ」「深津篤史、岸田戯曲賞受賞後第一作!」というふうに。宝塚で作家の名前が取り沙汰されることはほとんどなく、第一に置かれるのはいわゆるトップスターである。つまり、小劇場演劇を見、論じることは、作家論であり戯曲論、演出論であり、つまるところ文芸批評である。しかし、宝塚を見るということは、作品から屹立するスターを見ることであって、芸能鑑賞、評判記に近い。このような言わばジャンルとしての格付けが、ぼくを宝塚から長く遠ざけていたものだったに違いない。振り返れば三十年以上もの間、ぼくはそのようにハイカルチャーに身を置くことで自分を御してきたわけだ。

 素地はあった。このころぼくは関西で唯一の演劇誌だった「JAMCi」に売り込んで、ダンス批評の連載を始めていた。当初ぼくはダンスを、構成やプロットの展開を解釈する知的なアプローチによって、その全体性から批評することが可能だと思っていた。しかし、公演を数多く見るうちに、急速にダンサーたちの身体・肉体そのものの魅力に絡め取られていく。男女を問わず、ダンサーの皮膚の艶、汗の光、動きの鋭さに魅了されていた。その魅力を伝達するのに、知的な作業は無力だとわかりつつあった。それでも、特に関西においてダンスがあくまでマイナーな存在であることもあって、コンテンポラリーダンスや舞踏を見、文章を書くということがハイカルチャーに属する営みであるかのように錯覚していた。そのスノビズムを、宝塚という「大衆芸能」がみごとに打ち砕くことになる。

 「うたかたの恋」は、再演ということもあり、作品としてよくできていた。白城あやかは可憐で、麻路さきは、歌をあえて話題にしなければ若々しく美しい見事な皇太子ぶりだった。よかった。満足していた。しかし、ぼくが本当にこうなってしまったのは、次に配偶者がぼくを星組シアター・ドラマシティ特別公演「ライト&シャドウ」(脚本・演出=太田正則)に送り込んだせいだ。たしか南の島に飛行機が不時着してどうこうというような話だったと思うが、ここでぼくは脇役のYMという娘役の美しさに参ってしまう。やや濃いめの美貌、姿の気品、物腰の優雅さ、言い出せばキリがないが、要するにぞっこん惚れてしまったわけだ。

 振り返って、宝塚の見方として、これは正しい。多少端っこの生徒であっても、一人を、一点を凝視することで舞台の流れが生き生きと把握できる。それは、宝塚が舞台の全体性よりも生徒の身体能力の個別性に多くを負っているからだ。劇の全体を把握するよう努めるよりも、個々の生徒の魅力を堪能するほうがずっと楽しく、劇の空気のようなものを丸呑みできる。ぼくは先ほども述べたように、ある時点からダンスや舞踏を全体的な構成やプロットの展開、もっと大げさにいえば思想や理念といった全体的観点から演繹的に批評することを無力だと感じていた。神は細部に、ではないが、細部を凝視し、そこに感嘆するところから、作品のすべては帰納的に判断されるべきだ、少なくともぼくはそんな細部への眼ざしを大切にしていこうと肝に銘じていた。あえて言えば、世に言う男性的批評からは遠ざかったことかもしれない。大上段に振りかぶって思想や哲学を語ることをやめ、しゃがみこんで蟻の隊列を見つめているような眼ざしを自分に課したのだから。そのことによって、初めてぼくは個別の身体性と深く付き合うことができるようになったのではないだろうか。

 そもそも演劇というライブなジャンルは、否応なく役者の身体が多くを決定する。その上ミュージカル、オペラ、歌舞伎、バレエといった音楽劇、舞踊劇であれば、作者の思想や戯曲の観念性は遥か遠景に引いていく。歌、ダンス、演技、容姿のすべてが求められる宝塚は、中でもその度合いが大きいと言っていいだろう。宝塚でストーリーは第二義的なものだ。話の筋、音楽、舞台美術など、すべては第一にスターを輝かせるための装置であって、作者のいわゆる自己表現欲求や情熱は、本来ほとんど問われない。黙阿弥の劇が破天荒と呼ばれるように、宝塚の劇に無理や破綻がどれだけあろうと、スターの見せ場をきちんと作ってさえいれば、よい作品である。「普通こんな時に踊らんやろ」というようなところでのダンスシーンでも、その踊りが素晴らしく、彼女の魅力を十全に発揮させるものなら満足する。もちろんそこにそれなりの必然性を探り出してこじつけることは絶望的なほどには難しくなく、多くの場合ぼくはそれを宝塚観劇の愉楽として評価することにしている。それでもあまりに破天荒の度が過ぎることもあって、さすがにファンも双眼鏡を降ろして「おいおい……」と呟くことになるわけだ。

 多くのファンは特定の誰かを双眼鏡で追い回しているから、熱心なファンほど劇の全体の流れを知らない、というのも満更冗談ではない。ぼくだって、YMが端っこで踊っている時に、真ん中で誰が踊っているかなんてほとんど知らない。「マリコちゃん(麻路さき)のリフト、すごかったわねぇ」と言われて「そんなの、あったっけ」とお互いに絶句することもしばしばである。

 さて、YMにぞっこんとなってしまったぼくが次に何をしたかというと、ファンレターを書いたのである。ただのミーハーです。そしてあろうことか、彼女から返事が来る。便箋二枚の「お手紙」である。ことここに至って、ぼくと宝塚の関係は、個人的紐帯となる。赤い糸とまで言っては彼女に悪いので止めておくが、妹の舞台をハラハラしながら見る兄の心境に昇華する。

 宝塚を見ることの一つの喜びは、このような到達可能性を夢想することにあるのかもしれない。宝塚は芸能界一般とは異なり、プロダクションやマネジメントのシステムがある部分で強固ではなく、非公式でボランタリーな制度としてしか生徒個々のファンクラブが存在していないので、ファンが個々の生徒を自分(たち)で支えているという意識が強い。もちろんビギナーであったぼくはそこまで明確に意識することはなかったが、入り待ち・出待ちで彼女たちの素顔にふれることはそう難しいことではない。特に娘役は取り巻きが少なく、彼女たちとちょっとした立ち話を交わす程度の関係になるのは、稀少価値の高い男性ファンにとって、さほど難しいことではないようだ。だからこそぼくにすらYMから「お手紙」が届いたのだとも言える。

 先程「兄の心境」と書いたが、恋人というのとはちょっと違うような気がする。ぼくが妻帯者だというせいもあるのかもしれないが、宝塚の生徒というのは、娘役でさえも性差を超越して存在しているのではないか。宝塚は演者のすべて、観客のほとんどが女性だけの集団である。そこでの男役は、世に言う「理想の男性像」のエッセンスを夢想し抽出したもので、現実にはありえない男性像を構築してしまっているといってもいい。花組のトップスターだった安寿ミラが退団後、ある芝居の稽古場で、ズボンをはいた俳優が椅子に腰掛けているのを見て驚いたという。宝塚で男役は、ズボンをはいている以上立っていなければいけないのだ。宝塚で男は、皺の寄ったズボンをはいていることなど、ありえないのだ。……。男役がそうである以上、それに対する娘役もありうべからざる女性像として存在していて当然ではないだろうか。そして両者は当然のごとく性的関係の成立の可能性をあらかじめ否定しているわけで、ゆえにぼくは恋人的な眼ざしを送ることができなくなってしまい、慈愛に満ちた(?)兄の眼ざしになってしまうのではないだろうか。清く正しく美しい宝塚は、このように去勢装置として働いているのかもしれない。

 ところで、にもかかわらずぼくはYMにほとんど声をかけないので、配偶者からも半ば不思議がられている。まともに言葉を交わしたのは、震災の後「国境のない地図」の出待ちで、お互いの無事を喜んだことぐらいだ。女子大の図書館に勤めているぼくにとって、若い女性に声をかけるのは仕事みたいなもので、何の抵抗もない。なのにYMを前にすると、興奮、紅潮、硬直してしまって声をかけられず、悔しい思いのうちにその美しい姿を見送ることしばしばである。しかし、声をかけたところで、どんな話をすればいいというのだ。「○○の場面、素敵でしたね」とでも言うのだろうか。そんな二言三言で、彼女への思いを表わすことなどできようか。客席の隅から遠慮なく凝視し、ただ見呆けているほうが、どれほど幸せか。

 YMはけっして舞台の中心で劇を強く推し進める役割を担う存在ではない。そんな娘役を好きになったおかげで、ぼくは宝塚から多くのことを学び、癒されることができたように思っている。一組に数十人の生徒がひしめいているのだから、スポットが当たり台詞がつくどころか、「動く大道具」としてしか機能しない生徒だってたくさんいる。組織の中で生きる者の運命ではある。しかしぼくは、そんな彼女たちの姿を見るのが本当に好きだ。そんな隅っこで、溌剌と躍動している彼女たちの姿から、人生半ばにさしかかったぼくがどれほど明日への希望と勇気を受け取ったことか。また、いわゆる脇役として好位置に恵まれたYMが、自身を美しく見せると同時に劇を引き締め優雅に流すために、どれほどの工夫と苦労を重ねているか。そんなの、舞台に立つ以上は当たり前じゃないか、と思われるかもしれないが、彼女はたとえば舞台の照明が消えたあと、袖にひっこむ時、なおも劇の情感を持続させ、増幅させるほどの強い表情を残していることがある。そんな姿が薄明かりの中に見られると、見えないところに心を致すことが、その劇を支えているのだと、心が動く。大げさでなく、ぼくは彼女たちを人間的に尊敬している。私生活や素顔は知らないが、恵まれた才能、並大抵ではない修練、舞台への憧れと組織人としての身の処し方、それらのアマルガムとしての華やかな姿を見ることで、ぼくはぼくなりに人生の処し方を学んでいるように思っている。いささか下世話だがサラリーマン訓的な見方さえ会得し、自身の姿を照射したり反転させたりしている。

 こうして、ぼくの人生の日々の流れと宝塚は強くシンクロする。それを最も深く感じ、決定づけたのは、一九九五年二月、星組名古屋公演「若き日の唄は忘れじ」(原作=藤沢周平。脚色・演出=大関弘政)である。二十日ほど前の震災で、家や家族に被害はなかったとはいえ、不自由な生活を強いられていたぼくたちは、やっと開通した阪神電車の青木駅まで歩き、被災地ルックのまま新幹線に乗る。サイレンやヘリコプターの爆音のない静かな夜、自由に使えるお湯(当時まだわが家では水道もガスも通ってなかった)、味噌煮込みうどん……。そして再び見ることのできた宝塚の舞台は、豪華絢爛とか華やかとか別世界とかいう常套句で表わされるようなものではなかった。それがそこにあることの安堵! 世界の回復。

 藤沢周平「蝉しぐれ」を脚色したこの作品は、はじめ紫苑ゆう主演で上演され、彼女の退団を受けて麻路さき主演で名古屋公演となったものだ。ここで彼女たちは、運命の過酷を嘆き、人の世のすれ違いに涙し、思いを残して去っていく者の無念を語った。客席でぼくは、彼女たちと共に藤沢周平の世界に生き、共に戻ることのできない時間を惜しみ悔やんだ。震災からの二十日間、自分の感情が自分のものではないような、感情の昂ぶりを禁じられたような淡々とした日々を送っていたぼくが、初めて強い思いの揺れを体験することとなった。あれっと思う間もなく涙が頬を伝い、それからは堰を切ったように、何がどうしたといって、ほとんどすべての場面で滂沱の涙にくれていた。まさにカタルシス=悲劇による浄化作用である。これによって、ぼくは自分の人生が宝塚と共に綴られていくものであることを、深く深く実感することになる。

 このようにして、ぼくは立派な一男性ファンとして、ここにこうして存在している。宝塚の生徒たちと、それを見るきっかけを与えてくれた配偶者に、今となっては感謝している。


 宝塚に於ける天使と悪魔−美は善悪の共棲にあり
 フランス語で天使(アンジュ)は男性名詞だそうだが、宝塚歌劇において役者(生徒と呼ぶ)はすべて天使であると言っていい。「朗らかに、清く正しく美しく」というテーゼにもあらわれているように、そこには濁や悪や醜はそもそも存在しない。

 それでも宝塚にはしばしば悪魔が登場する。たとえば「ファウスト」を翻案した「天使の微笑、悪魔の涙」('90年、月組公演。小池修一郎作)は二番手の涼風真世が冷たい表情で堕天使=悪魔メフィストを好演した。しかし言うまでもないが、それはあくまでもトップでファウスト役の剣幸の魅力を引き立てるために存在するのであって、悪魔はトップを支える二番手男役の役回りでしかありえない。逆に、トップは常に正義である。今年の星組公演「カサノヴァ・夢のかたみ」(小池修一郎作)で、二番手の麻路さきが演じた謎の錬金術師=サン・ジェルマン伯爵が、秘密結社フリーメイソンの組織を利用して世界征服を企みながら、最後はトップの紫苑ゆう演ずるカサノヴァ(色事師であるよりも、女の望みの実現のために身を引く好漢として描かれる)に敗れてしまうのと似ている。

 宝塚ではしばしば、このような二番手の悪役はおいしい役どころとされているようだ。宝塚のテーゼには反するのかも知れないが、多くの場合正義よりも悪徳の方が魅力的であり、美しく、また舞台の上で滅びを迎えることが多いだけに一種の美学を持ちうる。美はたいていニヒルでクールな悪の側についており、その意味で麻路は後ろ姿の美しさ、客席を巻き込む圧倒的なアウラによって、よい悪魔スターになれる素質をそなえている。紫苑のあとを受けてトップに就く麻路が、宝塚における新しいトップ像を拓く可能性は大きい。

 さて、人間の内面に天使と悪魔が共存するというのは陳腐な言説だが、宝塚では一人のスターにそのような分裂した性格を与え、内面の葛藤や苦悩を演じさせることは好まれないようだ。たとえば今年の月組公演「風と共に去りぬ――バトラー編」(天海祐希主演)ではスカーレット・オハラを娘役の麻乃佳世と男役の真琴つばさという二人に演じさせた。同じ場面に二人のスカーレットを登場させ、彼女の天使性と悪魔性(というのが言い過ぎであれば、社会性と内面)を演じ分けさせたのだ。

 また、昨年の星組公演のショー「パパラギ」の中の、悪魔が神学生(麻路)に恋をする「キリエ−恋するアイツウ」では、悪魔が自らの姿を聖少女に変身させて愛の成就を図ろうとするが、聖少女の美しい姿を娘役の白城あやかに、悪魔の本態を千珠晄にと巧妙に踊り分けさせた。これは神学生が聖少女を追いかけていくと、早変わりのようなしかけでアイツウ(サモア語で悪魔)に姿が変わるというスリリングなもので、スピーディでエロティシズム溢れるダンスが印象的だった。

 一人の人間の対立する二面を二人の役者に演じさせるのは、視覚的効果からいって魅力的ではあるが、人物造型が分裂する上に、それぞれの役者の中では平板にとどまってしまいがちなのは残念だ。もちろん、両面を一人で演じたからといって常に役が深まるわけではない。「風と共に去りぬ」にはスカーレットを中心に据えた「スカーレット編」もあって、今年の雪組公演では一路真輝がスカーレットを一人で演じたのだが、どうも気の強さばかりが目立ってしまい、強弱の両面を十全に描くには至っていなかったようで残念だった。

 しかし、宝塚にも確実に新しい波が押し寄せてきている。そろそろ天使と悪魔の両面を合わせ持つ総合的な人間像を描き、演じるスターが出てきてもいい頃だ。美は悪と通じるときに最高のレベルを獲得する。その意味で、「ブラック・ジャック」(正塚晴彦作)を好演した安寿ミラ(花組トップ)や麻路というアウラを持った魅力的なスターがおり、トップ娘役にも高貴さと危険な美しさ、エロティシズムを兼ね備えた白城、蓮っ葉でコケティッシュな魅力を持つ麻乃という魅力的な芸達者がいるこの時期がチャンスではないか。おまけに意欲的な実験作を送り続けている小池や正塚ら、若い世代の作家も油がのっている。彼女たちが従来の宝塚の路線を逸脱しようとするとき、天使と悪魔を演じ分けるのではなく、綜合した存在としての一個の人格を演じる、新しいスケールの大きなドラマが宝塚で展開されうるはずだ。(「JAMCi199412月号)

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 上念省三